「ずっと……好きでした! 付き合ってくださいっ!」
淡彩色の夜闇を明かす朝日の輝きが、真っ赤な顔をしながら熱烈な告白を行う目の前の女子生徒を眩く煌めかせる。
俺は、わざとらしく目を細めながら数分前に読んだばかりのラブレターを懐にしまいこむと、改めて彼女のことを直視した。
顔は、お世辞抜きにしても可愛い。
スタイルも、良い。
性格も、多分。
そんな見るからにモテそうな優良女子からの対面告白。
喜ばない男子などいるはずもないだろう。無論、俺だって嬉しい。
だが――申し訳ないことに彼女の告白を受け入れられない理由が、それはそれはとてつもなく深い理由が、俺には存在していた。
「ありがとう。こんな俺なんかに好意を抱いてくれたことは素直に嬉しいし、勇気を出して手紙を書いてくれたことにも胸を打たれたよ。だけど、俺には君とは付き合えないとある特別な事情があるんだ」
「……事情? 何ですか!? 私、先輩と付き合えるんだったら何だってする覚悟がありますよっ! 髪型ですか? 言葉遣いですか? それとも……」
必死に食い下がって俺の断り文句を撤回させようとする女子生徒。
まさか、俺なんかのためにここまで言ってくれるなんて。懐に余裕さえあれば感謝の意を込めて花束の一つでも送っていたことだろう。光栄という他ない。
……だがっ!
それでも俺は、彼女と付き合うことができないんだ。
可能ならば、事情の中身については深く言及することなくこの場を去りたかったのだが。
ここまでの誠意を見せてくれた彼女に俺も最大限の敬意をもって返事をするのが礼儀というもの。
「それじゃあ、何でもしてくれるっていう条件、早速で悪いがこの場で行使してみてもいいかな?」
「えっ……あ、はい! もちろん、です」
口には出してみたものの、まさか本当に俺が何か要求をしてくるとは思っていなかったらしく、彼女はいっそう顔を紅潮させて目を泳がせた。
春特有の柔らかな風が体を通過して、草花が揺れる音だけが耳に届く。
ゆっくりと浅い息を吐いて覚悟を決めた俺は、僅かに流れた静寂を縫いながら、実に高らかに次の言葉を紡ぎ出した。
「それじゃあ、俺の妹になることはできるかな」
それは、まさに一瞬のことだった。
つい数秒前まで信号機を思わせるほどに俺への好意を表情として見せていた彼女の顔から、一切の熱が引いていくのがわかった。
恐らく、長い高校の歴史の中でもこれほどの短い時間で恋心を消滅させた男など一人としていなかったことだろう。
結局彼女は、それから一言の声も発することなく背を向けると、何か悪い夢でも見てしまったという鈍い足取りでその場を立ち去った。
「さて……と、これで明日から俺のあだ名はシスコン変態野郎に決定だな」
女子が傷つかない告白の断り方なんて義務教育で履修したことのなかった俺は、こんな不細工な方法しか思いつくことができなかった。
まぁ、ラブコメの主人公になり得る人材なんて俺じゃなくても他にたくさんいるだろうからな。出番を窺っていたキューピット様にも今回のところは臨時休業ってことで勘弁願いたい。
そんな捨て台詞を心の中で呟きながら、俺は右手をポケットに突っ込んで帰路を辿った。
通学時間徒歩三十五分、築五十年で一階建ての木造アパート。それが俺の自宅だった。
四部屋あるうちの三部屋が空き部屋になっているのは、交通の便が絶望的に悪いことと幽霊が出そうなこと、極めつけは建物名が壊滅的にダサいことに起因していた。
「……うん。やっぱりほうれん荘はないよなぁ」
正面から見たアパートの屋根下に大きく掲げられた看板の文字を見て、俺は呆れ顔を浮かべた。なんだろう。ここのオーナーは農業組合の会長でもやっているのだろうか。仮に俺の一番好きな食べ物がほうれん草だったとしても許容しがたいネーミングセンスだよ? ポパイも苦笑いしながら見て見ぬ振りしちゃうレベルだからね?
俺は吐息交じりに、これまた今にも剥がれ落ちそうな表札を半目で見送って敷地内に入ると、アルミホイルみたいな色をしたドアノブを捻った。
キィィッという音と共に見飽きた薄暗い廊下が目の前に現れる。窓の隙間から入る風の音とギシギシ軋む床の音以外に室内から聞こえてくる情報はない。まぁ、このアパートで使用している部屋がここだけだから、というのもあるがそれはさして関係ない。
いないのだ。
俺のもとに、父や母が。
離れた場所に実家があって、別々に暮らしているから? いや、違う。
家、どころか最初から、俺には両親が存在しない。
だからってわけでもないが、俺は今コンビニと食品工場のバイトを掛け持ちしていて、生きていくために日々お金を稼いでいる。
今日は、コンビニの日だ。
一息つくこともなく着替えを済ませると、俺はスクール鞄からバイト用のワンショルダーバッグに持ち替えた。
「よし、行くか……」
俺がリビングを出て玄関に向かおうとしていたそのとき。ろくな物音すら聞こえていなかった外から、軽くて落ち着いた足音がこちらに向かって近づいてくるのがわかった。
敢えてその足音の主を視認しなくとも承知している俺は、思わず口元を綻ばせた。
「ただいま」
身長約150センチ。白を基調とした制服にチェック柄のスカートと黒タイツを身に纏った栗色髪の女の子が、控えめにぽつりと呟いた。
「おかえり。未愛」
俺は間髪入れずに柔らかな声音をもってそう応じると、目尻に深い皺を刻むほどにぎゅっと目を細めた。
SNS時代全盛の昨今。綺麗な手書きの文字と色鮮やかなレターセットを用いて告白してくれるような、顔もスタイルも良い年下の女子高生からの告白を断った本当の理由――。
それがまさに、この未愛の存在だった。
探しても取り柄のひとつ見つからない俺なんかとは違う。
頭が良くて頑張り屋で、一本の真っ直ぐ通った芯を持っている。
自慢の妹だ。
たとえ、これからの俺の人生が病院食並みに薄い味付けで惨めなものになったとしても、未愛の人生さえ彩り豊かなものになり得るのならば、俺は喜んで己の存在意義を受け入れる。
だから俺は、彼女を作って呑気にデートなんぞする暇があるのならその分未愛のためだけに時間を費やしたいと。
本気でそう願っている。
「……ねぇ、お兄ちゃん? 前から聞こうと思ってたことがあるんだけど」
俺が改めて己の不動の信条を噛みしめながら目を瞑っていると、そんな天使の声が届いて我に返った。
「ん、どうした? 何でも遠慮せずに聞いていいんだぞ」
「それじゃあ聞くけど、どうしていつも学校が終わった後は決まってコレをするのかな? 私はすぐに宿題とかご飯作ったりとかしなくちゃいけなくて、そんなに暇というわけじゃないんだけど」
……コレ?
数秒心当たりを推し量ってみたがまるで検討がつかず、俺は迷子で泣きじゃくる子供でも相手にしているかのような声音をもって、至極真剣に問いかけた。
「……すまない、未愛。お兄ちゃんは出来る限り未愛が快適に生活を送れるように普段から未愛のことを考え、常に気を配っているつもりなんだが。如何せん、未愛の言うコレについて思い当たるものがない。だから、もう少し具体的に教えてもらってもいいかな?」
言いながらも、依然未愛の疑問に対して頭を巡らせてみたがやっぱり分からず、俺は神妙な面持ちで未愛の返答を待った。
すると、なぜか口から深い息を漏らした未愛は白刃の如き鋭い半目をこちらへ向けてこう言った。
「……ふぅん。あぁ、そうなんだ。お兄ちゃんは、毎日毎日私がお家に帰って来るやドリルみたいな回転力で頭を撫でまわしてくるこの振る舞いに、まったく心当たりがないと……。そう言うんだね?」
「えっ!」
俺はパッと強張っていた顔をほぐして己の右手の先に目を向けてみると、そこには未愛の指摘通り、それはもう見事なまでに洗練された動きをもって頭部を撫でまくる五指があった。
「あ、あぁなんだ! 未愛が言っていたのは頭なでなでの儀式のことだったのかぁ。お兄ちゃん、あまりにも無意識に毎日撫でてたもんだから本気で分からなかったよ! はっはっはっ!」
「あぁ、そう。これってお兄ちゃんにとっては儀式だったんだね。どうりで人間離れした手つきだと思った」
「あぁ、それで……どうして俺がいつも未愛の頭を撫でるのかを聞きたいんだったよな。それは、話せば長くなるんだが、そうだな……一言でまとめると」
「……」
「未愛が可愛いからだ!」
「……」
「間違えた。未愛が極めてとても物凄く煌びやかに可愛いからだ!」
「……」
「ほら、道を歩いていて可愛い猫が目の前に現れたら頭を撫でたくなってしまうだろ? あれと同じ現象なんだよ」
「つまり、私は猫なの?」
「いや、強いて言えば天使だな!」
「……お兄ちゃん」
「時々、未愛を見ていると背に薄っすらと真っ白な翼が生えている錯覚を見ることがあるんだよなぁ。それで、そのうち錯覚じゃなくなる日もくるんじゃないかって本気で思ったりもしててなぁ……」
「うん、もういいよお兄ちゃん。とりあえずお兄ちゃんは近々病院を受診した方がいいと思う」
「俺にとって未愛は、この世で一番大事な存在なんだ。だから、その最愛の妹とスキンシップをとるのは兄として当然のことなんだよ。いや、本当に……ちょっと前まであんなに小さかった未愛も、もう中学生なんだもんなぁ。お兄ちゃん、感慨深くて泣いちゃいそう」
俺は幼かった頃の未愛の姿を回顧しながら、フィナーレと言わんばかりに未愛の頭に乗せた手を上下左右に高速移動させて感動を表現した。
「うん。ありがとう。その気持ちは毎日十分すぎるくらい伝わってきていることは私が保証してあげるから、とにかくもう少し離れてもらえるかな。というか、本当に髪が乱れる」
「何を言ってるんだ。中学生になったからって変な遠慮をする必要はない。いくらでも俺の胸の中で甘えていいんだぞ? ほら、この前だって俺を抱きしめたときの感触がはちみつ男爵に似てるって言ってはしゃいでたじゃないか」
「うん。その名前のぬいぐるみを持っていたのは私が5歳くらいの時の話だよね。完全に時系列が迷子になっちゃってるよ」
「いや、でも……」
「お兄ちゃん。いい加減にしないと、冷蔵庫にある賞味期限ギリギリの食材全部今夜食べてもらうよ?」
「っ、それだけはご勘弁を」
「まぁ、食べ物を粗末にするなんてもってのほかだからね。どのみち何日かに分けて二人で食べることにはなるんだけど」
言いながらぽんぽんっと手で髪を元の状態に戻すと、未愛はやれやれという表情でリビングへと消えていった。
俺は音のしない息をそっとこぼすと、未愛のスクール鞄の中から覗く数種類の薬をじっと見下ろした。
俺が普段から未愛と過度なスキンシップを試みているのは、半分が純粋に兄妹の絆を深めるためだが、もう半分は別にある。
未愛は、生まれつき体が弱かった。全力疾走はもちろん、長い距離を歩くだけでも人の倍は体力を消耗して息切れが止まらなくなってしまう。俺は、そんな未愛の体調が崩れた時を見逃すことのないよう普段から気を張っている。
つまり、断じて俺がシスコンだからベタベタしているわけではないのだ。断じて。
とはいえ、未愛の体を心配する余り最近ではすっかり塩対応。まぁ、これも未愛が大人に成長してきたってことだから喜ぶべきことなんだろうけど。やっぱりちょっと寂しい。
俺は大人げなくもしゅんと丸くなりながら、家を出ようと靴を履き直す。時間も迫っていることだし、未愛とのスキンシップは仕事が終わるまで我慢するとしますか。名残惜しくも、俺が靴ベラを戻して立ち上がったそのとき。
「バイトいってらっしゃい。遅刻して他の人に迷惑かけないようにね」
「!?」
背後から、予期せぬ声が掛けられて勢いよく振り返ると、そこにはエプロン姿で控えめに手を振る未愛が立っていた。
俺はあっという間に曇り空が晴れたような顔に変わって扉を開けると、「行ってきます!」と言って手を振り返した。
確かに俺には、恋人もいなければ両親すらいない。傍から見れば薄幸で気の毒な奴だと思われるかもしれない。だけど、未愛さえいれば……俺は胸を張って幸福と言える。どんなことでも頑張ろうと思えるんだ。
「ふぅっ……」
仕事を終えて店を出ると、夜空は厚い雲にどんより覆われて蓋をされているみたいだった。
薄暗い路を歩きながら、俺は蓄積した疲労を吐息に溶かす。
目線を落とすと、歪な形状をした二つのコンビニ袋が、俺の歩みに合わせてシャワシャワと音を発していた。それを見て、口角が微かに持ち上がる。
品出し、レジ、たばこ販売、コーヒー提供、雑誌梱包、カウンター総菜調理、公共料金及びチケットの支払い。挙げれば尽きない数の仕事があるコンビニバイトを、俺が敢えてバイト先に選んでいるのには理由があった。
それが、この袋の中に入っているたくさんの弁当や総菜。
うちの店舗では、廃棄商品を出さないための取り組みとして、賞味期限が間近に迫ったものや売れ残った商品をスタッフが格安で購入することができるシステムを導入している。
圧倒的貧乏学生である俺が、こうしてはち切れんばかりの品を携えることなど、この機会を置いて他にない。お腹いっぱいご飯を食べられること。正直、これ以上のありがたい恩恵はなかった。
そんな影の報酬に対して俺がビニール袋の中を覗き込んではにやついていると、
「ん?」
ゴソッ、と物音にしては深い質の響きが大通りの脇にある隘路から聞こえた。
(そういえばこの道ってうちのアパートまでの近道だったっけ)
以前時間に余裕がなかったときに一度だけ通ったことがあったのを思い出して、俺は何の気なしにその進路へ転換した。
街灯は届かず、きちんと整備がされていない細道に足を取られそうになりながら慎重に歩みを進める。
小道に入る前の物音は、てっきり野良猫かカラスの類が発したものだと思っていたのだが、目を凝らして前方を見てみると、動物ではない何かのシルエットが目に映った。
不思議だったのは、俺と同じように近道として利用しているのではなく、影の主はその場に立ち止まって何かをしていたこと。
ゴクリ。
俺は喉を鳴らし、できる限り足音を響かせないように忍び足でその影との距離を詰めていく。
タイミングが良いのか悪いのか、俺が大きな影だと思っていたその正体を、人間二人の影だったのだと判別できるくらいには近寄ることができたとき、ずっと厚い雲に隠れていた月明りが細道に射した。
瞬間。
「……」
俺の息が、数秒止まった。
二つあった人影のうち、一つは会社帰りのサラリーマンと思われる三十代前後の男性のものだった。素人目にも容易に致死量を超えていると断言できる血液が水たまりみたいにドクドクと地面に広がっていた。
そしてもう一人は、その男性の死体を見下ろしたまま、刃渡り20センチはあろうナイフを手に持ち、涼しい顔で佇む少女だった。
俺が次に震える喉でぎこちなく息を吸い込んだとき、不気味なくらい綺麗な光を宿した彼女の瞳と目が合った。
一瞬にして全身の水分が蒸発してしまったんじゃないかってくらいに、背筋が寒くなった。
永遠にも思える数秒の邂逅の後、俺は全身に力を込めて体の向きをぐるっと反転させた。そして、たった今来た道を全力で駆け戻った。
「はぁっ! はぁっっ!」
背後から追いかけてきているかなんて確認する余裕もないくらいに必死で、俺はその場からの逃走だけを考えて足を回した。
すると、そのときだった。
「気を付けてください。未愛が死にますよ」
それは、吐息に紛れただけの微かな声だった。けれど、耳元で囁かれたみたいな得も言えぬ不気味さも同時に纏っていた。
俺はぎょっとして、走りながら反射的に背後を見返った。
幸い、俺の予想に反して後を追いかけてきてはいないようだった。ただ、その代わりと言わんばかりに、少女は意味ありげな色を浮かべて微笑んでいた。
どうして未愛の名前を知っている?
死ぬってなんだ?
うちの高校とは違う制服を着ていたから知り合いではないはずだよな?
瞬間的に噴出する様々な疑問を抱きながらも、俺は混乱する頭でスマホを取り出した。
『はい、110番警察です。事件ですか? 事故ですか?』
「はぁ……はぁっ……じ、事件です。パーカーを着た女子高生が、男の人を殺していました」
『落ち着いてください。えっと……男性が、女子高生を殺害していたのですか?』
「いや、違います! 女子高生が、ナイフで男性を殺していたんです」
『……分かりました。現在どこにいますか?』
それから俺は、大通りにある標識を確認して細道の具体的な場所を伝えた後、膝に手をつきながら電話を切った。
しかし、俺は呼吸が十分に整うのを待つよりも先に再び走り出した。
『気を付けてください。未愛が死にますよ』
走り続けて生じた汗とは別種のものが皮膚を伝う。
俺は今、アパートへの近道であるさっきの細道から逆走してアパートに向かっている。つまり……考えたくはないが、いや、本当に有り得ない話だが、俺があの場を離れたあと、もしもさっきの人殺し女が間を置かずにアパートに向かっていたとしたら――。
「……ぐぅっ!」
俺は眉間に皺を寄せながら、じんじんと痛む足に鞭を打ち、さらに速度を上げて未愛のもとへ疾走した。
ようやくアパートを視界に捉え、一階の空室を走り抜けて最奥の101号へ向かっていく。
と、そのとき。
俺の両腕から筋肉が削り取られてしまったかのように、食品が詰まったビニール袋がドサッと地面に滑り落ちた。
俺が息を呑んで立ち尽くしたのは、外側に取り付けられている窓から、101号室の部屋の明かりが確認できなかったから。
まさか、嘘だろ――。
俺はじっとりと汗ばんだ手を思い切りドアノブめがけて突き出すと、ガチャガチャ扉の音を立てながらポケットから鍵をまさぐった。
数度鍵を鍵穴に入れ損ないながらもようやく扉を開けると、俺は靴も脱がずになだれ込むようにリビングまで駆け込んだ。
「未愛っっ!」
俺が荒げた呼吸音を響かせながら視線を左右に動かすと、部屋の隅で膝を抱えながら震える未愛を視界に捉えた。
「未愛っ大丈夫か!? もしかして、俺がいない間家に、誰か来たのか?」
「……き、来た」
「えっ!? だ、誰が……まさか、フードを被った女子高生だったんじゃ――」
「……いや。大家さん」
「……お、大家さん? ど、どういうこと……」
「少し前に、このアパートで停電が……起きたの。それで、原因が配線の接触だったから、少しの間電気が使えなくなりますってさっき言いに来てくれて」
俺は、それを聞いて全身の力が一気に抜けたように床に膝をついた。すると、ちょうど電気の復旧が完了したらしく、家の中の照明にあかりが灯った。
「……そっか。じゃあ、誰か知らない人が来たりはしてないんだね。……よかった」
「よくないよっ!」
普段未愛が滅多に上げない大声が聞こえて、俺が少なからず驚いていると、潤んだ瞳を向けてこう言った。
「もっと……早く帰ってきてよ。ずっと暗い部屋に一人きりで、本当に……怖かった」
俺はその言葉で自分がとても大事なことを忘れてしまっていたことに気付いて、すぐに猛省した。
実は、未愛には過去に起きた辛い出来事が原因で抱えているトラウマが存在する。
夜闇の中を二人で懸命に逃げたあの重い記憶が、暗所恐怖症という形で未だに未愛の精神を蝕んでいる。だから、未愛は尋常じゃないほど震えていたんだ。
「ごめんな、未愛。これからはもっとバイトから早く帰ってくるようにするから」
「……うん」
俺は心からの謝罪を述べた後、未愛の体を優しく抱きしめた。
夕食後の片付けと風呂を済ませてからリビングに戻ると、皺ひとつない状態に畳まれた服の横に、ころんと猫みたいに転がる未愛が、既に深い寝息を立てて目を瞑っていた。
俺は音を立てないようにゆっくり布団に腰を下ろすと、「ふぅぅっ」と深い息を吐いた。
今日は、普段起きないようなことが立て続けにあったから疲れた。
ほのかに香るシャンプーとまだ乾いて間もないぬくもりに包まれた未愛の髪を撫でながら、俺は心の中でそう呟いた。
未愛は、本当に良い子だ。うちの高校のクラスメイトと比較してもお世辞なんて抜きに未愛以上に出来た人間はいないと断言できる。
――それでも。
『一人きりで、本当に……怖かった』
昔のトラウマのことを含めて、この屈託のない寝顔を見ていると、やっぱりまだまだ子供なんだなと感じる。未愛のことは、何があっても守ってあげないといけない。
俺は改めて、強く心に誓った。
「んっ……」
翌朝。重い体を起こしてゾンビみたいな挙動をしながらふらふらシャッターを上げると、太陽の過剰な光に全身が包まれた。
カラカラ、と窓を開けるとアパートに隣接したどこかの家から風に乗ってきた香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐった。条件反射的に腹の奥からきゅるると動物の鳴き声みたいな音がする。
朝ご飯を食べるかと思い立ってパジャマを脱ぎかけたとき、そういえば――と視線を下方に移した。未愛が眠る、布団の方に。
いつもなら、俺が目を覚ますころには朝食を準備してくれているか、狭いベランダで育てているミニトマトの世話をしているのだが、今日はまだ布団にくるまってダンゴムシになっている。
それが少し、気になった。
「未愛、どうした? 今日は珍しくお寝坊か?」
俺が膝に手をついて見下ろしながらそう呼びかけると、一拍置いてごそっと掛け布団が揺れた。
「もうちょっと……寝てたい」
ぴょこっと寝ぐせだけが布団の隙間からのぞく様は、なんだか新種のカブトムシみたいだった。というか可愛すぎる。
「なんだなんだ~今日はお兄ちゃんに甘えたいデイか?」
「そんなんじゃ……ないけど。朝ご飯、もしよかったら食べさせてくれないかなって、思って」
「み、未愛……っ!」
とうとう、俺の未愛を想う熱い気持ちが伝わったんだな! お兄ちゃん、泣いちゃいそうだよっ!
「よしっ、お兄ちゃんに任せておけ! うわ、となると朝ご飯は昨日の総菜三つくらいアレンジして超豪華なやつ作っちゃうか? いや、それとも前に近所の人からもらった高級缶詰でなんちゃって海鮮丼にしたほうがいいんじゃないか?」
「……お兄ちゃん。盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、冷蔵庫に入ってる賞味期限間近のヨーグルトだけで、いいから。朝、そんなに食欲ない」
結局その朝は、以前から密かに抱いていた願望。未愛にしてあげたいことランキング第二位である『あ~ん食べさせ』を見事叶えることができ、俺は満面の笑みで家を後にした。
そのうえ、よほど昨日の停電が尾を引いてしまっているのか、未愛は学校に向かう道中まで俺の制服の袖を掴んだまま、ぴったりと足並みを揃えて隣を歩いた。
中学校に入学して、よもや兄離れなんてことにならないだろうなぁ。そんな心配をしていたが、ただの杞憂だったみたいだ。
はぁ……なんて、幸せな朝。
俺が可愛い妹とのスキンシップに惚けながら目を細めて噛みしめていると、未愛は少しだけ俯き加減になってから小さく呟いた。
「……ねぇ、お兄ちゃん。今日も学校が終わった後バイトがあるんだっけ」
「ん、あぁ、そうだよ。今日は別のバイトでシフトの時間が早いから学校から直接行くことになるかな」
「……そっか」
なんだ? やっぱり俺がいないと寂しいのかな? なんてことを、ますます緩んだ顔をしながら思っていると、未愛は続けてこう言った。
「……じゃあ、いつも通りお料理と洗濯は私に任せてね。お兄ちゃんが……いつも頑張って働いてくれているおかげで、私が生活できてるってこと、ちゃんと感謝してるから」
「未愛……」
「いつも……ありがとう。お仕事だから遅くなるのは仕方ないけど、出来るだけ早く帰ってきてね。ご飯は、やっぱり一緒に食べたいから」
未愛はそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべると、タタタと小走りで先へ行ってしまった。
「……ははっ」
嬉しいを通り越して、なんだか泣きそうだった。
本当、俺にはもったいなさすぎる妹だなぁ。
朝からあまりにも幸せ過多で、未愛が普段以上に甘えてきたのは、買ってほしいものがあるからとか、何か理由があるんじゃないかなんて、考えそうになっていたけど。
それは、照れ臭さを抱えつつも俺に日頃のお礼を言おうとしてくれていたからだったんだな。
俺は脳内の微かな靄を短く吐き出して笑みに変えると、弾んだ足取りで高校への歩みを再開した。
それから俺が学校に着いたのは、始業開始の五分前だった。
間もなくして朝礼が始まると、今年度の週間時間割が配られた。俺がそれを眺めながら、想像を超える授業の科目数に目を丸くしていると、「早速今日から時間割通りの六時間授業が開始されます。皆さん是非しっかり取り組むように」という落ち着いたトーンの担任の声を聞いていっそう顔が歪んだ。
バトンタッチで担任から数学教師に入れ替わると、間髪入れずに一限目が開始した。
音楽や美術等の副教科という逃げ道すらなく、テトリスのように疲労という名のブロックが積みあがった状態で迎えた午後、五限目。
午前中の授業の時点で、既に体力ゲージには赤ランプが点灯していたため、昼食を終えた直後のこの時間は疲労と眠気がピークを迎えていた。
必要以上にパチパチと瞬きをしたり、やや痛いくらいの力で頬をつねったりと一応の抵抗を試みるが、徐々にその意志も薄まっていく。
ジャーキングが始まり、眠りと覚醒の境界があいまいになっていく中、俺の注意は授業とは別方向に巡る。
車酔いの際に講じる遠くの景色を見るときよろしく、眠気覚ましにも効果がないかなーなんて期待をしつつ、窓の外に目をやった。
体育をしている豆粒みたいな生徒。
白い飛行機雲の筋を引く旅客機。
風に揺れてサワサワと奏でる名前も知らない木々。
学校から見える外の世界すべてが、緩やかに俺の意識を奪ってまぶたを下ろしにかかってくる。
「あー、やべ」
板上を叩くチョークの音と教師の声だけが響く穏やかな空気感の折、俺の眠気もとうとう限界を迎えそうになっていた。
そのとき。
突如として、昼下がりの安穏たる静寂は破られた。
――――ダンッ
大太鼓を打ったような爆音に、教室にいた生徒……どころか授業をしていた教師までもが驚愕の表情で音のした方を振り向いた。頬杖をついて入睡しかけていた俺も、瞬刻遅れて皆の動きに続いた。
音は、教室前方の扉が勢いよく開いて発せられたものだということに気が付いた。
恐らく全力に近い速度で走ってきたんだろうというのがわかる荒い呼吸で、その学校事務職員は仁王立ちしていた。
右に左に何度か首を振った後、なぜか俺の方を見てピタッと動作が停止した。
でも、次に発せられた言葉を耳にした瞬間。
俺の方――ではなく、その先生は紛れもなく俺に視線を送っていたんだと思い知らされることになった。
「有瀬碧君! 君の妹の未愛さんが、学校で倒れたそうだ」
空気の振動が鼓膜に到達するスピードと、先生の口の動きが一瞬、ぶれたような気がした。
……ぶれたのは、俺の視界の方だった。
それからのことは、よく覚えていない。
知らせに来た先生に連れられて車に乗せられた後、「大丈夫だからな」「きっと助かる」みたいな励ましの言葉を運転席からたくさん呼びかけてもらった気がする。
でも俺は、項垂れながら助手席で親指の第一関節に浮かぶ皺を見ることしかできなかった。
――そして気付けば、俺は薄暗い待合室のソファに座っていた。
水面に浮かぶ藻みたいな色をしたソファは、いやに冷たい質感でぼんやりと俺の嫌悪感を募らせた。
そういえば、あの人はどこに行ったんだろう。
俺は送ってくれた先生がいなくなっていることに今さら気付いて、格好だけ辺りを見渡した。
「あ」
まぁいいや、と上げかけた腰を早々に下ろしたとき。
「じゃあ、先生は学校に一度戻るけど、もし自分だけで家に帰れそうになかったり何かあったときはすぐに連絡しなさい。いいね?」
病院に着いてからすぐの頃、先生がそう言い残していたことを思い出した。
「…………」
なんだろう。
さっきまで半睡半醒だったせいか、びっくりするくらい現実感がない。
初めて乗ったプリウスの匂いから、助手席のシートの感触、先生が話していた声音も、病院にいる俺の存在も、全部。
このままじんわりと暗闇に包まれてフェードアウトしていくんじゃないかな。待合室という空間ごと、ポッカリ。
『有瀬碧さん。三番診察室にお入りください』
俺がそんな希望的観測にも満たない妄想に身と意識をゆだねていると、現実世界からのお告げを思わせる無機質な院内放送が降り注いだ。
なんとなく命令に従うような心地になるのが嫌で、自分なりの間を置いてから席を立ちあがった。
学校の鞄を手に取り、数歩進んで腕を伸ばす。
ピトッ。
金属質の手すりの冷たさが波紋のように広がって、心の温度をも下げていく。対照的に俺の嫌悪感は増幅した。同じくらい、不安感も。
中へ入ると、俺はどっしり待ち構える医師の顔を出来るだけ見ないようにして丸椅子に座った。
ギシッ、と軋む音だけが響く。
ああ、嫌だ。
病院って、こんなに不快な場所だったっけ。
薬品の匂いも、息の詰まる間も、椅子の冷たさも、全てが俺の神経を逆撫でるために用意されている気がしてくる。
早く、未愛の情報を教えろ。
と、思うのと同じくらいもう少し心の準備をさせてくれ、とも思っている。
そんな俺の矛盾した心情を知る由もない医師は、気を遣ってか遣わずか、第一声にこう告げた。
「単刀、直入に言います」
心臓が、嫌な具合に跳ねた。
前置きというのは、敢えてそうする必要があるからするのであって、大したことない物事に関しては使用しないという暗黙の了解がある。
つまり、前置きをしなくてはならないレベルの宣告がこれから言い渡される。
息が、走ってもいないのにリズムを乱す。
痛いのに、太腿を掴む指の力を弱めることができない。
頭の中が、マイナスの感情に掌握される。
そして――
「末期の心不全です。有瀬未愛さんの命は、もう長くありません」
悪寒の上位互換のような凄まじい寒気が、全皮膚上に轟いた。バッテリーの切れたパソコンの画面みたいに真っ暗になった思考回路で、俺は絶望の色をべったり貼り付けた顔を上げた。
数秒前に俺の聴覚器官が壊れてしまって、途方もない聞き間違いをしてしまった。そんな夢みたいな可能性にすがりたかったのかもしれない。
でも、上体を起こしてわかってしまったことが一つだけあった。
医者の顔が、目が、口が、表情のすべてが、さっきの発言をどうしようもなく真だと訴えていた。
それから、長かったのか短かったのかもわからない説明を終えた後、俺は医師に案内されて有瀬未愛と書かれた札のかかった病室に通された。
ゆっくりと扉が開けられて、中へ入るよう手振りを受ける。
震える足で踏み入ると、部屋の端に置かれた大きなベッドが目に入った。掛け布団が僅かに盛り上がっていて、誰かが寝ているのが見て取れる。いや、誰かが……じゃない。未愛が寝ているんだ。
顔を見るのが怖くて俺が立ちすくんでいると、背部の扉の方が先に閉まった。
元々静かだった空間から、些細な音までもが消失する。
意を決して一歩、一歩、ベッドに前進していく。
基本性質が面倒くさがりで飽きっぽい俺には、習慣というものが存在しない。起床時間もバラバラ、風呂も毎日入るわけじゃないし、日記の類いも書かない。
しかし、そんな俺が唯一……続けている行動があった。
それを見るだけで、未愛は今日も幸せに過ごすことができた、守ることができたんだと実感が湧く。
起こさないように細心の注意を払いながら、頭を撫でる。一回撫でる毎に、その日起きた出来事の疲労とか悩みとか色んなものが浄化されていく。
天使のように穏やかな、平和の象徴ともいえる未愛の寝顔を見ること。
それが、最上の幸せルーティーンなんだ。
――足が、止まる。
これまでの長い人生で、俺は一体どれだけの回数未愛の寝顔を見てきただろうか。何百、いや何千を悠に超えるだろう。
でも、今俺の眼下にある顔は、そのどれとも異なっていた。
一定の間隔で漏れる大袈裟な呼吸音と口元を覆う大きな酸素マスクが、ベッドに横たわる女の子の重篤性をどうしようもなく物語っていた。
「………………未愛っ」
学校の教室で知らせを受けたときからバカみたいにずっと欠落していた現実感が一挙に攻め寄せてきた気がした。
故意的に白黒を見ていた瞳の映像に、現実の色が付いていく。
夢じゃない、夢じゃないんだ。
だってこんなの……。
こんな辛そうに歪んだ未愛の寝顔が、俺の夢に出てくるはずがない!
『有瀬未愛さんの命は、もう長くありません』
俺の中で現実が蘇った瞬間、さっき医師が告げた言葉が再度脳内で繰り返される。
体内にある五リットル弱の血液が全て流れ出てしまったんじゃないかってくらい、全身から力が抜け落ちた。
膝から崩れるようにへたり込んだ俺は、そのまま床に額をくっつけた。
普段割と潔癖だと自負している俺が、そうすることでしか正気を保つ術を思いつかなかった。
「あ……っ。ああ、あぁあ。あああぁああぁああぁぁあぁああああああああ!」
叫びながら、俺の頭には今朝の未愛との映像が蘇っていた。
思えば、今日の未愛は様子がおかしかった。
俺より遅い時間まで布団の中で寝ていたり、普段より顔が赤くなっていたり、それ以外にも……。
『そんなに食欲ない』
『なんだなんだ~今日はお兄ちゃんに甘えたいデイか?』
『いつも……ありがとう。お仕事だから遅くなるのは仕方ないけど、出来るだけ早く帰ってきてね。ご飯は、やっぱり一緒に食べたいから』
……なんでだ。
どうしてもっと未愛のことを注意深く見ていなかったんだ。気付くチャンスなんか、いくらでもあったのに!
自分に対する怒りの感情がほとばしり、それが歯噛みによるギャリッという鈍い音になって顕れる。
未愛は、昔から子供とは思えないくらい現実主義で芯が強い子だったけど、選択を迫られた時は必ず、自分のことよりもまず相手を第一に思いやる性格だった。多分……それは今日も同じで、俺に心配かけないように敢えて弱音を見せずに振舞っていた。
俺はそれに、気付けなかった。
「…………くそぅっ」
激情に駆られて高熱を帯びた言葉を吐き出した俺の額から伝わる床の温度は、やっぱりとても低かった。
世界中のどこにもいたくなかった。
未愛が傍にいてくれれば、俺は世界のどこで暮らそうと構わない。未愛さえいれば、そこが都だ。
でも未愛のいない世界なんて、どんな立派な宮殿だろうと自然が豊かな場所だろうと、俺にとっては地獄も同じなんだ。
面会時間が終了して病室を出た後、俺はどうしても未愛がいる場所から離れられなくて。逃げるようにふらりと非常口の階段をのぼった。
そもそもこの病院には何階まであるのかすら知らなかった俺は、何を考える訳でもなく、ただただ外には出たくないという一心で上を目指した。
やがて、8階に到達したところで立ち入り禁止と表記された三角コーンが行く手を阻むように置かれていたが、躊躇いなく先へ進んだ。
「階段は、ここまでか……」
最上階まで行き着いた先にあったのは、何の変哲もない銀色の扉だった。
もしも施錠されていたらトイレにでも籠って明日の面会時間まで息を潜めなくちゃな……。そんなことを漠然と思いながら手を伸ばしてみると、意外にもドアノブはあっさりと回った。
扉を引くや強い風が吹き込んできてバタバタとカッターシャツが音を立てる中、無表情を貫いていた俺の眉が、ふいにピクリと動いた。
深緑色の人工芝が敷き詰められた広々とした空間にポツンと、まるで待ち構えていたように佇む人間の影があった。
夜目に慣れるまでの数秒、俺の背につうと冷や汗が伝う。
当たり前だ。病院関係者にでも見つかってしまえば、未愛との面会時間を制限されたり、最悪出禁になってしまうかもしれない。
前だけを向いたまま俺が石になって固まっていると、ようやくその姿を捉えることができた。
結論から言うと、その人物は医療関係者でもなければ警備員でもなかった。
しかし、俺は無意識に息を止めて目を見開いていた。
『気を付けてください。未愛が死にますよ』
昨夜バイトの帰りに目撃した殺人現場。
今目の前に立っているその人物は、まさしく血まみれのナイフを握りしめて見下ろしていたあの殺人犯と同一人物だった。
「お前……は、どうして。昨日確かに、俺が警察に通報したはずなのに」
動揺のあまり掠れきった震え声は、ありありと俺の恐怖心を露わにしていた。
しかし、動揺が色濃く滲んだ俺の声を聞いても尚、パーカー姿の少女は平然と閉口するばかりだった。
場に流れる異様な静寂はべったりと張り付くように漂っていて。
武器も心得もなく殺人犯と相対している俺の心臓は、バスドラムの如く身体中に鳴り響いていた。
生まれてこの方まともに喧嘩すらしたことのない俺にとって、普段ならば耐えがたい緊張感だった。
だが、今の俺にはその恐怖を上回るほどの圧倒的な怒りが沸き上がっていた。
「今日、俺の妹が学校で倒れた。余命は……三ヶ月だと」
気付けば、俺は激情で高温に熱された想いの粒を口から吐き出すように声を発していた。
「……なぁ、おい。どういうことなんだよ。お前、確かに言ってたよな? 未愛が死ぬって。……ずっと未愛の傍にいた俺でさえ全く気付けなかった未愛の病状を、どうしてお前が知っていたっ!?」
乾いた銃声みたいな叫び声が、夜のしじまに轟いた。
女は依然無表情のまま鋭い眼光だけをこちらに向けると、ようやくその重たい沈黙は破られた。
「3ヶ月以内――ではありません。36日。有瀬未愛は、今から36日後に死にます」
声量としてはそんなに大きなものではないはずのに、いやに彼女の声は俺の耳にはっきりと届いた。
そして、不気味なまでに断定的なその内容は〝予想〟というより〝予言〟に聞こえた。
だからか、俺は次の言葉を紡ぐまでに一瞬の怯みを帯びた間を挟んだ。
「な……にを言ってるんだお前は。どうしてそんなことがわかる? 大体、お前は昨日あの場所で何をしていたんだ? 今日、こうして俺に近付いてきたのも、目撃された証拠を隠蔽するためなんじゃないのか!?」
俺が募らせた不信感を放出すると、彼女は問答に返事をする代わりにくるっと背を向けた。
「おい、ちゃんと質問に答えろ。そんな何の根拠もないデタラメを信じられるとでも……」
俺がそう声を上げていると、おもむろに一歩、また一歩と何もない端へ向かって足を踏み出し始めた少女。
「?」
俺は眉根を寄せてその後ろ姿に見入っていると、やがてある地点に達したところで立ち止まった。
それは、僅かでもバランスを崩せば即座に地上へと落下してしまうことが瞭然の際。屋上角のパラペットの上だった。
一体全体目の前の女は何をしているのかと、本気で困惑しながら息を呑んでいると。
「じゃあ、私先に行くので……運が良ければまた会いましょう」
手をひらひらと振りながら、まるで放課後の帰り道に発されたような調子で俺の耳に届いた。
「は? いや、お前何言って……」
言いながら、瞬きを開始して次に開くまでの刹那。
眼前から人間の姿が魔法みたいに消失していた。
数秒、何が起こったのか本気で分からなくて。
屋上に吹き込んだ冷たい風が肌を撫でた感触で、遅れて俺は叫び声を上げた。
「おいおいおいおいおいおいおいっ! 嘘だろぉっ!?」
脳内が信じられないという感情一色に染まりながらも、地面を蹴って屋上の端へと一直線に駆け寄った。
滑り込むように身を乗り出して下を覗き込んでみると、建物の周りをぐるりと囲った背の高い木々のせいで少女の安否を視認することは難しかった。
「……くそっ、とりあえず……なんだ。救急車を呼ばなくちゃいけないから、電話を探さなくちゃいけないのか。施設内のどこかには公衆電話があるだろうが、誰かに見つかる訳にはいかねぇし……。って、俺は馬鹿か! そもそも今いる場所が病院じゃねぇか! あぁ、もう畜生っ!」
俺は混乱した頭でこれ以上考えることを止めると、非常口の扉から一気に階段を駆け下りた。
即死したことが明らかな状況ならともかく、木がクッションになって致命傷を免れた可能性がある以上、見て見ぬ振りをする度胸は俺にはなかった。
肩で息をしながら薄暗い非常口を抜けて外に出ると、屋上からは見えなかった街路一帯が視界に映った。
ごくひっそりとした交通量の通りには、車どころか通行人の一人も見当たらず、不気味なほどに静まり返っていた。
だからこそ。
俺の眼差しは滑ることなくある一点に注がれた。
もはや、疑いようもなかった。
アスファルト舗装された弁柄色の地面には、トマトが爆ぜたような多量の血だまりが流れていて。うつ伏せのままピクリとも動かない少女は無残にも路上に横たわっていた。
これ以上ないほど生々しくグロテスクな人間の死。
俺は唖然としながらぶる、と小さくない身震いを起こした。
でも、それは殺人を犯した女が自ら飛び降りたことに対してでも、凄惨な光景を目の当たりにして怯んでしまったからでもない。
未愛が、本当に医者の宣告通りになってしまったら……そう想像すると、無意識にその姿を重ねてしまっている自分がいた。
鈍い音が響くくらい歯を食いしばりながら、俺は歪みきった顔でその場に立ち尽くした。
病院に戻ることも、即死した正体不明の女を警察に通報することも、何も……する気が起きなかった。
やがて立っていることさえも難しくなった。
全身の力が抜けたようにアスファルトの上に膝を落とすと、悪魔のような現実から逃げるように目を瞑った。
「夜にこんな場所で寝ると、風邪を引きますよ?」
――それは、女性の声だった。
ぐったりと項垂れていた俺が反射的に顔を上げて声のした方を見てみると、
「あ~、この方法余計な説明を省けるから利点は大きいんですけど。いちいち服がダメになるのがネックなんだよなぁ」
それは、明らかに致死量を超えた血だまりの上で、平然と立ち上がりながら砂埃を払う少女の姿だった。
「えっ、おま、お前……はっ? だって今さっき、屋上から飛び降りて確かに死んだはずじゃ……」
俺は瞳の奥にグッと力がこもるのを感じながら、何度も瞬きを繰り返した。
そんな狼狽する俺とは対照的に、飄々と佇む彼女は至って涼しげにこう答えた。
「だから言ったじゃないですか。また会いましょうって? まぁ、時々失敗して数日意識ぶっ飛んじゃうことがあるから賭けでしたけどね。結果オーライ~ってとこかな。ていうか、実際こうでもしないとあなたみたいなタイプは私の話をまともに聞こうとすらしないでしょうから。むしろ私の献身に感謝してほしいくらいですね」
……一体、何なんだ。
殺人現場を目撃したかと思えば、急に屋上から飛び降りて、血まみれになりながらも平然と会話をしている。
「……」
俺がただただ呆気に取られて思考の停滞を余儀なくされていると、コツコツと甲高い足音を鳴らしながらこちらに向かって近づいてくるのが見えた。
距離にして2メートルを切ったとき、その人物はピタリと足を止めると、ずっと目深に被っていたパーカーのフードをおもむろに取り払った。
「……じゃあ改めて、自己紹介といきましょう。私は、転生委員会の時雨ミライです」
至近距離で顔を合わせてみると、彼女の謎めいた印象をより際立たせた容姿をしているなとと強く感じた。
幼げな顔立ちとは対照的な大人びた表情が、彼女だけの特異的な雰囲気を形成している。そして、この夜闇に溶け込む黒色のパーカーを身にまとっているせいか、肩先までかかった髪と透き通ったような肌の白が光ってさえ見えた。
同年代でここまであからさまな美人と距離を詰めた経験などなかった俺は、無意識に声を殺して目を奪われてしまっていた。
そんな俺をよそに、女は表情を一切変えることなく口を開くと無機質な声でこう続けた。
「単刀直入に申しましょう。あなたの妹、有瀬未愛は来世を選択する権利を有している。それは死後の、新しい人生における話です」
転生……委員会?
来世の選択……?
まるで、安物のイヤホンを耳に装着しているような、ひどく現実味の薄い言葉を聞いている気分だった。
「しかし、当の本人は昏睡状態。これから先の死ぬまでの時間もずっと、彼女は一度も目を覚ますことはないと既に判明している。そこで、最も彼女に近しい存在であるあなたが来世選択の代理者として選ばれたというわけです」
初めて目の前の少女に出会ったときからそうだった。
彼女からは、僅かほども冗談の匂いがしなかった。
一般的な常識を有していれば、到底信じられない内容を淡々と告げてくる。
俺は目頭を押さえながらギュッと一度目を瞑った。
「いや、いやいやいや。それでもやっぱりありえねぇ。未愛が後一ヶ月で……なんて。大体お前、未愛のこと何も知らねぇくせに適当なこと言ってんじゃねぇよ! 突然現れて、転生委員会だなんて意味不明なもん名乗りやがって」
俺はじんわりと目尻に溜まった涙を拭いながら、女を睨みつけた。
「どのみち本当に転生なんてもんがあったとして、未愛がこの世からいなくなることには変わりねぇんじゃねぇか。そんなの、これっぽっちも意味ねぇんだよ! わかったらとっとと俺達の前から消えろ! 二度と現れるんじゃねぇっ!」
肩で息をしながら彼女を一瞥してみると、目元に影を落として俯き加減に佇んでいるのが見えた。
もう、これ以上この場に留まる必要はないな。
俺が胸中でそう呟きながら踵を返そうとしたそのとき。
彼女が小さく吐き出した息の音が俺の動きを止めた。
「分かりました。それじゃあ手続きはすべてこちらで行っておきますので、胸元のそれ……少しお借りしてもいいですか?」
彼女が指さした先に視線を流すと、制服の胸ポケットに差していたボールペンのことを言っているのだと分かった。
「……」
少しだけ、どうしようか迷った。
これ以上余計な問答をしたくなかったし、何より早くこの場を離れたかった。
しかし結局、いつぞやに百均で購入したボールペンを手に取ると、俺は警戒心を維持しながらも彼女に手渡した。
「ありがとうございます」
彼女は微笑み交じりにそう呟くと、ボールペンをカチッとノックして芯を出した。
懐から何やら書類のようなものを取り出すと、さらさらと記入を開始した。
「あ、そういえば……誤解のないように付言しておくと、私はあなたと同じ人間ですよ?」
「は?」
前触れもなくそんなことを口にした彼女に意表をつかれた俺は、反射的に短い声を上げた。
「確かに、一見すると私のことは不死身のように見えるかもしれませんが、実のところはまったく別物なんです。生と死の受け渡しをする存在だから死という概念そのものが我々にはないだけで。死に直結しないような怪我は残るし、痛覚もちゃんとあるんです」
聞いてもいない話をペラペラと話始めた女を怪訝な目で見下ろしていると。
「だから……」
そんな歯切れの悪い言葉を皮切りに、彼女はつと握っていたボールペンをくるっと半回転させた。
それからのことは、ほんの一瞬の出来事だった。
彼女は逆手に持ち替えたボールペンを握りこむと、信じられないことに自らの胸元を勢いよく突き刺したのである。
「ぐうっあぁぁぁぁっ!」
血を吐くような絶叫が夜気を引き裂いた。
突き刺した箇所からはじんわりと赤い染みが滲み出していて、傷口が決して浅くないことを示唆していた。
苦悶の表情を浮かべて身をよじるその姿は、捌かれる寸前の魚を思わせるほどに尋常ならざる様相だった。
俺は声を出すことも忘れてその奇行を眺めていると、彼女は声に笑みの気配さえ漂わせながら言った。
「……さっき、私言いましたよね? 死ぬことはなくても、怪我はするし痛覚もあるって。だから私は、これから死なないギリギリの段階を見計らって体を刺し続ける。あなたが、転生委員会に協力するという言質をとることができるまで」
狂気の沙汰とも思える彼女の発言は、俺の脳をビリビリと痺れさせた。
もしかしたら、何かしらの武器を用いて強行策に打って出るかもしれない。
そんな想像は、念のため頭の片隅に残してはいたけれど。
よもや俺から借りたボールペンを使って自分自身を傷つけるとは……。その行動を交渉の材料にしてくるとは夢にも思っていなかった。
「お前……何がしたいんだ。どうして、ここまでする? 俺は、医者が何と言おうと……予言者まがいのお前が何を言おうと、未愛の死を認めることなんてできねぇ。未愛は、どんなことをしてでも俺が守る。だから、お前の存在なんか俺達にはこれっぽっちも必要なんてないんだよ――」
ドスッ。
「……え?」
俺が言い切ると同時に、彼女の手に握られたボールペンは早々に二撃目を放っていた。
「んっぐぅぅっ。っはぁ、はぁっ……。転生委員会は、死者の魂を来世へと導くのが……唯一の、存在理由です。だからっ、私もどんな手を使ってでも、あなたの首を縦に振らせてみせます」
時雨ミライは、俺の主張に怯むどころか対等以上の鬼気迫る態度で睥睨していた。
瞳の奥には、見たことのないきらめきが宿っていた。
俺は思わず唇を引き結んで肩をすくめると、一度眼差しを地面に落とした。
そして、バツの悪い表情のまま再び顔を上げると。
そこには真っ赤に染まったボールペンを、今度は首筋に突きつけている少女の姿があった……。
その光景はまるで、スローモーションのようだった。
腕を僅かに伸ばしながら助走をつけ、彼女が躊躇いもなくペン先を首元めがけて差し込もうとする異常な姿。
だから、理屈とか思考とかじゃなくて。もっと人間として根源的な部分が、咄嗟にその言葉を繰り出させた。
「わかったぁぁぁっ!」
力のこもった声が功を奏したのか、時雨ミライの手に握られたペン先は皮膚に触れる数ミリ前の位置で停止していた。
俺と少女はしばらくぶりに視線を介しながら、互いに改めて対峙した。
「……ひとまず、転生委員会とやらの話を黙って聞くことを約束する。だから、もうそれはやめてくれ」
懇願に近い声色で俺がそう呟くと、彼女はおもむろに血液の滴ったボールペンを俺の掌の上に返した。
まだ生暖かい血の感触に喉を鳴らしつつ俺が前を向くと、時雨ミライは傷口を押さえようともせず、奇げな笑みを浮かべてこう切り出した。
「ご理解いただけて幸いです。……しかし、そもそもあなたは一つ大きな誤解をしている」
「……誤解?」
「はい。そもそもあなたの妹、有瀬未愛が今回転生の権利を有していたことは、偶然でもなければ必然でもありません。これまで送ってきた人生の中でどれだけ善い行いをしてきたか? どれだけ幸福に恵まれず辛い目に遭ってきたのか? その他項目を集積した数値が、この世に生きるすべての人間には割り振られています。我々はそれをライフ№と呼称していますが。有瀬未愛はその数値が極めて高いことが判明した為この度転生対象者として選定されたのです」
とても真面目な口調だった。
おかげで反芻することもなく理解することができた。
しかし、だからこそ俺の中の怒りは沸々と再熱した。
「あぁ、そうか。この世界はそんな目に見えない数値で知らないうちに精査されていたのか。そりゃあびっくりだ。……で、それがどうした? そのよくわからねぇ転生対象者とやらに選ばれた未愛がすげぇんだ。喜べ、とでも言いたいのか? ……いいか? 転生なんてできたところで未愛自身がこれまで大事にしてきたもの、積み上げてきたものが消えちまったらなぁ、何一つ意味なんてねぇんだよ。……いや、むしろ迷惑だって言ってんだ! どうしてお前にはそれが分からなっ――」
「私は、あなたが今抱いているその認識こそが誤解だと、そう言っているんですよ?」
俺の言葉を切れ味鋭く遮った彼女の瞳は、いっそう光を増していた。
俺は少し面食らいながらも、険しい表情を保ったまま尋ねた。
「……どういうことだ?」
「確かに、転生とは通常現世とは別の存在。他者に生まれ変わることを指します。しかし、我々転生委員会の場合は少し異なる」
ふと、緩やかに肌を撫でていた風向きが変わった気がした。
「先ほどお伝えした人間に割り振られた数値。その数値によって転生が可能となる範囲、内容は決定されます。そして、この数値は他人からの全面譲渡を是としている」
「譲渡……」
「つまり、」
時雨ミライは、これから口にする言葉を強調するために、敢えて間を溜めたような息継ぎを行った。
「有瀬未愛の寿命が尽きるまでにあなたが莫大な数値のライフ№を集めることができれば、それを譲渡することで他者ではなく有瀬未愛自身として転生させ、その命を救うことは理論上可能というわけです」
彼女の開かれていた口が結ばれたとき、俺の頭の中で音がした。
スイッチが、OFFからONに切り替わる駆動音。
俺はひと呼吸おいて彼女の言葉を最大限丁重な姿勢で受け止めると、ありったけの感情を込めた声で言った。
「俺は今から、転生委員会の一切を信じてどんな要求、協力も惜しまないと約束する。だから、俺の全てをかけて未愛を助けたい!」
こうして、俺と時雨ミライの、そして転生委員会との奇怪な関係は始まった。
【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り36日】
淡彩色の夜闇を明かす朝日の輝きが、真っ赤な顔をしながら熱烈な告白を行う目の前の女子生徒を眩く煌めかせる。
俺は、わざとらしく目を細めながら数分前に読んだばかりのラブレターを懐にしまいこむと、改めて彼女のことを直視した。
顔は、お世辞抜きにしても可愛い。
スタイルも、良い。
性格も、多分。
そんな見るからにモテそうな優良女子からの対面告白。
喜ばない男子などいるはずもないだろう。無論、俺だって嬉しい。
だが――申し訳ないことに彼女の告白を受け入れられない理由が、それはそれはとてつもなく深い理由が、俺には存在していた。
「ありがとう。こんな俺なんかに好意を抱いてくれたことは素直に嬉しいし、勇気を出して手紙を書いてくれたことにも胸を打たれたよ。だけど、俺には君とは付き合えないとある特別な事情があるんだ」
「……事情? 何ですか!? 私、先輩と付き合えるんだったら何だってする覚悟がありますよっ! 髪型ですか? 言葉遣いですか? それとも……」
必死に食い下がって俺の断り文句を撤回させようとする女子生徒。
まさか、俺なんかのためにここまで言ってくれるなんて。懐に余裕さえあれば感謝の意を込めて花束の一つでも送っていたことだろう。光栄という他ない。
……だがっ!
それでも俺は、彼女と付き合うことができないんだ。
可能ならば、事情の中身については深く言及することなくこの場を去りたかったのだが。
ここまでの誠意を見せてくれた彼女に俺も最大限の敬意をもって返事をするのが礼儀というもの。
「それじゃあ、何でもしてくれるっていう条件、早速で悪いがこの場で行使してみてもいいかな?」
「えっ……あ、はい! もちろん、です」
口には出してみたものの、まさか本当に俺が何か要求をしてくるとは思っていなかったらしく、彼女はいっそう顔を紅潮させて目を泳がせた。
春特有の柔らかな風が体を通過して、草花が揺れる音だけが耳に届く。
ゆっくりと浅い息を吐いて覚悟を決めた俺は、僅かに流れた静寂を縫いながら、実に高らかに次の言葉を紡ぎ出した。
「それじゃあ、俺の妹になることはできるかな」
それは、まさに一瞬のことだった。
つい数秒前まで信号機を思わせるほどに俺への好意を表情として見せていた彼女の顔から、一切の熱が引いていくのがわかった。
恐らく、長い高校の歴史の中でもこれほどの短い時間で恋心を消滅させた男など一人としていなかったことだろう。
結局彼女は、それから一言の声も発することなく背を向けると、何か悪い夢でも見てしまったという鈍い足取りでその場を立ち去った。
「さて……と、これで明日から俺のあだ名はシスコン変態野郎に決定だな」
女子が傷つかない告白の断り方なんて義務教育で履修したことのなかった俺は、こんな不細工な方法しか思いつくことができなかった。
まぁ、ラブコメの主人公になり得る人材なんて俺じゃなくても他にたくさんいるだろうからな。出番を窺っていたキューピット様にも今回のところは臨時休業ってことで勘弁願いたい。
そんな捨て台詞を心の中で呟きながら、俺は右手をポケットに突っ込んで帰路を辿った。
通学時間徒歩三十五分、築五十年で一階建ての木造アパート。それが俺の自宅だった。
四部屋あるうちの三部屋が空き部屋になっているのは、交通の便が絶望的に悪いことと幽霊が出そうなこと、極めつけは建物名が壊滅的にダサいことに起因していた。
「……うん。やっぱりほうれん荘はないよなぁ」
正面から見たアパートの屋根下に大きく掲げられた看板の文字を見て、俺は呆れ顔を浮かべた。なんだろう。ここのオーナーは農業組合の会長でもやっているのだろうか。仮に俺の一番好きな食べ物がほうれん草だったとしても許容しがたいネーミングセンスだよ? ポパイも苦笑いしながら見て見ぬ振りしちゃうレベルだからね?
俺は吐息交じりに、これまた今にも剥がれ落ちそうな表札を半目で見送って敷地内に入ると、アルミホイルみたいな色をしたドアノブを捻った。
キィィッという音と共に見飽きた薄暗い廊下が目の前に現れる。窓の隙間から入る風の音とギシギシ軋む床の音以外に室内から聞こえてくる情報はない。まぁ、このアパートで使用している部屋がここだけだから、というのもあるがそれはさして関係ない。
いないのだ。
俺のもとに、父や母が。
離れた場所に実家があって、別々に暮らしているから? いや、違う。
家、どころか最初から、俺には両親が存在しない。
だからってわけでもないが、俺は今コンビニと食品工場のバイトを掛け持ちしていて、生きていくために日々お金を稼いでいる。
今日は、コンビニの日だ。
一息つくこともなく着替えを済ませると、俺はスクール鞄からバイト用のワンショルダーバッグに持ち替えた。
「よし、行くか……」
俺がリビングを出て玄関に向かおうとしていたそのとき。ろくな物音すら聞こえていなかった外から、軽くて落ち着いた足音がこちらに向かって近づいてくるのがわかった。
敢えてその足音の主を視認しなくとも承知している俺は、思わず口元を綻ばせた。
「ただいま」
身長約150センチ。白を基調とした制服にチェック柄のスカートと黒タイツを身に纏った栗色髪の女の子が、控えめにぽつりと呟いた。
「おかえり。未愛」
俺は間髪入れずに柔らかな声音をもってそう応じると、目尻に深い皺を刻むほどにぎゅっと目を細めた。
SNS時代全盛の昨今。綺麗な手書きの文字と色鮮やかなレターセットを用いて告白してくれるような、顔もスタイルも良い年下の女子高生からの告白を断った本当の理由――。
それがまさに、この未愛の存在だった。
探しても取り柄のひとつ見つからない俺なんかとは違う。
頭が良くて頑張り屋で、一本の真っ直ぐ通った芯を持っている。
自慢の妹だ。
たとえ、これからの俺の人生が病院食並みに薄い味付けで惨めなものになったとしても、未愛の人生さえ彩り豊かなものになり得るのならば、俺は喜んで己の存在意義を受け入れる。
だから俺は、彼女を作って呑気にデートなんぞする暇があるのならその分未愛のためだけに時間を費やしたいと。
本気でそう願っている。
「……ねぇ、お兄ちゃん? 前から聞こうと思ってたことがあるんだけど」
俺が改めて己の不動の信条を噛みしめながら目を瞑っていると、そんな天使の声が届いて我に返った。
「ん、どうした? 何でも遠慮せずに聞いていいんだぞ」
「それじゃあ聞くけど、どうしていつも学校が終わった後は決まってコレをするのかな? 私はすぐに宿題とかご飯作ったりとかしなくちゃいけなくて、そんなに暇というわけじゃないんだけど」
……コレ?
数秒心当たりを推し量ってみたがまるで検討がつかず、俺は迷子で泣きじゃくる子供でも相手にしているかのような声音をもって、至極真剣に問いかけた。
「……すまない、未愛。お兄ちゃんは出来る限り未愛が快適に生活を送れるように普段から未愛のことを考え、常に気を配っているつもりなんだが。如何せん、未愛の言うコレについて思い当たるものがない。だから、もう少し具体的に教えてもらってもいいかな?」
言いながらも、依然未愛の疑問に対して頭を巡らせてみたがやっぱり分からず、俺は神妙な面持ちで未愛の返答を待った。
すると、なぜか口から深い息を漏らした未愛は白刃の如き鋭い半目をこちらへ向けてこう言った。
「……ふぅん。あぁ、そうなんだ。お兄ちゃんは、毎日毎日私がお家に帰って来るやドリルみたいな回転力で頭を撫でまわしてくるこの振る舞いに、まったく心当たりがないと……。そう言うんだね?」
「えっ!」
俺はパッと強張っていた顔をほぐして己の右手の先に目を向けてみると、そこには未愛の指摘通り、それはもう見事なまでに洗練された動きをもって頭部を撫でまくる五指があった。
「あ、あぁなんだ! 未愛が言っていたのは頭なでなでの儀式のことだったのかぁ。お兄ちゃん、あまりにも無意識に毎日撫でてたもんだから本気で分からなかったよ! はっはっはっ!」
「あぁ、そう。これってお兄ちゃんにとっては儀式だったんだね。どうりで人間離れした手つきだと思った」
「あぁ、それで……どうして俺がいつも未愛の頭を撫でるのかを聞きたいんだったよな。それは、話せば長くなるんだが、そうだな……一言でまとめると」
「……」
「未愛が可愛いからだ!」
「……」
「間違えた。未愛が極めてとても物凄く煌びやかに可愛いからだ!」
「……」
「ほら、道を歩いていて可愛い猫が目の前に現れたら頭を撫でたくなってしまうだろ? あれと同じ現象なんだよ」
「つまり、私は猫なの?」
「いや、強いて言えば天使だな!」
「……お兄ちゃん」
「時々、未愛を見ていると背に薄っすらと真っ白な翼が生えている錯覚を見ることがあるんだよなぁ。それで、そのうち錯覚じゃなくなる日もくるんじゃないかって本気で思ったりもしててなぁ……」
「うん、もういいよお兄ちゃん。とりあえずお兄ちゃんは近々病院を受診した方がいいと思う」
「俺にとって未愛は、この世で一番大事な存在なんだ。だから、その最愛の妹とスキンシップをとるのは兄として当然のことなんだよ。いや、本当に……ちょっと前まであんなに小さかった未愛も、もう中学生なんだもんなぁ。お兄ちゃん、感慨深くて泣いちゃいそう」
俺は幼かった頃の未愛の姿を回顧しながら、フィナーレと言わんばかりに未愛の頭に乗せた手を上下左右に高速移動させて感動を表現した。
「うん。ありがとう。その気持ちは毎日十分すぎるくらい伝わってきていることは私が保証してあげるから、とにかくもう少し離れてもらえるかな。というか、本当に髪が乱れる」
「何を言ってるんだ。中学生になったからって変な遠慮をする必要はない。いくらでも俺の胸の中で甘えていいんだぞ? ほら、この前だって俺を抱きしめたときの感触がはちみつ男爵に似てるって言ってはしゃいでたじゃないか」
「うん。その名前のぬいぐるみを持っていたのは私が5歳くらいの時の話だよね。完全に時系列が迷子になっちゃってるよ」
「いや、でも……」
「お兄ちゃん。いい加減にしないと、冷蔵庫にある賞味期限ギリギリの食材全部今夜食べてもらうよ?」
「っ、それだけはご勘弁を」
「まぁ、食べ物を粗末にするなんてもってのほかだからね。どのみち何日かに分けて二人で食べることにはなるんだけど」
言いながらぽんぽんっと手で髪を元の状態に戻すと、未愛はやれやれという表情でリビングへと消えていった。
俺は音のしない息をそっとこぼすと、未愛のスクール鞄の中から覗く数種類の薬をじっと見下ろした。
俺が普段から未愛と過度なスキンシップを試みているのは、半分が純粋に兄妹の絆を深めるためだが、もう半分は別にある。
未愛は、生まれつき体が弱かった。全力疾走はもちろん、長い距離を歩くだけでも人の倍は体力を消耗して息切れが止まらなくなってしまう。俺は、そんな未愛の体調が崩れた時を見逃すことのないよう普段から気を張っている。
つまり、断じて俺がシスコンだからベタベタしているわけではないのだ。断じて。
とはいえ、未愛の体を心配する余り最近ではすっかり塩対応。まぁ、これも未愛が大人に成長してきたってことだから喜ぶべきことなんだろうけど。やっぱりちょっと寂しい。
俺は大人げなくもしゅんと丸くなりながら、家を出ようと靴を履き直す。時間も迫っていることだし、未愛とのスキンシップは仕事が終わるまで我慢するとしますか。名残惜しくも、俺が靴ベラを戻して立ち上がったそのとき。
「バイトいってらっしゃい。遅刻して他の人に迷惑かけないようにね」
「!?」
背後から、予期せぬ声が掛けられて勢いよく振り返ると、そこにはエプロン姿で控えめに手を振る未愛が立っていた。
俺はあっという間に曇り空が晴れたような顔に変わって扉を開けると、「行ってきます!」と言って手を振り返した。
確かに俺には、恋人もいなければ両親すらいない。傍から見れば薄幸で気の毒な奴だと思われるかもしれない。だけど、未愛さえいれば……俺は胸を張って幸福と言える。どんなことでも頑張ろうと思えるんだ。
「ふぅっ……」
仕事を終えて店を出ると、夜空は厚い雲にどんより覆われて蓋をされているみたいだった。
薄暗い路を歩きながら、俺は蓄積した疲労を吐息に溶かす。
目線を落とすと、歪な形状をした二つのコンビニ袋が、俺の歩みに合わせてシャワシャワと音を発していた。それを見て、口角が微かに持ち上がる。
品出し、レジ、たばこ販売、コーヒー提供、雑誌梱包、カウンター総菜調理、公共料金及びチケットの支払い。挙げれば尽きない数の仕事があるコンビニバイトを、俺が敢えてバイト先に選んでいるのには理由があった。
それが、この袋の中に入っているたくさんの弁当や総菜。
うちの店舗では、廃棄商品を出さないための取り組みとして、賞味期限が間近に迫ったものや売れ残った商品をスタッフが格安で購入することができるシステムを導入している。
圧倒的貧乏学生である俺が、こうしてはち切れんばかりの品を携えることなど、この機会を置いて他にない。お腹いっぱいご飯を食べられること。正直、これ以上のありがたい恩恵はなかった。
そんな影の報酬に対して俺がビニール袋の中を覗き込んではにやついていると、
「ん?」
ゴソッ、と物音にしては深い質の響きが大通りの脇にある隘路から聞こえた。
(そういえばこの道ってうちのアパートまでの近道だったっけ)
以前時間に余裕がなかったときに一度だけ通ったことがあったのを思い出して、俺は何の気なしにその進路へ転換した。
街灯は届かず、きちんと整備がされていない細道に足を取られそうになりながら慎重に歩みを進める。
小道に入る前の物音は、てっきり野良猫かカラスの類が発したものだと思っていたのだが、目を凝らして前方を見てみると、動物ではない何かのシルエットが目に映った。
不思議だったのは、俺と同じように近道として利用しているのではなく、影の主はその場に立ち止まって何かをしていたこと。
ゴクリ。
俺は喉を鳴らし、できる限り足音を響かせないように忍び足でその影との距離を詰めていく。
タイミングが良いのか悪いのか、俺が大きな影だと思っていたその正体を、人間二人の影だったのだと判別できるくらいには近寄ることができたとき、ずっと厚い雲に隠れていた月明りが細道に射した。
瞬間。
「……」
俺の息が、数秒止まった。
二つあった人影のうち、一つは会社帰りのサラリーマンと思われる三十代前後の男性のものだった。素人目にも容易に致死量を超えていると断言できる血液が水たまりみたいにドクドクと地面に広がっていた。
そしてもう一人は、その男性の死体を見下ろしたまま、刃渡り20センチはあろうナイフを手に持ち、涼しい顔で佇む少女だった。
俺が次に震える喉でぎこちなく息を吸い込んだとき、不気味なくらい綺麗な光を宿した彼女の瞳と目が合った。
一瞬にして全身の水分が蒸発してしまったんじゃないかってくらいに、背筋が寒くなった。
永遠にも思える数秒の邂逅の後、俺は全身に力を込めて体の向きをぐるっと反転させた。そして、たった今来た道を全力で駆け戻った。
「はぁっ! はぁっっ!」
背後から追いかけてきているかなんて確認する余裕もないくらいに必死で、俺はその場からの逃走だけを考えて足を回した。
すると、そのときだった。
「気を付けてください。未愛が死にますよ」
それは、吐息に紛れただけの微かな声だった。けれど、耳元で囁かれたみたいな得も言えぬ不気味さも同時に纏っていた。
俺はぎょっとして、走りながら反射的に背後を見返った。
幸い、俺の予想に反して後を追いかけてきてはいないようだった。ただ、その代わりと言わんばかりに、少女は意味ありげな色を浮かべて微笑んでいた。
どうして未愛の名前を知っている?
死ぬってなんだ?
うちの高校とは違う制服を着ていたから知り合いではないはずだよな?
瞬間的に噴出する様々な疑問を抱きながらも、俺は混乱する頭でスマホを取り出した。
『はい、110番警察です。事件ですか? 事故ですか?』
「はぁ……はぁっ……じ、事件です。パーカーを着た女子高生が、男の人を殺していました」
『落ち着いてください。えっと……男性が、女子高生を殺害していたのですか?』
「いや、違います! 女子高生が、ナイフで男性を殺していたんです」
『……分かりました。現在どこにいますか?』
それから俺は、大通りにある標識を確認して細道の具体的な場所を伝えた後、膝に手をつきながら電話を切った。
しかし、俺は呼吸が十分に整うのを待つよりも先に再び走り出した。
『気を付けてください。未愛が死にますよ』
走り続けて生じた汗とは別種のものが皮膚を伝う。
俺は今、アパートへの近道であるさっきの細道から逆走してアパートに向かっている。つまり……考えたくはないが、いや、本当に有り得ない話だが、俺があの場を離れたあと、もしもさっきの人殺し女が間を置かずにアパートに向かっていたとしたら――。
「……ぐぅっ!」
俺は眉間に皺を寄せながら、じんじんと痛む足に鞭を打ち、さらに速度を上げて未愛のもとへ疾走した。
ようやくアパートを視界に捉え、一階の空室を走り抜けて最奥の101号へ向かっていく。
と、そのとき。
俺の両腕から筋肉が削り取られてしまったかのように、食品が詰まったビニール袋がドサッと地面に滑り落ちた。
俺が息を呑んで立ち尽くしたのは、外側に取り付けられている窓から、101号室の部屋の明かりが確認できなかったから。
まさか、嘘だろ――。
俺はじっとりと汗ばんだ手を思い切りドアノブめがけて突き出すと、ガチャガチャ扉の音を立てながらポケットから鍵をまさぐった。
数度鍵を鍵穴に入れ損ないながらもようやく扉を開けると、俺は靴も脱がずになだれ込むようにリビングまで駆け込んだ。
「未愛っっ!」
俺が荒げた呼吸音を響かせながら視線を左右に動かすと、部屋の隅で膝を抱えながら震える未愛を視界に捉えた。
「未愛っ大丈夫か!? もしかして、俺がいない間家に、誰か来たのか?」
「……き、来た」
「えっ!? だ、誰が……まさか、フードを被った女子高生だったんじゃ――」
「……いや。大家さん」
「……お、大家さん? ど、どういうこと……」
「少し前に、このアパートで停電が……起きたの。それで、原因が配線の接触だったから、少しの間電気が使えなくなりますってさっき言いに来てくれて」
俺は、それを聞いて全身の力が一気に抜けたように床に膝をついた。すると、ちょうど電気の復旧が完了したらしく、家の中の照明にあかりが灯った。
「……そっか。じゃあ、誰か知らない人が来たりはしてないんだね。……よかった」
「よくないよっ!」
普段未愛が滅多に上げない大声が聞こえて、俺が少なからず驚いていると、潤んだ瞳を向けてこう言った。
「もっと……早く帰ってきてよ。ずっと暗い部屋に一人きりで、本当に……怖かった」
俺はその言葉で自分がとても大事なことを忘れてしまっていたことに気付いて、すぐに猛省した。
実は、未愛には過去に起きた辛い出来事が原因で抱えているトラウマが存在する。
夜闇の中を二人で懸命に逃げたあの重い記憶が、暗所恐怖症という形で未だに未愛の精神を蝕んでいる。だから、未愛は尋常じゃないほど震えていたんだ。
「ごめんな、未愛。これからはもっとバイトから早く帰ってくるようにするから」
「……うん」
俺は心からの謝罪を述べた後、未愛の体を優しく抱きしめた。
夕食後の片付けと風呂を済ませてからリビングに戻ると、皺ひとつない状態に畳まれた服の横に、ころんと猫みたいに転がる未愛が、既に深い寝息を立てて目を瞑っていた。
俺は音を立てないようにゆっくり布団に腰を下ろすと、「ふぅぅっ」と深い息を吐いた。
今日は、普段起きないようなことが立て続けにあったから疲れた。
ほのかに香るシャンプーとまだ乾いて間もないぬくもりに包まれた未愛の髪を撫でながら、俺は心の中でそう呟いた。
未愛は、本当に良い子だ。うちの高校のクラスメイトと比較してもお世辞なんて抜きに未愛以上に出来た人間はいないと断言できる。
――それでも。
『一人きりで、本当に……怖かった』
昔のトラウマのことを含めて、この屈託のない寝顔を見ていると、やっぱりまだまだ子供なんだなと感じる。未愛のことは、何があっても守ってあげないといけない。
俺は改めて、強く心に誓った。
「んっ……」
翌朝。重い体を起こしてゾンビみたいな挙動をしながらふらふらシャッターを上げると、太陽の過剰な光に全身が包まれた。
カラカラ、と窓を開けるとアパートに隣接したどこかの家から風に乗ってきた香ばしいパンの匂いが鼻腔をくすぐった。条件反射的に腹の奥からきゅるると動物の鳴き声みたいな音がする。
朝ご飯を食べるかと思い立ってパジャマを脱ぎかけたとき、そういえば――と視線を下方に移した。未愛が眠る、布団の方に。
いつもなら、俺が目を覚ますころには朝食を準備してくれているか、狭いベランダで育てているミニトマトの世話をしているのだが、今日はまだ布団にくるまってダンゴムシになっている。
それが少し、気になった。
「未愛、どうした? 今日は珍しくお寝坊か?」
俺が膝に手をついて見下ろしながらそう呼びかけると、一拍置いてごそっと掛け布団が揺れた。
「もうちょっと……寝てたい」
ぴょこっと寝ぐせだけが布団の隙間からのぞく様は、なんだか新種のカブトムシみたいだった。というか可愛すぎる。
「なんだなんだ~今日はお兄ちゃんに甘えたいデイか?」
「そんなんじゃ……ないけど。朝ご飯、もしよかったら食べさせてくれないかなって、思って」
「み、未愛……っ!」
とうとう、俺の未愛を想う熱い気持ちが伝わったんだな! お兄ちゃん、泣いちゃいそうだよっ!
「よしっ、お兄ちゃんに任せておけ! うわ、となると朝ご飯は昨日の総菜三つくらいアレンジして超豪華なやつ作っちゃうか? いや、それとも前に近所の人からもらった高級缶詰でなんちゃって海鮮丼にしたほうがいいんじゃないか?」
「……お兄ちゃん。盛り上がってるところ申し訳ないんだけど、冷蔵庫に入ってる賞味期限間近のヨーグルトだけで、いいから。朝、そんなに食欲ない」
結局その朝は、以前から密かに抱いていた願望。未愛にしてあげたいことランキング第二位である『あ~ん食べさせ』を見事叶えることができ、俺は満面の笑みで家を後にした。
そのうえ、よほど昨日の停電が尾を引いてしまっているのか、未愛は学校に向かう道中まで俺の制服の袖を掴んだまま、ぴったりと足並みを揃えて隣を歩いた。
中学校に入学して、よもや兄離れなんてことにならないだろうなぁ。そんな心配をしていたが、ただの杞憂だったみたいだ。
はぁ……なんて、幸せな朝。
俺が可愛い妹とのスキンシップに惚けながら目を細めて噛みしめていると、未愛は少しだけ俯き加減になってから小さく呟いた。
「……ねぇ、お兄ちゃん。今日も学校が終わった後バイトがあるんだっけ」
「ん、あぁ、そうだよ。今日は別のバイトでシフトの時間が早いから学校から直接行くことになるかな」
「……そっか」
なんだ? やっぱり俺がいないと寂しいのかな? なんてことを、ますます緩んだ顔をしながら思っていると、未愛は続けてこう言った。
「……じゃあ、いつも通りお料理と洗濯は私に任せてね。お兄ちゃんが……いつも頑張って働いてくれているおかげで、私が生活できてるってこと、ちゃんと感謝してるから」
「未愛……」
「いつも……ありがとう。お仕事だから遅くなるのは仕方ないけど、出来るだけ早く帰ってきてね。ご飯は、やっぱり一緒に食べたいから」
未愛はそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべると、タタタと小走りで先へ行ってしまった。
「……ははっ」
嬉しいを通り越して、なんだか泣きそうだった。
本当、俺にはもったいなさすぎる妹だなぁ。
朝からあまりにも幸せ過多で、未愛が普段以上に甘えてきたのは、買ってほしいものがあるからとか、何か理由があるんじゃないかなんて、考えそうになっていたけど。
それは、照れ臭さを抱えつつも俺に日頃のお礼を言おうとしてくれていたからだったんだな。
俺は脳内の微かな靄を短く吐き出して笑みに変えると、弾んだ足取りで高校への歩みを再開した。
それから俺が学校に着いたのは、始業開始の五分前だった。
間もなくして朝礼が始まると、今年度の週間時間割が配られた。俺がそれを眺めながら、想像を超える授業の科目数に目を丸くしていると、「早速今日から時間割通りの六時間授業が開始されます。皆さん是非しっかり取り組むように」という落ち着いたトーンの担任の声を聞いていっそう顔が歪んだ。
バトンタッチで担任から数学教師に入れ替わると、間髪入れずに一限目が開始した。
音楽や美術等の副教科という逃げ道すらなく、テトリスのように疲労という名のブロックが積みあがった状態で迎えた午後、五限目。
午前中の授業の時点で、既に体力ゲージには赤ランプが点灯していたため、昼食を終えた直後のこの時間は疲労と眠気がピークを迎えていた。
必要以上にパチパチと瞬きをしたり、やや痛いくらいの力で頬をつねったりと一応の抵抗を試みるが、徐々にその意志も薄まっていく。
ジャーキングが始まり、眠りと覚醒の境界があいまいになっていく中、俺の注意は授業とは別方向に巡る。
車酔いの際に講じる遠くの景色を見るときよろしく、眠気覚ましにも効果がないかなーなんて期待をしつつ、窓の外に目をやった。
体育をしている豆粒みたいな生徒。
白い飛行機雲の筋を引く旅客機。
風に揺れてサワサワと奏でる名前も知らない木々。
学校から見える外の世界すべてが、緩やかに俺の意識を奪ってまぶたを下ろしにかかってくる。
「あー、やべ」
板上を叩くチョークの音と教師の声だけが響く穏やかな空気感の折、俺の眠気もとうとう限界を迎えそうになっていた。
そのとき。
突如として、昼下がりの安穏たる静寂は破られた。
――――ダンッ
大太鼓を打ったような爆音に、教室にいた生徒……どころか授業をしていた教師までもが驚愕の表情で音のした方を振り向いた。頬杖をついて入睡しかけていた俺も、瞬刻遅れて皆の動きに続いた。
音は、教室前方の扉が勢いよく開いて発せられたものだということに気が付いた。
恐らく全力に近い速度で走ってきたんだろうというのがわかる荒い呼吸で、その学校事務職員は仁王立ちしていた。
右に左に何度か首を振った後、なぜか俺の方を見てピタッと動作が停止した。
でも、次に発せられた言葉を耳にした瞬間。
俺の方――ではなく、その先生は紛れもなく俺に視線を送っていたんだと思い知らされることになった。
「有瀬碧君! 君の妹の未愛さんが、学校で倒れたそうだ」
空気の振動が鼓膜に到達するスピードと、先生の口の動きが一瞬、ぶれたような気がした。
……ぶれたのは、俺の視界の方だった。
それからのことは、よく覚えていない。
知らせに来た先生に連れられて車に乗せられた後、「大丈夫だからな」「きっと助かる」みたいな励ましの言葉を運転席からたくさん呼びかけてもらった気がする。
でも俺は、項垂れながら助手席で親指の第一関節に浮かぶ皺を見ることしかできなかった。
――そして気付けば、俺は薄暗い待合室のソファに座っていた。
水面に浮かぶ藻みたいな色をしたソファは、いやに冷たい質感でぼんやりと俺の嫌悪感を募らせた。
そういえば、あの人はどこに行ったんだろう。
俺は送ってくれた先生がいなくなっていることに今さら気付いて、格好だけ辺りを見渡した。
「あ」
まぁいいや、と上げかけた腰を早々に下ろしたとき。
「じゃあ、先生は学校に一度戻るけど、もし自分だけで家に帰れそうになかったり何かあったときはすぐに連絡しなさい。いいね?」
病院に着いてからすぐの頃、先生がそう言い残していたことを思い出した。
「…………」
なんだろう。
さっきまで半睡半醒だったせいか、びっくりするくらい現実感がない。
初めて乗ったプリウスの匂いから、助手席のシートの感触、先生が話していた声音も、病院にいる俺の存在も、全部。
このままじんわりと暗闇に包まれてフェードアウトしていくんじゃないかな。待合室という空間ごと、ポッカリ。
『有瀬碧さん。三番診察室にお入りください』
俺がそんな希望的観測にも満たない妄想に身と意識をゆだねていると、現実世界からのお告げを思わせる無機質な院内放送が降り注いだ。
なんとなく命令に従うような心地になるのが嫌で、自分なりの間を置いてから席を立ちあがった。
学校の鞄を手に取り、数歩進んで腕を伸ばす。
ピトッ。
金属質の手すりの冷たさが波紋のように広がって、心の温度をも下げていく。対照的に俺の嫌悪感は増幅した。同じくらい、不安感も。
中へ入ると、俺はどっしり待ち構える医師の顔を出来るだけ見ないようにして丸椅子に座った。
ギシッ、と軋む音だけが響く。
ああ、嫌だ。
病院って、こんなに不快な場所だったっけ。
薬品の匂いも、息の詰まる間も、椅子の冷たさも、全てが俺の神経を逆撫でるために用意されている気がしてくる。
早く、未愛の情報を教えろ。
と、思うのと同じくらいもう少し心の準備をさせてくれ、とも思っている。
そんな俺の矛盾した心情を知る由もない医師は、気を遣ってか遣わずか、第一声にこう告げた。
「単刀、直入に言います」
心臓が、嫌な具合に跳ねた。
前置きというのは、敢えてそうする必要があるからするのであって、大したことない物事に関しては使用しないという暗黙の了解がある。
つまり、前置きをしなくてはならないレベルの宣告がこれから言い渡される。
息が、走ってもいないのにリズムを乱す。
痛いのに、太腿を掴む指の力を弱めることができない。
頭の中が、マイナスの感情に掌握される。
そして――
「末期の心不全です。有瀬未愛さんの命は、もう長くありません」
悪寒の上位互換のような凄まじい寒気が、全皮膚上に轟いた。バッテリーの切れたパソコンの画面みたいに真っ暗になった思考回路で、俺は絶望の色をべったり貼り付けた顔を上げた。
数秒前に俺の聴覚器官が壊れてしまって、途方もない聞き間違いをしてしまった。そんな夢みたいな可能性にすがりたかったのかもしれない。
でも、上体を起こしてわかってしまったことが一つだけあった。
医者の顔が、目が、口が、表情のすべてが、さっきの発言をどうしようもなく真だと訴えていた。
それから、長かったのか短かったのかもわからない説明を終えた後、俺は医師に案内されて有瀬未愛と書かれた札のかかった病室に通された。
ゆっくりと扉が開けられて、中へ入るよう手振りを受ける。
震える足で踏み入ると、部屋の端に置かれた大きなベッドが目に入った。掛け布団が僅かに盛り上がっていて、誰かが寝ているのが見て取れる。いや、誰かが……じゃない。未愛が寝ているんだ。
顔を見るのが怖くて俺が立ちすくんでいると、背部の扉の方が先に閉まった。
元々静かだった空間から、些細な音までもが消失する。
意を決して一歩、一歩、ベッドに前進していく。
基本性質が面倒くさがりで飽きっぽい俺には、習慣というものが存在しない。起床時間もバラバラ、風呂も毎日入るわけじゃないし、日記の類いも書かない。
しかし、そんな俺が唯一……続けている行動があった。
それを見るだけで、未愛は今日も幸せに過ごすことができた、守ることができたんだと実感が湧く。
起こさないように細心の注意を払いながら、頭を撫でる。一回撫でる毎に、その日起きた出来事の疲労とか悩みとか色んなものが浄化されていく。
天使のように穏やかな、平和の象徴ともいえる未愛の寝顔を見ること。
それが、最上の幸せルーティーンなんだ。
――足が、止まる。
これまでの長い人生で、俺は一体どれだけの回数未愛の寝顔を見てきただろうか。何百、いや何千を悠に超えるだろう。
でも、今俺の眼下にある顔は、そのどれとも異なっていた。
一定の間隔で漏れる大袈裟な呼吸音と口元を覆う大きな酸素マスクが、ベッドに横たわる女の子の重篤性をどうしようもなく物語っていた。
「………………未愛っ」
学校の教室で知らせを受けたときからバカみたいにずっと欠落していた現実感が一挙に攻め寄せてきた気がした。
故意的に白黒を見ていた瞳の映像に、現実の色が付いていく。
夢じゃない、夢じゃないんだ。
だってこんなの……。
こんな辛そうに歪んだ未愛の寝顔が、俺の夢に出てくるはずがない!
『有瀬未愛さんの命は、もう長くありません』
俺の中で現実が蘇った瞬間、さっき医師が告げた言葉が再度脳内で繰り返される。
体内にある五リットル弱の血液が全て流れ出てしまったんじゃないかってくらい、全身から力が抜け落ちた。
膝から崩れるようにへたり込んだ俺は、そのまま床に額をくっつけた。
普段割と潔癖だと自負している俺が、そうすることでしか正気を保つ術を思いつかなかった。
「あ……っ。ああ、あぁあ。あああぁああぁああぁぁあぁああああああああ!」
叫びながら、俺の頭には今朝の未愛との映像が蘇っていた。
思えば、今日の未愛は様子がおかしかった。
俺より遅い時間まで布団の中で寝ていたり、普段より顔が赤くなっていたり、それ以外にも……。
『そんなに食欲ない』
『なんだなんだ~今日はお兄ちゃんに甘えたいデイか?』
『いつも……ありがとう。お仕事だから遅くなるのは仕方ないけど、出来るだけ早く帰ってきてね。ご飯は、やっぱり一緒に食べたいから』
……なんでだ。
どうしてもっと未愛のことを注意深く見ていなかったんだ。気付くチャンスなんか、いくらでもあったのに!
自分に対する怒りの感情がほとばしり、それが歯噛みによるギャリッという鈍い音になって顕れる。
未愛は、昔から子供とは思えないくらい現実主義で芯が強い子だったけど、選択を迫られた時は必ず、自分のことよりもまず相手を第一に思いやる性格だった。多分……それは今日も同じで、俺に心配かけないように敢えて弱音を見せずに振舞っていた。
俺はそれに、気付けなかった。
「…………くそぅっ」
激情に駆られて高熱を帯びた言葉を吐き出した俺の額から伝わる床の温度は、やっぱりとても低かった。
世界中のどこにもいたくなかった。
未愛が傍にいてくれれば、俺は世界のどこで暮らそうと構わない。未愛さえいれば、そこが都だ。
でも未愛のいない世界なんて、どんな立派な宮殿だろうと自然が豊かな場所だろうと、俺にとっては地獄も同じなんだ。
面会時間が終了して病室を出た後、俺はどうしても未愛がいる場所から離れられなくて。逃げるようにふらりと非常口の階段をのぼった。
そもそもこの病院には何階まであるのかすら知らなかった俺は、何を考える訳でもなく、ただただ外には出たくないという一心で上を目指した。
やがて、8階に到達したところで立ち入り禁止と表記された三角コーンが行く手を阻むように置かれていたが、躊躇いなく先へ進んだ。
「階段は、ここまでか……」
最上階まで行き着いた先にあったのは、何の変哲もない銀色の扉だった。
もしも施錠されていたらトイレにでも籠って明日の面会時間まで息を潜めなくちゃな……。そんなことを漠然と思いながら手を伸ばしてみると、意外にもドアノブはあっさりと回った。
扉を引くや強い風が吹き込んできてバタバタとカッターシャツが音を立てる中、無表情を貫いていた俺の眉が、ふいにピクリと動いた。
深緑色の人工芝が敷き詰められた広々とした空間にポツンと、まるで待ち構えていたように佇む人間の影があった。
夜目に慣れるまでの数秒、俺の背につうと冷や汗が伝う。
当たり前だ。病院関係者にでも見つかってしまえば、未愛との面会時間を制限されたり、最悪出禁になってしまうかもしれない。
前だけを向いたまま俺が石になって固まっていると、ようやくその姿を捉えることができた。
結論から言うと、その人物は医療関係者でもなければ警備員でもなかった。
しかし、俺は無意識に息を止めて目を見開いていた。
『気を付けてください。未愛が死にますよ』
昨夜バイトの帰りに目撃した殺人現場。
今目の前に立っているその人物は、まさしく血まみれのナイフを握りしめて見下ろしていたあの殺人犯と同一人物だった。
「お前……は、どうして。昨日確かに、俺が警察に通報したはずなのに」
動揺のあまり掠れきった震え声は、ありありと俺の恐怖心を露わにしていた。
しかし、動揺が色濃く滲んだ俺の声を聞いても尚、パーカー姿の少女は平然と閉口するばかりだった。
場に流れる異様な静寂はべったりと張り付くように漂っていて。
武器も心得もなく殺人犯と相対している俺の心臓は、バスドラムの如く身体中に鳴り響いていた。
生まれてこの方まともに喧嘩すらしたことのない俺にとって、普段ならば耐えがたい緊張感だった。
だが、今の俺にはその恐怖を上回るほどの圧倒的な怒りが沸き上がっていた。
「今日、俺の妹が学校で倒れた。余命は……三ヶ月だと」
気付けば、俺は激情で高温に熱された想いの粒を口から吐き出すように声を発していた。
「……なぁ、おい。どういうことなんだよ。お前、確かに言ってたよな? 未愛が死ぬって。……ずっと未愛の傍にいた俺でさえ全く気付けなかった未愛の病状を、どうしてお前が知っていたっ!?」
乾いた銃声みたいな叫び声が、夜のしじまに轟いた。
女は依然無表情のまま鋭い眼光だけをこちらに向けると、ようやくその重たい沈黙は破られた。
「3ヶ月以内――ではありません。36日。有瀬未愛は、今から36日後に死にます」
声量としてはそんなに大きなものではないはずのに、いやに彼女の声は俺の耳にはっきりと届いた。
そして、不気味なまでに断定的なその内容は〝予想〟というより〝予言〟に聞こえた。
だからか、俺は次の言葉を紡ぐまでに一瞬の怯みを帯びた間を挟んだ。
「な……にを言ってるんだお前は。どうしてそんなことがわかる? 大体、お前は昨日あの場所で何をしていたんだ? 今日、こうして俺に近付いてきたのも、目撃された証拠を隠蔽するためなんじゃないのか!?」
俺が募らせた不信感を放出すると、彼女は問答に返事をする代わりにくるっと背を向けた。
「おい、ちゃんと質問に答えろ。そんな何の根拠もないデタラメを信じられるとでも……」
俺がそう声を上げていると、おもむろに一歩、また一歩と何もない端へ向かって足を踏み出し始めた少女。
「?」
俺は眉根を寄せてその後ろ姿に見入っていると、やがてある地点に達したところで立ち止まった。
それは、僅かでもバランスを崩せば即座に地上へと落下してしまうことが瞭然の際。屋上角のパラペットの上だった。
一体全体目の前の女は何をしているのかと、本気で困惑しながら息を呑んでいると。
「じゃあ、私先に行くので……運が良ければまた会いましょう」
手をひらひらと振りながら、まるで放課後の帰り道に発されたような調子で俺の耳に届いた。
「は? いや、お前何言って……」
言いながら、瞬きを開始して次に開くまでの刹那。
眼前から人間の姿が魔法みたいに消失していた。
数秒、何が起こったのか本気で分からなくて。
屋上に吹き込んだ冷たい風が肌を撫でた感触で、遅れて俺は叫び声を上げた。
「おいおいおいおいおいおいおいっ! 嘘だろぉっ!?」
脳内が信じられないという感情一色に染まりながらも、地面を蹴って屋上の端へと一直線に駆け寄った。
滑り込むように身を乗り出して下を覗き込んでみると、建物の周りをぐるりと囲った背の高い木々のせいで少女の安否を視認することは難しかった。
「……くそっ、とりあえず……なんだ。救急車を呼ばなくちゃいけないから、電話を探さなくちゃいけないのか。施設内のどこかには公衆電話があるだろうが、誰かに見つかる訳にはいかねぇし……。って、俺は馬鹿か! そもそも今いる場所が病院じゃねぇか! あぁ、もう畜生っ!」
俺は混乱した頭でこれ以上考えることを止めると、非常口の扉から一気に階段を駆け下りた。
即死したことが明らかな状況ならともかく、木がクッションになって致命傷を免れた可能性がある以上、見て見ぬ振りをする度胸は俺にはなかった。
肩で息をしながら薄暗い非常口を抜けて外に出ると、屋上からは見えなかった街路一帯が視界に映った。
ごくひっそりとした交通量の通りには、車どころか通行人の一人も見当たらず、不気味なほどに静まり返っていた。
だからこそ。
俺の眼差しは滑ることなくある一点に注がれた。
もはや、疑いようもなかった。
アスファルト舗装された弁柄色の地面には、トマトが爆ぜたような多量の血だまりが流れていて。うつ伏せのままピクリとも動かない少女は無残にも路上に横たわっていた。
これ以上ないほど生々しくグロテスクな人間の死。
俺は唖然としながらぶる、と小さくない身震いを起こした。
でも、それは殺人を犯した女が自ら飛び降りたことに対してでも、凄惨な光景を目の当たりにして怯んでしまったからでもない。
未愛が、本当に医者の宣告通りになってしまったら……そう想像すると、無意識にその姿を重ねてしまっている自分がいた。
鈍い音が響くくらい歯を食いしばりながら、俺は歪みきった顔でその場に立ち尽くした。
病院に戻ることも、即死した正体不明の女を警察に通報することも、何も……する気が起きなかった。
やがて立っていることさえも難しくなった。
全身の力が抜けたようにアスファルトの上に膝を落とすと、悪魔のような現実から逃げるように目を瞑った。
「夜にこんな場所で寝ると、風邪を引きますよ?」
――それは、女性の声だった。
ぐったりと項垂れていた俺が反射的に顔を上げて声のした方を見てみると、
「あ~、この方法余計な説明を省けるから利点は大きいんですけど。いちいち服がダメになるのがネックなんだよなぁ」
それは、明らかに致死量を超えた血だまりの上で、平然と立ち上がりながら砂埃を払う少女の姿だった。
「えっ、おま、お前……はっ? だって今さっき、屋上から飛び降りて確かに死んだはずじゃ……」
俺は瞳の奥にグッと力がこもるのを感じながら、何度も瞬きを繰り返した。
そんな狼狽する俺とは対照的に、飄々と佇む彼女は至って涼しげにこう答えた。
「だから言ったじゃないですか。また会いましょうって? まぁ、時々失敗して数日意識ぶっ飛んじゃうことがあるから賭けでしたけどね。結果オーライ~ってとこかな。ていうか、実際こうでもしないとあなたみたいなタイプは私の話をまともに聞こうとすらしないでしょうから。むしろ私の献身に感謝してほしいくらいですね」
……一体、何なんだ。
殺人現場を目撃したかと思えば、急に屋上から飛び降りて、血まみれになりながらも平然と会話をしている。
「……」
俺がただただ呆気に取られて思考の停滞を余儀なくされていると、コツコツと甲高い足音を鳴らしながらこちらに向かって近づいてくるのが見えた。
距離にして2メートルを切ったとき、その人物はピタリと足を止めると、ずっと目深に被っていたパーカーのフードをおもむろに取り払った。
「……じゃあ改めて、自己紹介といきましょう。私は、転生委員会の時雨ミライです」
至近距離で顔を合わせてみると、彼女の謎めいた印象をより際立たせた容姿をしているなとと強く感じた。
幼げな顔立ちとは対照的な大人びた表情が、彼女だけの特異的な雰囲気を形成している。そして、この夜闇に溶け込む黒色のパーカーを身にまとっているせいか、肩先までかかった髪と透き通ったような肌の白が光ってさえ見えた。
同年代でここまであからさまな美人と距離を詰めた経験などなかった俺は、無意識に声を殺して目を奪われてしまっていた。
そんな俺をよそに、女は表情を一切変えることなく口を開くと無機質な声でこう続けた。
「単刀直入に申しましょう。あなたの妹、有瀬未愛は来世を選択する権利を有している。それは死後の、新しい人生における話です」
転生……委員会?
来世の選択……?
まるで、安物のイヤホンを耳に装着しているような、ひどく現実味の薄い言葉を聞いている気分だった。
「しかし、当の本人は昏睡状態。これから先の死ぬまでの時間もずっと、彼女は一度も目を覚ますことはないと既に判明している。そこで、最も彼女に近しい存在であるあなたが来世選択の代理者として選ばれたというわけです」
初めて目の前の少女に出会ったときからそうだった。
彼女からは、僅かほども冗談の匂いがしなかった。
一般的な常識を有していれば、到底信じられない内容を淡々と告げてくる。
俺は目頭を押さえながらギュッと一度目を瞑った。
「いや、いやいやいや。それでもやっぱりありえねぇ。未愛が後一ヶ月で……なんて。大体お前、未愛のこと何も知らねぇくせに適当なこと言ってんじゃねぇよ! 突然現れて、転生委員会だなんて意味不明なもん名乗りやがって」
俺はじんわりと目尻に溜まった涙を拭いながら、女を睨みつけた。
「どのみち本当に転生なんてもんがあったとして、未愛がこの世からいなくなることには変わりねぇんじゃねぇか。そんなの、これっぽっちも意味ねぇんだよ! わかったらとっとと俺達の前から消えろ! 二度と現れるんじゃねぇっ!」
肩で息をしながら彼女を一瞥してみると、目元に影を落として俯き加減に佇んでいるのが見えた。
もう、これ以上この場に留まる必要はないな。
俺が胸中でそう呟きながら踵を返そうとしたそのとき。
彼女が小さく吐き出した息の音が俺の動きを止めた。
「分かりました。それじゃあ手続きはすべてこちらで行っておきますので、胸元のそれ……少しお借りしてもいいですか?」
彼女が指さした先に視線を流すと、制服の胸ポケットに差していたボールペンのことを言っているのだと分かった。
「……」
少しだけ、どうしようか迷った。
これ以上余計な問答をしたくなかったし、何より早くこの場を離れたかった。
しかし結局、いつぞやに百均で購入したボールペンを手に取ると、俺は警戒心を維持しながらも彼女に手渡した。
「ありがとうございます」
彼女は微笑み交じりにそう呟くと、ボールペンをカチッとノックして芯を出した。
懐から何やら書類のようなものを取り出すと、さらさらと記入を開始した。
「あ、そういえば……誤解のないように付言しておくと、私はあなたと同じ人間ですよ?」
「は?」
前触れもなくそんなことを口にした彼女に意表をつかれた俺は、反射的に短い声を上げた。
「確かに、一見すると私のことは不死身のように見えるかもしれませんが、実のところはまったく別物なんです。生と死の受け渡しをする存在だから死という概念そのものが我々にはないだけで。死に直結しないような怪我は残るし、痛覚もちゃんとあるんです」
聞いてもいない話をペラペラと話始めた女を怪訝な目で見下ろしていると。
「だから……」
そんな歯切れの悪い言葉を皮切りに、彼女はつと握っていたボールペンをくるっと半回転させた。
それからのことは、ほんの一瞬の出来事だった。
彼女は逆手に持ち替えたボールペンを握りこむと、信じられないことに自らの胸元を勢いよく突き刺したのである。
「ぐうっあぁぁぁぁっ!」
血を吐くような絶叫が夜気を引き裂いた。
突き刺した箇所からはじんわりと赤い染みが滲み出していて、傷口が決して浅くないことを示唆していた。
苦悶の表情を浮かべて身をよじるその姿は、捌かれる寸前の魚を思わせるほどに尋常ならざる様相だった。
俺は声を出すことも忘れてその奇行を眺めていると、彼女は声に笑みの気配さえ漂わせながら言った。
「……さっき、私言いましたよね? 死ぬことはなくても、怪我はするし痛覚もあるって。だから私は、これから死なないギリギリの段階を見計らって体を刺し続ける。あなたが、転生委員会に協力するという言質をとることができるまで」
狂気の沙汰とも思える彼女の発言は、俺の脳をビリビリと痺れさせた。
もしかしたら、何かしらの武器を用いて強行策に打って出るかもしれない。
そんな想像は、念のため頭の片隅に残してはいたけれど。
よもや俺から借りたボールペンを使って自分自身を傷つけるとは……。その行動を交渉の材料にしてくるとは夢にも思っていなかった。
「お前……何がしたいんだ。どうして、ここまでする? 俺は、医者が何と言おうと……予言者まがいのお前が何を言おうと、未愛の死を認めることなんてできねぇ。未愛は、どんなことをしてでも俺が守る。だから、お前の存在なんか俺達にはこれっぽっちも必要なんてないんだよ――」
ドスッ。
「……え?」
俺が言い切ると同時に、彼女の手に握られたボールペンは早々に二撃目を放っていた。
「んっぐぅぅっ。っはぁ、はぁっ……。転生委員会は、死者の魂を来世へと導くのが……唯一の、存在理由です。だからっ、私もどんな手を使ってでも、あなたの首を縦に振らせてみせます」
時雨ミライは、俺の主張に怯むどころか対等以上の鬼気迫る態度で睥睨していた。
瞳の奥には、見たことのないきらめきが宿っていた。
俺は思わず唇を引き結んで肩をすくめると、一度眼差しを地面に落とした。
そして、バツの悪い表情のまま再び顔を上げると。
そこには真っ赤に染まったボールペンを、今度は首筋に突きつけている少女の姿があった……。
その光景はまるで、スローモーションのようだった。
腕を僅かに伸ばしながら助走をつけ、彼女が躊躇いもなくペン先を首元めがけて差し込もうとする異常な姿。
だから、理屈とか思考とかじゃなくて。もっと人間として根源的な部分が、咄嗟にその言葉を繰り出させた。
「わかったぁぁぁっ!」
力のこもった声が功を奏したのか、時雨ミライの手に握られたペン先は皮膚に触れる数ミリ前の位置で停止していた。
俺と少女はしばらくぶりに視線を介しながら、互いに改めて対峙した。
「……ひとまず、転生委員会とやらの話を黙って聞くことを約束する。だから、もうそれはやめてくれ」
懇願に近い声色で俺がそう呟くと、彼女はおもむろに血液の滴ったボールペンを俺の掌の上に返した。
まだ生暖かい血の感触に喉を鳴らしつつ俺が前を向くと、時雨ミライは傷口を押さえようともせず、奇げな笑みを浮かべてこう切り出した。
「ご理解いただけて幸いです。……しかし、そもそもあなたは一つ大きな誤解をしている」
「……誤解?」
「はい。そもそもあなたの妹、有瀬未愛が今回転生の権利を有していたことは、偶然でもなければ必然でもありません。これまで送ってきた人生の中でどれだけ善い行いをしてきたか? どれだけ幸福に恵まれず辛い目に遭ってきたのか? その他項目を集積した数値が、この世に生きるすべての人間には割り振られています。我々はそれをライフ№と呼称していますが。有瀬未愛はその数値が極めて高いことが判明した為この度転生対象者として選定されたのです」
とても真面目な口調だった。
おかげで反芻することもなく理解することができた。
しかし、だからこそ俺の中の怒りは沸々と再熱した。
「あぁ、そうか。この世界はそんな目に見えない数値で知らないうちに精査されていたのか。そりゃあびっくりだ。……で、それがどうした? そのよくわからねぇ転生対象者とやらに選ばれた未愛がすげぇんだ。喜べ、とでも言いたいのか? ……いいか? 転生なんてできたところで未愛自身がこれまで大事にしてきたもの、積み上げてきたものが消えちまったらなぁ、何一つ意味なんてねぇんだよ。……いや、むしろ迷惑だって言ってんだ! どうしてお前にはそれが分からなっ――」
「私は、あなたが今抱いているその認識こそが誤解だと、そう言っているんですよ?」
俺の言葉を切れ味鋭く遮った彼女の瞳は、いっそう光を増していた。
俺は少し面食らいながらも、険しい表情を保ったまま尋ねた。
「……どういうことだ?」
「確かに、転生とは通常現世とは別の存在。他者に生まれ変わることを指します。しかし、我々転生委員会の場合は少し異なる」
ふと、緩やかに肌を撫でていた風向きが変わった気がした。
「先ほどお伝えした人間に割り振られた数値。その数値によって転生が可能となる範囲、内容は決定されます。そして、この数値は他人からの全面譲渡を是としている」
「譲渡……」
「つまり、」
時雨ミライは、これから口にする言葉を強調するために、敢えて間を溜めたような息継ぎを行った。
「有瀬未愛の寿命が尽きるまでにあなたが莫大な数値のライフ№を集めることができれば、それを譲渡することで他者ではなく有瀬未愛自身として転生させ、その命を救うことは理論上可能というわけです」
彼女の開かれていた口が結ばれたとき、俺の頭の中で音がした。
スイッチが、OFFからONに切り替わる駆動音。
俺はひと呼吸おいて彼女の言葉を最大限丁重な姿勢で受け止めると、ありったけの感情を込めた声で言った。
「俺は今から、転生委員会の一切を信じてどんな要求、協力も惜しまないと約束する。だから、俺の全てをかけて未愛を助けたい!」
こうして、俺と時雨ミライの、そして転生委員会との奇怪な関係は始まった。
【有瀬未愛の寿命が尽きるまで残り36日】