「風夏! 気が付いたの!?」
目を覚ますと、見慣れない白い天井に見慣れたお母さんの顔。
これまでの人生で味わったことのない痛みが全身にあった。
「お母さん……ここ、どこ……?」
「病院よ! 覚えてないの? アンタ、塾サボって廃ビルから落ちたでしょ。悪いことしたから、バチが当たったのよ」
塾をサボった覚えはあった。最近ずっとサボってたから、今日も同じだった。いつもみたいに塾が終わる時間までスマホでもさわって時間つぶそうと、非常階段を登って行って――――そこからは、記憶がなかった。まったくなかった。
ビルから落ちたって、階段を踏み外したりしたんだろうか。
バチが当たったとか悪態をつく余裕があるってことは、ケガもそこまで酷くなかったんだろう。
「血まみれの女の子が倒れてるって、救急車呼ばれて念のためにAEDまで用意してくれて、大騒ぎだったんだからね! 連絡受けた時の、お母さんの気持ち考えて反省しなさい!」
お母さんは私の手を握り締めて、ボロボロ涙を流していた。
「血まみれって……おかーさん。私、輸血した?」
私の言葉に、お母さんがなんでそんなこと聞くのって顔をする。たぶん、言葉を口にした私も同じ顔をしていたと思う。
なんで、そんなことが気になるんだろう。なんて、輸血してたらドナーになれないって、気になっちゃうんだろう。
「先生の話だと、せずに済んだって」
ほっとする。これで、ドナー登録ができる。骨髄バンクの、ドナー登録。
なんでだろう。九死に一生を得て、人生観でも変わってしまったんだろうか。限りある命、少しでも誰かの役に立てたいみたいな。
なんだろう、この気持ち。そうしなきゃいけないような気がする。
「それとおかーさん、私もう受験やめる」
愛娘が九死に一生を得たこのタイミングなら、どんな話でも聞いてくれそうな気がした。
「第一志望、落ちててももう受験やめるから。もう合格してるとこ、行く」
「滑り止めの……?」
「うん。みんなは滑り止めのつもりみたいだけど、私はあそこが一番行きたい。そこまで偏差値高くないけど、オープンキャンパスで一番いいなって思ったの」
ずっと言えなかった言葉を、やっと言えた。
目の前にぶら下げられた別に食べたくもないニンジンを追いかけて、みんなが喜ぶ顔を褒めてくれる言葉を期待して走ってた。でも、もう走れない。走っちゃダメ。
これ以上走ったら、私は病気になってしまう。
「なんだ、そうだったの。第一志望の合格発表まだだけど、受かってたらどうするの?」
「落ちてるよ」
そう思うけど、もし受かってたら私はどうするんだろう。今までそのために頑張ってきたんだし、やっぱり周囲の期待もあるし、第一志望に行ってしまう? そんな予感もした。
そんなにすぐ、私は今までの自分を卒業なんて出来ないかもしれない。それでも、変わりたいと思う。変われそうって思う。でも、どうして急にこんな気持ちになってるんだろう。
「卒業式、出られないね」
「残念だけど、今はしっかり休みなさい。お母さん、先生呼んでくるから大人しくしてなさいよ」
お母さんが、ベッドを囲うカーテンの向こうに消えていった。
一人残された私は、全身の痛みにうめきながら、自分の心変わりが不思議で仕方なかった。
なんなんだろう、この気持ち。
今までの自分から変わりたい、骨髄バンクのドナー登録をしたい。
特に後者が意味不明だった。
「ほんと、なんなんだろう」
目をつぶると、瞼が病室の明かりを透かして血潮が見える。
――生きてる。生きてるんだ。
事故の記憶なんてないのに、胸の奥まで感慨深い。
仰向けに横たわったまま流した涙は目じりから耳を濡らす。
「――――」
誰かの名前を呼びたい気持ちが胸に広がるのに、その名前がわからない。
それでも、奇跡を願わずにはいられなかった。
私が絶望的な自己採点から第一志望に受かるよりも、きっともっとずっと可能性は低い。
数万分の確率の一人、それが私であればいい。名前も知らない誰かが待ち続けている、その希望に――
『フーカ』
遠いどこかで誰かが私の名前を呼んだ気がした。
「二十九日のモラトリアム」完
目を覚ますと、見慣れない白い天井に見慣れたお母さんの顔。
これまでの人生で味わったことのない痛みが全身にあった。
「お母さん……ここ、どこ……?」
「病院よ! 覚えてないの? アンタ、塾サボって廃ビルから落ちたでしょ。悪いことしたから、バチが当たったのよ」
塾をサボった覚えはあった。最近ずっとサボってたから、今日も同じだった。いつもみたいに塾が終わる時間までスマホでもさわって時間つぶそうと、非常階段を登って行って――――そこからは、記憶がなかった。まったくなかった。
ビルから落ちたって、階段を踏み外したりしたんだろうか。
バチが当たったとか悪態をつく余裕があるってことは、ケガもそこまで酷くなかったんだろう。
「血まみれの女の子が倒れてるって、救急車呼ばれて念のためにAEDまで用意してくれて、大騒ぎだったんだからね! 連絡受けた時の、お母さんの気持ち考えて反省しなさい!」
お母さんは私の手を握り締めて、ボロボロ涙を流していた。
「血まみれって……おかーさん。私、輸血した?」
私の言葉に、お母さんがなんでそんなこと聞くのって顔をする。たぶん、言葉を口にした私も同じ顔をしていたと思う。
なんで、そんなことが気になるんだろう。なんて、輸血してたらドナーになれないって、気になっちゃうんだろう。
「先生の話だと、せずに済んだって」
ほっとする。これで、ドナー登録ができる。骨髄バンクの、ドナー登録。
なんでだろう。九死に一生を得て、人生観でも変わってしまったんだろうか。限りある命、少しでも誰かの役に立てたいみたいな。
なんだろう、この気持ち。そうしなきゃいけないような気がする。
「それとおかーさん、私もう受験やめる」
愛娘が九死に一生を得たこのタイミングなら、どんな話でも聞いてくれそうな気がした。
「第一志望、落ちててももう受験やめるから。もう合格してるとこ、行く」
「滑り止めの……?」
「うん。みんなは滑り止めのつもりみたいだけど、私はあそこが一番行きたい。そこまで偏差値高くないけど、オープンキャンパスで一番いいなって思ったの」
ずっと言えなかった言葉を、やっと言えた。
目の前にぶら下げられた別に食べたくもないニンジンを追いかけて、みんなが喜ぶ顔を褒めてくれる言葉を期待して走ってた。でも、もう走れない。走っちゃダメ。
これ以上走ったら、私は病気になってしまう。
「なんだ、そうだったの。第一志望の合格発表まだだけど、受かってたらどうするの?」
「落ちてるよ」
そう思うけど、もし受かってたら私はどうするんだろう。今までそのために頑張ってきたんだし、やっぱり周囲の期待もあるし、第一志望に行ってしまう? そんな予感もした。
そんなにすぐ、私は今までの自分を卒業なんて出来ないかもしれない。それでも、変わりたいと思う。変われそうって思う。でも、どうして急にこんな気持ちになってるんだろう。
「卒業式、出られないね」
「残念だけど、今はしっかり休みなさい。お母さん、先生呼んでくるから大人しくしてなさいよ」
お母さんが、ベッドを囲うカーテンの向こうに消えていった。
一人残された私は、全身の痛みにうめきながら、自分の心変わりが不思議で仕方なかった。
なんなんだろう、この気持ち。
今までの自分から変わりたい、骨髄バンクのドナー登録をしたい。
特に後者が意味不明だった。
「ほんと、なんなんだろう」
目をつぶると、瞼が病室の明かりを透かして血潮が見える。
――生きてる。生きてるんだ。
事故の記憶なんてないのに、胸の奥まで感慨深い。
仰向けに横たわったまま流した涙は目じりから耳を濡らす。
「――――」
誰かの名前を呼びたい気持ちが胸に広がるのに、その名前がわからない。
それでも、奇跡を願わずにはいられなかった。
私が絶望的な自己採点から第一志望に受かるよりも、きっともっとずっと可能性は低い。
数万分の確率の一人、それが私であればいい。名前も知らない誰かが待ち続けている、その希望に――
『フーカ』
遠いどこかで誰かが私の名前を呼んだ気がした。
「二十九日のモラトリアム」完