これは、すぐに夢だと分かった。

 異物感が凄い。
 銀色に光る鋭利が僕の身体を無情にも貫いている。
 何かが刺さっているという不快感と、それを認識した時に、僕の身体からは脂汗が止まらなかった。
 深々と身体に突き刺さる銀色は、痛みを置き去りにして大量の鮮血が溢れ出す。
 銀色に垂れ落ちた美しい紅蓮は、僕の身体を赤く染めあげて、“影”が銀色を引き抜いて、狂ったように僕を滅多刺しにした。
 馬乗りになって僕を殺していく影。
 英雄気取りな影が、振りかざすのは残酷な銀色。
 力が入らない僕は薄れる意識の中でそれを見ることしか出来なくて、影は僕をぐちゃぐちゃに刺していく。
 人生を手放すように、そのまま僕を意識のそこに沈んでいく。
 ──ねぇ。
 一瞬、誰かの声が聞こえた気がした。
 ──僕の。
 それから、通信が途切れる様に何もかも聞こえなくなった。

 意識の底は、自分が夢を見ていたと自覚するが、まだ目覚めたくないという気持ちに見舞われる。
 真っ暗な静寂が何故か心地よくて、今日も死んでいるように生きているんだなって思う。
 暗闇が、心地よくて、とてつもなく痛かった。
 そのまま、僕はゆっくり目を開けて、地獄(現実)に意識を浮上させた。




 高校3年生の春、桜が青く見えるような気がしてならない、そんな季節。
 美しい黎明と共に酷い目覚めで、僕はベッドに汚く皺を作りだした。
 悪夢を見た。
 酷い夢だ。
 ベッドの横にかかっているカーテンを覗けば、朝の日差しが淡くベッドを照らしている。朝に悪夢を見て目を覚ます──それが僕の日常。
 カーテンを勢いよく開けて、眩しい光に目を細める。
 ここ最近····血で噎せ返る様な悪夢を見る。影に追いかけられて何度も滅多刺しにされて殺される夢。夢の中の混濁とした意識と光景の中で記憶が曖昧で、うまく思い出せない。
 夢の中で刺されている場所に酷い違和感を覚える。故に僕はその違和感にただならない嫌悪感を覚えて、毎回目が覚める。
 だから殺されてから必ず朝が始まる。望んでもいない明晰夢、けど、それが正夢になっても別に良いと思っている。
 冷や汗で塗り潰された身体で辺りを見渡した。
 朝日に照らされる大量の本棚に並べられている本は、僕の数少ない心の拠り所だった。
 枕の横に置いておいた伊達眼鏡とタオルを手に取り、汗を拭き取る。時計を見たらまだ7時を回っていなかったのでゆっくりとドアを開けた。
 リビングには····誰も居なかった。
 当たり前かと思い、部屋を出た先にある階段を降りてリビングに向かった。
 僕の家は、タワーマンションの最上階だ。1つのマンションで2階の仕様になっており、階段を上ると各個人の家族の部屋が並べられている。
 所謂、メゾネットマンションというものだ。
 だが、7時を回っても僕以外の人は部屋から出てくることは無く、リビングのソファに掛けられている父のコートは無かった。母も寝室で寝ているらしい。
「どっちも居ない方がこっちとしては安心だよ」
 父はまだ家に帰ってはいなかった。
 僕は父を嫌っていた。母も嫌いだった。
 親のお陰で、僕は自殺願望すら芽生えてしまった。
 それはこの生活の代わりに父の暴力を受け続けなければならなかったから、理由は分からない。ただ僕だけが傷付けられる。子供の頃からそうだった。従わなければ手を出され暴力が始まる。従っていても何か行動を起こしたりしても暴力を振るわれる。
 僕の家族······と言うか僕だけがそれの繰り返しだった。
 そう、“だった”。
「お前みたいな奴は、一生帰ってくるな」
 人生はゴミだ。
 そうだろう、こんなにも汚いものしか見てこなかったんだから。
 学校の身支度を終えて、マンションのドアを開ける。その長い渡り廊下の先に、コートを腕にかけた父が歩いていた。一瞬目があった気がしたが、僕の事は何も気に止めていなかったので逆に安心した。
 僕もそれを気にせずに歩いて横切ろうとすると、急に父に声を掛けられた。
「おい。玲依(れい)
「何」
「母さんと命依(めい)は」
「····姉さんも、母さんもまだ寝てるよ」
「そうか」
 そうかってなんだよ。
 お前がこんな状況を作ったのにも関わらず別の世界でいい人ぶってんのか。
仁美(ひとみ)は····もう駄目だな」
 急に母さんの名前出すなよ、気持ち悪い。
「他の人と家に帰ってこないで、別荘で不倫してる人間が哀れみの感情なんて持つの?」
 父は僕の発言に睨みを利かせ、目を合わせて激しく睥睨した。何かの感情を怒りに変えて、僕にぶちまけているような目をしていた。
「····玲依、お前はもう喋るな」
「やっぱり、僕には発言権すら与えてくれないんだね」
「今日は──」
「僕の言葉すらも掻き消す理解力は尊敬する」
 その言葉の重みは、酷く父にのしかかったのだろうか。しかし父は、なんの“色”も放っていなかった。
 無。
 虚無も虚構も感じさせない。ましてや怒りも憎しみもない様な、ロボットみたいな感情だった。
 少しシワがあり、老け込んだ顔は、僕に似ていて、吐き気がした。
 父は少し黙り込んでから、バックルのついた黒いコートを着直して家のドアを開けた。
「····この後は今日も帰ってこない····邪魔だ。金の代わりに視界にすら入るなと言っただろう」
 ドアが閉まる。また冷たく、静寂な僕の世界が瞬いた様に一瞬で支配した。
「····結局、自分の利益のためだろ」
 父が経営している会社は、全国的にも有名な造船会社だ。それが僕の生活にどうこう影響すると考えた事はない。興味なんて微塵もない。血がどんなに影響していようと父は僕の事を継がせるつもりもないだろうし、僕もそのつもりもない。
 玲依──桜山(さくらやま)玲依、それが僕の名前だ。どのような意図で名前をつけたのかが分からない。
 僕は自分の名前が嫌いだ。
 名前の通り、僕は何も持っていない人間なのかもしれない。
 多分、僕は人間じゃない。
『助けて』や『許して』さえもこの家では通用しない。僕が自我を持つようになった時にはもう暴力を振るわれていた。僕は成長して父より力がついたのか、もう手を振るうことは無くなった。──滑稽な話だ。人に散々トラウマを植え付けておいて最後は知りませんって顔をした。
 母も父と一緒になって僕を叩いて蹴ったり、ばせいあびせてたりしていたのにも関わらず、僕が中学2年の時に意味も分からずヒステリック化──重度の鬱病を患った。
 もう一日の殆どを自宅の部屋で過ごしていて、毎日精神安定剤を飲む毎日が続いている。そんな秘密を隠して生きなければならない生活などもはや生き地獄に等しいものだった。
 僕には、少し年の離れた──4歳年上の姉がいるのだが、その姉と毎日喧嘩していた。
 その頃は僕が中学2年生で姉が高校3年生の受験期だった為かその進路に対する争いが激しかった。その中でも僕は何も言えず見ているだけだった。
 僕はこの家では発言権すら与えられないからだ。喧嘩しないで、とか何か言ったら母に『うるさい、喋るな、これは2人の問題なんだ』とか言われて跳ね除けられる。
 その対応にも姉は怒り、何度も喧嘩に喧嘩を重ねていく。
 それから、少ししたら僕は暴力を受けることは無くなった。····残ったのは、いつの間にか芽生えた死にたいという感情と、歪んだ心に根付いたシニシズムだけだった。
「結局──僕達は壊れてるんだよ」
 憎悪と、ほかの感情が混ざって、そう僕は吐き捨てた。

 学校に着いて、教室の自分の机に腰かけるとまず初めに始める事は読書だ。敢えて僕は早い段階に学校に行って自分の世界に入る事だけが人生を生きている理由とも取れた。
 窓側に席がある僕は、煌々と照らす朝日が視界に孕んで、本の文字が眩しさで剥がれ落ちる。
 黄色い朝日は、赤い血が通う僕の黄色い肌に解けて熱を伝播させた。
 その中でも自分の思考だけはやめていなかった。暴力を振るい続け、家族(ぼく)をゴミ同然のように捨てて知らんぷり、それ以上に金を持っている父、目にはもう光を灯してなどいない母、姉さんの命依はその中でも1番酷く、当時高校3年生だった頃に、姉さんは他人と交わる事を覚えてしまった。清楚の姿で偽ってはいるが何人もの年上の男と援助交際を重ねる様になった。
「あれ、レイ君! おはよう!」
 そして僕は、その金持ちであるという境遇から様々な女性に言い寄られて、女性不信になっていた。
 学級委員長の万屋涼奈(よろずやすずな)、皆からスズと呼ばれている。
 彼女とは、2年の時に同じクラスになり、3年のクラス替えでも偶然にも同じクラスになってしまっていた。
 どこからか僕に話しかけたりして、趣味の時間を削がれ度々うんざりしている。
「──何の、用かな」
「レイ君がなんで毎日こうやって朝早くから本を読んでるのかなーって思ったの」
 そんなの、絶対僕に近づく為の口実だ。
 そういう奴らを僕は腐る程見てきた、ただの好奇心で僕に近付いてきていると、認めたくないがそう見えてしまう。
 僕は、彼女の姿も見ずに答える。
「ただ、本が好きなだけだよ。それに、僕は君が思ってる様な人間じゃない」
「じゃあ、私が見ている桜山玲依君は虚像って事なの?」
 めんどくさいな、黙ってて欲しい
 一々話しかけるなよ。
「そんな感じでいいよ、スズさん」

 僕が見ている春は、全く桜色など見えない青色をしていた。ただの比喩表現ではあるが、そう比喩してしまう程僕の季節、生活、全てにおいて意味を成していなかったからだ。
 だから、青色。虚無の色。全てが今日の、虚ろな色。
 偽善ばっか並べるなよって、ずっと思っている。
 その鬱鬱怏怏とした気持ちを抑えこむように志望大学の赤本を開いて、ノートにシャープペンシルを走らせた。
 別に高3だし、受験期だし、そのような事を考えるより知識を深めて、自分が見てきた汚い世界から抜け出したかった。
 静寂から漸次喧騒へと変わっていく教室内、その中でも僕はずっとひとりでイヤホンを付けて赤本に向かっていた。
 別に僕は厨二病では無いし、それがかっこいいと思ったことも1度もない、だがそうまでして見ている世界から出来るだけシャットアウトしたかった。
 春休みが終わって、学校が本格的に始まれば嫌でも現実を見ることになってしまうし、学校が終わったあとが本当の地獄ということは僕も分かりきっていた。
 あと1年、それが続くとなると、死にたくなる。
 いや、死にたいけどズルズル今でも生きている。
 暴力は無くなったとしても、自分の家が大嫌いだった。いっその事この世界ごと消えてくれないかと思う。
 だから自分で自分を否定するしかない。
 それしか、自分で自分である事を肯定するものがなかった。
「おはよー、今日はマッキー居ないんだね」
 僕の席の近くで、僕とは全く違う雰囲気と色を放っている女性のクラスメイトが、話をしていた。
 どうやら、彼女の友達が休んだらしい。
「そうだね、マッキーが全く珍しい」
「多分体調崩したんじゃない? 皆勤賞が無くなっちゃうくらいの」
 マッキー? 誰だ。
 牧野? 牧田? 牧原?
 それとも下の名前で牧人とかか?
 そんなマッキーなんて言う名前は1度も聞いた事がなかった。
 まあ、それを知らなかったのは、僕が昨日体調不良で休んでたというのもあるだろうし、休んだ僕にも悪い所はあるのかもしれない。
 ホームルームが始まり、担任の先生が今日の予定などを説明していると、マッキーとやらの欠席の報告を聞いた。担任ですら渾名で呼ぶとは、どれだけマッキーは好かれているのか。
 僕の予想は牧野という予想を立てて、先生の話を聞いていた。
 と言うよりかはクラス替えで、新しいクラスになって2日目なのでまだ全員の名前など覚えていなかったし、スズさんとちらほらいる人は1年の頃同じクラスだったから僕に面識があるだけだった。
 それ程初めから親しげに接する人など、見たこともなかった。
「今日は配布物が多いから、マッキーの家に誰かプリントを届けてくれる人居るか?」
 マッキーの席は僕の後ろの席だった。
 どこの偶然か、言われた住所は僕の家からも近いらしい。
 はぁ、と僕はため息をついて手を挙げた。
「先生、僕行きますよ」
「お! 玲依、ありがとう。丁度家から近いから手を挙げてくれるのを待ってたんだ」
「は、はぁ」
「まあ取り敢えず頼んだぞ、放課後マッキーの家に行って行ってやってくれ」
「はぁ······」
 ホームルームが終わったあと、あのキャピキャピしたクラスメイトが僕の方に寄ってきた。
 顔は僕でも認めるくらいには整っていて、茶色い髪に茶色い目をした完全に陽の世界にいる女性。
 正直、彼女のような人種は一々人の懐に入らないと話せない生き物なのかと思ったりもしたが、それを言うのは必死に我慢した。
「ねぇレイ君、本当にマッキーの家行くの?」
「そう決まったから行くしか無いと思う、そのマッキーとやらの友達?」
「ま、まぁそうなんだけどさ」
 クラスメイトは少し黙り込んだ後、口を開いた。
「私さ、マッキーの家行ったこと無いんだよね」
「····ついて行きたいの?」
「いや、まぁね? 興味あるかなーって」
 内心僕は、とても気持ち悪いと思った。
「ちょっと遠慮して貰ってもいいかな、僕は先生に頼まれたからやってるだけで君が介入する事は無いと思うんだ」
「そ····そうだよね····」
 僕も冷たい口調で言ったせいか、少し悲しそうな顔で離れていく彼女を見て、その後に目線を移した。僕は貰ったプリントの封筒をまじまじ見る。そこにもプリントと書かれて、本名や、マッキーすら書かれていなかった。
 どんだけモテてるんだ。マッキーは。
 少ししょんぼりした様な顔で女子は僕の方から離れていく、これでいい、マッキーとやらの家に行くには女性など不要だ。
 今までもこうやって近付いてきた人は多かったからだ。女性は僕の本質じゃなくて、見ているのは僕の金だ。
 所謂玉の輿、その嫌な思い出が変にフラッシュバックしてしまう。
 中学生の頃、同じクラスの子に、そのような事を言われて、その頃からだ。
 だからいつの間にか、女性という生き物は大嫌いになっていた。
 女性不信と、女性恐怖症を併発した様な感じ。
 狂った家族をたどった末に、僕は重度の女性不信····この家庭環境と境遇から作られた桜山玲依という本質は、負の連鎖だった。
 はぁ、とまた溜息を吐く。
 周りを見ると、様々な感情が色と共に見え隠れして、目を塞ぎたくなった。

 何故か、僕には人に取り巻いている色が見えた。
 それが人が今何を思っているのか、どんな感情として色が見えるのか、というものだと分かるのには、あまり時間がかからなかった。
 小学生の時、それは突然見えるようになった。
 その人を見ると必ず色になって浮かび上がってくる。
 僕には眩しいくらいに光って見えたりしないし、目が痛くなる様な色では見えないけれど、人が宿しているオーラのような感じで人の皮膚の側面に沿って浮かび上がってくる。
 だるいとか、気持ち悪いとか、本心で感じている感情が色となってが見え隠れする。
 今は、伊達だが眼鏡を掛けていてあまり見えなくしているが、それが眼鏡をとったら酷い。意識しなくても全て見えてしまう、だから視力も悪くないのにわざと伊達眼鏡をかけてそれが見えるのを隠しているのだ。
 幼い頃から苦しい感情ばかり背負わされてきた僕は、誰にも誉れを受けること無くここまで来た。そんな感情が分かってしまうのは嫌だから、隠して騙して来た。それでも目を凝らすと嫌でも眼鏡越しに見えてしまうのだ。
 だから、父がどんな感情をしているのか分かった。
 何とも、馬鹿馬鹿しい話だ。
 僕に近付いてきた女子は、全員そういう色をしていた。金に目が眩んだ感情、ドロドロになった色。
 それが重なったが故に、僕は女性は愚か、人というものを信じることを辞めた。

 突然僕の携帯が鳴った。
 ラインだった。
 宛先は姉からだった。
『今日は遅く帰ってきて、お母さんの用事とセットで入ってるから7時くらい』
 それを見て僕は目を眇めた。
「今日はじゃなくて、今日もだよね」
 姉さんすら、壊れてしまった。
 姉さんだけは、壊れないで欲しいと思っていた。
 姉さんまで壊した家族を、僕は死ぬほど憎んでいた。
 なら、1番憎んでる自分が死ねばいいと何度も考えた。
 だけど、僕も死ぬことが出来なかった。
 簡単だ、単純に死ぬのが怖いからだ。
 死んだら人はどこに行く、地獄は本当にあるのか、このまま終わって良いのかと僕の頭にその考えが簡単に錯綜して頭をショートさせる。
 1歩踏みだす手前で、1歩下がって、ズルズル今まで生きてきた。
 それでも理不尽な理由をつけられて殴られた。
 それは母親の鬱病が発症するまで続いたから、中学2年まで僕の体は痣だらけだった。
 痣だらけの身体を隠すことに必死で、皆からも気味悪がられた。
 変わろうとした途端に大人がそれを邪魔をする、強制的に敷いたレールの上を無理矢理歩かそうとさせる所業を見て、僕は玩具かよと。
 多分、それを悟りきった中学生の時からもう、家族に対して無駄な感情や、人に興味を持つことは無くなった。
「なんで姉さんも壊れたんだよ·····」
 でも。
 それ以上に今日も明日も、何も変えられない僕を、1番呪った。

 先生に渡された住所を元に僕の家の付近を彷徨いていた。僕の家からそう遠くない場所の住所の筈なのだが、どうにも見つけられる事は出来ないでいた。
 何度もそこの付近を回って、本当に家なんてあるのかと思ったくらいだ。
 実際先生も「ここら辺の地区全く分からないんだよ」なんて言っていて、僕も分からないよと言いたくなる。
 携帯を開き、ネットのマップにマッキー宅の住所を打ち込んでイヤホンからその情報を聞き取ると『目的地』と言われすぐ目の前にあった事が分かった。
 何で気づかなかったのかと前を向くとそこはとても古い平屋建ての家で、本当にマップが間違っているのではないかと思うくらいの家だった。
 念の為、先生にもう1度連絡しようと思ったが間違えていれば連絡し直そうと思い、インターホンを鳴らした。
 玄関は横開け式のドアで、僕も少し古過ぎないかと思ってしまう程年季が入った平屋だった。
 表札も存在せず、ただインターホンがあるだけの、それだけの平屋。
『はーい』
 インターホンの主はまさかの女性だった。
 声変わりしていない特徴的な声で女性という事を見抜いた僕は少し後ろにたじろいだ。
 息を呑む。少し震えながら僕は答えた。
「あの、同じクラスの桜山って言う者ですけど····マッキー? 牧野? 牧原? 牧田? さんのプリント届けに来ました」
『桜山? ····あぁレイレイね! いまいくねー』
 は、レイレイ?
 どこからそんな渾名が出たのか、僕自身の記憶から巡らせても全く根拠となる物は存在しなかった。ただマッキーがそう僕を呼んでいるだけで、他の人達には呼ばれた事は無かった。ただ1年の頃も日誌を書くだけの作業を頼まれる時は普通に苗字か、『玲依』や『玲依君』だしこんなレイレイなんてキラキラした渾名、聞くだけで鳥肌が立つ。

 ドアを開けて出てきた女性は、パジャマ姿の──俗に言う白ギャルだった。

 髪はロングの金髪に、長いまつ毛に茶色の瞳、艶のある唇とやけに主張する胸·····よくあるライトノベルのヒロインの様なスタイルをしている彼女は、悪戯に笑った。
 恐らく見た感じノーメイクだ。だがそのノーメイクでも女性不信の僕ですら見入ってしまう程の美人だった。一瞬日本にこんな女性が居たのかと怖くなった。
 本当に僕の頭がおかしくなって幻覚でも見てるんでは無いのか、と目を何度も擦った。
「来てくれてありがとねーレイレイ! お茶出すから入ってよ」
 無理矢理手を引っ張られて家に入れられた僕は、疑問の声を上げることすら出来ずにドアを閉められた。
 そのマッキーの部屋に案内されて出されたのは本当にお茶だった。
 しかも自分で茶葉から作った暖かいお茶。僕の頭の中に思い浮かんでいた白ギャルというガサツな概念を真っ向から壊した瞬間だった。
 マッキーの目を眼鏡越しから凝視しても何を考えているのか全くわからなかった。それ以上に僕の事を見てニコニコ微笑んでさえいた。
「えっと······君がマッキー?」
茉姫奈(まきな)だよ、岩海茉姫奈(いわうみまきな)
「あぁ····よ、よろしく岩海さん」
 何故か彼女は、僕に対して頬をふくらませていた。そしてすぐに不機嫌な声音で僕に言う。
「茉姫奈」
「····茉姫奈さん」
「茉姫奈!」
「····茉姫奈」
「うんうん! よろしくねレイレイ」
 凄い血相で僕に呼び捨てで呼ぶ事を要求してきて、流石に後ろに下がった。生まれて始めて女性を下の呼び捨てで呼んだ。それに関しては何も別に感じる事はなかったが、目の前に美人のギャルが居るという状況が分からなすぎて怖かった。
「何で僕は君に茉姫奈なのに君は僕にレイレイなのかな····」
「その方が、なんか良くない?」
「いや、それだったら君も僕の事を玲依と呼ぶべきだと思うんだけど」
 茉姫奈は頬をふくらませながら「分かった」と言い、玲依の名前を沢山連呼していた。
 何故そこまで初めましての人間の名前を沢山言う必要がある、やはり白ギャルの考えている事は余り理解が出来ない。
「やっぱりレイレイより玲依の方がしっくりくるや」
「····は? 何を言ってるの?」
「──だってなかなか居ないじゃん玲依なんて、可愛くて珍しい名前で私は好きだよ結構」
 何を考えているんだ、こいつは。
「玲依なんて、結構いると思うけど」
「いや、私の知る世界では知らないかな!」
「そうなんだ」
「確か玲依って高校でも成績良かったよね、どうやって勉強してるの?」
 勉強はあまりしていなかった。
 教科書と公式を覚えてるだけ。
 それをやっているだけなら、否定されなくて済むから。
 何かを否定され、冒涜されるのが面倒くさくて、僕は教科書とノートに機械的に答えを当てはめていくだけ。
「毎回玲依の名前が順位表に張り出されてるから、凄いなーって思ってて」
「普通に、勉強はあんまりしてないよ。本は読んでるくらい」
「えーなにそれ、やっぱり天才じゃん」
 逆に聞きたい、なにそれとは。
 目がまともに見れない。また同じパターンの阿婆擦れが話しかけてきてるのと同じことだ。
「もっと楽しもう? お節介かなぁ······んーでも、今年受験シーズンだし、よく分からないよね」
「·····」
「あ、良かったら私がいいご飯屋さんとか紹介してあげようか?」
「·····」
「玲依? 聞いてる?」
 ハッとしたときには、顔を両手で触れられ強制的に合わせられた目。
 終わったと思った。
 でも何故か。
 なにか違った。
 そんな気がした。
 ずっと目を合わせてくる大きな瞳からは、何の感情も読み取れなかった。
 何を考えているのかが、分からない。
「····あ、うん」
「ていうかなんかめっちゃ素っ気なくない? 私がこうやってめっちゃ喋ってんのにさ」
 ずいっと近寄ってくる茉姫奈に比例して僕は後ずさる、僕に対する下卑た感情を一切持たないにしても腐っても女子は女子だ。
 その恐怖は簡単に払拭できるものでは無い。
 冷や汗を頬を伝い壁にぶつかる程酷く後ろに下がった僕は珍しそうな目で茉姫奈に見つめられていた。
 勢いよく壁にぶつかった頭と背中は、鈍い痛みを感じ取っていた。
「──どうしたの、玲依?」
「いや、僕は、」
「私の事、もう嫌いになった?」
「いやそうじゃなくて」
「だったら答えて」
 少し黙ってから、僕は口を開く。
 少し、声は震えていた。
「いや、あの·····」
 ずいずい近づいてくる茉姫奈を他所に、僕の頭の中では恐怖という言葉しか精神を支配していなかった。何の悪戯か知らないが女性不信の僕が、女性の家に居ること、そしてその1番僕と住む世界が違うギャルに目の前まで詰め寄られている事に、理解が出来なかった。
「やめてくれ····少し、近づかないで欲しいんだ」
「それはごめんなさい、でもどうして、」
「·······怖いんだよ、女の人が」
「····え?」
 疑念の声が、やけに茉姫奈の部屋に響いた気がした。
「······それは、どうして?」
 その通りだ。
 茉姫奈の言う通り。
 当たり前の答えだ。
 疑念、その答えに対する聴き直し。
 そうなるのも無理もないだろう。
「理解できないでしょ?」
「·······」
 本当にそうだ。
 理解された事なんてなかった。
 親にも試しに女性が怖いと言ったら、そんな嘘をつくなと言われて怒られた。
 女性不信なんて有り得ない、心無い先生からお前は発達障害かとも言われた事もある。
 そもそも、女性だと知っていればこんな所に来てすらいない。でも僕は来てしまったのだ、なんの確認しないでただマッキーを苗字だと思い込んで男子だと勘違いしてしまっただけでそれ以上も以下の理由もない。
 僕の確認不足。それに尽きるだけだった。
「理解されたことなんて無い、未だに僕の事を構う奴もいる。面白い話だよね」
 なんで、こんな事になってしまったんだ。
「ううん、面白くなんかないよ。私には分かるよ。その苦しい気持ち····辛かったんだね」
 それっぽい言葉。
 あぁ、やめてよそういうの。
「嘘だ。みんなそうやって言うんだ。『わかるわかる』って、本質を理解している人間なんて見たことがない。君が女性だと分かっていたら、ここになんて来てないさ」
「でも、玲依はここに来てくれたじゃん」
「聞いていなかったの? 君が女性だと知る前までは『マッキー』って渾名を男子だと思っていたんだ」
「そうだと思ってたよ」
「それに、君がどんだけ偽善を振りまいた所で、僕には丸わかりだ。僕の事なんて分かりなんてしないでしょ?」
「わかるよ」
 何を言っているんだ、この人は。
 分かるわけない、そもそも分かりきってないだろ。
 灰を被った道なんぞ、理解されてたまるものか。
「理解したつもり?」
「玲依が理解したつもりよりももっと理解してるよ」
「どういう事?」
「皆が玲依の事を分かってくれなかった分、私が分からないと誰が分かるの?」
 分かってないんだよ。
 そういうのは、世間一般にエゴイズムって言うんだよ。
 エゴイズムと履き違えた正義感。
 でも、そのエゴイズムを反面教師で演じたいのは僕の方だ。
 そんな正義感(エゴイズム)が1番の悪だということも、気づいてる。
 僕が1番茉姫奈に僕のエゴイズムを押し付けているのも。
 静止画の様に僕を見つめる茉姫奈の茶色の瞳は、濁りは全くなく、全てを見透かす故に澄んでいた気がした。
「それは····茉姫奈の、ただ個人のエゴじみた感想でしかないんじゃないのかな、そんな思ってもないような薄っぺらい共感なんていらない」
「薄っぺらくない! そんな証拠ある? そうやって思ってる玲依の方が私よりエゴじみてるよ!」
 分かってる。
 分かってるよ。
 けれど、
 僕が認めたくないだけだ。
 理屈を並べて逃げているのは分かっている。
 ただそれまでしないと、自分を肯定できるものが無くなってしまう。
 気がついた時には女性が嫌いだった。
 誰にも分かられない。そもそも──分かって欲しくない意地にも似た感情。
 痛みと共に颯爽と過ぎ去った季節を、向けられてきた下卑た目を、指されてきた後ろ指を否定してしまうからだ。
 否定して、肯定なんて絶対に出来なくて、過去という名のファッションを永遠にズルズルと引き摺っている。
 それが僕の心の中に渦巻いている惨状だった。
 無常にも、静謐な空間で刻み続ける秒針は、重苦しい音と共に僕に刻まれた業を長々と思い出すことは許してくれなかった。
「そんなに、なんで玲依は自分を否定しちゃうのかな······?」
「だって僕は──」

 僕は、君が描いている程、綺麗に出来た人間じゃない。

 俺は君みたいに、社交的じゃない。
 僕は君みたいに、性格も良くない。
 僕は君みたいに、輝いてないから。
 塞ぎ込むことしか出来ないんだよ。
「······そこから、言葉詰まってるよ」
「──僕は君が思っている程綺麗に出来てない、君とは全部が正反対だ。性別も、性格も、容姿も全部····」
「ただそれだけの違いじゃん。性別も、性格も、容姿も違ったとしても、私は玲依の“心”は私と一緒だと思ってるよ?」
 意味が分からない。
 お願いだから理解しようとしないで欲しい。
「どこが僕と同じっていうの」
「玲依はさ、ずっと自分が1人ぼっちだって思ってるでしょ? 私もそういう時期あったんだ」
「·······」
「だからね、私は分かるって言ったの。心は同じって言ったの」
 茉姫奈は、言葉を紡ぎ続ける。
「だから時々思うんだ。心を隠すためにこんな格好にしたのかなって」
「····それはどういう、」
 何かが違う。今まで会ってきた人とは、何かが違っていた。僕と同じで、要素は違えど不安があって、吐露し、そこに葛藤しながら生きている。
「私、中3の冬の時からこんな変なスレた格好してるんだよね。こんな格好を正当化して、本質は変わらないまま立ち止まってる私が1番欠けてるんだ」
 やめろ。
 やめてくれ。
 君の自分語りなんて聞きたくない。
 それ以上、暗闇から僕を引っ張りだそうとしないでくれ。
「······」
 突き飛ばすことも出来たはずだ。無理やりにでも遮ってしまうことも出来たはずだ。だけど、無理だった。
 僕の本能が、その行動を停止させていた。
「あのね、そんな私に言われるなんて、癪に障ると思うけどさ、自分で自分を背負わなくていいんだよ? 助けてくれないのが当たり前と思わなくていいんだよ? みんな自分の事なんて理解してくれないって思わなくていいんだよ? 玲依の周りが分かってくれなくても、信じてくれなくても、私は分かるから、私は信じるから」
 信じる。
 1番信憑性が高くて、それ故に1番軽い言葉。
 誰も信じないで、だれも信じてくれないで、今でも転がり続けて生と死の狭間で恐怖している僕と、その暗闇を裂くように言葉に意味を奏でる少女。
「諦めるなじゃなくて、諦めなくていいんだよって、頑張れじゃなくて、頑張ったねって。絶対に産まれた意味がないって思っちゃダメなんだよ」
 だから、と茉姫奈は僕の目を合わせ、手を握る。
 僕の力のない手が目の前にあげられて、茉姫奈の顔も近くなる。
「自分を責めたらダメだよ。自分を呪っちゃダメなんだよ。当たり前の日常が、それこそがどれだけ有り触れていて、言葉に変えられない大切なものなの」
 何故、自分はこんなに壊れそうで、心が泣いているのか。
 心になんて問うたらいいのか、その問い方も分からない自分に手を差し伸べるかのように差した光。
 あぁ、壊れる。
 世界が壊れる、黒のメッキが剥がれてく。
 色が付く、世界が色付く感覚がする。
 目を塞いでいた世界は、真っ暗な狭い世界は、突然取り付けられたドアと共に開いていく。
 茉姫奈の言葉を聞けば聞くほど、自分のエゴが綺麗に洗い落ちていく音がした。混じり気のない綺麗な言葉は、僕の世界を、残酷にも酷く震わせていく。
「よく頑張ったね、よく耐えたね、もう大丈夫だよ。もう1人で抱え込まなくていいんだよ」
 ただ真っ直ぐ受け止めて、放つ言葉は、僕の苦しみを解きほぐしてくれる光のようだった。
 認めて欲しかった。
 頑張ったな、と。
 ただそれだけの言葉が欲しかっただけだったんだ。
 初めて、分かって貰えた気がした。
 初めて、理解してくれた気がした。
 いや、いたのかもしれないなと。
 それは、僕がこの世で1番嫌っていた、女性だった。
 瞬間、暗闇に一筋の光が僕を貫いた。
 茉姫奈は僕の手を強く握り締めて離さない。僕は言葉すら失っていた。
「分かるよ、ちゃんと分かる。玲依のその誰にも言えない苦しみとか、私も言えない事とかも沢山あるし、この環境とか境遇とか人にあんまり言いたくないんだ。気遣われちゃうから」
 確かに、そう言うのも分かる。
 どんなに良く振舞ったってこの環境がバレてしまえば皆気を使ってしまうだろう。もし僕が女性不信でなかったら恐らくそうしたはずだ。
 今の僕には力が入らず、ただ茉姫奈の話を聞いているだけだった。
 話を聞いて、だが耳から耳に通り抜けずに、ちゃんと耳に浸透していく言葉。
 それで正しいのかは分からないが、今は何時も感じるはずの女性に対する嫌悪感を感じないので、聞くだけでも成長と思った。
 茉姫奈は僕の眼鏡を外し始め、軈て僕の目を真っ直ぐに捉えて言った。
「そうやって葛藤しながら、迷いながら生きていこうよ」
 茉姫奈の周りには、明るい色と、辺りにぼやけた陽炎のような透明な色が混在していた。
 築50年は経過している、本当にボロボロの家で僕に語る茉姫奈の言葉には、説得力しか無かった。ずっと苦しかった僕の心がちょっと緩んで、やっとそこに、冷たいながらも血が流れ始めた様な感覚がした。
 普通、女性がこんなに真剣に話をするだろうか、ノリやその場の雰囲気で言の葉を紡ぐ人達ばっかりだ。今まで偏見や容姿だけで判断していた僕が情けなく感じた。
 茉姫奈の容姿とは裏腹に僕に優しい言葉をかけてくれるのなら尚更そう思ってしまった。
「だから····これは私の“自分勝手”」
 一瞬、色が消えて、またゆっくり色が浮上する。
 冷静に茉姫奈の話を聞いていた僕は、一瞬でその行動が自分を変える為に自然と取った行動だと分かった。
「自分がしたい事なら、そんなの”自分勝手“だって言って、私は玲依を助けるよ。私は、玲依の心を少しでも今より楽にさせたい」
 僕とは違って、境遇を盾にしないで前を向いて生きている彼女が、酷く眩しく見えた。
 そしてあの目、あの目は。
「私は“君と一緒”だから、玲依に対する憎しみとか、妬みとか、何にもないよ」
 眩しすぎる目には、温かさがあった。
 純粋な言葉。
 止まっていた時間が動き出そうとしていた。
 冷えきった心が自然と熱を込み上げては顕れる。
「私は話したからさ······玲依、話して? 私が知らない君だった頃、ずっと君が隠してたこと。私は知りたい」
 そう言って茉姫奈は、僕の本質を見抜くような双眸で僕を見つめた。
「──分かったから、もう少し離れて」
 別に彼女に対して変なシンパシーでも感じた訳でも無いのに、あの目を見せられたら自分の境遇を全て吐露するしか無かった。
 あの茉姫奈の目、“本当”の目だった。
 本当に“知りたい”という感情の目をしていた。他の欲なんて全くない、全ての欲を追っ払ったような澄んだ瞳は、僕の影を切り裂いていく。
 切れかけの心の燃料に火を付けるみたいに、言葉の一つ一つの歯車が僕の中で回り出す。
 僕は茉姫奈を信じるしか方法が無かった。茉姫奈を信じて自分の全てを言うしか無かった。
「僕達の家族は──」
 そこから全てを話した。
 家庭環境が崩壊していること、タガが外れた様に、狂った様に他人に自分の境遇を全て吐き出した。
 僕だけに対する家庭内暴力で母は重度の鬱病を発症した事を引き金に暴力はなくはなったが、尊重されたり優先されるのは母と姉さんになって、僕は未だに理不尽な立ち位置に立っている事。
 自分の存在には何の正当性もなくて、従わなければ杭を打たれる。
 そしてその裏側を全く知らない女子達が僕に金とか権力とか持ってると勘違いして寄って集って僕に媚び売り合戦。僕のことを見ているのじゃなくて玉の輿を見ているのだなと思ったら、嫌でも女性をそういう下卑た目で見るようになってしまった。
 それも全て茉姫奈に話しても、顔色ひとつ変えず真剣な眼差しで聞いてくれた。
「何か言われれば手を出されて、何も言わなかったら意見を要求してくる······酷い有様だ。まるで生き地獄、何度も死んだ方がマシだと思ったよ」
「それは···どうして?」
「····終わってる家族に生まれて、間違った環境があって、結果今の僕を作ったんだ。そんなもの、そう思うに決まってる」
 感情がとめどなく流れていく。
 言葉を吐き出してこなかった子供が必死で誰かに垂れ流す様に。いや、もしかしたら面と向かっているけれど、言葉に熱がないだけで、僕はネットに狂気を垂れ流す無機質なネット民のようだ。
 僕は続けて言った。
「鬱病になった母さんも酷かったよ、ヒステリックになった母さんは色んな理由をつけて喧嘩し始める。包丁を持って『殺してやる』って言って姉さんも『殺してみなよ』て言って僕が止めるしか無くなるって言うのが続いたよ、今はずっと部屋にこもりっぱなしだけどたまに意味不明な言動で暴れてる。それを見つけたら僕や姉さんが薬を飲ませて寝かせてって感じだよ」
 空気が漸次、重くなっていくのを感じた。
 当たり前だ、こんな胸糞悪い話。盛大に道を踏み外した家庭があって、でも金は持っている。こんな汚れた家族も嫌だったが、それに甘えの感情を持っている自分自身が嫌だった。
 いや、僕が自分で話して重くしているだけだと言うのに。
 ただ過ごしていれば裕福な生活が出来る。母が鬱になった途端暴力も無くなったし、少し家族のいざこざを耐えればなんだって出来た。自分の口座に入っているお金で全てやりくり出来ているし、父は僕の人権を無いものにする代わりに全く減らないほど口座に自動的に金は振り込まれていた。
 最初は逃げ出したかったのに、頭の片隅でこんな最低な事考えて──何でこんなに汚れてしまったのか。
「私はさ、自分が満たされる為には、ただ裕福だけじゃダメだと思うんだ」
「·····それは、分かってるけど」
「どんな瞬間でも“生きてる”っていう瞬間があるから、それを私はずっと探して生きてるんだ」
「──茉姫奈って、人生本当に楽しそうだね」
 別に自分には無い感情が羨ましくて皮肉を込めて言っている訳ではなかった。僕が見てきた人間には全く無い感情。彼女の出会いが、僕の青い世界を少しずつ現実の色に変えていく。
 生きてるって思う瞬間なんて、感じた事ないけれど。
 最初は最悪だと思った。だけどこの話を聞いて、自分のさらけだしたかった本心をぶちまけてスッキリした気持ちと、産まれて始めて女性に対する信用が生まれた。
 少しずつ、立ち止まっていた僕を茉姫奈が歩き出す勇気をくれる。そんな気がした。
 彼女だけならまだ信じる事が出来た。
 そして茉姫奈は、素っ頓狂な顔をしてから、屈託のない笑みを零して僕に言った。
「うん、そうだね。そう見えてるなら、嬉しいな」

 それからは、他愛も無い話をして過ごした。ふざけた口調で今日も父に反抗したりした事とか、茉姫奈も皆勤賞破ってまで本当は疲れてたからただ休んだこと、普通に女性と話しても案外話せるもんだな、と思った。
「そうだ、ねぇ玲依」
「どうしたの」
「お父さんは、家に帰ってこないの?」
「あぁ、父さんは家に帰ってこないで、別の家で別の女と不倫中」
「え」
「ん?」
「じ、じゃあ····お姉さんは?」
 あまり声を大にして言えない話題なので、僕は携帯を開いて、僕と姉さんのトーク履歴を見せていった。
『今日も遅く帰ってきて』『今日は沢山お金入ったから2人でご飯に行こうか』『レイ、今日も遅くに』
「いいお姉さんじゃん、お姉さんはいい人じゃないの?」
 何が何だか分からない茉姫奈に写真のフォルダを開いて、姉さん自身がホテルについている大きな鏡の前で撮った下着姿の写真を差し出した。
「何人ものおじさんと援交中なんだよね」
 それを言った瞬間、茉姫奈の顔は一瞬で赤く染まった。爆発寸前の茹で蛸みたいな顔をして頬に手を当てる。
「えっ、えっ? それって·····」
 この反応を見て、僕はまさかなと思った。こんなスレた格好してて?
 確かにこの格好に変えたのは高校1年生の時って言っていたけど、その時に何か····彼氏の趣味に合わせてずっとそれ、とかでは無いのか。
「ねぇ、まさか──」
「言わないで!」
「それか岩海茉姫奈の頭の中は少女漫画?」
「──そ、それでいいから····それだけは言っちゃだめ!」
「意外だな····君が乙女だったとは」
「そういう玲依はどうなの?」
「······君と同じくだよ」
 茉姫奈の恥ずかしそうな顔がいきなり晴れて僕の方を見て喜び始めた。
「はい、同じーっ」
「はいはい」
 今見ると茉姫奈の部屋はまさに殺風景という言葉が似合う部屋で、ベッドと壁に1つの本棚と、その横に椅子と、椅子の上にバケツが置いてあって、あとは時計だけがぶら下げられているだけだった。何故、部屋にバケツがあるのだろうか? 疑問あったが、あまり深くは考えなかった。
 そして本棚に並べられてある本は、色んなものがあった。参考書や漫画、小説もあった。1つの本棚にぎっしり詰まっていたが、それでも僕の本棚よりは全然少なかった。漫画でも小説でも、かなりの数を揃えているので、茉姫奈の部屋を見ても別に驚きはしなかった。
一番下の段は、カバーがかけられていて、タイトルとか、どんな種類の本なのかは分からなかった。
「玲依のお姉さんってさ、玲依に優しいと思うよ」
 それは、言えている。
 家族の中で唯一優しくしてくれていて、何かと気をかけてくれたりしてくれている姉さんの事は、嫌いと思った事は一度もない、だからこそ心の奥底に引っかかる。
「····それは分かってる。援交なんてする前は僕の事を守ってくれてたりもしてた。援交をしている時も、度々多くお金が入ったらいいお店に連れてってもらってたりしてるけど、だけど釈然としない。こんな自分を汚してお金を稼いだってなんの意味があるのかなって」
「お姉さんの事、いい人って思ってるなら、玲依もお姉さんの事守っててあげないとね」
「····うん」
 急にドアが開いた。壮年の女性で茉姫奈によく似ている顔立ちとあまり似ていない柔和な表情をしていた。
 一目で、茉姫奈の母だと分かった。
「あら、茉姫奈のお客さん? お見舞いに来てくれてるの?」
「うん、まあそうだよ」
「お名前は?」
「玲依! 桜山玲依だよ」
 少し驚いた顔をして、茉姫奈の母親は、僕のほうを見てお辞儀をした。なんで驚いたのかと違和感に感じたが。
「改めてこんにちは玲依君、茉姫奈の母の茉莉花(まりか)です」
「あ、初めまして茉莉花さん」
 僕も茉莉花さんにお辞儀を返す。
「あと聞いてよ玲依君、茉姫奈ったら寝坊したから面倒臭いって言って皆勤賞破ったのよ。なんの風邪でもないのにねぇ? 受験シーズンなのにそんなことしちゃダメよ?」
「お母さん!」
 茉莉花さんは黒髪に茉姫奈と同じ目の色をしていた。ギャルの格好をしている茉姫奈をそのまま大人にして黒髪にさせた姿そのものだった。
 確かにすこし茉姫奈と似すぎているのもあって、かなり若く見えた。だが茉姫奈よりは感情の喜怒哀楽がしっかりしていそうな感じで、一言で言えば美人だった。
「ごめんねぇ、こんな古い家まで来てくれて」
 少し心配したかの様な口調で茉莉花さんは僕に言った。別に家の古さや新しさで人の沽券が決まる訳じゃないから、何も気にしてはいなかった。
 だが笑顔を欠かさない事や家庭的に綺麗な部屋や、整えられている内装を見たら家族皆良い薫陶を受けているのは確かだろう。
「いえ、気にしてないので大丈夫ですよ」
「この家に入れたの玲依が初めてだよ」
「僕が初めてで嬉しいよって言って欲しいの?」
「ぶー」
 茉姫奈は頬を膨らませて僕の方を見つめていたが、軈てそっぽ向いてしまった。茉莉花さんは苦笑しながら「こういう気難しい性格なの、ごめんね」と言って僕達にジュースと少しのお菓子を出した。
 別に頼んだ訳でもないが、とても饗す気遣いなどは出来ているし、凄く良い家族だ。
「ごゆっくりしてってね、玲依君はもう何時でも来ていいよ」
「あ、はい。わざわざありがとうございます」

 あっという間に日も暮れ、姉さんが予定していた時刻に差し掛かり、今日はこれくらいで帰る事にした。初めはどうなるかと思ったが、茉姫奈のお陰で少しは楽しいものになった。
 茉姫奈が僕に歩みよってくれたお陰で、女性に対する嫌悪感や押さえ込んでいた悩み、歩いて来た汚れた道が少し凪いだ気がした。
 十字架のように取り巻いていた黒い足跡が少し薄れた感じがして、足取りが少し軽くなっていた。
「玲依、今日はありがとうね」
 薄暗い玄関で茉姫奈は僕に笑顔で挨拶をした。
「こちらこそ」
「他の友達には秘密ね? どんな家かは言っちゃダメだよ?」
「そもそも友達は居ないから大丈夫だよ」
「それはそれで悲しいね」
 そんな事を言うと、茉姫奈は笑顔で僕を見つめた。僕は少し共感してしまい「確かに、そうかもね」なんて言ってしまった。
 笑顔は自然と溢れるものだと言うが、茉姫奈の笑顔は本当にその言葉の通りの笑顔だと思った。
 別に笑顔にさせる事とかに拘っている訳でも、自分自身が笑顔で溢れている人間でも無いけど、茉姫奈が僕にみせた笑顔は何故か本当に、心の底からの笑顔のような気がした。
 一瞬でそう思う僕もどうかと思うけど。
 それが自分の滑稽な妄想であることは分かっているけど、初めて他人が見た笑顔に感情が見えた。こんな事他人に言ったら気味悪がられてしまうのは如実に見える事だが。
 表情筋は、動くだろうか、笑い方は忘れていないだろうか。ずっと生きづらさを感じていた。笑い方すらも全て。
「でも、今日から私が玲依の友達!」
 虚構の世界に逃げるしか無くて、照らされない道が照らされかけているこの時、初めて僕は。
 息を吸えた気がした。
「そうだね」
 とても不器用に笑ったかもしれない僕の笑顔に茉姫奈は少しばかり面食らって動かなかった。
 本当に汚い笑顔だったのかと心配になって、茉姫奈に「どうしたの」と聞いてしまった。
「いや、あー·····玲依って笑ったらやっぱ可愛いなって」
「そうなの?」
「そうだねから、いきなりそうなの?って疑問形とかネガティブすぎ」
「初めて、言われたから」
「·····そうなんだ」
「玲依の顔は、かっこいいよ。眼鏡とかであんまりよく見えないけど」
「お世辞?」
「私、お世辞言わないタイプ」
「そういうの、僕あんまり分からないんだ」
「分からないなら、これから分かっていけばいいんだよ」
「·····ありがとう、茉姫奈」

 
「おかえり! 玲依」
「ただいま、姉さん」
 家に帰ると、いつもは僕が作る料理(殆どは外食なのだが)を姉の命依が作ってくれていた。もちろん殆ど料理など命依はしたことは無いので、味には期待していない。
 殆ど外食している理由は、母さんがその時間を見計らって自分でご飯を食べるからだ。薬は勿論だが、鬱病を改善する為に必要な栄養素や食事を考えなければいけないので、僕は「食事くらい作るよ」って言ったら母さんは「あんたの作ったご飯なんて食べたらもっと酷くなる」と言われてしまって、諦めて外食か、自分の分は自分で作って自室で食べている。
 そう言われた時も、もう何も感じなかった。復讐という感情が芽生えた時は中学生になりたての時だったから、それを超えた僕は家族(父と母)に対しては感情を出すだけ無駄だなとまで思えるようになってしまった。
 家に帰って階段をのぼり、自室のドアを開ける、暗い部屋が一気に電気で明るくなって目を狭めた。
 白い壁に、一面に本棚に敷き詰められた漫画や小説。
 やや大きめのベッド。
 自分で買った服などが敷き詰められたクローゼット。
 おもむろに机と椅子がある隅の壁を見たら、将来の夢を書いた張り紙が貼られていた。
 これは、絶対に破ろうとは思ったことは無かった。
 信念に近かった。どれだけ馬鹿にされてもこれだけは成し遂げようというという自分の、僕自身の決意だった。
 確か、かなり前に書いたもので、丁度暴力のピークの時の中学生の時だ。
 絵に書いたような壮大な人生では無い、全くもって間違った人生だ。何度も自分を殺そうと思った。
 復讐という言葉を履き違えて、家族すらも殺そうとも思った。けど、この貼り紙が引き止めてくれた。
 決意とは、1度決めたものではなく思い出すものだ。今までずっと忘れていたけれど、ふとみた時にそれを成し遂げるまでは、人として死にたいと毎回思うのだが、すぐに忘れてしまうのは、僕の心が弱いからなのか。
「玲依、ご飯食べな?」
「うん、わかった」
 突然ドアを開けてきた私服姿の命依に呼びかけられて、それに応じる。
 乱雑に置かれたリュックと、丁寧に掛けられたブレザーを見て、ドアを閉めた。
 作ったばかりであろう、まだ熱がある白米と味噌汁、そして、比較的簡単な生姜焼きが置いてあった。
 あまり確認してなかったが、間近でみると中々美味しそうに感じる。
「いただきます」
「うん、頂いて」
 黒い髪と黒い目がご飯を食べる僕を見つめる、まじまじ見られて食べ辛かった。
 命依は、かなり美人だと思う、近くで見たら尚更思う。茉姫奈に全く負けていない。
 なのにそれを武器にまともな──もっといい恋愛ができたはずなのに、援交ばかり繰り返して自分の価値を下げている。
 性格も、この桜山家では人権がない僕を守ってくれている程だ。
 幼少の頃の暴力でボロボロになった僕を、隠れて手当してくれていたり、余ったりしたご飯を食べさせてくれたりしていた。
 やはりその家庭がストレスを生んで、姉さんだけが愛を貰うのに疑念を持ち始めたのだろうか。
 僕はそれでも良かったのに、僕が犠牲になって姉さんだけが愛されればそれで良かったのに。
 お金は家庭から隔絶される代わりに月に巨額の金額を貰っている。姉さんはそれ以上に僕に固執した。
 もう一度、深く考えてみたら分からなくもないかもしれない、と思ってしまった。
 家庭が壊れ、僕もあまり家族とは話したがらない。今では姉さんはお、金を貰う代わりに好きでも無い男と援交を繰り返している。
 肌を重ねて、何回も男に貫かれて、偽りの快感に支配されて、自我すらも穢れていく、僕の想像だから姉さんがどう思ってるのか分からないけど。
 僕が愛されない怒りを、援交、もといセックスというもので解消しようとしていたのか。と思ってしまう時もあった。
 ちょっと噎せたのか、姉さんは咳をしながら僕に聞いた。
「美味しい?」
 食べながらそんなことを考えていたら、姉さんはそう言った。僕も茉姫奈から教えてもらったかもしれないぎこちない笑顔で応える。
「美味しいよ、姉さん」
「·····玲依が笑うなんて、久しぶりだね」
「そうなの?」
 不意にまた疑問から入ってしまった。
「うん、クリスマスの時に隠れてあげた財布覚えてる? その時の笑顔が最後」
「うん、今も使ってるよ。ありがとうあの時は」
「改めてどういたしまして」
 貰った後に調べたらかなり高いブランド物の財布だとわかり、とても申し訳なくなったのは今でも覚えている、唯一家族から貰った大切なものだから今でも綺麗に使っているつもりだ。
 だけど、当たり前かもしれないけど、父さんからも母さんからも、貰ったことなんて一回もなかった。
「私さ、あんまりお小遣い貰ってなかったからさ」
 知ってる。
 母が鬱病になってから、僕は父から金と引き替えに家庭から隔絶されてからも、姉が学校の学費代以外の生活のお金は、僅かな金額しか貰っていないのは知っていた。
「だけど、玲依の為に何とかして買ってあげたくて、“あれ”が最初」
 知ってる。
 家族も壊れ始めて、姉にすら愛が存在しなくなった。
 姉さんが高校3年生の時だ、その時が最初、その時処女だった姉さんは金と引き換えに見知らぬ男とセックスをした。
 そして僕が中学2年生の時にズルズルと今まで援交を繰り返して僕は姉さんが援交を始めた歳になった。
 4年だ。4年もの間金の代わりに身体を売ってきたのだ。
「ねぇ、姉さん。もうやめたら」
 不意に出た言葉は、姉さんを深く突き刺した。気がした。
「どうしてそう思うの?」
「僕のお金を使えばいい、高校生や大学生の範疇なら····どれだけ遊んでも、何を買っても余るくらい貰ってる。もう姉さんには自分を壊すような真似をして欲しくない」
 そう言って僕は続けた。
「大学を卒業したら、姉さんならいい所にに就職出来るはずだ。なのになんで他の男と交わってまでお金を欲すの?」
「·····じゃあ、代わりに玲依が満たしてくれるの?」
 何を、言っているんだ。
 不意に出た姉さんの言葉に嘘は感じられなかった。
 人間としての禁忌、近親相姦。
 それは。
 ダメだ。
「それは、倫理的にダメだよ」
「何言ってるの? 私が言ってるのは、デートとか遊んだりの事を言ってるんだよ?」
「·····あぁ、そっちの方」
「えーなになに? エッチな方でも想像しちゃったの?」
「いやっ、そんなわけじゃ····」
 命依は僕の勘違いにくすくす笑って、深呼吸をした。何が面白かったのか、僕の勘違い如きでこんなに笑ってくれたのは初めてだった。
 ほんとに、何を考えているのか分からない
「最近“セックス”はしてないよ。他のことをしてあげてお金もらってるだけ。別に貰える額変わらないし大丈夫だよ、心配しなくても」
「でも僕よりは貰ってないはずなのに、いい所のご飯とか連れてってくれてるのはちょっと可笑しいと思う、姉さんが言うデートの時は全部僕に奢らせてよ」
「──わかった、ありがとう玲依」
 あと、と続いて姉さんが僕に言う。
「玲依······今日の昼から、お母さん病院の施設に入れられてて、病気治るまでしばらく居ないから、把握お願いね」
「え、あ····うん。わかったけど、なんでこのタイミングで?」
「──邪魔されたくないから、かなぁ?」

 夜の寝室は、何か出てきそうでたまに怖くなる。何もしてないのに暗い部屋で親に殴られたこともあったし、幽霊は信じてはいないけど、でも瞬きした刹那に何か大きな、黒い自分の感情が見え隠れしそうな気がしたから、1回目を閉じたら絶対に目を開けないようにしている。
 姉は居るけれど····自分を呵責し、傷つける存在は誰も居ないからなぜか今日は安心して眠れる気がした。僕が大きくなる前までは三日にあげず暴力を振るってきたのに、その原因すらも教えられず僕も流されて傷を、痣を作っていく。
 別に反抗する気もなかった。
 ここまで来たら僕自身も呆れて反抗する気になれなかった。何度も殺そうとは考えたけど。
 反抗はしないけど、復讐はしようとずっと思っていた。何言ってるかほんとに分からなくなる。
 自分の頭でも考えられるのかと思う程、狡猾かつ残酷に、凄絶という言葉の具現化したような殺人の仕方も考え出したこともあった。
 タブレットを倒して、動画をずっと流しながら寝るのが昨日と同じ生活だった。いつの間にか寝てるし、ずっとそっちの方がその恐怖が和らげられる。
 でも、最近毎日見る悪夢にはうんざりしていた。
「······はぁ」
 毎日、噎せ返る様な悪夢。
 その悪夢すらも、否、もしかしたら僕の人生も夢そのもので、全部が虚構の夢で作られた世界だったら、どれだけ楽だろうか──なんて思ってみた。
 シュミレーション仮説、なんて大層な名前のぶっ飛んだ考え方もあるのだし、もしかしたらあながち間違っていないのかもしれない。
 そんな事を思いながらも、いつの間にか意識が現実から乖離していた。

 タブレットの光でおもむろに目を覚まして、指している時刻は11時に近かった。
 うっすらと網膜に、浮かび上がる再生済みの動画。タブレットの明かりだけが着いた薄暗い部屋が、自分はまだ生きているという事を虚しく証明する。
 別に、いつでも世界から消えてもいいと思っているけれど、今は無性に飛び出したくなった。
「夜の外に、行ったことなかったな」
 なぜかはわからないけど、深夜の街に飛び出したくなってしまった。
 皆からしたら深夜じゃないのかもしれないけど、僕から考えたら十分深夜の分類に入る夜の深さだった。
 そう不意に思ってしまって、タンスにある適当な服を着た。出来る限り姉さんを起こしたくないので、静かに着替える。
 そして音を立てずに、家を出た。
 長い廊下を抜けて、エレベーターに静かに乗ってエントランスを出た。冷ややかな春の風が髪を靡かせて、少し息を結露させる。
 外は、鮮やかな灯りが煌々と当たりを照らしていて、深夜とは思えないような明るさだった。何故か見えている世界は、今まで見てきた世界の中で、就中綺麗な気がした。
 見えていたモノクロの、灰を被った世界は洗い流され、漸次色づく世界へと変貌させていく、視界がモノクロに見える病気でもなかったのに、今まで閉ざしていたものが一瞬で花開く。
 夜、春──ただ感傷に浸っていて、今まで感じたことの無い感情に左右されながら、雑念が渦巻く街中を漠然と歩き出した。
 様々な人の雑踏が深夜なのにも関わらず蠢く中、街のガラスのショーケースに映るブランドのマネキンと視線が交差し、その箱の灯りに反射して自分の姿が映った。
 普通の長ズボンに、普通のシャツ、人の感情を見ないように自閉する気持ちで買った伊達メガネと、この前、たまたま見たネットで一目惚れしてしまい、少しだけ奮発して買ったピーコート。
 それが春風に当たっても温かくて、すこし買ってよかったな、と思った。
 結露した息が宙に舞って、やがて消えて行く。手と耳がすこし寒くて、夜は改めて冷えるなと感じさせられた。
 恐らく姉さんも、深夜に援交なんてしていなかったと思う。姉さんが援交を行っている時は僕にラインするから、援交の証拠が分かるから夜の街には繰り出してはいないはず。
 時間帯は、母さんが精神病院で診察を受けている時に限っている。
 携帯を開いて、姉さんとのラインを改めて確認する。上へ上へとトークルームを捲る、そこには写真があった。
 僕と姉さんの2人の秘密としてたまに送られてくる援交の写真──下着姿のまま、姉さん1人で鏡越しで撮った写真だ。顔はフラッシュであまり見れないようになっている······典型的な素顔を隠した証拠写真。リベンジポルノの防止なのだろうか。そもそもリベンジポルノを防止する為にはこの様な写真を撮らないことが1番いいとは思う。
 そもそも送るような人間もいなかったので、誰にも見せてはいないが。
 写真に映っていた姉さんの下着姿は、黒いランジェリー? というのだろうか、妖艶な雰囲気を纏った下着に合わせて、同色のガーターベルト。血が繋がっているとは言えど····桜山命依という人間の魅力が浮き彫りになる写真であり、恐ろしく感じた。
 胸も平均サイズだ。むしろ小さい、茉姫奈みたいに他の人より大きい訳ではない、なのに写真から分かるそれ以上の艶かしい佇まいに、鳥肌が立った。
「ほんとに、なんでこんな道を選んじゃったのかな」
 僕はまだいい。僕が虐げられて、侮蔑され続けるのは全然構わない。その僕の人倫が無視された結果で姉さんが狂ってしまった。
 姉さんなら、もっといい道に進めたはずだ。勉強が出来る。僕と違って周りと協調することも出来る。姉さんが通っている国立大学でも上位に食い込む程の頭脳だ、それが裏でお金を貰って身体を売っているとなったらどんな反応をされるのだろうか。
 反抗的と言われ行くべき道が絶たれ、それに諦観したように子供たちは汚れた道に走り、それを見た大人は腑抜け、と言って怒号とエゴを歌うように巻き散らかす。
 磨り減った世界と磨り減った時間、そして変色した心····僕が言うのも変だが、この世界には誰もマトモな人間などいないのだ。
 どこかボロが出たり、自分が危機的状況に陥ったら、まず人間の心理の第一に、自分が正当化される、生き残る為の手段を取る。どこかしらで人間の本能が出る。
 だから、茉姫奈と出会った今日という今日がそのもののイレギュラー、彼女のせいで僕は少し女性不信どころか人間不信が少しばかり解消されてしまった。
 女性は全員同じ生き物だと思っていたのに、1人だけ全く違った。
 一瞬考えた、人間というか、女性が出す感情や本能、その気持ちを逆に利用して肉欲に走ってやろうか、と。
  結論からいうと、考えるだけでも吐き気がした。
 惨めだ。
 そもそもこの様な思考に至る自分が憎たらしくて堪らなかった。
「はぁ」
 結露して消える溜め息。嘆息を吐いた煙はまたもや宙に待って消える。昔の表現みたいだ。露が落ちるように一瞬で儚く全てが消えていく様子。ただ例えが液体か気体かだけの差じゃないか。
 白い息はすぐに消えてしまうが、夜に輝いたネオンは消える気配がなかった。
 深夜になっても色んな店に人が出入りして、それを接待して、人々が笑いを絶やさない。
 僕が見た事のない世界だった。
 マンションの付近の店を回ってから帰ろうとして、四角形になった通りを回り出す。
 たまには自分で直接見て、感じたものを買ってみるという買い物の仕方もしてみたいと思ってしまったからだ。いつも家に篭もりっぱなしというのも、今考えたら母とやっている事が同じだからだ。
 そうなりたくないなら、自分を少しづつでもいいから変えていくしかない。茉姫奈が言っていた事が僕の心にまた浸透した。耳に浸透して、心にも浸透していく──響いた言葉は、しっかりと僕の心にも耳にも残っていた。
 母さん達が塞いだ世界が開けられて、僕も少し息が吸いやすくなった気がした。無論、今日含め明日から家に居ないなら尚更そう思った。

「やめて、ください!!」

 刹那、拒絶を喘いでいる····耳を劈く様な女性の悲鳴。「やめて! 離してください!」という声が僕の耳に響き、その方を向く。
 その方に女性の姿はあった。
 予想は当たっていて、強引にここまで連れ込まれた女性が強引に迫られていた。
 角刈り姿の1人の男に阻まれて、腕を掴まれている。
 如何にも遊んでそうな男がバイトの制服姿の女性を引っ張って無理やりナンパさせようとしている光景にも見えた。
 いや、明らかにそうだろう。
 居酒屋の店員か? と思ったが特徴的なコンビニの制服だったので、コンビニでバイトしている女性だと判断した。
 僕の家の付近は繁華街なので、居酒屋やコンビニなどや、風俗店やそっち系の店も多い、だから“それ”目当ての人が居るのも少なくはないと思う。姉さんの援交の光景を遠目で見た事があったくらいだ。
 誰かが助けてくれるだろう。
 そう思って踵を返そうとした。
 だけどその瞬間に、茉姫奈のあの笑顔と説得力のある言葉を思い出した。

『自分の勝手だって言って、助けたい』──その言葉が思い浮かんだだけで今の僕を突き動かすには充分な原動力になり得た。

「あっ······」
 僕は、思い切り男の脛にローキックをお見舞してやった。····所謂、カーフキックというものだ。
 そのまま僕は彼女の手を取って走り出していた。
 男は状況を呑み込めないまま悶絶して崩れ落ち、顔も分からない僕に向かって怒号を飛ばし続けていた。彼女の同意もなしに手を引き、そのまま走り出した。後ろから「待て!」という声が太く、ハッキリと聞こえたが、無視をして逃げた。
 あいつに追われない様にスピードを出して走っていたからか、彼処の方のことなど考えていなかった。息も絶え絶えで「待って!」という声が聞こえて僕も我に返って後ろを振り向く。
 足も震えていて、息も絶え絶えになって彼女の喘鳴が耳まで届く。
 呻吟にも近い彼女の喘鳴は、僕の頭を冷やすのには充分すぎるものだった。
 このまま追われてきていたらまずいし、不本意だが、僕の家はすぐ近くだ。一日だけそこに匿って帰そうと考えた。
 ふーっ、とひとつ深呼吸をして、周りを見回した。聞こえるのは騒がしい程に聞こえる話し声と、何百人が通行していく足音。僕らの存在なんて知らないと言うばかりに増えていく人々の足取りは、目をそらす様に僕らを人影で覆っていく。
 夜の街とはそういうものだ。
 皮肉な事に、ここは助けてくれる人なんていない。
 だからこの状況で彼女を助けた行動こそが、この街にそぐわぬ自分勝手そのものだった。茉姫奈が教えてくれた、大切なこと。
 そして生憎、父も母も家には居ない。
 姉さんは親よりは僕のことを理解してくれているはずだ、ちゃんと事情を説明すれば家に入れてくれるだろう。
 女性の息が回復するのを少し待って、そこから僕は話し始めた。
「とりあえず僕の家まですぐだから、そこに今日だけ居て」
「でも····!」
 と言って彼女が顔を上げて、初めて僕も顔を見た。
「····えっ?」
 迂闊だった。
 心臓が跳ねて、一瞬目を見開いてしまった。
 女性の方も、僕を見てしばらく呆けた顔をしていた。まさか、というような面持ちで僕を見つめて、時間が経過して状況を理解したようにも見えた。
 数時間前まで見た事がある顔、数時間前まで嗅いだことがある匂い、そして特徴的な金髪。金髪の時点で気付かないのは、僕がそれほど人を見ていないのだろうか。
 極めつけには、パートの名札。

 しっかりと『いわうみ』という四文字。

「····最悪だ」
「れ、玲依····?」

 状況を理解するのに時間がかかり、僕達は少し見つめ合っていた。

「今日は····ここに居ていいから」
「あ、ありがとう····」
 茉姫奈だと分かっても、安全を確保させなければまた襲われかねない、そう思って僕はやむなしに家に入れた。
 バイトの制服は少し破かれていて、大きな胸がすこし視界に入ったので気付かれないように目をそらす。彼女の不安と驚きが錯綜する感情と、大きな双眸は、嫌に僕の考えを見透かされそうで。
「思った以上に、凄いね····」
 そう言いながらも、これまでの人が出すどろどろとした感情ではなかった。
 これまで通りの色と、透明なもやと、恐怖が入り交じっていた。
 それは何に対しての恐怖なのかは、さっきの事もあるだろうが、その恐怖の色は何に対してなのかはあまり分からなかった。
「ただそれだけだよ。外見はいいかもしれないけど、中身は最悪だ」
「そんなに卑下しちゃダメだよ」
「一応僕が茉姫奈の危険を守ったはずなんだけどな、僕の家でまで茉姫奈節を炸裂させるの?」
「うわ、凄いネチネチ····感謝してるからいいでしょ!」
「お互い様って事で」
「ていうか、玲依って喧嘩強かったんだね、あのキックでナンパしてきた人、一撃で悶絶してたよ」
 別に強くないし、不意打ちしたたけだ。けど、あの時の場面を見ていたのは茉姫奈だったと思うと、少し恥ずかしかった。
「母さんが鬱になって、暴力が無くなった中2の頃姉さんの紹介で少しだけ格闘技やっててさ、1年くらいに父さんにバレて辞めさせられたけど」
「なんでそのタイミングなの?」
「姉さんが殴られそうになったら守って欲しいって言われた」
「バレた時、どうなったの?」
 心配した面持ちで聞いてくる茉姫奈、僕は淡々とした口調で答えた。
「あまり勝手なことをするなって言われたきりで、何もないよ」
「よかったあ」
 確かに、それもあって父への圧力にもなったのだろう。
 中2の頃から暴力はないけれど、もっと父は僕を敬遠するようになった。
 茉姫奈が玄関で丁寧に靴を揃えたのを見て、僕はリビングのドアを開けて、横にある薄暗い照明をつけるボタンを押した。
「リビングでソファーに座るなりして待ってて、着替え持ってくるから」
「わかった、ありがとう」
 そう言って、茉姫奈はソファーにゆっくりと腰掛けた。また胸が視界に入りそうだったからすぐ目を逸らして階段を昇り、部屋に向かう。
 あっ、と思い、少し気になった事を聞いてみた。
「後、高校生はこんな時間までバイト出来ないよね?」
 茉姫奈は正鵠を突かれたような顔をして、少し目を逸らしながら答えた。
「年齢を19歳に偽装してるのと、学生じゃなくて無職と偽ってまして····」
「····なんでそこまで」
「お母さんに迷惑かけたくないんだ。一人っ子の私をほぼ女手一つでここまで育ててくれて、だから恩返ししたくてさ。あとこんな髪型だから私服で行ったら歳盛れちゃった」
 利他的で、周りのことを考えていて、自己犠牲をも厭わない人間は、見たことがなかった。
「君は、本当に優しい人だね」
 思わず僕もその言葉が漏れてしまっていた。
 すこし茉姫奈は目を丸くして、すこし顔を隠しながら「やだなぁー、照れるじゃーん」と言って顔を両手で仰いだ。
 すると、破かれていた制服から手が離れて、白い下着が露わになってしまった。
 視覚というものは突出したひとつの物に全て奪われると感じた事が何回かある。
 色々な事が一瞬にして今の予想外の状況により混沌として、頭の中が整理できなくなるような事が、人間にはあると思う。
 僕もそれは例外ではなく、遠いはずなのに茉姫奈の胸の下着が見えた瞬間に、一瞬にして思考がショートして固まってしまった。
「あ、あれぇ····?」
 茉姫奈も僕が固まった理由が分からずに、困惑したような声を上げているし、僕も何故かそこから目が離せなくなってしまった。
 数秒間見続けて、ようやく正気に戻った。
 正気に戻ったと言うよりかは、正常な思考に出来るようになるまでに時間を有したという感じだった。
 別に、恥ずかしいという訳ではなかった。
 姉さんの下着は少なからずとも見てきたし、姉さんが送ってきた鏡で撮った下着の写真すら持っている(保存はしていない)。
 だけど、身内以外の女性の下着が見える。なんていう予想はすることが出来なかった。
「ごめん、茉姫奈」
 僕は首を何度か横に振って、一旦全てを仕切り直すように言った。
「ううん、気にしないでよ。······って正直なんで謝ってきたのか分からないんだけど」
「いや······聞かない方がいいよ」
「えーそう言われたら聞きたくなっちゃうやつ!」
「····制服から少し下着が見えてて、それで固まってしまったんだ。ごめん」
 茉姫奈もピクっと顔つきが変わって、すこし頬を赤くした。
 それを見ると、本当に彼女はギャルなのか? と錯覚してしまいそうになる。
 もっとオープンで、性的な事にも無頓着で····みたいなイメージが僕の中には染み付いていたが、やはり茉姫奈はそれとは真逆な感じだった。
 少しの時間が空いて、茉姫奈が口を開く。
「····これってエッチって言った方が良いやつ?」
「僕に聞かないでよ」
「エッチ」
「結局言うんだね」
 すると、茉姫奈は噴き出したように笑いだした。
「あははっ、玲依のツッコミ面白い!」
「そう言われても、普通のことを言っただけだと思うけど」
「それで普通の事だったら最高でしょ! 天然のツッコミが面白いって才能だよ」
「····着替え持ってくるから、隠しといてね」
 階段を上がって自室に入り、クローゼットを開けた。
 クローゼットの中から適当に選んだTシャツを持って茉姫奈の元に向かおうとしたら、いきなり「うわぁ!」という驚いた様な声が聞こえた。
 ドアを開けたら、姉さんが茉姫奈詰め寄っている状態で、両手で茉姫奈の手を握っていた。
「玲依! 彼女さん?」
「違うよ、不良に襲われかけてた所を助けた人が偶然にも高校の同級生だっただけだよ」
「そうなの? 玲依私以外の女の子と喋れないんじゃなかったの?」
「この人とはなんやかんやあって今日喋れるようになったんだ」
「この人って何!? 茉姫奈って言ってよ!」
  少し不満げな顔で僕を見上げて言う茉姫奈。
 すこし僕も、他人行儀で話しすぎたような気もした。
 姉さんは握っていた茉姫奈の手を解いてそのままソファに座る。僕の家にはソファが2つあって、テーブルを隔てて黒いソファが対面している様な感じになっている。
 幸い変にソファも汚れているわけでもなかった。上にぶら下がっている照明が僕の姿を捉え、長い影を形作る。
 姉さんが座ったのを見て、茉姫奈も座った。
 すると姉さんが興味のある声色で茉姫奈に関心の瞳を向けた。
「茉姫奈ちゃんって言うの? 初めまして、私は玲依の姉の命依って言います」
「命依さんの事は、玲依から聞いてますよ」
「ほんとに? 玲依ってお姉さんのこと大好きだからさぁー」
「そんなこと、一言も言ってない気もするんだけど」
 僕は階段を降りながら、早くも打ち解けた2人を見て少し羨ましいとまで思ってしまっていた。茉姫奈の人の心に土足で踏み込む無邪気さも、ちゃんと人の話を聞いて柔軟な対応をするのも、僕には持っていないものだった。
 姉さんも聞き上手で、話すのも上手だ。僕はというと他人との交流を絶縁して自分が不幸せだと自分で決め付けているだけ。
 それが茉姫奈の前では不思議と消え失せてしまう。
 恐らく他の茉姫奈の友達と話をしようとしても絶対に距離をとってしまう、そこを感じさせないのは彼女の才能なのだろうか、それとも僕が全部吐露して受け入れてくれた茉姫奈を信じているからなのか。
 やはり茉姫奈は不思議な力を持っている。
 圧倒的な違いを見せられていたような気もした。
「茉姫奈、これ使って」
 階段から降りた僕は茉姫奈に向かって下から軽くTシャツを投げる。それを両手でキャッチした茉姫奈はTシャツをみて少し驚いた顔をした。
「これ、めちゃ高い所のTシャツじゃん、良いのこんなの?」
「別にいいよ着ないし、なんならあげるよ」
「こんな高いの、身に余るし貰えないよ」
「部屋着にでもいいから使ってよ」
「あ、これ私が玲依にプレゼントしたおさがりじゃない!?」
「ブランドを強調したロゴ好きじゃないんだよ、言おうと思ってたけど、そもそも衣服でブランド物は好きじゃないんだ。財布とかなら分かるけどね。それかさっき茉姫奈を襲ってた人もこういう服好きそうだよね」
 少し茉姫奈はもじもじして、着るのを渋っているのが分かった。
「私はこんな高いの着飾れないよ」
「着ないと、僕が直視出来ないから着て欲しい」
「まあ今回はお言葉に甘えて着るけど」
 そう言って茉姫奈は渋々上からTシャツを着て、器用に破れたバイト服を内側から脱いでみせた。
「お礼にあげようか?」
「いらないよ」
「なんだよお堅いなぁー」
「い、いきなり距離近すぎだから」
 茉姫奈は頬を赤くしながらもニヤッと笑って、僕に視線を向ける。
「あれれ? 私の姿にドキッとしちゃったの?」
「馬鹿げたこと言わないでよ」
「うわー、手厳しいなぁ····だからモテないんだぞっ」
「僕は、女性が嫌いだから」
「そこだけ聞いたら男の子が好きみたいに聞こえる」
「それは物語の内容だけにして欲しいね」
「ごめんね、茉姫奈ちゃん。玲依はツンデレなの」
「そんな事だろうとは思ってました!」
「そんなことも言ってない気がするけど」
 そう言いながら僕は立ち上がって、テーブルに置いてあった空になっているピルの箱を捨てて、隅にあるクローゼットからもうひとつのソファに毛布と枕を用意する。
 茉姫奈は不思議そうに僕の事を見ていた。視線で分かる。すこし不安そうな色が出ていたから、言うまでもないけど僕は茉姫奈に伝える。
「今日は僕がここで寝るから、茉姫奈は僕の部屋のベッド使っていいよ」
「でも、そんな至れり尽くせり悪いよ」
 感情の出方的に、本当に思っている。
 おそらく他の友達にも、この様に迷惑をかけられまいと気を使って色々視野を広げているのだろう。他人の変化には気づくのに自身の変化が分からない茉姫奈は、優しすぎる。
 人を色眼鏡で見ない、人を本質で見てくれて、人の話を聞いて呑み込んでくれるギャルにそぐわない温厚でやさしい性格。
 よく漫画や恋愛小説に出てくる『オタクや根暗男子に優しいギャル』とはこういう人の事を言うのだろうか、とも思える。
 女性不信でともかく言える質ではない僕だけど、就中茉姫奈は人に遠慮していると、思う。
「今日は僕の自分勝手だからさ、そんな変な臭いとかも変なものとかも無い····と思うし」
「じゃあ、ほんとにいいの? ほんとに大丈夫?」
「全然いいよ、大丈夫。勉強もする気無かったし」
「あと、このシャツもほんとにいいの?」
「姉さんのだから」
「その言い方、玲依でもなんか腹立つなー!」
「あははっ、玲依怒られてる!」
「いつも姉さんだけはこうだからもう慣れたよ」

 静寂。
 襲われかけていた所を僕が助ける事が出来て、今は少し安心している気持ちが強かった気がする。
 静かなのに、何故か頭の中ではピアノの様な旋律が流れていた気がした。
 薄い鉛筆で丁寧になぞるように精緻で、綺麗な音が、聞こえもしないのにずっと頭の中で反響する。
 リビングのソファーで毛布と一緒に無防備に横たわっている僕は、何故か不安感に駆られていた。
 見える色も、そこから溢れる感情も、結局は僕だけがみているだけに過ぎなくて、皆からみたら偽物で、境遇も、紡いでいる今も──汚ればっかりで。
 僕は、世界が怖かった。
 辛うじて息が出来ている世界が、僕をいつの間にか息が出来なくなる所まで行ってしまうのではないかと、そんなことばっかり思っていた。
 ぽっかりと空いた何かが満たされなくて。
 何が理由で自分をまだ動かしているのか。
 何かある筈だ。
 だが、1番思い出したいことが思い出せなくて、自分でも呆れた。
 いや····死にたい理由はその思い出せない『何か』そのものなのでは無いのか?
 急に、そう思い立った。
 死にたいのに死にたくなくて、死にたくないのには、病的なまでに生に執着する何かが。
 そもそも、今の医学では、死に恐怖する感情そのものが病気とまで言われている。
 死恐怖症(タナトフォビア)──結局何の感情でも病名が付けられる世界だ、けれど死という恐怖が欠如している人間もきっと病的な何かなのだろう。
 だけど、それも僕にとっては俗説の1部であって、その俗説と常識の狭間にカテゴライズされた道理で語っていだけだと感じていた。
 結局風刺や風潮を嘲笑うシニシズムだ。
 でも、死にたくないっていう人間の方が大多数を占めているのは明らかで、死が近いと言われたら必然的に正気じゃなくなるのが、人間の本能的に当たり前の行動だ。だから、僕は正常だ。
 正常だと、言い聞かせて──死にたい気持ちを今も探している。
 けど、単純に死ぬのが怖いっていう理由なんて、たかが知れている。
 ずっと死ぬのが怖いから死にたくないという気持ちがあったのに、今は何故か腑に落ちなかった。
 何かがおかしい、おかしいのだ。
 本当の理由は別にある。きっと。
 単純に、死ぬのが怖いっていう理由なんて、たかが知れている。
 思い出せもしない偶然を探るみたいに、茉姫奈の笑顔が浮かんだ。
 女性不信だと思っていたのに、きっかけ1つでそんな簡単に茉姫奈の顔が思い浮かぶ自分の意思も薄弱。
 もう1回、灰を被るように布団を深く被った。
 消えそうな心を必死に消さないように。
 僕は、そのまま沈んで行くように目を閉じた。