懐妊定めの儀は、紅禁城の裏にある大寺院で行われる。
底の見えない深い谷と、小さな泉に挟まれた大寺院は、石造りの簡素な建物である。重要な儀式の時にだけ、人が入ることが許される広い境内に、夕刻、宮廷のすべての家臣と後宮の妃が集められた。
用意された椅子に座り、泉を取り囲んでいる。大寺院の中にある儀式用の玉座には、皇帝が鎮座していた。
白い衣装を身につけた翠鈴は震える足で泉の前に立っていた。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
国の隅の長閑な村で、静かに暮らしていた田舎娘が、こんなところにいるなんて、どう考えてもあり得ない。恐ろしくてたまらなかった。
「術者が合図をしたら、泉にお入りくださいませ」
そばにいる梓萌の言葉に、無言で頷く。今は彼女ですら、そばにいてくれてよかったと思うくらいだった。
この場の一番高いところから玉座に座る皇帝が、自分をジッと見つめている。昨夜は肌を重ねてこれ以上ないくらい近くにいた相手のはずなのに、やはり遠い存在だ。
「天におわす萬の神よこの娘の……」
術者が、空に向かって祝詞を唱えはじめる。この場にいるすべての者から注目されている状況に、気が遠くなりそうだ。でもここで気を失うわけにはいかなかった。
"しっかりしろ、これが済んだら村へ帰れる"と自分自身に言い聞かせる。
やがて術者は祝詞をやめて翠鈴に視線を送る。梓萌に背中をトントンと叩かれて翠鈴は一歩踏み出した。
石畳で囲まれている泉は、翠鈴の前だけが石の階段になっている。階段は泉の中へ続いている。
ひやりとした石の感覚を感じながら、翠鈴は階段をゆっくりと下りる。膝まで水に浸かり、術者が空に向かって手を振り上げた時――。
風が吹き、水面が七色の光を放つ。その光に翠鈴は見覚えがあった。昨夜夢で見たのと同じ光だ。
「おおー!」
術者が声をあげ、見守る人たちがどよめきだす。いったいなにが起こったのかがわからなくて、翠鈴の胸は不安でいっぱいになった。
「ご、ご懐妊……緑翠鈴妃さま、ご懐妊にございます!!」
術者が声を張りあげると、その場が騒然となった。
顔を見合わせわーわーとなにかを言い合う家臣たち。妃からは悲鳴があがっている。
翠鈴は言葉もなく立ち尽くした。
悪い夢を見ているような気分だった。
だって、子ができていたらもう村へは帰れなくなってしまう。
祖父から受け継ぎ一生懸命切り盛りしていた診療所。
気のいい村人たち。
のどかで穏やかな暮らし。
帰りたいのに。
帰りたいのに……!
頭の後ろがちりちりと痺れて、きーんという耳鳴りがする。周りの音が遠ざかっていく……。
目を閉じたら故郷の村の自分の家にいるはず。そう思ったのを最後に、翠鈴の意識は真っ暗な闇に閉ざされた。
底の見えない深い谷と、小さな泉に挟まれた大寺院は、石造りの簡素な建物である。重要な儀式の時にだけ、人が入ることが許される広い境内に、夕刻、宮廷のすべての家臣と後宮の妃が集められた。
用意された椅子に座り、泉を取り囲んでいる。大寺院の中にある儀式用の玉座には、皇帝が鎮座していた。
白い衣装を身につけた翠鈴は震える足で泉の前に立っていた。緊張でどうにかなってしまいそうだった。
国の隅の長閑な村で、静かに暮らしていた田舎娘が、こんなところにいるなんて、どう考えてもあり得ない。恐ろしくてたまらなかった。
「術者が合図をしたら、泉にお入りくださいませ」
そばにいる梓萌の言葉に、無言で頷く。今は彼女ですら、そばにいてくれてよかったと思うくらいだった。
この場の一番高いところから玉座に座る皇帝が、自分をジッと見つめている。昨夜は肌を重ねてこれ以上ないくらい近くにいた相手のはずなのに、やはり遠い存在だ。
「天におわす萬の神よこの娘の……」
術者が、空に向かって祝詞を唱えはじめる。この場にいるすべての者から注目されている状況に、気が遠くなりそうだ。でもここで気を失うわけにはいかなかった。
"しっかりしろ、これが済んだら村へ帰れる"と自分自身に言い聞かせる。
やがて術者は祝詞をやめて翠鈴に視線を送る。梓萌に背中をトントンと叩かれて翠鈴は一歩踏み出した。
石畳で囲まれている泉は、翠鈴の前だけが石の階段になっている。階段は泉の中へ続いている。
ひやりとした石の感覚を感じながら、翠鈴は階段をゆっくりと下りる。膝まで水に浸かり、術者が空に向かって手を振り上げた時――。
風が吹き、水面が七色の光を放つ。その光に翠鈴は見覚えがあった。昨夜夢で見たのと同じ光だ。
「おおー!」
術者が声をあげ、見守る人たちがどよめきだす。いったいなにが起こったのかがわからなくて、翠鈴の胸は不安でいっぱいになった。
「ご、ご懐妊……緑翠鈴妃さま、ご懐妊にございます!!」
術者が声を張りあげると、その場が騒然となった。
顔を見合わせわーわーとなにかを言い合う家臣たち。妃からは悲鳴があがっている。
翠鈴は言葉もなく立ち尽くした。
悪い夢を見ているような気分だった。
だって、子ができていたらもう村へは帰れなくなってしまう。
祖父から受け継ぎ一生懸命切り盛りしていた診療所。
気のいい村人たち。
のどかで穏やかな暮らし。
帰りたいのに。
帰りたいのに……!
頭の後ろがちりちりと痺れて、きーんという耳鳴りがする。周りの音が遠ざかっていく……。
目を閉じたら故郷の村の自分の家にいるはず。そう思ったのを最後に、翠鈴の意識は真っ暗な闇に閉ざされた。