那沙は優李の頭を撫でるとふっと姿を消した。急いで獣医を見つける必要がある。優李のことを懸念しながら、那沙は旅館の中へと入りこんだ。
 那沙の姿が見えなくなると、優李は大きく深呼吸をしてから敷地へ入る。ここに戻るのはひと月ぶりだ、僅かに体が震える。那沙にはああいったが、やはり誰かに声をかけた方がいいかもしれないと辺りを見回したが誰もいない。みな旅館の方へ出払っているようだ。手早く荷物だけ持って那沙と合流しよう。
「優李!」
 駆けだした優李を飛び留める声があった。誰の声か見なくてもわかる。このまま走って宿舎に入ってしまおうかと一瞬悩んだが振り返ることにした。旭が笑顔を向けてきている。
「やっぱり優李だ! よかった、心配してたんだ。媛子が君が幽霊屋敷に住むことになったって言っていたから……」
「旭……」
 振り返ると旭が心配そうな顔で腕をつかんできた。優李は驚いたように目を丸くする。会いたくない相手だ、二人でいるところを媛子に見とがめられたらなんといわれるかわからない。
「幽霊屋敷なんかじゃない、素敵なお屋敷なの。ごめん、私急いでて……」
「優李、なにか変なことをされてないか? 金で買われたって聞いたぞ。調月の当主は白髪でそうとう年上なんだろう? 媛子が優李が無理やり連れていかれたって」
 旭の言葉に驚いた優李は首を横に振る。
「無理やりなんて連れていかれてない、それにお金なんか……」
「媛子が可哀想にって泣いていたんだ。気が付いたら優李の姿がなくて、さらわれるようにいなくなって。おじさんに聞いたら調月の家にもらわれて行ったって」
「それは……」
 媛子に蔵に閉じ込められていたのを屋敷の主人である那沙が助けてくれたのだと言ったら、旭は信じるだろうか。いや、そんなはずはない。旭が媛子の本性を知るわけがない。
「ごめん旭、私ひとを待たせていて本当に急いでいるの。旭も旅館に来てるってことは媛子さんに呼ばれたんじゃない、早くいってあげて」
「そうなんだけど……あのさ、本当に大丈夫なのか? 俺、優李が嫌だって言ったら助けてやるからな」
 助ける――か、優李は穏やかな顔で旭を見た。
「私、もう助けてもらったんだ」
「誰が助けてくれたっていうんだよ、君は調月の家に買われちゃったんだろう?」
「うん、その調月様が私を助け出してくれたんだよ。私、もう大丈夫だから」
「だけど優李、俺だって君のこと助けたいって思ってるから」
「でも旭は媛子さんの恋人でしょう? それなら私のことを考えちゃ駄目だよ」
「今はそうだけど……俺、媛子と付き合ってみてわかったけど、やっぱり俺、優李のことが好きだと思う」
「え……」
 そうか、だからだ。
 旭の告白を聞いて腑に落ちた。どうして媛子が旭と付き合い始めたのか不思議だった。旭のように穏やかなタイプは媛子の好みではなかったはずだ。媛子は優李のものを奪いたがる。媛子が旭に目を付けたのは、旭が優李に好意を持っていたからだ。媛子と付き合うようになって旭とは会話は愚か挨拶もできなくなった。旭がまだ自分のことを気にしているとは露にも思わなかった。
「旭、私、好きなひとがいるんだ」
「それって誰だよ、適当なこと言うなよ」
「適当じゃない、私、調月様のことが好きだから、今とっても幸せだから。じゃあね旭、今までありがとう」
「待ってよ優李、俺、納得してないからな」
「旭が納得してくれなくても、私は幸せだから。わかって」
 旭を振り払って宿舎の一階の部屋に入る。だが、自分の部屋に入った優李はその変わりように目を違った。
「え……」
 そこには優李の荷物などただのひとつもなく、旅館の荷物が詰め込まれている。まるで物置のようだった。どうにか荷物をよけて引き出しの中を探してみても学用品はおろか、大切にしていた家族の写真もどこにも見つからない。
「どこ、どこにいったんだろう。どうしよう、お父さんとお母さんの写真、あの一枚しかないのに」
 必死に部屋の中を探していた優李は、廊下を歩いてくる足音に気が付きもしなかった。ゆっくりとふすまが開けられると甲高い声が響く。
「泥棒みっけ。優李ちゃん、調月の幽霊屋敷を追い出されて戻ってきたの? 帰ってきたってここにはもうあなたの居場所はないわよ」
 振り返ると媛子が満面の笑みで立っていた。
「媛子さん……私の荷物を知りませんか」
「あなたの荷物、もういらないだろうと思って全部捨てちゃったの。だからここには何もないわ」
「写真もですか! ここに置いてあった写真立ての!」
 優李が必死な様相で尋ねると、媛子は「あぁ」と視線を上げてなにか思い出すようなしぐさをする。
「あの古い写真ね、あれは確かほかのものと一緒にお母さんが燃やしてたような……」
「そんな……! 家族の写真はあれしかないんです」
「そうはいっても、泥棒猫の写っている写真なんか見たくもないってお母さんが言っていたから多分もうないと思うわ。それはそうと、さっき旭となにか話していたでしょう? 旭、最近もあなたのことばっかり話すからイライラするのよね」
 媛子はため息を吐いた。
「私と付き合うって決めたくせにいっつも優李ちゃんのこと気にしてるのよ。全部優李ちゃんのせいだと思うの、本当に目障り、いなくなって清々していたのにどうして帰ってきたのかしら。早く消えてくれない」
 大事な写真を置いていったことを心底後悔した。もっと早く取りに来るべきだった。この部屋にいつまでも自分の荷物を置いていてくれるなんて、どうして思っていたんだろう。
「……言われなくても消えます。私の居場所はここじゃない」
「もちろんよ。あなたの居場所なんか、どこにもないわ。あのせいぜい幽霊屋敷の老人にすがって戻してもらうことね。どうせ愛人かなにかになってるんでしょう? あのおじいさん、年はいってたけど見てくれはよかったわ。若い頃は素敵だったんでしょうね。でも私はごめんだわ。若くて素敵なひとがいいもの。優李ちゃんはそんなこと言っていられないわよね。頑張って気に入られないと、本当に行く場所なんかないんだから」
「私は愛人なんかじゃありません」
「ふうん、口答えするんだ。本当に目障り。あのまま死んでくれたらよかったのに。いったいどうやって抜け出したの? 誰かが手引きをしたんでしょうけど、優李ちゃんに手を貸すなんて、もしかして旭じゃないでしょうね?」
「旭は少しも関係ありません」
「旭は私のものなんだから呼び捨てにしないで! 猫の子のくせに生意気よ」
 とげのある声だ。媛子のこういった一面など、優李の他には誰も知らないだろう。媛子にはこれまでさんざんいろいろなことを言われてきた。今更何を言われたって平気だ。優李は少しも装用の色を見せず媛子を見返す。
「優李ちゃんは本当にかわいげがないわ。泣いて土下座でもするなら、調月を追い出されてもまた下働きとしておいてあげるのに。本当に強情ね」
「私、もうお暇します」
「行くあてなんかないくせに、どこに行くっていうのよ」
 媛子がおかしそうに笑う音に誰かの足音が重なる。その気配にハッとして優李は廊下へ視線を向けた。
「媛子、こんな場所で何をしているの?」
「お母さん! 聞いて、優李ちゃんが戻っていたのよ」
「なんですって」
 姿を見せた礼子は優李の姿を見て眉を吊り上げた。
「やっと厄介払いができたと思ったのに。おまえ、調月様のところから逃げてきたんじゃないだろうね、ここにはおまえの居場所なんかないよ!」
「逃げてきてなどおりません」
「嘘よ。だって調月様ってすごい白髪のおじいさんだったでしょう? おじいさんの相手が嫌になっちゃって戻ってきたのよ。誠心誠意謝るっていうならまた下働きをさせてあげたらいいんじゃない? そうしたらほら、あの写真を返してあげたら、もう燃やしちゃった?」
「家族の写真が残っているのですか! 返してください!」
「はあ? おまえは何様のつもりだい。あの女の写真ならばらばらにちぎって燃やしてやったよ。あの女、私から遼一さんを奪った挙句、おまえのような子供まで作って。本当に母親によく似た顔だ、忌々しい」
「母はあなたから父を奪ったわけではないと思います。あの母が、ひとからものを奪うようなことはありません」
 母はどんなに罵られても胸を張っていた。
「黙りなさい! 決まっていたのよ、子供のころから。私は遼一さんと結婚するのを楽しみにしていたのに! 全部私のものだったのよ! 旅館も女将の座も、遼一さんも! 全部全部私のもの。あの女は泥棒よ! 遼一さんはあの女に騙されたのよ」
「違います!」
 優李が礼子に言い返すと、礼子がその頬を叩く。それから腕をつかんだ。
「優李、蔵に入っておいで! 反省するまで出しはしないよ!」
「優李、ここにいるのか!」
 那沙の声だ。足音がふたつ近づいてくる。
「優李」
 那沙が姿を見せた。那沙はいつものような白髪ではなく黒い髪をしていた。瞳の色も優李と同じように黒い。袖から覗く腕も黒くはなかった。人の姿を模しているのだろう。姿を見せたのは那沙ひとりではない、叔父を伴っている。
「礼子媛子、どうしてこんなところにいるんだ」
「え、あの、優李ちゃんが戻ってきたのが見えたから……」
「優李の荷物はどこへやった、まとめておくように言っただろう」
「え……あれは、お母様が捨ててしまいなさいって……」
 叔父に追及されて媛子はしどろもどろに答える。まさか、まとめておいておくのだとは思っていなかったようだ。
礼子は青い顔をして「そんなことは言っていません」と声を裏返らせた。
「礼子、話を聞いていればおまえは私との結婚が本意ではなかったようだな」
 叔父はちらりと優李を見た。相変わらず感情の読めない人だ。
「言っておくが、兄貴と結婚してもこの旅館は手に入らい。兄貴は家を継がないと言ってあの店を始めたんだ。義姉さんと結婚したからではない。それでも兄と結婚したかったのなら今から離縁しても構わないが……」
「そ、そんな! それは困るわ!」
 叔父の言葉に礼子が慌て始める。叔父は優李たちの会話を聞いていたのだろう。そうなると那沙にも聞こえていたに違いない。随分とみっともないところを見せてしまった。
「おまえが欲しかったのは、この旅館なのか、兄貴なのか」
「わ、私はあなたと結婚できてよかったと思っています」
 慌てる礼子に叔父は冷たい視線を送ってから視界から外す。腹を立てているのか、呆れているのか、どちらにせよ叔父と叔母はもともと仲が良いわけではない。優李は二人が会話をしているのを初めて見たくらいだ。
「それにしてもおまえたち、調月様の前でみっともない。優李、早く必要なものをまとめなさい」
「は、はい、ですが……」
「ちょっと待って、調月様はあの老人でしょう? そのひとは……」
 媛子は那沙を見てわずかに顔を赤らめた。
「なにを馬鹿なことを言っている。こちらが調月家のご当主那沙様だ。どこで見かけたのか、調月様が優李をいたく気に入ってそばに置きたいと言われてな。まだ未成年だから婚約という形で調月の屋敷に置くということで多額の結納金をいただいたんだ。以前話に来られたのは調月家の執事の方だ」
 叔父の言葉を聞いて驚いたのは礼子と媛子だけではない。優李も思わず腰を抜かしてしまいそうになる。媛子は姿を見せた那沙と優李を見比べた。
「調月家のご当主が、こんなに……若くて美形だなんて……」
 那沙の使いでやってきた腕が優李を連れて行ったと勘違いしていた媛子は美形の那沙を見て言葉を失っていった。
「優李、おまえには悪いことをした。礼子と媛子がおまえに辛く当たるのを黙認してきた。よい嫁ぎ先が見つかってよかったと思っている。調月様、姪をよろしくお願いいたします」
 深々と頭を下げる叔父に那沙は頷き、優李の方を見てくる。
「優李、もういいだろう、行こう。取りに来たものはあったのだろう?」
 那沙が優しく手を握った。温かい手だ。途端に心まで温かくなる。
「あ、あの、それが。荷物が何もなくて……」
 おずおずと答える優李の言葉に、那沙は叔父を睨んだ。
「どういうことだ、いずれ取りに来るからまとめておいてほしいと頼んでおいたはずだが」
「そ、それは、少々手違いがございまして……大変申し訳ございません。ほら、おまえたちも頭を下げろ」
 叔父の言葉に青い顔をしたままの礼子といまだに信じられない様子の媛子が従う。
「仕方がない、必要なものはこちらで用意する。今度優李には俺に対するのと同じように丁重に扱え、優李はもう俺の妻だからな」
「承知しております」
「時任、おまえの妻は今しがた優李を叩いただろう」
「……! 十分に反省させますので……」
「那沙、私は大丈夫です、慣れていますから」
 そういって優李は笑ったが那沙には逆効果であったようだ。ますます表情を強張らせた。
「次にやったらただではおかない」
「承知いたしております、私の方からもきつく言い聞かせておきますのでご容赦ください。大変申し訳ございませんでした」
 深々と頭を下げる三人を後に困惑する優李を連れて那沙は宿舎を後にした。

「助けてくださってありがとうございました那沙」
 那沙は不機嫌そうにうつむいていた。なにか気に入らないことがあったのかと優李は不安になる。
「みっともないところを見せてしまってごめんなさい……」
「なぜおまえが謝る。おまえは何も悪くないだろう」
「それは、那沙が不機嫌そうだから……」
 那沙は不機嫌そうな顔を上げ、今度はひどく申し訳なさそうな表情になる。
「おまえのせいではない、あの家族に腹が立ったのだ」
「そうでしたか。あ、あの、那沙、さっきの話はいったい……」
「おまえには嘘をついていて悪かった。だがほかによい方法を思いつかなくてな。どうやらこちらでは俺が嫁探しをしているのではないかと噂がたっていたらしい。しばらく使っていなかった屋敷に明かりがともり始めたからな。だからおまえに一目ぼれしたので連れて帰りたいと言って叔父に金を握らせた」
「そんな嘘をつかないでください……心臓が持ちません」
 優李が窘めると那沙は少し機嫌が悪そうな表情になる。
「それが最良だったのだ。そう嫌がるな」
「嫌なわけではありませんよ、ただ、私では那沙にとても釣り合いませんし……」
 ごにょごにょとしゃべる優李の言葉は那沙にはなんといっているのかわからなかった。
「安心しろ、おまえがあやかしの世に慣れればちゃんと関係を解消する」
 那沙の言葉からはなんの感情の色も見えない。迷惑がっていなければいいと思うばかりだ。
「その結納金というのも必ずお返しします」
「返す必要はない。大した金額ではない。ただ、代わりに何かしてくれるというのなら、おまえの夢を採取させてほしい」
「私の夢ですか?」
「そうだ。半妖のおまえは夢を見るのだろう。おまえの夢は人間の夢よりも貴重だ」
「そんなことでよければ」
 優李がうなずくと那沙は優李の頭を撫でた。
「那沙、獣医の先生は見つかりましたか?」
「ああ見つかった。夫婦で旅行を楽しんでいるようだ、だが少々様子がおかしかった」
「なにがおかしかったのですか?」
「仲睦まじい若い夫婦だったが、なにか問題を抱えているようだった。それがなにかはわからない。一度戻るぞ、俺は夜に夢を回収に来る。おまえは別荘で待っていてくれ」
「わかりました。あ、あの那沙、いろいろとありがとうございました。私、那沙のお役に立てるよう頑張ってお手伝いしますから」
「おまえは十分役に立っている」
 本当だろうか。もしそうなら嬉しい。優李は頬かゆるむのを感じながら那沙の半歩後ろを歩いた。