翌朝、優李は那沙が起きてくるまでに自分がこれからどうすべきかを考えた。
 那沙の店で働くことは、那沙に恩返しをすることになるのかな。那沙は私の夢に価値があると言っていた。それなら、私の一生分の夢は那沙に渡したい。だけど那沙に好きなひとが出来て本当の結婚をすることになったら私が住み込んでいるのはよくない。だから私はひとりで暮らす必要がある。那沙に恩を返しつつ、那沙から距離を置く。それがこれからの私の課題だ。
 那沙が私に優しいのは私を可哀想だと思ってくれているから。私はもう可哀想な子供じゃない、自分でいろいろな環境を変えていけるはすだ。那沙に恋心を抱くようなことは決してないように。那沙の、迷惑になってしまうから。
 屋敷での朝食づくりを遙から頼まれるようになった。「優李様が作った方が那沙様も喜びます」と遙は言うのだ。那沙のためになるかどうかわからないが、「私も朝ゆっくりできます」と言う言葉で快く引き受けた。遙と腕は各々家庭があるようで通いで来てくれている。朝食は那沙と二人でとるのが常だった。
「おはようございます那沙」
 那沙が自室から出てきたのを見て優李は声をかけた。今の窓から差し込む光が那沙の白い髪を照らしてサラサラと銀色に光らせる。
「早いな」
「もう昼前ですよ。昨夜も遅かったのですか?」
「いや、仕事はすぐに終わったのだがいろいろと考えることがあってな。それはそうとおまえには幼馴染がいるか」
「幼馴染ですか?」
思いもしないことを問われて優李は驚いた。思い当たる人物はひとりしかいない。
「媛子さんは従妹ですから、旭という男の子くらいですかね。小さなころは仲良くしてくれていました。一度引っ越しをしまして、高校進学と同時にまた調月の町に戻ってきたんです。お互い成長しましたし、最近ではあまり交流はなくなっていました」
「そうか」
那沙は短く答えたきり黙り込んでしまう。幼馴染がどうかしたのだろうか。
「優李、おまえはその男のことが好きなのか?」
「え!」
 思わず変な声が出る。旭のことをそんな風に見たことは一度もない。好きな相手といえば、思い浮かぶのはひとりしかいない。旭に対する好意は那沙に対するような焦がれる気持ちではない。友達に対する好意と相違なかった。
「えぇと、友人として好きかと言われたら好きでしたが……」
 先日旭と再会した時のことを考えるともうそんな好意的な気持ちもなくなってしまったかもしれない。
「彼は私の従妹の恋人なので、もう関わり合いになることはないと思います。従妹はその、けっこう焼きもちを焼くタイプの人間なので、私と彼が話すのを嫌がりますから」
応えると那沙は苦虫をかみつぶしたような顔になる。旭となにかあったのだろうか、などと考えて邪推はよそうと思いいたる。那沙が旭のことを知るはずがない。となると不快な表情の原因はひとつしか思い当たらない。
「あ、あの、ごはんが美味しくなかったのでしょうか……」
「いや、食事は美味い」
「そ、そうですか」
 表情と言葉が伴っていない。とにかく話題を変えようと、優李は六花の話を始めた。
「昨夜、無事に夢は取れたんですよね、六花さんにお知らせしますか?」
「言わずとも来る。そういう未来が見えているはずだ」
「そっか。すごいですよね六花さん」
「あれも強いあやかしだからな。なにか困ったことがあれば六花のことも頼れ、六花はおまえのことを殊の外気に入っている」
「那沙も強いあやかしだと腕さんから聞きました。十四眷属? にも引けを取らないって。十四眷属というのが私にはわからないのですが……」
 腕は西都の貴族だと言っていた。母もそのひとつである金華猫であり、自分もその血を継いでいるという。不思議な気持ちだった。
「十二支を知っているだろう?」
「干支のですか?」
「そうだ、その十二支に猫と(イタチ)を加えたのが十四眷属といって、西都の貴族のようなものだ。おまえの母である希沙良はこのうちの猫の一族だった」
「金華猫でしたっけ」
「そうだ。金華猫は猫の中でも強いあやかしだ」
 ならば、半分その血が流れているという自分にも何かしらの力があるのではないか。そう思った優李は琥蓮に言われた言葉を思い出した。
「あの、琥蓮さんに言われたことがあるんです。私に、『ことほぎ』という力があると」
 那沙は箸を取り落とした。
「なんだって」
「あ、あの、勘違いかもしれません。私に特別な力なんかあるわけないですよね。変なことをいってすみません、さあ、六花さんが来ますよね、お店に急ぎましょう」
 那沙の反応を見て怖くなった。馬鹿なことを言ってしまった。少しでも那沙の役に立てるなら嬉しいと、余計なことを言ってしまったかもしれない。優李の心に微かに灯った希望が消えてしまう。
「優李、容易にその力を使うな」
「え?」
「悪いものに目をつけられてはいけない。ことほぎの力は稀有な力だ」
「そう、なんですか」
「おまえはそのままでいい、特別な力などいらない」
「……わかりました」
 また、子ども扱いをされたような気がした。仕方がない、那沙にとっては自分は小娘に過ぎないのだから。
「食事が終わったらむこうへ戻るぞ。店を開けよう」
 なんとなく一緒にいるのが気まずくて朝食の片づけをしていると玄関の呼び鈴が鳴った。腕はまだおらず、屋敷には那沙と優李のしかいない。
「私、出ますね」
 優李が手を止めると「おまえは片づけを頼む」といって那沙が出て行った。玄関の方から若い女性の声がする。その声に優李の背筋が凍り付いた。
「あ、あの調月様、おはようございます」
「なんの用だ」
 媛子が屋敷を尋ねてきている。ふたりの会話が聞こえてきて手が震える。お皿を取り落としそうになって慌てて手を止めた。深呼吸をする。媛子はどうしてここを訪ねてきたというのか……。
「あの、調月様、折り入ってお話がありまして、少し中に入れていただけませんか? 優李ちゃんにも会いたいですし」
「優李は身支度で忙しい。新婚の家に朝っぱらから来るな、用件ならここで聞く。手短に話せ」
「そうですか……あの、調月様、失礼ですが優李ちゃんはきちんと奥さんの役割を果たせていますか? あの子はいろいろと気が利きませんし、不器用なところもありますから……」
「優李は申し分ない」
「まあ、お優しいこと。でも、私のほうがもっと調月様のお役に立てると思います。今からでも遅くはありません、私と優李ちゃんを交換しませんか? 私は旅館の跡取り娘ですし、優李ちゃんよりも価値がありますよ」
 なにを言っているのだろう。媛子は優李から那沙を奪おうとしている。那沙がうなずくはずはない。そう思いつつも体が震える。ふたりの会話を聞きたくない。慌てて台所に駆け込んだ。
「おまえはなにも知らないのだろうが、優李の母は由緒正しい家系の娘だ。本来なら、俺などが手に入れられるような娘ではない」
「そんなのでたらめですよ。優李ちゃんにそんな価値はありません」
「では、おまえは優李の母がどこの誰なのか知っているのか」
「知るわけがありません、あんなどこの馬の骨とも知れない女」
「無知とは愚かだ。おまえには、優李の露ほども価値はない。たとえ優李がただの娘でも、俺は優李を選ぶ。むしろその方がよかったくらいだ。わかったら帰れ、ここには二度と来るな」
 優李が耳を塞いでいる間に、ふたりの間ではこのような会話が交わされていた。那沙の言葉に媛子は真っ赤な顔をして腹を立て、呼びつけていたタクシーに乗って帰っていった。
 ふたりの会話はオワタのだろうか。不安で両手で体を抱きかかえていると背中から那沙が抱きしめてきた。
「大丈夫か優李」
「ご、ごめんなさい。片づけが終わっていなくて……」
「そんなことはいい。残りは俺がやる。おまえは少し休んでいろ。温かい茶を入れる」
「あ、あの那沙、媛子さんは……」
「追い返した。二度と来るなと言ったらものすごい表情をしていたな。そもそもあの娘、恋人がいたはずだろう。まったく、幼馴染といい従妹といい、面倒なやつらばかりだ」
「すみません……」
「おまえのせいじゃない。おまえをあのような環境に置いていた自分に腹が立つ」
「那沙は救い出してくれました」
「もっと早く救い出せればよかった」
 那沙はため息を吐く。でも、と優李は考えた。もしも母を喪ってすぐに那沙と出会っていたら、那沙とは本当に親子みたいになってしまっていたかもしれない。
 それは嫌だな……。
「いいえ、今がよかったんです。本当にありがとうございました、那沙」
「礼を言われるようなことはしていない。俺が優李を勝手に連れだしただけだ」
 媛子が訪れてきたことへの不安はすっかり消えた。ふたりで片付けを終えると西都へ向かうために屋敷を出た。
「お、朝帰りかい旦那。それも優李も一緒に」
「うるさい」
 保守の森を抜け、神楽の軽口を一蹴した那沙は町へと向かっていく。
「なんか機嫌悪いなぁ。優李も大変だなぁ」
「いえ、私はなんとも、あぁ、お仕事お疲れ様です」
 いつも以上に無口な那沙の半歩後ろを歩く。店の前には六花の姿があった。
「そろそろ戻るのではないかと思っていました」
「無事に追い出したぞ」
「あらあら、なんの話でしょうか。では、夢をください」
 白を切る六花に那沙は嫌そうな顔をしている。店の鍵を開けてる那沙の後ろで、六花は優李に「機嫌が悪いみたい、優李も大変ね」とささやいてきた。自分が大変なことなど何もないので優李は首をかしげる。
 那沙は空色の夢玉を取り出して見せた。抜けるような空の色は、清々しさを感じさせる。
「ありがとうございます、ではお代を」
 六花は袋の中から青い高価をいくつか取り出した。それを受け取りながら那沙は「礼を伝えてくれと言われた」と伝えている。いったい誰からだろうと優李は不思議に思ったが、那沙は言わなかった。六花は会得したようでにっこりとほほ笑んでいる。
 六花は和紙に丁寧に包まれた空色の夢玉を受け取ると、優雅な足取りで店を出ていこうとする。
「優李、また遊びに来てね。あなたの香も用意しておくから取りにいらっしゃい」
「はい、ありがとうございます」
相変わらず六花は綺麗だ。優李はその笑顔に見惚れながら六花を見送った。