俺は優李をこのまま手元に置くつもりなのだろうか。
 優李が食卓を立った後、ひとり残った那沙は昨夜見つけた時の優李の様子を思い出していた。あの家に優李を置いておくべきではなかった。もっと早くに助け出すべきだったのだ。希沙良に頼まれていていたとしても、人の世で生まれ育った優李は人の世で暮らすべきだと思い込んでいた。
 優李は半妖、希沙良の子であるからいずれは金華猫の一族に返してやるのがいいだろう。本家の大旦那もきっと喜ぶ。だがもう少し、もう少しだけ優李と一緒にいてみたい。そんな少しくらいのわがままなら目をつぶってくれるだろう。
「あ、あの、那沙……」
 物思いにふけっていると着替え終わった優李が声をかけてきた。視線を向けるとその姿に驚く。優李は紫陽花の柄が描かれた着物を選んで着ていた。白い肌に淡い紫色がよく似っている。
「用意が出来たら行くぞ」
「はい」
 優李を伴って竜王山へ向かい、保守の森へと抜ける。門番の神楽が那沙と優李の姿を見つけてにっと白い歯を見せた。
「よう旦那、やっぱりそのお嬢さんを娶るのかい?」
 神楽の軽口に隣で優李が小さく「え!」と小さく悲鳴を上げる。
「安心しろ、神楽の冗談だ。真に受けるな」
「そうですか……そうですよね」
 ほっとしたような優李の様子が少し気にかかる。
「行くぞ優李」
「は、はい、さようなら神楽さん」
「おうおう気をつけてな。それから冗談じゃないぞ、今回はうまくいくと思うんだけどなぁ。ダメなら俺んとこに来い」
「おまえのところはダメだ」
「なんだよ旦那、やけに心が狭いじゃねぇか」
 神楽は時々一言多い。もとより優李を長く手元に置く気はない。金華猫の一族に戻すのが道理だろう。俺のもとに縛り付けるべきではない。だが今のままではいけない。問題なくあやかしの国に溶け込めるよう、少し環境を整えてやる必要がある。

「なんだか趣のある町ですね、私の住む世界の京都という町に似ています」
 保守の森から町中に入ると、優李はきょろきょろと辺りを見て目を輝かせていた。
「京都の町はおまえの世界の長安という国が手本になっているのだろう。長安の町はこの西都が手本になっていると聞く。長安の設計には一人のあやかしが携わっているそうだ」
「そうなんですね、この国は私の生まれた世界とつながりがあるんですね。那沙は博識ですね! すごいです」
「おまえより長く生きているからな」
「那沙はおいくつなんですか?」
 見たところ二十歳くらいに見える。落ち着いているからもう少し上かもしれない、と予想しているととんでもない答えが返ってくる。
「人の暦に直すと二百五十年ほど生きている」
「二百五十歳!」
 あやかしというのはずいぶんと長生きだ。
「あやかしは長生きなんですね」
 優李が驚くと、那沙は首を横に振る。
「寿命は種族や個体によって異なる。俺の一族は長寿だ。数日と生きない儚いものもいる」
「そうなんですね、母も、長く生きたのでしょうか」
「俺よりも長寿だった。長く生きたが、希沙良が共に生きたのはおまえの父だけだ」
 那沙の言葉が優李の中にきらきらと輝きながら落ちてくる。二人の出会いは、まるで奇跡みたいだと思った。二百五十年生きた那沙も、共に生きたひとがいるのだろうか。神楽がそんなふうなことを言っていたような気がする。
 少し前を歩く端正な横顔を見る。なぜか心が痛くなるような気がして優李は視線を町に移した。あやかしの町は整然としていて美しかった。

 那沙は目を輝かせながら歩く優李をほかのあやかしたちから隠すように歩く。異なるあやかしの間に生まれる異種の子は少なくないが、人間との間に生まれる子供はほとんどいない。あやかしの町に生きる人間が著しく減ったことが原因だ。かつて西都に住んでいた人間が、大きな罪ををあやかしの中には珍しさは好奇心を引く。優李を好奇の目にさらしたくはなかった。
店に着くと鍵を開けて中に入る。天井で胡蝶がふわふわと漂っている。店の中に異常がないことを確認している那沙に優李が声をかけてきた。
「床の掃除をしたらよいですか?」
「そのまえに優李、あやかしの国で暮らすためにおまえの匂いをどうにかしておこう」
 那沙はそういって再び店を出る。
「匂いって……」
「おまえから出る人間の匂いだ。あやかしの中には好んで人間を食らうやつもいるし、半妖などという珍しいものを嫌うものもいる。人間の匂いはしないに越したことはない」
「消すと言ってもどうしたらいいのでしょうか」
「東にある商店街に香りを扱う店がある。そこでおまえの香りを消す(こう)を作ってもらおう」
「すごい、そんなこともできるんですね、あやかしってすごいですね」 
優李の反応をほほえましく思いつつ、那沙は店に鍵をかけた。店のある暁通りを抜け、住宅街も足早に抜けていく。活気に溢れた通りを歩きながら、優李は道の両わきに開かれた出店をきょろきょろと眺めていた。
「売っている物も人間の世界の物と似ているようでどこか違いますね、すごく面白いです」
「そんなに珍しいか?」
「はい! 見ていて楽しいですし、なにより母が暮らした町だと思うと気になってしまって」
「希沙良とは何年ともに過ごした?」
「十年ほどです。母は私が十歳の時に車の事故で亡くなりました。父はもっと幼い頃に……」
 視線を落として答える優李に、那沙は長い睫毛を伏せた。希沙良がなにかを警戒していたことを知っていた。自分に何かあったら優李を頼むと言われていたというのに。七年も放っておいてしまった。十歳の幼い子供があの家でどのように過ごしてきたのか、想像するのもつらかった。
「そうか。気が向けば俺が知っている希沙良の話をしてやろう」
「本当ですか、ありがとうございます! 嬉しい」
 カラカラと店先で回るかざぐるまや、涼やかで綺麗な音を奏でている風鈴――優李は那沙が見慣れたその景色のすべてに心を動かされているようだった。素直な娘だ。見ているこちらも飽きないなと那沙は微笑ましく思った。
 夢屋がある暁通りから住宅街、白虎西区の商店街、御所の前を通り過ぎ、西都の東、青龍東区入り口にある(かおり)堂を目指す間、流れていくどこか懐かしい風景に興味津々の優李は前も見ずに、横ばかりを向きながら歩いている。
「もう少し前を見て歩け、危なっかしい」
「ごめんなさい、すごく素敵な町だからつい」
「優李、あまりキョロキョロしていると、迷子になるぞ」
 那沙はそういうと、優李の手を握った。柔らかい手の感触に驚き思わず手を放してしまいそうになるが、動揺を知られるわけにはいかない。優李の手をしっかりと握って歩き出す。
「もう、子供じゃありませんよ。来年になれば成人します」
「俺にしてみれば十七などまだまだ生まれたてのひよっこだ」
 優李は少し顔を赤らめている、腹を立てたのかもしれない。
「那沙はいくつで大人になったのでしょうか。二百五十年となると……」
「俺は百五十で成人を迎えた。私塾を卒業し、働き始めた。人の年齢に直すと十五歳くらいに該当する」
「人間よりも成人する年齢が早いんですね」
「どうだろうな。そういうわけだ、決して手を放すな」
「は、は、はい!」
 ぎゅっと握りしめてくる柔らかな手に、那沙は愛おしさを感じた。

 手をつなぐと距離が近くなる。那沙の着物からは白檀の香りがした。優しい那沙の香り。掴んだ裾を通して、自分の心臓の音が那沙に聞こえたりはしないかと、優李は少しだけ不安になる。
「あらぁ、夢屋の那沙じゃない。そんな子供なんか連れてどうしたの?」
 大通りを歩いていると、女性に声を掛けられた。振り返ると、煌びやかな着物を着た美しいあやかしが妖艶な笑みを浮かべている。流れるような銀髪をさらりと払う腕は真っ黒だ。那沙と同じ獏のようだ。
蓮華(れんげ)、おまえには関係ない」
 獏は優李に顔を近づけてじっと見つめる。強い香りがした。那沙から香る白檀の香りがかき消される。
「ふぅん、那沙の子かと思ったけど違いそうね。なんだか人間臭いわ。那沙ったら相変わらず人間贔屓ね。でもこの子――」
「おまえと話している時間はない。俺たちは急いでいる」
 那沙は獏の女を振り払うと、優李の手を引いて歩みを進める。すれ違い様、獏は優李の耳にささやいた。
「異種の子なんて可哀想。しかも人間と交わるなんて気味が悪いわ。半妖なんかが那沙に近づかないでちょうだい。とっても目障り」
「――っ」
「那沙は獏。獏には獏が似つかわしいのよ」
 優李は驚いて顔を上げた。目の前の獏の顔が媛子のような笑みを浮かべて見える。笑みから悪意がにじみ出ている。
那沙が言うように、半妖というものはあやかしたちに嫌われているらしい。動機がする。人の世界にも、あやかしの世界にも、自分の居場所はないなおかもしれないと思うとめまいがした。
「どうした優李?」
「い、いえ、なんでもありません」
 そう答えつつもぐらりと体が揺れる。倒れかかったところで那沙に抱きかかえられた。
「出かけるのは後日にして店に戻って少し休むか、遙を呼ぶ」
「だ、大丈夫です。少しめまいがしただけなんです、あの、たぶん珍しい景色に興奮してしまって……だから、大丈夫です」
嘘を吐いた。那沙にこれ以上心配をかけたくない。無理に笑顔を作ると那沙は再び眉をひそめた。
「あの獏に何か言われたのか」
 那沙に心の中を読まれたような気がして優李は首を横に振る。
「あ、あの……いえ……。とても綺麗な(ひと)でしたね」
 優李の言葉に、那沙は眉を顰めた。
「俺はあの女が苦手だ。以前あの獏の職場から仕事を受けたことがある。以来あのようになれなれしく声をかけてくる。友人でもなんでもないというのに」
「そう、ですか――」
「あの(ひと)は半妖がお嫌いなようでした」
「はやり何か言われたのだろう
「いえ――!」
「気にするな、おまえはおまえだ。人間だろうか、あやかしであろうが、半妖であろうが関係ない。今は俺のそばにいたらいい」
「ありがとう那沙……」
 優李は目頭が熱くなるのを感じた。涙が浮かんでいるのを那沙に悟られないようこっそりと着物の袖で拭く。那沙は本心からそういってくれているのだろう。だが、あの獏の反応を見ても半妖である自分は厄介な存在にすぎないのだろう。
 那沙は露店が立ち並ぶ賑やかな通りを抜けていく、歩みを進めるたびに景色は変化し、大きな建物が整然と立ち並ぶ通りに出た。大通りにあった露店や入り口が開きっぱなしの店とは違い、重厚な扉に阻まれた敷居の高そうな店々が立ち並んでいる。どの店も暁通りにある店構えに似ていた。
「高級商店街のようですね」
 優李の問いかけに、那沙はゆっくりと頷く。
「そうだな、どこの店も敷居が高い」
那沙の店の敷居も高そうだと思う。店構えは那沙の店の方が立派かもしれない。
「那沙のお店も高級商店ですものね」
「高く評価されたものだ、扱っているのは菓子だがな」
 藍宵(あいよい)通り呼ばれる高級商店街の立ち並ぶ通を少し歩くと、一軒の店の前で那沙は立ち止った。
「ここだ」
 こじんまりとした上品な店である。壁は漆喰で真っ白に塗られ、重そうな看板には【香堂】と彫ってあった。文字が金色に塗られている。
 品のある白塗りの壁の内側から、花のようななんともいえない香りが漂ってくる。香りを扱っているだけあり、店の外にまで花のような良い香りがした。
「あ、あの、こんな場所で香を買ったりしたらとんでもなく高価なのでは……」
「案ずるな」
「いえ、そんな高価なものを買っていただくわけにはいきません。私、お店でしっかり働かせてもらいたいと思ってるのですが、それだけでは返せないかと……」
「いい、それなら返せるまでうちにいたらいい」
 そういってから那沙はハッとしたようにうつむいた。そのしぐさに優李は不安を覚える。那沙は一緒にいていいと言ってくれたが、やはり自分に早く出て行ってもらいたいのかもしれない。半妖というものは、それほど面倒な存在なのだろう。
「そう、不安な顔をするな、店主の六花(りっか)は曲者だが気のいい狐だ」
 那沙は優李の心配事を勘違いしたようで、店主のことを教えてくれる。名は六花というらしい。どんなあやかしなのだろう。
 店の中に入ることをためらっている優李の横で、那沙はためらうことなく磨り硝子張りの扉を開けて中に入った。扉を開けると、鈴蘭の花を模した鈴が鳴った。優李は慌てて那沙の背中を追いかける。
「いらっしゃいませ」
 店の奥から落ち着いた女性の声がする。この店に似つかわしい品のある声だ。那沙の背中にピタリとついて店内に歩みを進めた優李は、声の主を見て息のむ。姿を見せたのは陶器のように白い肌に絹糸のように滑らかな金色の髪をたたえたあやかしだった。 この世のものとは思えぬあまりの美しさに、優李は思わず言葉を失う。さっきの獏も美しかったが、この狐は殊更に美しい。
 金色の髪の毛から獣の耳が二つぴょこんと生えている。臀部からはふさふさの大きな尻尾──その形は狐そのものだ。
「ようこそ、那沙。珍しいですね、あなたが来るなんて……あら、そちらは」
 美女は那沙に向かってにっこりと微笑むと、その笑みのまま優李を見る。琥珀色の宝石のような瞳に見つめられた優李は小さく「はじめまして、時任優李と申します」と答える。美しい狐は少し鼻をひくつかせてから金色の瞳を丸くした。
「まぁ、この子、希沙良の香りがするわ」
 六花は花のように顔をほころばせた。
「優李は希沙良の子だ。わけあってうちで預かることになったが、人間の香りを消すための良い香はないか?」
 店主の六花のことを信用しているのか、あっさりと優李の素性を明かす那沙。その言い分を聞くと、六花は大きな瞳を更に見開いて――
「希沙良は人間贔屓だったから、きっとご主人はあの喫茶店のご主人ね」
 なんて、嬉しそうな声を出す。どうやら玉藻前は那沙同様、優李の母と旧知の仲であり、両親のことを知っているらしい。
「優李、彼女は六花という。六花は希沙良の親しい友人だ、希沙良のことは俺よりもずっと詳しい。機会があれば聞くといい」
 六花は優李に向かって懐かしそうな表情を見せる。じっと優李を見つめていた六花は、那沙の言葉を聞くなり長い睫毛を伏せた。ばさりと音がしそうなほど長い睫毛だ。
「そう、希沙良は……もういないのね」
 長い睫毛を持ち上げると、優李を物憂げな瞳で見つめながら、六花は呟いた。
 優李も那沙も、母が亡くなっていることなど言ってはいない。それなのに、なぜ六花はそんなことをまで知っているのか。困惑した顔で那沙を見上げると、那沙は理由を教えてくれる。
「六花は『時詠(ときよ)み』だ」
「ときよみ?」
「見る者の過去と未来が見える」
 那沙の言葉に、六花は優雅に頷いた。
「祖母が力の強い『時詠み』だったのです。私の力はあまり強くありませんが、過去や未来はぼんやりと見ることができますよ」
「そんな力が……」
 六花がいっそう神々しく見えた。あやかしというのは神と紙一重なのかもしれない。
「いいでしょう、優李。あなたの持つ人間の(かおり)を隠す(こう)を調合してあげましょう。ただし、少々厄介事を引き受けていただけたらのお話です」
 六花がふんわりとした口調でそんなことを言うと、那沙は眉をひそめた。優李が判断するに、これは表情の動きの少ない那沙の最大限に嫌そうな顔である。
「易々は売らぬか。しかたない、聞いてやろう」
 那沙の言葉に、六花は美しく微笑んだ。
「では、さっそくお話させていただきましょう。私は香の原料を仕入れるために、朱雀南区にある吾妻泉(あずません)へ行くのですが、最近その泉に不思議な霧が出ているのです。明らかにあやかしの力で作り出したもの。あの泉にはもともと一人の天降女子(あもろうなぐ)が住み着いていましたが、住処を変えたのか、しばらく見かけておりません。最近は何もいなかったはずなのです。その霧を作り出しているものの正体を確かめてきてはくれませんか?」
 六花はひどく困ったような顔をしてそう語った。話を聞いた那沙は難しそうな顔をして、眉間にしわを寄せている。
「その霧を作り出しているあやかしが悪いものではないかを調べて来いということか?」
「はい、私の見立てではあやかしは複数いるようです。私もその……恐ろしいものですから」
 六花は、それはそれは困っている――という表情をして見せる。優李はその表情に心を動かされて那沙の着物の裾を引いた。
「那沙、行ってみましょう!」
 そう声をかけるのだが、那沙は相変わらず難しい顔をしている。
「六花、そのあやかしとなにかやり合ったか?」
 那沙の言葉に六花はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、相対はしていないのです。ですが、霧は泉に近づこうとする者を拒みます。あやかしの気配は感じましたが、私は泉に近づくことすら出来ませんでした」
「ならば仕方ない」
 那沙は相変わらず顔をしかめたままだったが承諾の意を示した。優李はほっと胸をなでおろす。
「ありがとう那沙、優李、感謝します」
 六花は狐のように目を細めて微笑んだ。
「では、私も香を作るための準備をしておきましょう。優李、まずはあなたの香りを採取させてください」
 六花はそう言って優李の前に立つと、両手を掲げて優李の胸の前で水をすくうような形を作る。ふうっと六花が息を吐くと、それに連動するように手の中にもやもやと白い霧がたまり、霧は次第に密度を上げて液状になった。
 六花はその液体を小瓶に詰める。青みがかった白い液体が小瓶の中でゆらりと揺れた。
「はい、ありがとうございます。これが、あなたの持っている香りですよ」
 ゆらゆらと揺れる瓶を見せながら、六花にっこりとそう言った。
「この液体がですか?」
 正直、自分の匂いというものがこうやって目の前に物質として現れるのは不思議な感じがする。
「とても綺麗な香りですね」
 そういって六花がそう微笑むので、優李は悪い気はしなかった。ゆらゆらと揺れる液面を少し恥ずかしい気持ち見つめてから「よろしくお願いします」と頭を下げる。
「承りました、では、そちらもお願いしますね。香りを作るのに二日はかかりますから、泉の調査もゆっくりと」
 大きな琥珀色の瞳をにぃっと狐らしく細めた六花に送り出されて、優李と那沙は重たい扉を開き、香堂を後にした。