高級商店の立ち並ぶ藍宵通りは、道行く人も少し高貴な香りがする。優李は落ち着かない様子で那沙の後ろを歩いた。少し前を歩く那沙はといえば、まだ難しい顔をしていた。
「那沙、もしかして、その泉に行くのが嫌なのでしょうか?」
 優李が尋ねると、那沙は至極嫌そうな声を出す。
「嫌だ」
「どうしてですか?」
 きっぱりと言い切る那沙に、優李は更に質問を続けた。那沙はなかなか口を開かないので、長い沈黙が流れる。その間じっと背中に向けられる優李の視線に根負けしたのだろう。那沙は重たい口を開いた。
「あの泉には古い友人がいた」
「そのお友だちとなにか……」
「つまらぬことで喧嘩をした。泉に行くと、そのことを思い出すので嫌だ」
 不機嫌そうにいう那沙に、優李は笑顔を見せた。なんだか可愛らしいと思ってしまう。
「なんだか、安心しました。那沙にもそんなことがあるのですね」
「安心?」
「はい、那沙は苦手なものなどなく、なんでもできてしまう気がしていたので、新しい一面を知ることができて嬉しいです」
 優李が楽しそうにいうと、那沙はバツが悪そうな顔をした。
「俺にも色々とあるのだ」
 こんな那沙は初めて見る。なんだか子供っぽい姿を見ることができて、優李としては新鮮で嬉しかった。少しだけ那沙に近づけたような、そんな気がする。
「友達って、六花さんが話していたあやかしですか?」
「いや、天降女子は六花の友人だ。天降女子は、俺の友人が去った後に住み着いたのだろう」
 那沙の友達というものに、優李は会ってみたかった。那沙と喧嘩をするなんて、どんなあやかしなのだろうと気になる。
 藍宵通りから賑やかな大通りを通り過ぎ、下ると次第に立ち並ぶ家は小さく、その数は増えていった。吾妻泉があるという朱雀南区に足を踏み入れるのは、優李にとって初めてのことだ。朱雀南区は住宅街が密集している。那沙の話しではこの辺りはまだ良い方で、東寄りの一角に貧民街のような場所があるらしい。
 住宅街を抜けると目の前には、開けた畑の風景が広がり、森が見えてくる。保守の森とは様子の違う森だった。
「この森は?」
「正式な名は鳳凰山、地元の者たちは(あか)い森と呼んでいる」
「あかい森?」
 聞き返すと、那沙は再びゆっくりと頷いた。
「この森は定期的に燃えたように(くれない)に染まる。木々がいっせいに紅葉するのだ。人の世にも四季があり、秋になると紅葉するものも出てくるだろう? それと同じように紅くなる、だが、異なるのは秋に限らないということだ、森はなんの前触れもなく突然紅くなる」
 那沙の言葉に優李は感嘆するしかない。優李にとって、あやかしの世界は知らないことばかりだ。見るもの、聞くものの全てが新しい。
 鳳凰山の向こうにも大きな森が見える。治守の森と呼ばれる森だ。あの森も人の世と繋がる場所となっているそうだ。関所になる鳥居は朱色で、門番として朱雀が配置されていた。
 鳳凰山は保守の森に比べて高低差もなく、小鳥のさえずりの聞こえる穏やかな森だった。
 散歩でもするかのように足取り軽く進んでいく優李とは対照的に、那沙はというと、ずっと何かを考え込んでいるかのように、重たい足取りで歩いていく。
「那沙、よかったら、少し話してはくれませんか? 吐き出すと楽になることもあるかもしれません。あ、いえ、嫌だったら話さなくてもよいのですが……」
 優李の言葉に那沙は怒るそぶりは見せず、ちょっと表情を緩めて、笑った。
「優李は面白いことを言う。そうだな……誰にも話したことはなかったが、おまえになら話してみてもいいかもしれない」
 那沙の反応にほっとして、優李は質問を続けた。
「どんなあやかしなんですか?」
水虎(すいこ)だ」
「すいこ?」
 優李は頭の中でいろいろと漢字変換をしてみるが、どれがあっているのか見当もつかない。
 そんな優李の表情を見てとったのか、那沙は詳しい説明をする。
「水の虎と書くのだ。なかなか獰猛な性格の種族で時折人間に危害を加えることがある。おまえたちの世では恐れられている類のあやかしだ。俺も二、三度注意したことがある」
「それはそれは……それで、注意が原因で仲違いを?」
「それは違うな、いや、違いはしないか……立場が逆だが。俺の友人の水虎は比較的穏やかな性格だった。人間にも友好的でよく人の世に一緒に行っては互いに仕事をしたものだ」
「水虎さんの仕事はなんだったのですか?」
「絵師だ、人間の世界の絵を描いては売り物にしていた」
 優李にとっては興味深い話だった。もっと話の続きを聞きたかったが辺りに霧が満ちてきて那沙は口を噤んだ。一寸先でも見えないほどの深い霧が二人と包んでしまう。
「困ったな……」
 霧の中で、すぐそばにいるはずの那沙がそう呟いた声が優李の耳に届く。だが、その姿は見えない。
「優李、そこにいるか?」
「います」
「この霧は直接危害を与えてくることはないが、視覚や嗅覚を奪ってしまう。いたずらに動き回るな、泉の音を頼りに進んでいくからついて来い。俺から、絶対に離れるな」
「は、はい、わかりました」
 優李が答えると、那沙の大きな手が優李の手を包んだ。優李は驚きのあまり小さく震える。顔が熱くなるのを感じた。
 那沙の手はとても温かかった。視界を奪われた霧のなかでも安心感を感じられるぬくもりだ。
「あ、あの、那沙、大丈夫ですか?」
 だが、歩みを進めるほどに優李は那沙のわずかな異変に気がついて声をかける。つないでいる那沙の手が、小刻みに震え始めたからだ。
「あまりしゃべるな、音が紛れる。なるほど、泉に近づこうとするものを遠ざける――か、面倒なことだ……六花のやつめ……」
 姿の見えない那沙のため息が聞こえる。右も左も、前も後ろも、なにも見えない。優李はそれ以上言葉を紡ぐのをやめ、那沙の手をしっかりと握って歩く。
 那沙の言う泉の水の音と言うのは優李には聞こえない。足元には草が生い茂っていて、踏むたびにみしりみしりと音を立てた。湿っているのかもしれない。
 突然、那沙が優李に倒れるように覆いかぶさってきた。優李は慌ててその大きな体を支える。那沙はひどく青ざめていた。
「那沙! 大丈夫ですか。那沙、しっかり!」
「……やめろ……優李に、手を出すな」
 那沙は苦しそうにつぶやいた。うなされているのか、ひどい汗をかいている。
 優李は那沙の大きな体をどうにか背に担ぐと、元来た方角へ戻る。寄りかかれそうな大きな木を見つけて、その根元に那沙を下した。那沙は虚ろな目のまま空を見ていたが、次第に瞳を閉じて意識をなくしたように見えた。
 ガサリと足とが聞こえた。優李は咄嗟に那沙をかばい、足音のした方へ姿を現す。
「おまえ……」
 全身が震えるような声がした。見上げると、那沙よりも頭二つ分は大きな大男がこちらを睨んでいる。口元には鋭い牙が生え、肌蹴た着物からは無数の傷跡が覗いていた。
 褐色の髪の毛は、腹を立てた獣のように逆立って見える。あまりの恐ろしさに優李はすくみ上ってしまった。どうにか声を出そうにも、音にならない。
「おまえ、人間の匂いがするな……ひどく弱い、非力なもの。なるほど、だから俺の霧が効かないのか。いったいなにが目的だ、正直に吐かねばこのままここで食われても文句はいわせない」
 男は優李を睨みつけてくる。
怖い。今すぐにここから逃げてしまいたい。
優李はその獣然とした大男に怯えながらも、必死で声を振り絞る。ここで、逃げるわけにはいかない。那沙が気を失っているのだ、自分が何とかしなければ。
「正直に話します。だから、危害を加えないと約束してください」
「それは目的に因る。おまえが、このまま立ち去るというのなら無事に町まで送り届けてやる」
 大男は底冷えするような声でそう言ってきた。優李は持てる勇気の全てを振り絞る。ここで怯えて帰ってしまえば、六花をがっかりさせることになる――自分に必要な香も受け取れない。
 なにより、弱っている那沙が心配だった。この大男は、那沙の安全も保障してくれるだろか。自分が那沙を守らなければいけないと、優李は拳を握る。
「私は泉に居ついているというあやかしの正体を探りに来ました。」
「なぜ」
「頼まれたのです。あの泉に用があるのに近寄れずに困っているあやかしがいる」
「誰だ」
「それは……言えません」
 なんとなく六花の名を出してはいけないと思った。いえば六花に危害が加わるかもしれない。それも避けなければいけない。優李は大男とどう交渉すべきか悩んで言葉を選ぶ。
「霧を作り出しているのはあなたですか? お願いします、もしもそうなら泉に近づけるようにしてください。必要な原料が泉にあるのです」
 優李の訴えに、大男は少し思案するような顔をする。吊り上った瞳がわずかに角度を下げたような気がした。
「おまえからは人間の匂いとあやかしの匂いがする。おまえは何ものだ?」
「私は――」
 優李は言葉に詰まった。あやかしの中には、人間よりも半妖の方を嫌うものが多い。那沙はそういっていた。大通りで出会った獏もあからさまに半妖を嫌っているようだった。
 半妖である自分はこちらの世界でも忌み嫌われているのかもしれない。人の世に長く住んでいた金華猫だと嘘を吐くべきかもしれない。そう思いかけたところで、那沙の言葉を思い出す。
――おまえはおまえだ。人間だろうか、あやかしであろうが、半妖であろうが関係ない――
そうだ、私は私だ。
 優李はふぅっと息を吐くと大きく空気を吸い込んだ。紅い森の空気は澄んでいて、体の中がすぅっと浄化されていくような気がする。
 勇気を出せ、私!
「わ、私は半妖です。金華猫と人間の間に生まれました。あるあやかしが、泉に近づくことが出来ないせいで仕事の材料が手に入れられないと困っています。泉に住み着くあやかしの正体を探り、霧を消す必要があるんです」
 言葉にすると、優李の体に勇気がみなぎってくる。さっきまで感じていた大男への恐怖心がわずかに鳴りを潜めた。
 大男は優李の言葉をじっと聞いてから、ギロリと優李を見つめた。クンクンと鼻をひくつかせ、ふっと息を吐く。
「なるほど、半妖とはな。さぞ生き難かったことだろう」
 予想もしていなかった言葉に、優李は不意を突かれたような顔になった。大男は警戒の色を消したようだ。
「いえ……半妖として生きづらさを感じたことはありませんでした。私は人の世で生まれ、人間として育ちました」
人として生きた。むこうの生活はつらく、苦しいものだった。
「私は、むしろ半妖でよかったと思っています」
半妖だったからこそ、那沙が自分を救い出してくれた。初めて、自分のことを肯定してくれるひとに出会えた。那沙と出会うためなら、自分は半端な存在でいい。
 さわさわと心地よい風が吹き、木々の葉を揺らしている。その音を聞くように大男は目を閉じた。
「そうか。半妖のおまえならば、霧の向こうへ行けてしまう。だが、その先へ行かせるわけにはいかない。必要なものがあるならば俺が取ってくる」
「霧を消してはくれないのですか?」
 優李の言葉に、大男はゆっくりと頷いた。霧を消すつもりはないらしい。
 どうしたことか、優李は大男の提案に悩んだ。六花の依頼はあやかしの正体を調べてくること。泉に住み着くというあやかしは、自分の前にいるあやかしだろう。このあやかしからは、悪しき空気は感じない。
 六花が泉に行くのは香の原料を得るためだ。その目的が遂行されるならば、霧は晴れなくとも良いのではないか。
 優李がそう結論を出し、大男の提案を飲もうとした時だ。
「そいつは……!」
 大男がそうつぶやいたので、優李は慌てて大樹の陰に寄りかからせていた那沙に覆いかぶさる。那沙を守るように。
「那沙か……! 俺は琥蓮(くれん)という、警戒するな、那沙の旧友だ」
「那沙の、お友達……もしかして、水虎の……? 喧嘩を、したという……」
優李が驚いて目を丸くすると、大男はほほ笑むような表情になる。琥蓮と名乗る大男は頷いた。
「那沙の奴、そんなことまで話しているのか……どういう神経をしているのだこいつは……」
 琥蓮はため息を吐いて頭を抱えた。
「半妖の娘、那沙と生活を共にしているのか。となるとおまえは那沙の新しい妻ということか。そろそろ実を固めろとでも言われたのだろうが、今度は半妖とはな――こりぬやつだ。まぁ、那沙らしいといえば那沙らしい」
 新しい(・・・)という言葉が、優李の心にぽとりと落ちて波紋を作る。那沙には以前奥さんがいたというのか。二百五十年も生きていたら奥さんの一人くらいいるものなのかな。いたとしたら、そのひとは、どんなひとだったのだろう。
「いらぬことを言ったかもしれん。忘れてくれ。那沙とその妻ならば、喜んで我が家に招き入れよう。那沙のことは俺が運ぶ。あの霧は力の強いあやかしほど影響が大きい、那沙はしばらく目を覚まさないだろう」
「ちょ、ちょっと待ってください。私は違います!」
 優李は那沙を抱えて連れて行こうとする琥蓮に訂正をする。
「私は那沙のお店の店員といいますか……居候といいますか……とにかくそのような(・・・・・)関係ではありません」
「そうか――だが生活を共にしているのだろう、ならば素性は知れたも同然、来い」
 琥蓮が那沙を背負って行ってしまうので、優李はそのあとを追うしかなかった。