夜の闇に紛れるように真っ黒な鳥が夢屋の前に舞い降りた。鷺のように大きなその鳥は行儀良く翼を畳み、店の前に立つ。その気配を感じ取った那沙は優李深い眠りに落ちているのを確認すると店へと鳥を招き入れた。
鳥を伴って家の方から店へと移動する。
 店に入ると真っ黒だった鳥の色が金色に変化した。王の飼い鳥である。
「こんばんは伊邪那美様。さて、今夜、お姫様はどんな夢をお求めでしょうか?」
 問いかけると、金色の鳥から落ち着いた女性の声がした。
「いつも恩に着る。もうすぐ龍の一族へと嫁に行く孫娘に、祝福の意を込めて桃色の夢を贈りたい。花の、咲き誇る夢を――」
「豊玉姫様ですね、おめでとうございます」
 桃色――赤に白を交えた夢玉の中には、八重桜の花が咲き誇っている。小さな飴玉の中で、桜の木は風に揺られ、ひらひらと花びらが散った。
「こちらでいかがでしょうか?」
 那沙は取り出した夢玉を金色に輝く鳥の瞳に写す。鳥は瞬きもせずにじっと夢玉を見つめてから、ゆっくりと瞳を閉じた。
「いただこう。同じような花の夢を他にも見せてくれ――」
「わかりました」
 那沙は青、紫、白、橙――さまざまな色の夢玉を取り出した。これらの夢玉には、各々の色にまつわる花の夢が詰まっているらしい。
 それからいくつもの夢玉を選び取り、勘定台には全部で十の夢玉が並んだ。那沙はそのどれもを丁寧に和紙で包んでいく。
「那沙、無気力病についてなにかわかったか」
 本題はこちらである。那沙は暗い瞳で鳳を見た。
「関係があるかどうかわかりませんがすでに報告を行った事例のことです。人の世で、人間に憑りついているあやかしに会いました。子犬が送り犬となって飼い主に憑りついておりました。子犬は死ぬ前に黒猫のあやかしに出会ったそうです。その時になにかしらの力を得た可能性があります」
「その報告、すでに目を通している、由々しき話だな。そちらも捜査すべきだろう。無気力病ともなんらかの関係があるかもしれない。送り犬の方は西都の方で問題なく受け入れられたようだな」
「そのようです。それとひとつお耳に入れておきたいことが」
「なんだ」
「希沙良の子がこちらにきています。彼女を保護しておりますが、金華猫の一族は落ち着いているでしょうか」
 希沙良が人の世に行った後しばらくはいろいろとごたついていたはずだ。優李を一族のもとに帰すならそのあたりも気になる。
「公にはされていないが、希沙良が人の世に下ったあと、本家の長男が病に臥せっている。長男には男児がおらず、一族に希沙良のような力の強いあやかしがいないため誰が家督を継ぐかで少々もめている。ことの運びようにによっては猫に入れ替わりが起こる可能性がある」
「そのようなことになっておりましたか」
 強い個体を求めて必要以上に間引いた結果かもしれない。那沙は眉を顰める。そうだとすると優李を金華猫に返すのはよくないかもしれない。猫の貴族は金華猫、仙狸、猫しょうと大きく三つの勢力に分かれている。いらぬ争いに巻き込まれてはいけない。
「那沙、希沙良の中には、ほかにもあやかしがおったのをおまえは知っていたか」
「いえ」
 伊邪那美の言葉に那沙は驚く。それはつまり、ひとつの器に二つの魂が宿っていたということか。そんなことができるというのか。
「希沙良は強いあやかしであったと同時に、危険な存在でもあった。希沙良はそれをわかって人の世に下ったのだ。自分がいては十四眷属の均衡を崩しかねないといっておった。間引きはそろそろ廃止すべきだろうな」
 那沙は瞳を閉じる。希沙良と最後に会った日のことを思い出した。
『那沙、私は人の世に行くの。みんなに迷惑なんかかけられないよ。だから、この子たち(・・・・・)を連れて私は西都を去る』
 そういってあやかしの国を離れた希沙良。あの時は少しも気にしなかったが、希沙良は自分に宿る複数の存在を危惧していたというのか。金華描は一世を風靡している。希沙良の失踪はわずかながら禍根を残したが、金華猫の栄華にほころびはないと思っていた。
「那沙、希沙良の娘は『ことほぎ』の力を持つと聞いたが」
 耳が早い。伊邪那美に知られているということは、もう優李を優李の意思ではどうすることもできなくなった。当然、那沙の意思でもどうにもならない。
「今はまだ金華猫のもとに返すべきではない。金華猫の方へ私の方から話をつけておく。西都でも十分に気を付けた方がいい、あまりひとりにしてやるな。悪用されぬようにしろ。可能なら人の世に帰してやれ」
「心得ました」
 伊邪那美が話し終えると、金色の鳥は色を失って真っ黒になった。那沙はその首に夢玉の入った袋をかけてやる。鍵を開け、扉を開くと、王の使いは空高く飛び立った。
 那沙はいつになく重々しいため息をつく。伊邪那美は「人の世に帰せ」と言った。人の世でことほぎの力は大きな効力を持たないからだろう。
 嫌だ、帰したくない。優李を手放すなど考えられない。ずっと手元に置いて、この穏やかな生活を守りたい。那沙は苦い顔をした。
 優李はもう眠ってしまったのだろう。二階の部屋の明かりは消えていた。那沙はそっと襖を開け、部屋の中に入る。
 優李は規則正しい寝息を立てて眠っていた。あどけない寝顔に、那沙の頬は緩む。
 思えば、この半妖と出会ってからの日々は那沙にとって実に楽しいものだった。灰色で靄がかっていた世界に色が付いたようであった。何気ない日々はこんなにも色鮮やかなものかと、那沙自身生活の変化に驚いていた。
 七年前、希沙良の葬儀で見かけたときはまだまだ子供であったが、それから月日を経て優李は大人の女性へと成長を遂げつつある。そうなれば優李を保護するという名目は失われる。
「優李……」
 もしも、おまえを傍に置きたいといったら、おまえはうなずいてくれるだろうか。おまえがうなずけば、俺は伊邪那美様の提案だとしてもおまえを傍に置いてしまう。
 妻のことが頭をよぎった。妻は西都に東に位置する清守の森で襲われた。那沙が妻を連れてくる際に通った森だ。人の世では東京と神奈川県との県境にある景信山に繋がっていた。
 妻は西都から逃げようとしていたのだと、見張りの青龍から聞いた時にはひどく落胆したものだ。妻にあやかしの生活は向いていなかった。
『穢らわしいあやかしめ! 私をだましていたのね! 早くもとの世界へ帰して!』
 妻の声が那沙の脳裏に響く。何度となく繰り返し聞こえていた那沙をせめる声は、優李と暮らすようになってから聞こえなくなっていた。妻は、那沙があやかしであるとも知らずに、家の都合で嫁いできたのだ。夜に家を抜け出す那沙の不貞を疑いあやかしの世までついてきた。
 もともと藤乃とは形ばかりの夫婦だったのだ、藤乃は俺のことなど好きではなかった。俺の方も藤乃のことを愛してはいなかった。彼女を娶ったことを後悔している。自分の愚かさを痛感した。
 だが優李のことは、たまらなく愛しいと思ってしまう。一度手に入れたら二度と手放したくなくなるほどに。
 優李にこれ以上、心を寄せぬ方がいい。心が苦しくなるばかりだ。伊邪那美様が人の世に返せというなら、手放す方が優李のためなのだ。あの町ではなく、どこか別の遠い場所へ。優李ならばきっとうまくやれる。
だが、せめて人の世で生じている無気力病が解決するまで――。
「それまででいい、見守らせてくれ、優李」
 那沙は健やかに眠る優李の額にそっと口づけを落とした。