眩しさからかくしゃりと顔を歪め、優李はゆっくりと目を開いた。優しい夢を見ていた気がする。幼い頃、父が頭を撫でてくれたときのように暖かな気持ちだった。
「目が覚めたのか」
 心地よい低音が鼓膜を振るわせる。西向きの格子窓から月の光が差し込んでいる。今夜は満月らしい。窓の外では煌々と月が輝いている。
「ここは……」
 そう呟いてよくやく焦点が定まった目をきょろりと一周させると端正な男の顔が視界に入る。思わず「きゃぁ!」と悲鳴のような声をあげた。
「安心しろ、取って食ったりはしない」
 優李の怯えが伝わったようで男は優しく声をかけてきた。いつもの狭い自室ではない。横になっている布団も厚みのある上質なものだ。確か猫を追いかけて山の中にはいったはず。ここにいるのはどういうことだろう不思議に思いつつ、少し冷静さを取り戻した優李は男に話しかけた。
「あの、叫んだりしてごめんなさい。ここは、どこですか? 私、竜王山に入ったんです。それから何があったのか覚えていなくて……もしかして、夢でも見ていたのでしょうか」 
 月明かりに照らされた男の顔は息をのむほどに美しい。輝く銀髪の下で、冬空のような淡い水色の瞳が優李をとらえている。灰白色の着物がよく似合っていると優李は思った。直視すると思わず顔が熱くなるのを感じる。恥ずかしくなってわずかに視線を外した。恐ろしさは恐ろしさは感じなかった。
「夢ではない、おまえは森の中で倒れていた。俺が見つけて連れ帰ったが……安心しろ、なにもしない」
「あ、あの、助けてくださってありがとうございました。私、時任(ときとう)優李といいます。あなたは……」
 優李はそう尋ねてから小さく息を飲んだ。落とした視線の先にあった男の手は、その白皙な顔とは異なり闇のように真っ黒だった。優李の視線に気が付いたのか、男はその黒い手を差し出してみる。男は優李の名を聞いて切れ長の目をわずかに見開いたように見えた。
「俺は(ばく)というあやかし、名を那沙(なしゃ)という」
「あやかし……」
 優李は男の姿を確認する。月明かりを反射して美しく輝く銀色の髪に、白縹の瞳。透き通るような白い肌に黒い両腕。自分とは異なる男の姿を優李は美しいと思った。
「あまり驚かないのだな」
「え……」
「異形に見えるだろう」
「異形……あなたがですか」
 優李は那沙という男の姿をもう一度検める。男の顔はやはり見惚れるほどに美しい。
「えぇと、失礼にならないといいのですか……その、とても美しいと思います」
 そう答えると男は一瞬面食らったような顔になる。男の人なのに美しいと言われるのは嫌だったかもしれない。言わなければよかった。恩人の男が気を悪くしたら申し訳ないとその顔を見ると少しも気にした様子はなかった。
「ここはおまえの住んでいた場所とは違う、狭間の地、黄泉平坂。あやかしの国だ」
「私は、死んだということでしょうか……」
「そうではない。おまえは迷い込んだだけだ、ちゃんと戻ることができる」
「そう、ですか」
 黄泉平坂といえば、子供のころ絵本で読んだことがある。あの世とこの世の狭間の場所だ。自分は死んだのかと思えばそうではないらしい。優李の心境は複雑だった。戻れると言われてもあまり嬉しいは思えない。死んだのだと言われれば、その方が気が楽だった。黄泉に行った両親に会えるかもしれないという希望も出てくる。
「ここは黄泉につながっているのですか?」
「黄泉へつながってはいる。だが、一度向こうへ行けばこちらへ戻ってくることはできない」
「本当ですか」
 希望が見えてくる。ここから、死の国へ行けるのだ。辛い日々を投げ出して、両親のもとへ行けるかもしれない。優李がそんなことを考えていると、那沙が声をかけてきた。白縹の瞳が月のように澄んだ光を宿している。
「優李、窓の外を見ろ」
「外ですか?」
 優李は那沙に言われるまま窓の外を見た。そこで初めてここが二階にあたることを知る。周りに二階建ての建物はほとんどなく、木造の平屋が連なるように並んでいた。遠くには細い通りの両脇に長屋が並んでいる。時代劇でも見ているかのような、景色に優李は目を見開いた。静かな町に、美しい月が浮かんでいる。
「綺麗な町……」
 優李は思わず身を乗り出した。
「優李、死に急ぐことはない。黄泉へ行けばこちらへは帰ってこられない。だが、こちらと人の世は行き来できる」
 淡い色をした二つの瞳が優李を見つめてくる。ドクドクと体が脈を打つのを感じた。まだ自分は生きている。那沙は逃げ場があることを言ってくれているのだろうか。
「おまえを拾ったのは俺に対する導きかもしれない」
 那沙はひとり呟く。わずかに首をかしげると、銀色の髪がさらりと揺れる。
「優李、おまえは希沙良(きさら)の子だろう?」
「え……」
 那沙が母の名を口にしたので驚いた。那沙は優李をじっと見つめると、静かに息を吐く。
「俺は、希沙良の友人だった。希沙良が人の世で人間と結婚し、子を成したことも知っていた」
「それは、どういう……」
 那沙はまるで母が人間ではないかのような言い方をする。
「そして、希沙良が死んだことも知っていた。優李、希沙良は人ではない。金華猫というあやかしの女だ」
「きんか、びょう……」
「猫のあやかしだ」
 優李は驚きのあまり言葉を失った。母が、あやかしだったなんて知らなかった。
「猫の子という名は、あながち間違っていなかったんですね」
 優李は苦いものを吐き出すようにつぶやく。
「おまえは人とあやかしの間に生まれた半妖。この世界で半妖は生きづらい。人の世で生きる方が幸せだろう」
「幸せ……ですか」
 優李は苦い笑いを漏らした。あの生活は、幸せと呼べるのだろうか。一瞬でも、こちらの世界に逃げられるのではないかと思った自分は間違っていた。
 私の居場所はここではないのだ、やはりもとの世界に帰らなければいけない。体に鉛が付いたように重くなる。
「私、帰らないと。朝から仕事があるんです」
「仕事? おまえは見たところまだ子供のようだが……働いているのか?」
「えぇと、今日から夏休みなので学校がお休みなんです。私、両親とも亡くなっているので親戚の家に面倒を見てもらっているんです。居候の身なのできちんと仕事をしないと、ご迷惑をかけているので……」
「ならば、早朝に出れば問題ない。俺がいれば道に迷うこともない、すぐに戻ることができる。今夜は泊めてやるから安心しろ、食事も提供する。ただし、宿代として明日の朝、少しだけ店の用意を手伝え。俺は下の自室にいるから何かあったら呼びに来い、おまえのことは日が昇れば起こしてやる。疲れているようだ、もう少し休め」
 言うなり那沙は優李の頭を優しくなでた。
「でも、急いで帰らないといけないんです。朝の支度を手伝わないといけません。あの、お手は煩わせません、一人で帰れますから、これから戻ってもいいでしょうか」
 日が昇る前には旅館に戻る必要がある。優李が必死に訴えると、那沙は少し間をおいてからわかった、と頷いた。
「降りて来い、すぐに食事の用意をする。昨夜は何も食べていなかったから腹がすいているだろう」
「あ、あの、私大丈夫です。お腹は空いていませんから……」
 夕食を抜くことは珍しくない。あの家ではろくに食事にありつけないのだから一食抜くくらいは慣れている。
「随分と痩せているな。少しは食べた方がいいと思う、これから働くならなおさらだ」
 那沙はそういって階段を降りていく。優李は空腹を感じてはいなかったが、那沙の好意に水を差すのもよくないだろうと従うことにした。
「あ、あの、お手伝いをさせてください」
 優李は慌てて那沙の後を追いかけた。二階にはいくつか部屋があったが一階は一室が広い。扉が付いているのが那沙の自室だろう。優李が借りていた部屋は畳だったが一階は板張りである。
 台所は古い作りだが綺麗に整頓されていた。那沙は几帳面なあやかしなのだろう。自分を助けてくれたのにもうなずけた。倒れていた自分のことを、きっと放っておけなかったのだろう。
「おまえはゆっくりしていたらいい」
「なんだか、じっとしていられない性分なんです。手伝わせていただけると嬉しいのですが……」
 食事ができるのをただただ待たせてもらう訳にはいかない。
「そうか、では好きなものを作ってくれ。といっても食材はこれしかないが」
 那沙が取り出した食材はどれも新鮮で美味しそうだ。葉野菜はみずみずしく、つやがある。
「すごく美味しそうな野菜ですね!」
「そうか」
 野菜や米の類は優李の世界と同じようである。調理の仕方には悩まずに済みそうだ。
 好きなものを作れと言われたところで食べたいものが特に思い浮かばない。味噌があることに気がつき、汁物を作ることにした。
「お味噌汁を作ってもいいですか?」
「その予定だった」
「よかった、任せてください。ご飯も炊きますね」
 おいてある包丁を手に取ってトントンと野菜を切って鍋に入れる、お米を研ぐと土鍋に入れての両方を火にかけようとしたが、火のつけ方がわからない。
「火は俺がつけよう」
 那沙が片手をかざすと、鍋の下にゆらゆらとした炎が生まれた。
「魔法みたい……」
「魔法ではない、妖術だ。あやかしの国では、みな当たり前のように使える」
「すごいです」
 優李は目を輝かせた。ゆったりとした気持ちで台所に立ち、食事を作る。ただそれだけのことを優李は楽しいと感じた。家では常に小言や罵声が飛んでくる、心の休まる暇などないのだ。こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろうか。
 一階にある居間は小上がりになっていて四畳ほどの畳の上に小さな丸いちゃぶ台が置いてある。那沙はその上に二人分の朝食を並べていった。野菜の汁物、白いご飯、――それからウサギの形に切ったリンゴも並べる。
「美味しそう。那沙さんは料理が上手なのですね」
「一人暮らしだからそれなりにできる。おまえも手際がいい」
「台所にはいつも立っているので少しは料理が出来るのですが、味音痴で美味しいものは作れません。」
「質素な食事で申し訳ないな、食材の用意がなかった。せっかくの客人なのに」
「いいえ、とんでもない! 十分すぎるほど贅沢な食事です」
 いつも冷えた食事を食べていたのだ。温かな食事にありつけるだけでありがたかった。那沙と向かい合って座り、いただきますと両手を合わせる。誰かとこうやって食事をするのはいつぶりだろう。
 温かな気持ちがあふれて思わず視界がにじむ。那沙に気がつかれないよう慌てて碗を取り、みそ汁を飲む。
「ご馳走さまでした。とても美味しかったです」
「そうだな、美味かった。食事が済んだら店を開ける準備を手伝え、その後おまえを帰してやろう」
 食事を終えると、那沙は優李を自宅と繋がっている店の方に案内する。一階にある自宅の玄関とは反対方向に付けられた扉の向こうに店があるらしい。
「店の中に蝶がいるんですね、綺麗……」
 優李は店に入るなり歓声のような声を上げた。見上げた天井には靄が漂い、一匹の蝶が靄の中をふよふよと宛てもなく飛んでいる。勘定台の奥に、天井まで届くほど高くまで備え付けられた棚には、びっしりと瓶が並び、その中に色とりどりの丸い物が収められていた。香ってくる甘い香りから、飴玉なのだろうと優李は推測する。
 だが、どれもこれもおかしい。優李が知っている飴玉とは様子が違う。飴玉の中には、きらきらと砂のようなものが漂っていたり、水のようなものが入っていたり、花の入っているものや、美味しそうな食べ物が浮かんでいるものもある。中には翼の生えた馬が飛び回っている物まであった。どの飴も宝石のように美しい。置かれた調度品の品の良さや手入れの行き届いた店内はまるで宝石商のような雰囲気だった。
「これが売り物ですか? お菓子屋さん? 宝石みたいですが……」
 目を輝かせる優李に、獏は口の端を持ち上げて笑う。
「俺は夢売り、これは夢玉という。中に入っているのは夢だ。夢玉は人間の夢を飴にしたものなんだ」
「人間の……? 那沙さんはどうしてそんなものを売っているんですか? そもそも夢を形にできるなんて……」
「那沙でいい。あやかしというものは夢を見ることがない。だが、夢の世界でしか得られないものもある。(うつつ)とは異なる世界を見るために、あやかしたちはここで一夜の夢を買う。娯楽の一つだ。私は獏、夢を取り出すことができるあやかし、古くから夢を飴の中に込めて売っている」
 那沙の説明を優李は真剣に聞いていた。世の中には知らないことがまだまだたくさんあるものだと目を輝かせる。
「俺は表を綺麗にしてくる。おまえはあそこに置いてある箒で床を掃いてくれ」
 言われてうなずくと、優李は勘定台の内側にある箒を取り出して床を掃き始めた。掃除機の類はない。そういえば、電気を使うようなものが店の中には一切ない。家の方にも見当たらなかった。
 掃きはじめた板の床は、濡れてもいないのに湿ったような色をしており、箒でなでるとぼうっと白い光を放った。掃除をしろといったわりには、まったく汚れているように見えない、埃一つない清潔な床だ。そういえば、と、優李は天井を見上げる。ふよふよと漂う靄の中で、蝶が一羽遊ぶように飛んでいる。
 その上はぼんやりと明りが灯っているように見えるが、どうやら蛍光灯やLEDの類ではない。光そのものがまるで生きているように見えた。ゆらゆらと燃える炎のように淡い光が動いて見える。
 店内を一通り掃き終わると、今度は棚に目をやった。色ごとに分けられて瓶に詰められているが、ひとつひとつ色が異なる。ふたつとして同じものはないように思えた。どの瓶の飴玉も本当に綺麗だ。これが人間の夢などとは、俄かには信じられない。
「よし、これでいい。おまえを送っていこう。どうした、夢玉が気に入ったのか?」
「あ、はい。すごく綺麗だなと思いました」
「綺麗な夢をよって集めているのだ。濁ったものは売り物にはならない」
「そうなんですね、夢が宝石みたいになるなんてすごいです。素敵なお仕事ですね」
「どうだろうな、考えたこともない」
「あの、那沙、あやかしの世界には電気の類がないんですね」
 優李が尋ねると那沙は会得したような顔になる。
「あやかしの国には、おまえたちの世界でいう電気というものが存在しない。人の世とあやかしの世との乖離が進んだ原因の一つがそれだ」
「そうなのですか?」
「人間というものは、その寿命の短さのせいだろうか、短い時間で様々な技術を生み出した。その最たる発見が『電気』と『エンジン』というものだろう。一方、あやかしの国では妖力と精霊の力で成り立っている。あの天井で輝いている灯りも、精霊の力によるものだ」
「精霊……」
 優李はもう一度天井を見つめる。なんて、優しく、美しい明りだろうか――
「那沙も精霊の力を使うことができるんですね」
「もちろんだ。あやかしたちはおまえたちのように学び、経験を積むことで使えるようになる。だが、扱える力の幅は大きく異なる。俺は精々五大精霊の下位精霊と契約ができる程度だ」
「十分すごいですよ」
「確かに生活には困らない。火や水、灯り……その程度で十分だ」
「その、私もきちんと訓練すれば使えるようになるのでしょうか?」
 優李は微かな望みを抱き、恐る恐る尋ねてみる。その問いかけに、那沙は首を縦に振った。
「もちろん、使える。だが、人の世で使うことはできない。あちらは精霊との繋がりがとても弱くなってしまった。俺も向こうでは精霊の力を使うことはできない」
「あやかしの国には、むこうとは色々な違いがあることが少しわかりました」
「似ていることもあれば、違うこともある。さぁ、おまえをもとの世界に帰そう」
「よろしくお願いします」
 那沙の店がある高級住宅地――通称(あかつき)通りから碁盤の目の道を歩くと、賑やかな大通りに出た。商店の立ち並ぶ中央寄りの大きな通りは買い物客で賑わっている。那沙は人混みを避け、商店街を迂回すると、落ち着きのある閑静な住宅街の通りを通抜けていった。
 優李はあたりをきょろきょろとしながらも、はぐれないよう那沙のあとについていく。立ち並ぶ家々は、どれも立派な瓦屋根を持つ屋敷造りの平屋で、しっかりとした塀に囲まれた豪邸ばかりだ。
「なんだかどの家も立派ですね。あやかしというのは皆裕福なものなのでしょうか?」
 西都に建ち並ぶ家がすべて屋敷造りともなれば、あやかしの国は余程豊かなのだろうと優李は思った。だが、そんな優李の考えを那沙は一蹴する。
「そうではない。このあたりは比較的高級な住宅街だ。西都の南に位置する朱雀南区の一部には大きな貧困街もある。治安が悪いので警備にあたる朱雀たちも手を焼いている」
「すざくなんく?」
「このあやかしの世界には、いくつかの国がある。ここはその中の一つ、黄泉平坂という国の西都という都だ。朱雀南区というのは、この西都の南側にある区域の名前だ。西都はおまえたちの知る京都の町のように碁盤目に作られている。東西南北、大きく四つの区域に分けられ、それぞれ四神にまつわる一族が治め、警備に当たっているのだ。俺の店があるのは西都の西側、白虎西区。ここら一帯も同じだ。これから向かうのは西の端に位置する保守の森。白虎一族が管理している」
 流れるように説明してくれる那沙の話しは、優李にとってどれも初めて聞くことばかりだ。聞いているだけで楽しい気持ちになってくる。沈んでいた気持ちがわずかに持ち上がってきた。
白虎西区を通り抜けると、西都の町の端が見えてきた。京都に似ているというこの町を抜けると、今度は開けた場所に出る。優李はその景色を眺めて、なんだか牧草地の景色に似ているな、などと思った。
 西都の町は大正時代の街並みのような作りだったが、この野原はなんだか西洋の絵画のように見える。風に揺れる草木がさわさわと音を立てている。
 草原の向こうに見える巨大な森が保守の森なのだろう。すぐそばに朱塗の鳥居が見えた。
「よう那沙の旦那、おや、お嬢さんは目が覚めたのかい?」
 鳥居の前に白髪の男が立っている。口元から立派な二本の牙が生えていた。なんのあやかしだろうかと優李が首をかしげていると、それに気が付いた那沙が「白虎だ」と教えてくれる。那沙と顔見知りのようだ、どうやら自分のことも知っているらしい。
「今からむこうの世界に帰してくる」
「ふうん、帰しちまっていいのかい? そんな別嬪、もったいないなぁ。せっかく連れてきたのに。まぁ、旦那はむこう育ちはもうこりごりだよなぁ」
「そうではない。優李には優李の生活がある」
「ふうん、なんなら俺が嫁にもらってやるのに。お嬢さん、優李っていうのかい? 俺は白虎の神楽。ここで門番なんてしけた仕事をやってるんだ。また会う機会があったらよろしくなぁ」
「はい、よろしくお願いします」
 優李がぺこりと頭を下げると、神楽は人懐っこい笑顔を見せた。怖そうな顔をしているが優しいあやかしなのだろうと優李は思う。人の世では誰かに好意的に話しかけられることがほとんどないので、神楽の態度に戸惑ってしまう。
「行くぞ優李」
「はい」
 森の中は靄がかかっていて辺りの景色が全く分からなかった。右も左もわからなくなる。だが、那沙は迷うことなく進んでいく。優李がはぐれないよう那沙はゆっくりと歩いてくれているようだ。那沙の後についていくと、辺りはあっという間に見慣れた竜王山の景色にかわる。
「ここまで来ればもう大丈夫です。那沙、本当にありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいか」
「礼などいらない。大したことはしていない。さぁ、行け、急いでいるのだろう?」
 優李は後ろ髪をひかれる思いに必死に抵抗してうなずく。
「はい、那沙、ありがとうございました」
「優李、もしも辛くて我慢ならないことがあったら俺を呼べ」
「え?」
「もしもの話だ」
 那沙の言葉に優李は少しだけ笑顔になる。それから大きく手を振って駆けだした。あまり立ち止まっているときっと離れがたくなってしまう。誰かに親切にされたのは久しぶりだった。会ったばかりの那沙と過ごしたわずかな時間が優李の中で光を放っている。
「さようなら」
「あぁ、気を付けて帰れ」
 那沙の姿はあっという間に見えなくなってしまった。家に帰りたくない。だけど、自分の家はあそこしかないのだ、帰るしかない。重い足取りで宿舎に帰ると、急いで着替えて仕事に向かった。

「おはようございます」
 那沙のおかげで仕事の時間には間に合った。だが、優李の姿を見つけた礼子は眉を吊り上げる。珍しく礼子が早くから旅館の方に来ているので驚いた。いつもはお客さんの帰る時間にならないと姿を見せないというのに。
「優李! 夜中にいったいどこに行っていたんだい!」
「それは……」
「夜中に目を覚ました媛子がおまえが出ていく姿を見たっていうんだよ。媛子が心配だっていうから部屋をのぞいてみたらもぬけの殻だ。夜中に部屋から出ることなんか許した覚えはないからね!」
「すみません……」
「逃げ出そうとでも思ったんだろうけれど、おまえを泊めてくれる家なんかありゃしないよ。泥棒猫の子供なんかおっかない。何を盗まれるかわかったもんじゃないからね。まったく、あの母親にしてこの子ありだ。本当は僚一さんの子供じゃないんだろう、あの女、僚一さんの子供を身籠ったって嘘をついたのさ」
 優李はぐっと奥歯をかみしめる。自分のことは言われなれている。だが母親のことを悪く言われるのはいつまで経っても慣れない。
「私は父の子です」
「生意気に口答えするっていうのかい! この家においてやってるだけでも恵まれてるっていうのにおまえは!」
 礼子は優李を怒鳴りつけた。
「今日の風呂掃除はひとりでやりな! 朝の十時までに全部終わらせるんだよ、いいね!」
「はい」
「わかったらさっさと行きな! 一秒でも遅れたら昼食はなしだ!」
 優李が急いで大浴場に向かうと女湯から媛子が顔を出した。
「あら、これからお掃除? 私、これから使おうと思っていたの。男湯の方からやってちょうだい」
「わかりました」
男湯の方から掃除を始める。ひとりでやるにはあまりに広すぎる。ひとつひとつお湯を抜いてどうにか掃除し終えるともう一度女湯を覗いた。まだ媛子が入っている。仕方なく声をかけることにした。
「媛子さん、そろそろお掃除を始めてもいいでしょうか?」
「あら、そんなに急がなくてもいいでしょう?」
「十時までに終えなければいけないんです」
「そう、仕方がないわね。少し遅れたって大丈夫よ、お母さんには私がお風呂を使ってたって話してあげるから」
 媛子が出ていくと急いで掃除を始める。手際よく終え、無事に十時までに掃除が終わると優李はほっと胸をなでおろす。続いて部屋の清掃をしていると、礼子が大きな声で優李を呼んだ。
「優李! 男湯のお湯が全然入ってないじゃないか!」
「そんなはずはありません、ちゃんと栓をして入れました」
「また口答えするつもりかい、そういうなら見ておいで! 湯なんか一滴もありゃしないよ。もう一度ちゃんと湯を張って、お客さんにはしばらくは入れないと謝るんだよ、全部おまえ一人で! 栓をし忘れたっていうんならその分の水代も支払ってもらうからね!」
 礼子の指示にうなずきつつ、やはりおかしいと首をかしげる。
「お母さん、そんなに優李ちゃんを怒らないで上げて。慌てていたのよ」
「だからって栓をし忘れるなんて間抜けにもほどがあるだろう、本当に使えない娘だ」
「お母さん、優李ちゃんだって一生懸命なのよ」
実際に男湯に行ってみると、入れていたはずの湯は一つも入っていない。栓が綺麗にはずれている。
「どうして、ちゃんと栓をしてから入れたはずなのに」 
 慌てて湯を張る用意をしてから、フロントに立ち宿泊客一組一組に丁寧に説明し、謝っていく。目の端で媛子がにやにやと楽しそうに笑っているのが見えた。
まさか。
 いや、仮に媛子の仕業であったとして、媛子を糾弾できるわけもない。優李は小さくため息を吐くときっと口を引き結ぶ。心は平静に保たなければいけない、泣いてはダメだ、泣けば媛子の思うつぼだ。
 保育園、小学校、中学校、高校と優李はいつだって除け者にされてきた。学校だけではない、家に帰れば礼子は表立って優李に難題を押し付け、媛子は陰湿な嫌がらせをしてくる。
 高校には進学しなくていいという礼子に優李も行った方がいいと進言したとは媛子だ。高校まで卒業させてあげなきゃ可哀想だと媛子は言ったが、実際は学校でいじめられる優李を見て楽しんでいる。
 媛子は他の従業員には愛想がいいだけに始末が悪かった。みんな温和で優しい媛子が陰で優李をいじめているなどと考えもしない。媛子は表むき優李の擁護をしてくるのだからなおさら質が悪い。
 夏休みは始まったばかりである、これから朝から晩まで媛子のおもちゃにされなければいけないと思うと気が重かった。例年通り、媛子は優李の仕事の邪魔をしては礼子に叱られる姿を楽しそうに眺めるつもりだったのだろう。
 辛くはない、泣いたりしない。何も感じないほうが生きていくのは楽だ。優李はその日も夜通し働くことになった。