二十九日のモラトリアム

「そろそろ、お迎えが来そうやな」

「そうだね……」

 まだ太陽の光は見えないけど、太陽は確かに近づき空を照らし始めていた。

「あの世ってどんなところなんだろう」

「天国とか地獄とか、やっぱあんのかな」

 チヒロは病死だって言ってくれたけど、やっぱり自殺した私は地獄域だったりするのかな。

「チヒロはきっと天国行きだよ」

 ぎゅっと、チヒロの手を握り締める。

「フーカも天国やって。こんな優しいねんから」

 チヒロが私の目を見て微笑みかけてくれる。

 こんな気持ちになれるなら、死んだ後悔も薄れる気がした。

 チヒロに会えてよかった。

「ずっと死ぬん怖かったけど、フーカが一緒やったら怖ないわ。あの世もきっとええとこやろ」

 二人で話しながら空を見上げる。

 明るさが増していく。

 夜明けを見るのは、生まれて初めてだった。

 すごく、不思議な感じがする。

 夕焼けの逆バージョンなだけで、たいした違いないだろうって思ってた。

 でも、全然違う。

 夕焼けよりもずっと優しい。

 地球が回っていることを実感する。

 太陽が昇ってくるんじゃない。

 太陽がいるほうを、私たちがのぞき込んでいる。

「キレイやな」

「うん……」

 太陽がその姿を現す。

 存在するすべてのものが長い影を落とすけど、私たちの足元にはどんな影も生まれない。

 このまま灰になったりしないかちょっと心配になったけど、私たちは変わらずそこに立っていた。

「ああ、おりました。おりました」

「お待たせしまして、大変申し訳ありません」

 私たちの元に、十二単の猫と水干の犬が現れた。

「それでは、参りましょうか」

 うやうやしく礼をする猫と犬。

 猫はチヒロに、犬は私に肉球のついた手のひらを向ける。

 この手を取ったら、あの世に連れて行かれるんだろう。そう思うとすぐにその手を取れなかった。

「私とチヒロは、同じところにいけるの?」

 最後は天国と地獄にわかれるのだとしても、その前に裁判みたいなのがあるって聞くし、まだしばらくは一緒にいられるだろうか。そう思って犬に聞くと、小首を傾げた。

「ええと、確かフーカ様が運ばれた病院はチヒロ様とは別の病院でしたね」

 違和感。

「え?」

 なんだか、話が嚙み合っていない気がした。

 なんで今病院の話になっているんだろう。私はあの世の話をしているはずなのに。

「どこで死んだかで、あの世の住所も決まるんか?」

 チヒロの言葉に、猫も首を傾げる。

「特に関係ないですが……どうして、そのようなことをお聞きになるんですか?」

「そりゃ、フーカと一緒にいたいからや」

 きっぱりと言うチヒロの言葉に、胸が熱くなる。

「ご病気がおありとはいえ、そんな死後のことを今から考えなさらずに……これからの人生に目を向けましょうよ」

 猫が憐憫の眼差しをチヒロに向けている。

「「これからの、人生……?」」

 チヒロと私の声が重なる。

「あるんか、人生」

「死んだんでしょ? 私たち!」

 チヒロと私の言葉に、猫と犬が顔を見合わせる。

「そりゃあ、ありますよ。ショックで魂は肉体は離れましたが、一命は取り留めております」

「いわゆる臨死体験ってやつですね。いくら休暇中でも死んだ人間の魂を一晩も放置するわけないじゃないですか!」

 犬が常識知らずを見るような目を向けてくるけど、あの世の常識をこの世の私たちが知っているわけがない。

 死んで幽霊になったっていうのは、私たちの勘違い。ただ死にかけたショックで魂が抜けてしまっただけで生きている。

 今は意識不明の重体かもしれないけど、冥府の休みが終わったから、これから体に戻してもらえるみたいだし、そしたら無事目が覚めるんだ。

 ――正直、死んだことを後悔していた。チヒロは病死だって言ってくれたけど、それでも愚かなことをしてしまったと思ってる。生き返れるなら、生き返りたい。卒業式には出られないかもしれないけど、今までの寂しい自分を卒業できそうな気がした。

 病気だっていうならちゃんと治したいし、我慢してた好きなことだってやりたい。第一志望の結果はまだ出てないけど滑り止めは合格してるんだし、もうそれでいいじゃないかって、自分を甘やかして褒めてあげて、チヒロの頑張ってたって言葉を本当にしたかった。

 B級サメ映画だって、思い切ってカミングアウトすれば同じ趣味の人が見つかったりするかもしれない。

「生き返るんか……」

 つぶやかれたチヒロの声にハッとする。チヒロの声には、絶望が滲んでいた。

「生きてるんか……」

 生き返れると手放しに喜んでいた自分が恥ずかしくなる。

「受け入れとったんやけどなぁ」

 生き返っても、チヒロの病気は治っているわけじゃない。

 私も、以前と同じ健康な体で生き返れると決まってるわけじゃない。

「まあ、しゃあないな。まだ生きーってカミサマが言っとるんやったら、どうしようもないわな」

 子食いのハムスターみたいに、残酷な現実はすぐそこに横たわったまま。

「なあ、今夜のことって生き返っても覚えとるんか?」

「個人差がありますね。夜見た夢を朝覚えていたりいなかったり、そんなものです」

 十二単の猫が言う。

「私は忘れないよ! 絶対に、忘れない!」

 チヒロの手を握り締めて言う。無責任なことを言ってるって、わかってる。でも、言わずにはいられなかった。

「ありがとさん」

 チヒロは、まだ痛みをこらえるような顔をしている。

「それで、一緒にサメべロス見に行こう!」

 サメベロスという言葉に、切なそうな表情がハトが豆鉄砲食ったような顔になる。

「サメベロス! B級サメ映画! バカバカしくて笑っちゃうから」

「フーカ、そんな趣味あったんか……」

 呆然とした表情でつぶやいた後、口元が緩んだ。

「おもろそうやな、サメベロス。外出許可出たら、見に行こうな」

「うん!」

 生き返ったとき、私もチヒロもどんな状態かわからない。それでも、約束は希望だった。

 絶対忘れない。この一夜の夢を、絶対に忘れない。夢の中でそう願っても、叶うかなんてわからないけど……そう思わずにはいられなかった。

「なあ、フーカ」

 真剣な目でチヒロが見つめてくる。その目を見返すと、いたずらっぽく笑った。

「ハグしてもええか?」

「え!?」

 ないはずの体温が爆上がりした気がした。

「嫌?」

「……ええよ」

 恥ずかしくて、チヒロの関西弁を真似してしまう。

「おやおや」

「まぁまぁ」

 気を利かせた猫と犬が背を向ける。

 そして、私たちは抱きしめ合い――――離れた。