優李が那沙の店で働き始めてひと月が経った。そろそろ夏休みが終わってしまうという事実に優李は気が付かないふりをしていた。
「いらっしゃいませ! あ、いらっしゃいませ六花さん。先日は香をありがとうございました」
「あら、可愛い看板娘ね。すっかり店番が板について」
店に姿を見せたのは玉藻前の六花であった。六花が玉藻前という狐のあやかしであると優李が知ったのは最近のことである。六花は優李を気に入り、ことあるごとに店に遊びに来ては優李相手に世間話をしたがって、那沙は苦い顔をしていた。数日顔を見なかったから忙しいのかもしれない、病気などではなく元気そうだ。
「お茶の用意をしてきますね」
「待って優李、優李とお社をしたいのはやまやまなのだけれど、今日は夢を買いに来たのよ。那沙を呼んできてちょうだい」
 六花はひどく残念そうにため息を吐いた。
「なんだ六花、今日も優李相手に暇をつぶしに来たのではないのか」
 奥から姿を見せた那沙に六花は形の良い口を少しだけ開くと金色の美しい髪を払った。
「あら、今日の私はお客ですよ。ある男の夢をください。清守の森で出会った男の夢を見たいのです」
 六花は琥珀色の瞳に強い光を宿して那沙を見つめた。清守の森というのは優李が人の世から抜けてきた森とは異なる森である。西都の東にある森であり、都を警護する四神の一つ、青龍の管理下にある。青龍のほかにも中央政府から派遣された烏天狗(からすてんぐ)が守護しており、常に深い霧に覆われていた。 
「それは、特注という形でいいのか?」
「はい」
「高くなるぞ」
「言い値で構いません」
「わかった。おまえに金銭の話は必要なかったな」
「いえいえ、夢屋さんほど儲かってはおりません」
「よくいう。期日は七日ほしい。料金は十五(こん)になる。頭金として一魂払ってくれ」
「わかりました、よろしくお願いしますね」
 六花は蒼い硬貨を一つ、抱えていた小さな手鞄から取り出し、那沙に手渡した。
「たしかに受け取った。夢の持ち主を知るためにおまえの記憶、覗かせてもらうぞ」
「どうぞ」
 承諾を得ると、那沙は六花の額に手をかざす。ぽうっと、鈍い光が現れた。不思議な光景だった。優李には那沙の見る夢の景色はわからない。瞳を閉じる那沙の横顔をじっと見ていると六花が楽しそうに笑んでいるのが見えた。慌てて那沙から視線を外し、手持ち無沙汰になって店の掃除を始める。見惚れるくらい那沙は美男子なんだから仕方がないと優李は自分に言い聞かせた。

 那沙は記憶の中に入り込んだ。人の世で六花は狐の姿をしていた。わざわざ人の世へ何をしに行ったのであろう。特別な用事がなければ六花が人の世に行くとは考えがたい。那沙は不思議に思ったが、詮索すべきはそこではない。
 記憶の中の六花は、足を(はがね)の罠でがっちりと挟まれて身動きが取れず、もがいている。猟師の仕掛けた罠にはまってしまったらしい。
 清守の森は、音羽山と呼ばれる人の世につながっている。標高六百メートルほどの低い山の形を成し、その山中に空間の(ひず)んだ所があり、黄泉平坂との境になっているのだ。人間界の方でも、その先は神域と定められ、立ち入ることを禁じられているようなのだが、最近では立ち入る登山客なども増えてきているようである。
 あやかしの国との繋がりが薄くなった現代では、人間の世界に降り立ったあやかしは自分の世界のように力をふるうことはできない。六花もすっかりただの狐になってしまい、成すすべなく困り果てていたのだろう。そこに一人の若い男が通りかかった。
「おや、おまえ、罠にかかってしまったのかい? よし。待てよ」
 言うなり、男は無理矢理罠を壊すと、持っていた救急箱のようなもので六花の治療を始めた。その手際の良さに、人間の世界にいるという獣の医者なのだろうと那沙は思った。 罠から放たれた六花は、逃げるように森の中深くに走り、あやかしの世界に帰ってきていた。記憶は、そこまで。
「なるほど」
 那沙がゆっくりと瞳を開きながらそう言うと、六花は満足したようににっこりと微笑む。
「よろしく願いしますね」
「俺が人の世に行く間優李を預かってほしい」
「もちろん、お安い御用ですよ。優李を預かれるのは嬉しいです」
「あ、あの!」
 優李が二人の会話に割って入ってくる。
「私、一度人の世にいって考えなければいけないことがあるんです」
 気乗りしない様子だ。そもそも人の世にはあまり帰したくない。那沙が眉を顰めると、六花が補足する。
「優李は学校のことを心配しているんですよね」
 言われて優李は力なくうなずいた。那沙も当然考えていた。優李が行きたくないのであれば、人の世の学校は辞めてもいいと思っている。人の世のことを思い出させたくないと思い、優李には伏せていたがあの親戚のほうにもすでに話をつけていた。勝手なことをしたと思うが、あの家にいるよりも自分といた方が優李のためだろう。
優李は素直で賢く、那沙の店の仕事もすぐに覚えた。愛想もいいので客受けもいい。金華猫の一族にもきっとすぐに受け入れられる。優李はあやかしの世で十分にやっていける。優李が自分のもとから去りたいと言えば、すぐにでも金華猫のもとに返してやれる。
「那沙、やはり私も一緒に連れて行ってください。私、考えなければいけないことを後回しにしていたんです。もうすぐ学校も始まってしまいますし、やはりこのまま人の世から消えるように逃げてはいけないので……」
 何も知らない優李がそういうと、六花は珍しく少し不安そうな面持ちになり、ひとり首を横に振った。何か未来に見たというのか、不安になる。優李をこのまま自分のもとに置くべきではないのか。
「これは私が心配することではありませんね。未来はどうなるかわかりません。那沙、お願いしますね、私は帰ります。またね優李」
「あ、はい、お気をつけて!」
「そうだ、ひとつお伝えしておくことがあるのですが、清守の森で出会った人間は今優李の住んでいる町に来ているようですよ。参考になりましたら」
 六花が帰ってしまうと、那沙は店の扉に掛けてあった「商い中」の札を取り払う。
「では、夢を探しに行くが……」
「え、まだ昼間ですよ」
「問題ない。まずは目星をつけに行く。夜までに例の男を見つけたい。おまえも、一緒に来るのだろう」
 あの叔父にはもう話をつけてある、荷物をまとめておくよう腕伝手に言づけてもある。優李を一度あの家に連れ帰り、正式にこちらに住むことが可能なのだと印象付けるのも悪くない。
「はい」
 店じまいを終えた那沙は優李を連れて碁盤の目に区切られた通りを早足で進んでいく。店のある通りを北側に進み、一本西側に行くと、異なる通りに出た。
 八百屋や精肉店、雑貨屋、被服屋など、様々な食品や日用品を取り扱う店が立ち並ぶ大通りは買い物客でにぎわっていた。隣を歩く優李は道行くあやかしたちを見てはいちいち目を輝かせている。はぐれそうにならないか心配になり、その手を引いて人の波を縫うように進み、大通りを抜けて西区の外れへ向かった。目指すは保守の森。しばらく歩くと、賑やかな町並みから外れ、野原に出る。風の吹き抜ける道を歩いていくと、真っ白に塗られた美しい鳥居が見えた、その前に門番のように立つ男の姿が見える。神楽だ。清守の森ではなく六花の忠告を聞いて保守の森にやってきた。
「やぁ那沙の旦那、なんだ二人で出かけるのか、仲がいいことだ」
「茶化すな神楽、仕事だ」
 門番は那沙と優李の姿を見ると、顔をほころばせた。
「お疲れ様です神楽さん」
「よう優李、洋装もいいが和装も似合うな。もうすぐ日が落ちる、迷うなよ」
「問題ない日暮れ前に抜けられる」
 短いやり取りを終えると、門番はにぃっと目を細める。
「じゃあな。気をつけろよ」
 鳥居を抜けた那沙と優李は、深い森へと入って行った。保守の森はあやかしの世と人の世の境界が曖昧になる場所である。このような森は、保守の森の他にも三つほどあった。これらの森を通って、彼らあやかしたちは人の世にしばしば出入りすることがある。かつては、門番などはおらず、警備も手薄であった。獏のように仕事で行くもののほかに、迷い込むもの、そして、悪戯をしに行くもの……様々な理由で人界に紛れ込んでしまうものがいた。
 また逆も然り、人間が誤ってあやかしの世に入り込んでくることも多々あった。特に多いのは好奇心の多い子供だ。あやかしの世から帰ることができずに姿を消してしまうものもいた。人の世では、「神隠し」などと呼ばれている。
 西都の政府は、あやかしたちや人間たちが互いに行き来することを悪しとした。主な原因は、人の世における科学の進歩である。人の国とあやかしの国の乖離が進んできていると判断した。あやかしの国への人間たちの介入を危惧した政府は、門番である四神の一族たちだけではなく、直属の部下である烏天狗たちも配置した。山の中には、烏天狗たちの見張りがいるのである。
 森の中には烏天狗の目をかいくぐり、悪いあやかしがいくらか住み着いてもいる。日が暮れると悪さを働くようになるので、特別な用もないのに近づく者はいない。
 山の中に入ると、霧がかかってきた。烏天狗の張った迷いの結界である。慣れないものはあっという間に迷ってしまう。 那沙は霧の中を迷うことなく進み、三十分もしないうちに森を抜けた。小高い山の上から、人の世の夕焼けが見えている。空に溶け込むようにその形を崩していく太陽の眩しさに、二人は目を細めた。
 那沙は優李を伴い、獣医の男を探すため竜王山を下る。道すがら那沙は優李に声をかけた。
「優李、学校に通いたいならはうちの別荘から通えばいい」
「え……」
「おまえの親戚の家の方にも腕、あの別荘にいた鬼火の老爺を使いに出した。優李をうちに置きたいと話したら快諾した。もうなにも心配することはない」
 那沙の言葉を聞いた優李は心底驚いたようで大きな目を見開いた。
「そんなことまでしてくださっていたのですか……私のために……」
 優李はそう言って長いまつげを伏せる。喜んでいると思っていいのだろうか、優李からはきりとした喜びの色はうかがえない。
「嫌か?」
「いえ、とても嬉しいです。でも、那沙にまた迷惑をかけてしまったと……」
 なんだそんなことを気にしているのかと那沙は自分の中に広がりかけた不安を消す。優李は自分と一緒にいたくないのかもしれないと一瞬でも悩んでしまった、自分らしくもない。彼女の時は、すぐに決断できたというのに。
「迷惑ではない。おまえがいた方が店も助かる」
「本当ですか?」
「優李は働き者だからな、愛想もいいから客にも気に入られているだろう」
「本当ですか、那沙の役に立てるなら嬉しいです」
 愛想がよい分変な客に目を付けられないか心配でもある。だが優李の顔に喜びの色が浮かんだことに安堵して、那沙は獣医の気配をたどることにした。清守の森にいたという獣医がなぜこの町にいるのかという問いの答えはすぐに得られた。
 男の気配は優李の親戚が経営する旅館から漂ってくる。なるほど、ここに旅行にでも来ていたのだろう。数日もすれば家に戻る。なにもこんな場所にわざわざ足を運ぶことはない。獣医が家に戻ってから出直そうと那沙が足を止め踵を返そうとしたときだ。その腕を優李が遠慮がちにつかむ。
「大丈夫です。那沙が一緒なら、私は大丈夫。宿舎に取りにいきたいものもありますし、叔父や叔母にも挨拶をしなければいけません。何も言わずにいなくなるのは不義理かなと思います」
 自分の腕をしっかりとつかむ優李の顔を見る。その目にはわずかな怯えと、強い光が見えた。逃げるようにいなくなりたくはないのかもしれない。優李なりにけじめをつけたいのだろう。
「わかった」
 那沙は優李の手を握り直すと旅館へと歩みを進める。
「俺は先に獣医を探してくる。優李は少し外で待っていてくれ、後で合流しよう。おまえの叔父と叔母には俺も会う。獣医が見つかったらすぐに戻る」
「私も一度戻ります。学用品など、持ってきたいものもあるので」
「そうか、ひとりで大丈夫か」
「大丈夫ですよ。那沙と合流するまでは他の誰にも見つからないようにこっそりいきます」
「そうか……だがくれぐれも気をつけろ。何かされそうになったら俺を呼べ、すぐに駆け付ける」
「はい」