「何だこりゃ」
 俺のか細い声が一瞬にして掻き消されるほどの声援が随所から鳴り渡る。
 熱気と、汗と、人で溢れ返っていて、その全てが俺に対して場違いだと訴えているように思えた。
 ある者は大旗を振り、ある者はスマホを構えて写真を撮り、ある者は腕をこれでもかと伸ばして声を張り上げている。
「おい、何だこれは」
 俺が先ほどよりも気持ちボリュームを上げて復唱すると、考案者である当の時雨ミライは平然とこう言った。
「見れば分かるでしょう。サッカースタジアムですよ」
「いや、違う」
「違うって……。今私達の目の前で芝の上に転がるボールを足で蹴っているこの光景が、あなたには野球かバスケにでも見えるんですか? 頭が良くないことは存じ上げていましたが、まさかこれほどとは思いませんでした」
「そういうことじゃねぇよ! 俺たちは未愛を助けるためにより多くのライフ№を獲得しなければならない。そんな一刻の猶予もない状況だと知っていて、何で呑気にスポーツ観戦なんかに連れて来たんだって言ってるんだよ! お前……当然、俺が納得するだけの理由は用意してるんだろうなぁ?」
 ドスを効かせた声で俺が詰め寄ると、彼女は動じる素振りも見せずに滔々と答えた。
「今日は私がサッカーの試合を観たかったんです。理屈なんて難しいことは、はなから考えていません」
 スタジアム上に転がる無数のボールの幾つかを、この女の顔にぶつけてやりたい気分だった。
 確かに今日一日だけは完全に任せると言った。が、それでも何かポイント獲得に繋がる慈善活動の類を行うものだと思っていた。それがまさか、本当に個人的願望だけを理由に時間を費やそうとするとは想像すらしていなかった。
 膝に両肘を深くついて自転車のタイヤから空気が漏れ出たようなため息を吐き出すと、バッグから例のルーズリーフを取り出した。
 チケットを使用して入場してしまった以上すぐに出るわけにもいかないし、一応今日だけはこいつの提案に乗るという約束だ。
 早々に諦めの決断を下した俺は、せめて時間を無駄にしない為に出来ることはないかと考え、ポイントを獲得するための行動リストを書き連ねることに決めた。
「ちなみに、いずれかのスポーツを観戦した経験は?」
「TVで2、3回」
「そうですか」
 俺が盛大なため息をこれ見よがしに出した時から、高圧的な視線は感じていた。しかし、スタジアムの席に座り場を離れてはいない訳だから約束は守っていると思い、全く悪びれるつもりはなかった。
 すると、膝下のルーズリーフに目を落とす俺に向かって彼女は暫く口をつぐむと、何やらゴソゴソと鞄から真っ青な衣服を取り出した。
「騙されたと思って、一度ちゃんと観てみてくれませんか? きっと、何かが変わります」
 西日が差したみたいな温かい声に思わず向き直ると、彼女は両手でユニフォームを差し出していた。
「何で、二着も持ってるんだよ」
「前にある人と来た時にも、同じように着て応援したことがあるんですよ。私は、その時にスポーツ観戦が好きになりました。だから、どうぞ」
 一拍、渋い顔をしながら思惑ったが、妙にツルツルした触感のそれをおもむろに受け取った。二人で制服の上からそのユニフォームに袖を通すと、間もなくして試合が開始した。
スタジアム内を二分するそれぞれのサポーターの応援コールが声量比べをして競い合うように声の粒がぶつかっていた。それに呼応するように、隣の時雨ミライも訳の分からんサッカー用語を繰り出して応援に熱を上げていた。
 まったく、俺は試合時間が何分かも知らないような人間だぞ? 場違いもいいところだろ。
 右に左にボールが転がり回って互いのゴールを陥れようとするのを目で追いながら、ふとスタジアム全体に視野を広げてみると、一人の顔が映った。
 次に二人、またもう一人と、年齢も出身も違うであろう様々な人間が一様に贔屓のチームの勝利を願って全身を使って声援を送っている。
 俺はそれを見ながら、『あぁ』と思った。
 日常生活の中で、多分こうして頬を紅潮させて声を張り上げることなんか起こり得ない。だから、自分の好きな何かに対して全力で気持ちを表出することができるって悪くないな。何となく、そう思った。
 両チーム無得点のままハーフタイムとやらの小休憩時間に入ると、時雨ミライが勝手に解説まがいのことを喋り始めた。
 この試合が現在リーグ内で大混戦の只中である首位攻防戦であること。
 通算成績が勝ち負け同数で今日を迎えているということ。
 贔屓のチームがリーグ初優勝を目指して必死に戦っているということ。
 よく分からなかったが、とにかく大事な一戦だということは十分すぎるくらい伝わって、俺も仕方なくルーズリーフを鞄にしまい直すことでその熱に応える姿勢を見せた。
 後半が始まってチームの立ち位置が変わると、ゆったりとした試合展開だった前半とは打って変わって攻守が激しく入れ替わる流れに切り替わった。ファウルの笛が吹かれる回数も時間と共に増していき、ゴールの匂いが漂うシーンも目立つようになった。
 一進一退の攻防を繰り返しつつスコアレスの状態で迎えた後半44分。互いに交代カードを全て使い切る総力戦になった最終盤、俺達が応援していたチームの選手が倒されてフリーキックのチャンスを得た。
 まるで、スタジアム内の人間が全員呼吸するのを忘れているんじゃないかってくらいに音が消え、何万という人間の視線がキッカーとボールに注がれる。
 ふと隣を見てみると、普段ほとんど無表情で通している彼女でさえも祈るように熱い視線を送っていた。
 右利きの選手と左利きの選手が交差するようにボールを挟んで構える。
 審判の右手が上がって試合が再開されると、左側で構えていた選手が先に走り出し、そのままボールを通過。
 遅れて走り出した左利きの選手がボールを蹴り上げた。
 相手選手の壁の僅か上を通過すると、まるでブーメランの如くゴール中央から右上隅めがけて弧を描くと、横っ飛びをして懸命に片腕を伸ばすキーパーとボールが接触した。
 止められた――。
 思った刹那、ボールはキーパーの手袋先端を弾き、回転数を落とさぬまま白いネットに突き刺さった。
 試験開始のチャイムの音が響き渡る直前。
吹奏楽部が演奏を開始しようと楽器に手を、口を添える瞬間。
さながら、その時訪れた瞬きほどの静寂は、そんな状況を思わせた。
そして。
 ビリビリと皮膚が振動するほどの轟音が、火花を散らして爆発したような音量でスタジアム中に響動んだ。
 90分が経過して追加された5分間の表示時間中、ホームサポーターの熱が収まることはなく、ゴールの余韻冷めやらぬまま、その時を迎えた。
 深い山に分け入った鳥の鳴き声を思わせる長いホイッスルの音と共に、遂に白熱した試合に終止符が打たれた。
 手の平にじんとした痛みが走って、目を下げてみると無意識に握りこぶしを作っていたことに気付いて、自分が思っていた以上に試合に没入していたことを知った。
「どうでしたか? 初めてのスポーツ観戦は」
 ニヤリと微笑を浮かべながら尋ねる彼女の顔に、若干のしてやられた感は覚えた。
 しかし、試合中に上昇した体温の余熱が涼やかに引いていく心地よさが珍しく俺を素直にさせてくれた。
「楽しかったよ。少なくともテレビでボーッと観てた時よりはな」
 あくまで、時雨ミライにではなくプレーをした選手達に向けて、俺はそんなニュアンスで言葉を紡いだ。
「そうですか。それなら良かったです」
 いつもよりやや弾んだ声でそう言うと、時雨ミライはくるっと体を捻ってユニフォームの背番号10番の面を俺に向けた。
スタジアム内が強い光量の照明が煌々と照らしていたというのもあって、十カ所ある出口の一つから歩き出した時の外の暗さに驚いた。
 まるで長い間被り物でもしていて、久しぶりに外の空気に肌が触れたような気分を感じながら歩くと、バス乗り場方面と電車方面の帰宅しようとするサポーターの長蛇の列とぶつかった。
 仕方がないから列がはけるまで待とうかと最後尾を探していると、前方から苛立ちを含んだ声が聞こえてきた。
「わざわざ仕事を早く切り上げて来てやったってのに、何だよあの試合。足がかかったわけでもねぇのにわざと大袈裟に倒れてシュミレーションするわ、キーパーも球に触っておきながらゴール決められるわ、攻撃陣も1点すら決められないわ。本当情けない試合だったぜ」
 会社員と思われる30代半ばの男が大きな声でそう吐くと、両隣にいた連れの2人も「マジであれはない」「だよなー。チケット代返してほしいわ」と同調の声を上げていた。
 俺は今日、サッカーの試合を初めて生で観た。だから、あのフリーキックが果たして正当なものだったのか、また試合内容は公平なものだったのか判別することはできなかった。でも、元々塵ほどの興味もなかった俺が、試合終了時にはスリリングな試合展開と選手たちの熱に感化されて興奮していたことは事実。そんな白熱する試合の中でこの3人が言うようなことが起きたとは到底思えなかった。
 少なくとも、その会話の内容が気分の良いものかどうかという点においては、言うまでもなく明らかだった。
 それからも止まらない敵選手への罵声は、さっきまでの穏やかな風にぬるい不快感をまぶすように周囲にまき散らされた。声量、口調も段階的に荒れていき、遂には監督やクラブ批判にまで話は膨れていった。
 心なしか、周りにいる他サポーター達の空気もピリつき始め、最悪サポーター同士の喧嘩にさえ発展するんじゃないかと思い始めるほどにまでなっていたとき。
 俺の横を、真っ青な風を纏った背番号10番の女が横切った。
 まさか。
そう思ったときには、既に彼女の口は開かれていた。
「レッドカード」
 ざわついていたスタジアム周辺が一瞬、しんと静まった。
「はい? 君、今俺達に何か言った?」
 サラリーマン三人の内真ん中の一人が、両手を深くポケットに突っ込みながら時雨ミライの前に立ち塞がる。
「はい、言いました。あなた達三人はレッドカードです。今ならば見逃す猶予を与えるので速やかにこの場から退場してください」
 身長150センチ前後の小さな体から発せられたそのセリフに、当然と言わんばかりに男達はゲラゲラと笑い声を上げた。
「おいおい、義務教育もまだ終わってないガキがさぁ。年収400万稼いでる偉い偉い大人様に何生意気な口聞いちゃってんの? 高い金払って胸糞悪い試合見せられたんだから文句言う権利くらいあるに決まってんだろーが」
 瞬間、時雨ミライの体が沈み込むような動きを見せたと思ったら、物凄い勢いでサラリーマンの男のネクタイを引っ張り上げ、柔道選手さながらの締め技のポーズを取った。
 咄嗟のことで動揺した男が、革製のビジネスバッグを手放して首を押さえながら身悶えていると、
「いい大人だったら、全力でプレーした選手や周りのサポーターに迷惑かけてんじゃねぇよっ!」
叫ぶというよりは、断罪するような重厚感のある声色で、堂々とした佇まいの時雨ミライは大人相手にそう告げた。
ざわめいていた群衆がフッと音を潜める中、尚も彼女は続ける。
「ファウルのシーンは、スローの映像で見ればすぐに分かりますが、ディフェンダーの選手がボールに足を伸ばして奪いにいったところへ、そのディフェンダーよりも早くフォワードの選手がボールに触れて軌道が変わったことによって足がかかった偶発的接触。両者が決して故意に行ったプレーではないと断言できます。また終盤まで点が入らないスコアレスの展開が続いたのは、両チームのディフェンダーが体を張ってシュートをことごとくブロックしていたから。……そして、最後のフリーキック。実は、ゴールを決めたキッカーの選手は、この青いユニフォームではなく少し前まであなた方と同じ赤いユニフォームを着てプレーしていました」
 紡がれた単語に対して、サラリーマンの男性達もぴくりと眉を動かすと、呼応するように時雨ミライは頷いた。
「そう、今あなた方が予感した通りです。フリーキッカーの選手は、インタビューの際にこう話していました。今日対戦相手だったチームでは、長年活躍できずにベンチ止まりで迷惑をかけてきたから、移籍して新しく所属することになったこのチームで何としても一点、決めたかったんですって。まぁおおかた、あなた達は試合の結果が確定するや選手のインタビューなんて聞きもせずにせっせと帰り支度でもしていたんでしょうけどね」
 図星をつかれたとばかりに視線を逸らす後方のサラリーマン二人が半歩後ずさる一方で、ブルーのユニフォームを纏った少女はさらなる一歩を前に踏み出した。
「……つまり、キーパーが手で触れておきながらゴールを止められなかったのは、元々お世話になった古巣のチームへの恩返しとして、成長した姿を見せたいという気持ちの強さが、並々ならぬ努力があったからこそ生まれたプレー。何一つとして……あなた方が言っていたような陰湿なことなんて起こっていないんですよ。分かったら、二度と選手に対して言いがかりをつけるようなことをするんじゃねぇぞ!」
「すい;@:・」で:;した……」
 思った以上に首が絞めつけられていたらしく、サラリーマンの男性はほとんど声も出せない状態で謝罪の表情だけを浮かべていた。
 そのまま、時雨ミライに叩きのめされた男は他二人に連れられて、終始怯えた様子で逃げ去った。
「ありがとうございました」
「おかげでスッキリしました」
 時雨ミライに対してそんな言葉が周囲のサポーターからパラパラとかけられる中、スタジアム外で起きた騒ぎはこうして幕引きとなった。
「すいません。お待たせしました」
 ようやく渦中から解放されて戻ってくると、何食わぬ顔で彼女はそう謝罪した。
「あぁ、いや……」
「それでは、お待ちかねのポイントの確認に行きましょうか」
 さっきの立ち振る舞いを目の当たりにして、驚きと共にやや委縮気味になっていた俺は歯切れの悪い返事と共に時雨ミライの後を辿った。
彼女はスタジアムから少し離れたベンチに腰を下ろすと、無造作にいつもの手紙と携帯用の小さな手鏡を手渡してきた。
「……え、もう見ていいのか? 今日の分のポイント」
「いつでもどうぞー」
 緊張感の欠片もない返事。今日一日、俺は良いことどころかただ黙ってサッカーの試合を観戦していただけ。ポイントが上昇するはずもない。
 そしてもし、ポイントが全然上がっていなかったら、こいつが幾ら冗談だと思っていようが、俺はもうこの先二度と言うことは聞かないし、貴重な一日をお遊びで無駄にしたことを許さない。
 コクリ、と喉を鳴らす。
 まっすぐ前に鏡を構え、逆の手で手紙に触れる。
 そして、鏡の中に光る数字が魔法のようにふわりと浮かび上がった。
【100】
「……えっ、嘘」
 俺が見誤りのないように何度も頭上に目を走らせながら仰天していると、「前回の数値はいくつでしたか?」という時雨ミライの声が届いた。
「……55だ」
「ということは、ボランティア活動をした時よりも、折り鶴を折った時よりも今回は上昇値が高いということになりますね」
 なぜだ?
 今回は本当に数値が上がるような行動の心当たりがこれっぽっちもない。
 折り鶴の時のように何かを頑張ってやったわけでもなければ、人の為になるようなことも勿論やっちゃいない。
 あれだけ悩んできた時間は何だったんだ? という想いと、このまま何も考えずにこいつの言うことさえ聞いていれば未愛を助けることができるんじゃないのか、という期待が心の中で絡み合う。
「お前、何なんだ」
「はい?」
 スタジアム外でのちょっとした騒ぎも収まり、長蛇の列からも離れてゆったりとした足取りで帰路を辿っていたとき。俺はポツリとそんな言葉を呟いた。
 歩きながら俺の方を振り向く時雨ミライに、疑問を伝える。
「ポイントを確認する前からこうなることをわかっていたような態度もそうだが、さっきの男達とのやり取り。サッカーを今日初めて観た俺でも、まぁさっきの3人が言っちゃいけないことを吹いていたのはわかったよ。でも、敵サポーターの立場で注意なんてして余計に状況が悪化したりとか、最悪手を上げられていたかもしれないだろ? それなのになんで、そんな行動が迷いなく取れたんだよ。やっぱり、他のサポーターに嫌な思いをさせない為だったのか?」
「いいえ。私がむかついたからです」
 即答だった。
「……えっ」
「応援していたチームが試合終盤で劇的なゴールを決めてくれて、最高のパフォーマンスを届けてくれたのに、あんな非常識な人間達の愚行でその感動を台無しにされるなんて……有り得ないですからね」
「……」
 自分のため……。
 それだけの理由であれだけ積極性に富んだ行動を取ったのならば、それはそれで凄いことだが。
「でも」
 終わったと思った話に接続の語が出現して「ん?」と俺が見ると最後に時雨ミライはこう締めた。
「他のサポーターの為にやったことではありませんが、敵味方を問わない純粋にサッカーを好きで観戦に訪れた周りの人が、きっと私と同じ気持ちでいてくれている。そうに違いないっとは、思っていましたよ」
 俺は、その言葉を聞いて不思議と胸が晴れた気持ちになった。
 そして強く、こうも感じた。
 やっぱりこの女は、俺が今まで出会った大多数の人間とは決定的に違う何かを持っている、と。


 翌日、学校帰りに立ち寄れる範囲で最も大きいホームセンターに行きたいという彼女の要望に応えて、俺は駐車台数千台を超える店舗に案内をすることになった。
「おぉ〜!」
 駅を出て目の前に聳えるその視界に収まりきらないほどの建物を目の当たりにして、彼女は声を弾ませた。
「すっごいですねぇ♪  これ、今通っている高校よりも大きいんじゃないですか? 従業員の数だけでサッカーチーム10組は作れそうですね」
「あ、あぁ」
 何だ、その独特な喜び方は。
「というか、ホームセンターくらい行ったことあるだろうが。何をそんなにはしゃぐことがある」
「分かってないですねぇ。東京のスカイツリーがどうしてあんなに人気があると思うんですか? 世界一高い電波塔だからでしょ? 大きい! 高い! っていうのはそれだけで大きな一つの魅力なんですよっ」
 相変わらず、訳の分からんタイミングで上機嫌になる奴だ。
「まぁ、何か買いたい物があるんなら大体の物は揃ってるから、好きなだけ買うといいさ」
 たとえ金が足りなくなっても俺は一円だって貸しはしないがな。
「いや、特に買いたい物はありませんね」
 俺は思わず自動ドアの直前で立ち止まって時雨ミライの顔を見返る。
「は? じゃあ何の為に来たんだよ」
 俺の横を悠然と通過して店内に足を踏み入れながら、
「ウィンドウショッピングです」と答えた。
 風の噂で女との買い物は面倒くさいと聞いたことはあったが、どうやら事実だったらしい。もちろん、未愛は例外だが。
 俺はそんな小言を心の中で呟きながら、無駄にでかい自動ドアをくぐった。
店内は二階まであり、家具からペット用品まで様々なジャンルのコーナーに区分けされている。特徴的なのが、基本的にすべての区画が一方通行のフロア構造になっていること。
 この構造の何が恐ろしいかって、一度指定の通路に入ったが最後、途中で離脱することはかなわず、だだっ広い全てのコーナーを通過しなければならないところだ。
 しかも、今日隣にいるのは店に入る前から興奮しきりの転生委員会様ときた。一体店を出るまでに何時間拘束されるか分からない。それを思うと、俺の口から憂鬱と書かれた溜息がこぼれても誰も責められなかった。
 宣言通り、彼女はやたらと商品を手に取ってはその度に目を輝かせたが、どれだけ値段が安価の物でも購入の意志は示さなかった。
 俺と同じく、無駄遣いをできない事情でもあるのだろうかと何となく気取っていると、
「それにしても、随分と素直になりましたね」
 あらかたのインテリアを見終えたところで、時雨ミライは前を向いたまま突としてそんなことを口にした。
 こいつは、俺の悲鳴にも似た盛大なため息が聞こえていなかったのか? と刺々しく返そうとも思ったが、やめた。
「ふん。未だにどうしてあれだけ数値が上昇したのか分からずじまいだが、お前の提案が功を奏したのは事実だ。意味が分からなかろうが何だろうが、俺は未愛を救う為ならば何でもする。ただそれだけだ」
「なるほど。あなたは未愛のことに関してだけは真っ当な判断力を有していますね。良い心がけです」
『だけ』は余計だ。
 長い長い旅路の末にレジを通過すると、そこは二階の中央階段前だった。
著しく体力を消費していた俺が手すりにすがりながら一階に降り立つと、さっきは気付かなかった太い鉄柱が目に入った。
 俺は立ち止まってから何となく思いつきで指をさすと、「さすがに、まだ早いか?」と時雨ミライの方を向いて尋ねてみた。
 すると、下唇に指を添えて少し考える素振りを見せた後、「いいですよ」と微笑みながらいつもの手紙を俺に差し出した。
 言い出しておいてなんだが、さすがにまだ反映されていないんじゃないのか? と思いながらも期待薄で鉄柱の前に手紙をかざしてみる。
「……マジかっ」
 俺の口から滑り落ちた驚きの一音は、早くも反映が完了していたことへの驚き。それと、サッカー観戦に引き続き同等の上昇値を視認したからだった。
【141】
 ……悔しいが、これで証明された。時雨ミライの提案は高い上昇値を記録することができる。この前の数値変動は偶然じゃなかったんだ。
 俺が餌をもらう直前の鯉みたいな顔をして再度彼女の方を振り向くと、フフッと芝居がかった笑みを浮かべてこう言った。
「どうやら結論は出たみたいですね? あなたは私に従ってさえいれば、未愛を救うだけのポイントを取得することができるということです。ということで、これからは私への態度を改めてくださいね」
 階段上から高みの物言いを受けた俺は、彼女の不遜な態度に眉根を寄せながらも、初めてはっきりと見えてきた転生のビジョンに胸弾まずにはいられなかった。
「それでは、次に行きたい場所が思い浮かんだらまた連絡しますー」
 ホームセンターを後にしてから暫く歩いたところでそう言うと、時雨ミライは右手をヒラヒラと振ってあっさり帰っていった。
 俺は彼女の姿が見えなくなったのを確認すると、堪えていたものを吐き出すように顔を綻ばせた。
 それから真っ先に向かった先は病院。これまでお見舞いの時にろくに元気な顔も見せれていなかった分、今日は良い報告ができると俺の心はいつになく軽かった。
 いつものように受付を済ませて病室に足を運びながら、メモ帳に今日のポイントを記入する。
 転生委員会が宣告した残りの日数とポイントの上昇値とを計算して、確かに間に合う可能性があることを改めて噛みしめて三度口角を上げた。
「よしっ」とポケットにボールペンを挟み込んで握りこぶしを作ると、俺は勢いよく病室の扉を開けた。
 バスケットの花の香り、未愛の呼吸音、点滴の音。いつもと変わらない環境。
 ――その、はずだった。
 一歩中へ踏み込むと、聞きなれない話し声、衣擦れの音、微かな金属音。焦点が定まるまでの間にそれらが鼓膜を打った。
 部屋には、全部で三人いた。
ベッドで眠る未愛以外に二人。それも、看護師や未愛の友達ではないことが一目で分かる様相だった。
一人は、十字架のピアスに紅葉色の赤茶髪、170センチの俺よりも10センチ近く高い身長、極めつけには見るもの全てを燃焼しそうな鈍い光を纏った目つきをしている男。
もう一人は、男と同じカラスのように真っ黒な制服を身にまとい、同じ高校生とは思えない妖艶さが感じられる容姿と余裕を感じさせる微笑みが印象的に映った。
「あ? 誰だこいつ」
 俺が予想外の見知らぬ来客にぽかんとしていると、存在に気付いた男が先に敵意剥き出しの言葉を吐き出した。
「……お前らこそ、誰だ。未愛の病室に何の用だ?」
 あからさまに怪しい雰囲気を充満させる男を前に俺が身構えると、
「あー、なるほど。じゃあお前が例の転生代理者っていう有瀬碧か。冴えない奴だなぁ」
 男は腑に落ちたというリアクションを取ると、さっきまでの睨みを僅かに解いた。
「突然お邪魔してごめんなさいね。あなたや有瀬未愛さんと一度会ってみたくて、今日お話しさせてもらおうと思っただけなの。だからあんまり警戒しないで」
 続けて発した女の言葉に、俺は思った。
 ……まさか、こいつら二人とも。
 俺は『転生代理者』という単語を聞き取って、自然時雨ミライと同じ立場という可能性に考え至った。
「あんたら、もしかして転生――」
「あー、それ以上喋るな。これ見れば分かんだろ」
 男が俺の問いを遮って取り出したのは、ついさっきも目にしたばかりの例の黒い手紙だった。
 流れで女の方にも視線をやると、胸ポケットから同じ黒手紙を少しだけ上に持ち上げてみせてニコリと笑んだ。
 やっぱり、転生委員会。
 未愛の寿命のことやポイントに関して良くないことでも伝えに来たのかと思い、俺は無意識に警戒の色を強くする。
「初めまして、私は千夏可愛。隣の派手な彼が黒雪創志くん。攻撃的に見えるかもしれないけど、根は悪い人じゃないから安心してね」
 俺の疑心を解きほぐす意思を含んでいることがわかる優しい声色で女性が簡潔に名を述べた。
「おいこら千夏っっ! てめぇ勝手に人の名前まで紹介してんじゃねぇよ!」
「創志くん! ここ病院」
 長い黒髪の女は男の激昂に怯むどころか逆に注意を促してふわっと髪をなびかせた。それを受けた男は眉根を中央に大きく寄せながら、火花が散ったみたいな舌打ちを鳴らして背を向けた。
「コホン。それじゃあまずは一つ聞かせてもらいたいんだけど。今あなたの担当をしているのは時雨ミライさんで間違いないかしら」
「何だよ。あの女に何か用でもあるのか」
「あ、いいえ。違うの。ただ、最近気になることを耳にしたからあなたのことも含めて少し心配になって」
 気になること?
「本来、私達転生委員会は一人で複数名の転生処理を受け持つことが多いのだけど、彼女――時雨ミライさんは、あなたの担当になってから他転生対象者の仕事を全て、拒否しているの。今までに、こんなことは一度もなかったから、あなたの妹さんの転生業務がそれほどまでに忙しいのかなぁって心配になって」
 俺の知らない所でそんなことが起こっていたなんて露知らず、少しばかり驚いた。
 元々、あの女に対して真面目なんて印象は僅かたりとも持っていなかったし、今までの態度からも未愛の為に献身的に行動しているようには見えなかったからな。
 とりあえず、未愛のポイントに関する話ではなかったとわかって一安心しつつ俺自身も他転生対象者の仕事を断っている理由は知らないと口を開きかけた時、
「回りくどい言い方で誤魔化してんじゃねぇ! 俺達がここへ来たのは心配なんて甘い理由で来たんじゃねぇだろーが」
堰を切ったように男が大股でこちらに歩み寄って切り出すと、髪の先が触れそうなくらいの距離にまで迫ってきてこう言った。
「お前、俺達のような転生委員会に所属している人間について、どれくらいのことを知ってる?」
 質問の意図がすぐに理解できず、俺は眉間に皺を寄せた。ただ、時雨ミライという人物に関してはほとんど知らないことは間違いなかったから、素直にその旨を伝えた。
「正直、あまり」
「じゃあ聞くが、転生委員会にいる人間が持つ唯一の共通点については、どうだ?」
 唯一の共通点?
 これまでの彼女との会話を思い出すまでもなく、知らなかった。
「いや、知らないけど」
 言うと、男は何が面白かったのか身を屈ませて気味の悪い笑い声を漏らした。
「……あーあ。やっぱ思った通りだわ。いいぜ、だったらそんなかわいそうな碧くんに俺が面白いことを教えてやるよ」
「ちょっと創志くん!」
「うるせぇ! お前は口出すな。俺はただ、事実を包み隠さずこいつに教えてやるだけだ。これ以上ない親切ってもんだろうが」
 寸前で止めに入った千夏可愛もそれ以上は言及することができず、下を向いた。
 未愛の微かな呼吸音がいやに大きく聞こえる空気感の中、黒雪創志は悠々と口を開いた。
「俺達転生委員会の人間は、年齢も性別も性格も、何もかもバラバラだが、たった一つだけ。揺るぎない結びつき、資格みたいなもんが存在する。それはなぁ……」
 意図的か、偶然か。数秒の間が空いた。
次の言葉を発するまでのその絶え間、生けられていた花弁の一枚が散り、音にもならない音で地面に落下した。
無意識に地面に落ちたその花びらを目で追い、再度黒雪創志の顔にピントを合わせると、その言葉は発せられた。
「前世で、人を殺した経験があるかどうかだ」
「!?」
 俺は「嘘だろ」という言葉を発する代わりに、思わず千夏可愛を一瞥した。
 しかし、きまりが悪そうに俯く彼女の姿を見て、男が口から出まかせを言っているわけではないのだと悟った。
 俺が驚きを隠しきれずに目を見開いたままでいると、男は続けて言った。
「転生委員会に入る殺人者の条件を知らなかったってことは、だ。お前、これも見たことないんじゃねぇのか?」
 黒雪が掲げたそれは一瞬、見慣れた黒い手紙に見えた。しかし、一度瞬きをすると、黒い手紙の後ろにもう一枚、真っ白な便箋があるのが判った。
「何だよ、それ。黒い手紙とは、何か違う物なのか」
「はははっ、やっぱ知らなかったか。いいか? よく聞け。黒い手紙は、転生対象者の情報が綴られたもの。対してこっちの白い手紙は、俺ら転生委員会に所属する自分自身の情報が綴られたものだ。俺達転生委員会の人間は、他人の転生の手助けをしながら自分が来世に転生するという目的の為に働いているが、来世への転生、もしくは転生委員会へ入ることが決まったその瞬間に、前世のその人間に関する行い、記憶が委員会によってすべて世界から消去される。だから、俺の白い手紙には前世時に名付けられたものと全く同じ名前が刻まれてるってわけだ」
 俺は黒い手紙に反射して映る自らの驚嘆顔に眉をひそめた。
「つまり、あんたが持ってるそれには前世で犯した……殺人の詳細も書いてるってことか?」
「察しがいいじゃねぇか。あぁ、書いてるぜ。俺が殺した詳しい内容と、その被害者4人の名前まで、全てな」
 よ、4人……!?
 笑みを交えて語るその狂気に、俺は身震いした。
 指名手配犯の写真がズラリと並んだ掲示板。
 コンビニの入り口付近に置かれている殺人事件が一面を飾っている新聞。
 学校の図書館に置かれているミステリー小説の物語の中。
 殺人者なんて、俺が住んでいる世界からはあまりにも縁遠い存在で、そういう外的な情報からでしか触れることのないモノだと思っていた。
 それが今、俺の周りには三人の殺人者が存在していて関わりを持っちまっている。
未愛の為――。
その一心で、これまで出来る限りの雑念は押し殺すように努めてきた。だけど今、俺は初めて明確に『恐怖』を感じている。
 やっぱり、ダメなんじゃないのか?
 転生委員会なんて得体の知れない組織とこのまま関わり合いになって本当にいいのか?
 意識とは別の、身体の防衛本能みたいな部分が俺にそう告げて止まない中、黒雪創志は依然口角を上げたままの状態で言った。
「あー、そうそう言っておくが、俺がわざわざ出向いてまでお前にこの情報を教えてやったのは別に面白半分でビビらせる為じゃねぇ。お前の現転生担当者、時雨ミライっていう女が、この重大な事実をコソコソ隠してたっつーそのとんでもねぇ危険度を分からせてやろうと思ったからだ。……んで、ここからはあくまで俺個人の忠告だが、よく聞け。俺達よりも長く転生委員会に在籍しているあの女、時雨ミライは十中八九、何かとんでもない秘密を隠している。だから、せいぜい気を付けることだな。得体の知れねぇあの、どす黒い女には」
 男はそれだけ言い残すと、乱暴な手つきで扉を開けてから病室を退出した。
「あ、ちょっと創志くん!? もう……。急に病室まで押しかけて、そのうえ一方的に色々言っちゃって本当にごめんなさいね。また頃合いを見て挨拶はさせてもらいますから」
 後を追うようにもう一人の女もペコリと一礼をすると、静かに病室と廊下との境界を線引いた。
 足音が小さくなっていって、やがて完全に消えたのを確認すると、俺はようやく強張っていた肩の力を緩めた。
 〝転生委員会〟。
常識が通じる存在でないことは、最初から重々分かっていた。でもどうやら、それはほんの触り部分にしか理解が及んでいなかったんだと思い知らされた。
 委員会に所属する人間全員が、前世で人を殺している。
 その強烈なフレーズを今一度心で唱えると同時に、時雨ミライの顔が脳裏に浮かんだ。
『どうしても叶えたい目的があります』
 なぜ今、教室で聞いた時雨ミライの言葉を回想したのか自分でも分からなかった。
 でも、鮮やかに染まりつつあったはずのパレットにはジワリと黒い滲みが確かに広がっている心地がして、俺は暫く苦い顔を浮かべていた。



【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り19日】