優李は暗闇の中で目を覚ました。目の前に、自分と同じくらいの年ごろの男がいる。まるで双子のように自分の顔と瓜二つだと思った。
『願え優李』
 頭の中に声が響く。心が割れそうなほどに痛い。
「願えない、そんなこと。私は西都が好きだから」
『ならばせめて俺に体をよこせ優李。黄泉へ行くおまえには不要なものだ』
 那沙の顔が思い浮かぶ。嫌だ、願いたくない。私は那沙のものだから。那沙のものでいたいから。
 優李が苦しい表情で黙り込んでいると男は口を開く。
『この体から出ていけ、優李』
「あなたが母と共存してたというのなら、私ともできませんか。私がそう願えば叶うのでしょう」
『過信するな。希沙良がその身に多くの魂を宿すことができたのは、たぐいまれなる妖力のおかげ。おまえごとき半妖にできるはずがない』
 優李は手を伸ばし男の頬に触れた。そして額に傷があることに気づく、この傷は。
『触るな!』
 あやかしは優李の手をはたく。しびれたような鈍い痛みが走った。
 ドライブレコーダーに映っていた猫を思い出した。母が助けようとした猫は、同じ位置に傷を負っていた。
「お母さんは、あなたを、いえ、あなたたちを助けようとしたのね」
 母の行動がやっと理解できた。母は、自分の体から抜け落ちてしまったこのあやかしたちを必死で守ろうとしたのだ。その身を挺して。母はそういうひとだ。母にとって、このあやかしはとても大事な存在だったのだ。
「あなたたちは母にとても愛されていたんですね。そしてこれからも。あなたたちには誰かに愛される権利がある。今度は私が譲る番かもしれません」
 このあやかしの魂は、飢えているのだ。愛や、優しさに。自分が与えられなかった、すべてのものに。
「この体をあげます。私、十分幸せでした。お父さんとお母さんに愛されて、那沙に出会えて、あやかしの世でみんなに親切にしてもらえて……」
 辛い日々は、那沙と出会ったことで昇華された。これ以上望むことは贅沢なのだろう。
「私、幸せだから。もう十分」
 両親と過ごした日々、美しい坂の町の風景や、海をわたる船の汽笛の音。あやかしの国に来てからの愛しい思い出たち。最後に思い浮かぶのは那沙の顔だ。
 不機嫌そうな顔、照れた表情、困ったような顔、そして、嬉しそうに笑う顔。
 できることなら、最期にもう一度会いたかったけれど、きっと叶わない。
 那沙、私を見つけてくれてありがとう。幸せな記憶で終わることが出来るのは、那沙のおかげ。器は譲ってしまうけれど、心はすべて那沙のもとに置いていくから。
「だから、今度はあなたたちの番、あなたたちが幸せになる番です。私は半端な半妖だけど、あなたたちは純粋なあやかしだから、どちらもあやかしの世界で生きていける」
 半妖の私は、はやり那沙に迷惑をかける。
 優李は願った。このふたりのかなしいあやかしに、器を用意してくださいと。きらきらと輝く金色の砂が舞う。優李の魂はふわりと浮いて体から出て行こうとした。だが、その手を掴む者がいた。那沙だ。
「駄目だ。おまえには、これからも生きていてもらわなければ俺が困る。金華猫、かわりにおまえたちにこれをやる。おまえたちに、幸せな夢を見せてやる。だから優李を開放しろ、この体はおまえのものではない、優李のものだ。優李が両親から与えられたものだ」
 那沙は懐から美しい色の夢玉をふたつ取り出した。今夜採取した夢ではない。それは、那沙がお守りのように大切に持ち歩いていたもの。
『夢など――』
「食らってから判断しろ。夢だけならくれてやる。だが優李は帰せ、俺のもとに帰してくれ。優李は、優李だけは誰にも譲れないのだ。頼む」
 男はじっと金色の美しい飴を手にした。春の陽のように優しい光がキラキラと輝いている。まるでことほぎをそのまま飴にしたかのような美しい夢、男は引き寄せられるようにその夢を食した。
 夢の中で、男は優李の姿をしていた。幼い優李の姿――その傍らに、微笑む希沙良がいた。
「ねぇ優李、あなたはどんな人と結婚するんだろうねぇ」
「けっこんってなぁに?」
「家族をつくることだよ。大好きな人と、家族をつくること。お母さんはお父さんのことを好きになって、この人と家族をつくりたいなーって思ったから結婚したの。初めはお父さんと二人の家族だったけど、優李が生まれて三人に、ううん、五人の家族になったのよ」
 幼い優李は小さな指を一生懸命数える。
「おかあさん、にこおおいいよ? よんだと ゆびがふたつあまっちゃう。おとうさん、おかあさん、わたし。ほら、これとこれはだぁれ?」
「猫ちゃんよ。可愛い猫ちゃん。優李のお兄ちゃんになるのかな? 今は迷子になっちゃったの、どこにいったのかなぁ、いつか会わせてあげるね。そうしたら、五人家族になるよ。大家族だ、嬉しいね」
 嬉しいね。
 希沙良の声が男の中で響く。涙が止めどなくあふれ出る。自分たちは希沙良に捨てられたのだと思っていた。希沙良に必要なのは自分ではなく優李ただひとりだと思い込んでいた。違ったのだ。
『希沙良にとって俺たちも家族だったのだな……』
 金色の夢が覚める。優李の中から、あやかしの気配が消えた。これは、優李の夢だ。那沙にとって、これ以上高価なものはない。今まで採取した優李の夢は、ひとつだって売るつもりはなかった。那沙の宝だ。
 夢から覚めたふたりの子供はその場にしゃがみこみ泣きじゃくる。ひとしきり泣き終えると、二人はすっと立ち上がった。
『僕たちは行く』
「黄泉へ行くのか?」
『もとからそうだったんだ。僕たちには他に行くべき場所がない。人の世をさ迷ううちにも、何度もそうしようと思ったんだ。混濁する意識のなかで、あの、とてつもなく早く走る乗り物に轢かれて、死んでいく仲間を何匹も見たから……』
 ふたりの金華猫はすがすがしい顔で笑った。笑うと優李に似ている。ゆっくりと那沙の腕の中で目を覚ました優李にふたりは笑顔を見せた。金華猫の兄弟が抱えていた禍々しさはすっかり消えている。
『優李、悪かったな。俺たちはおまえの兄さんだから、おまえを守らなきゃいけないのにおまえにひどいことをした』
耳を垂らして謝る金華猫の弟に優李は首を横に振る。それから「もう大丈夫ですよ」とほほ笑んだ。今度は兄の方が耳を垂らした。
『僕も君を黄泉に連れて行こうとした。そのほうが幸せだと信じていたから。だけど優李には、もう新しい家族がいるから寂しくないね』
 優李はうなずくと笑顔になる。
「あなたたちのおかげで、私は西都に来られた。あなたたちを追いかけたおかげで、那沙に出会えたから。ありがとう」
『それは、俺の都合だ。こちらじゃないとおまえの体を奪うことが出来ないから』
「それでも、私はお礼を言いたい。ありがとう、お兄ちゃん……ってなんか照れますね。母は私がすごく小さいときにふたりの兄がいるのだと教えてくれました。聞いたときはすごく嬉しかったのに、日々の忙しさに追われてすっかり忘れていました。会うことが出来てよかった……」
 優李はにっこりと微笑むと、両手を合わせた。どうか、双子の兄たちが幸せになれるようにと祈る。叶うことなら、ふたりの兄にも実体があればいいのにと。キラキラとした砂の粒が、金華猫の双子に降り注ぐ。
『綺麗な祈りだ――僕たちのために祈ってくれたのかい、ありがとう。名残惜しいけど、僕たちはもう行くよ。西都から間引きの文化が失われることを僕は説に祈る』
「まって、名前を教えてください」
『俺たちに名はない』
「それなら、今考えましょう。名前がないと、黄泉で困るかもしれないから」
『どうせ死ぬ。不要だよ』
「いいえ、名前は大事ですよ。そうだ、母が、私の名を考えるときに男の子だったら(こう)とつけたかったと言っていました。だから、幸はどうでしょうか? おひとりは『ゆき』、おひとりは『さち』なんて……」
『幸か、なんだか僕たちには過ぎた名前だな、でも気に入ったよ。黄泉ではそう名乗ることにする、なあ』
『そうだな』
「あ、あのお兄ちゃん、また会えることを願っています」
『ありがとう優李、幸せになれ。獏、妹を頼む』
 那沙は双子に頷いた。黒い金華猫の双子は互いに手をつなぎ、川の向こうへと歩いて行った。これから長い長い旅路を行くことになる。二人なら迷わず黄泉にたどり着くだろうと那沙は思った。隣では優李が必死な様子で祈っている。二人の兄の幸せを願っているのだろう。金華猫の気配が辺りから消える。ぐらりと優李の体が力を失ったように倒れこむ。那沙はその体を抱きかかえた。体の中にふたつの魂を宿して疲弊したのだろう。那沙は優李を抱きかかえたまま、墨染川に背を向けた。
 軽い、小さな体だ。こんな華奢な娘が西都を揺るがすあやかしを改心させてしまった。那沙は驚きを隠せない。
 西都で流行っていた無気力病の原因は幸たちだ。彼らは人の世で生きるにはとても弱い。優李の体を奪うため、人の世を訪れるあやかしから少しずつ力を吸い取って成長していったのだろう。
 伊邪那美から依頼されていた仕事も片付いた。優李には改めて礼をいわねばならないと、その寝顔に笑みを向ける。本当に、大した女だ。
  那沙は優李に対してそう感じたのは、なにも今回が初めてではない七年前に希沙良が亡くなった時のことを思い出した。
 いつものように坂の町へ夢を集めに行ったときのことだ。なにもおかしなことのない、月の綺麗な夜だった。
 だが、なにやら胸騒ぎがする。気が付くと、那沙は異変を感じる方角へと歩みを進めていた。
 行きついた先は葬儀場だった。人の魂に寄せられたのだろうか――不思議に思っていると、見知った名が耳に入ってきて驚いた。希沙良の葬儀だった。
 ひどい葬儀だった。誰ひとりとして希沙良の死を悼むものなどいなかった。残された幼い子供は悲しみの色は浮かべているが、泣きもしない。娘の優李はずいぶんと薄情なものだと思った。父はすでになく母ひとり、子ひとりだったというのに。
 表情の薄い子供の引き取り先は難航していた。希沙良が残していた遺産の額を見て手を挙げたのが叔父の家だった。
 葬儀を終え、自分の荷物をまとめるために自宅にもどった優李はそこで初めて泣き崩れた。
 そうか、泣くことを必死に我慢していたのかと、那沙はようやく気が付いた。そのまま優李が泣き止むまでそっとより添った。親戚の家は優李に安息を与えてくれるだろうか。俺の手元に置くべきなのか。そう手を伸ばしかけるが、自分はあやかし、優李は人の世で生きるもの。そう思うと姿を現すことが出来なかった。そのまま放っておいてしまっていた。
 琥蓮にいわれるまでもなく、優李が強い女であることは知っていた。俺が見逃していた過酷な環境でも優李は必死に生きていた。
 優李を布団に寝かせると窓の外に目をやる。まだ星が空で輝いている。厚い雲から解放された月はまぶしいほどに美しかった。
 強い睡魔を感じる。このまま優李の隣で眠ってしまいたい。
 触れたいと思った。強く抱けば壊れてしまいそうな優李を抱きしめたいと思った。妻であったはずの藤乃には抱いたことのない思いが那沙を支配し始める。
 俺は、優李が欲しい。
 欲望の赴くまま、那沙は優李を腕に抱いて眠りについた。