「本当に死ぬなんて、思わなかった」

 こんな言葉、言い訳に過ぎない。

「ううん。もしかしたら、死ぬかもって思った。でも、やってみたかった」

 チヒロに握られた手が震える。

「手すりが、壊れそうだったの。錆びてボロボロで、触ったら危ないだろうなってずっと思ってた」

 塾サボって、いつも時間つぶしてた空きビルの非常階段。ずっとずっと、誘惑されてた。眠り姫の錘みたいに、さわってはいけないとわかっているのに、さわってみたい衝動がずっとあった。

「なんかもう、全部嫌になっちゃって……体重をかけてみたの」

 案外、大丈夫じゃないかって思った。ビル自体はそんなに古いわけじゃないし、見た目ほど壊れてないんじゃないかって。でも、壊れるかもって少しは思ってた。

「だって、明日は卒業式なの。第一希望の合格発表だってまだなのに……後期試験に向けてまだまだ勉強しなきゃいけないのに、疲れちゃって……」

 しゃべっていて、自分が情けなくて涙が出てくる。

「居場所がないの……学校にも塾にも家にだって、居場所がない。周りに合わせてばっかで、自分がない。自分がないのに、自分がここにいるのが嫌になって……それで……私は」

 自分の命を消した。

 流行りの物に乗っかって友達と話を合わせて、学校や塾の先生に言われるがまま勉強して、親が指示する通りの大学を受験して――サメ映画見たの、何年ぶりだろう。

 死んでやっと好きなことができるなんて……

「そかー、フーカも頑張っとったんやなぁ」

「え?」

 チヒロからはお怒りお説教が返ってくると思ったのに、返ってこなかった。それどころか、労われてしまった。

 予想外の反応に、思わず間抜けな声がもれて、涙も引っ込む。

「俺、まともに受験勉強したことないねんよなー。大変やとは聞いてるわ。夜遅ぉまで何時間も勉強すんねんやろ?」

 私の決死の告白を雑談みたいなノリで受け止めるチヒロを、私はどんな気持ちで見ればいいんだろう。

「私は、全然頑張ってなんかないよ。塾だってサボっちゃって」

 最近は塾をサボって、あの空きビルでスマホさわってずっと時間を潰していた。

 志望校に合格した子も中にはいるけど、友達もみんなまだまだ受験にまっしぐら。塾休んでいることも友達にどうしたのか聞かれてしまって、でもライバルが一人減ってちょうどよかったって陰で笑われてたのも知っている。

 そろそろ家族にもサボっているのがバレてるかもしれない。そう思うと家に帰る気にもなれなくて、怪我をすれば――死んじゃえば、家に帰らなくて済む。そんな浅はかな気持ちで手すりに体重をかけた。

 目の前にニンジンぶら下げられて、走っても走っても追いつけない。もうちょっと頑張ればA判定になるんじゃないか、今でこの大学がA判定なら試験まで頑張ればもっと上の大学もいけるんじゃないかって、到達したはずの目標がすり替えられて走っても走ってもゴールにたどり着けない。ようやくたどり着けたと思ったゴールも、自己採点で絶望的だった。終わるはずだったマラソンは、後期試験まで延長されてしまった。でも、私はもう息も絶え絶え。
もっと頑張れもっと頑張れ、もう私の気持ちはポッキリ骨折してしまっていた。

「みんな私よりももっと頑張ってるのに、私は全然ダメなの」

 チヒロの隣で、私は膝を抱えて丸くなる。チヒロが大きなため息をついたのが聞こえて、チヒロの手を握ったままビクリと跳ねる。

「ああ、悪い悪い。怯えんといて」

 ひらひらと手を振って、チヒロが私に向かってのため息じゃないアピールをしてくる。

「いやな、俺もそういうのあったんよ。検査嫌で嫌や嫌や文句言うとったら、俺より小さいのに頑張ってる子だっておるとか言われてな。知らんがな。俺は頑張れへんねん、しゃあないやん。俺と同じ年でオリンピックでとるやつがいるって言われても、俺はオリンピックには出られんし、もっと頑張ってるやつがいる言われても、俺にはそこまで頑張れん。オリンピック出れるぐらい走ったら文字通り死んでまうし、嫌や嫌や弱音吐かんと気持ちが死んでまう」

 合点がいったように、チヒロがうんうん頷く。

「そっか。フーカはそれで死んだんやな。サボりの弱音吐いてても、間に合わんくて気持ちが死んでしまったんやな」

 チヒロの手が、私の頭にふわりと触れる。

「頑張っとったんやなぁ」

 私に聞かせるでもなく小さくつぶやかれた言葉が、本当にチヒロがそう思ってくれているんだと伝えてくれる。

「フーカも病死やな。鬱とかノイローゼとか、なんかなっとったんちゃうか?」

 涙が止まらない。幽霊なのに、涙が出るって変な感じ。ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなくて、チヒロが優しく頭をなでてくれる。

 相変わらずチヒロの手ははっきりとした体温は感じないのに、凄く温かい。錯覚だとわかっていても、嬉しかった。

 私の涙は、拭った手も私の服にもはっきりと涙の痕跡を残すのに、地面に落ちた涙は一瞬で蒸発したみたいに痕跡を残さない。

 私たちはもう、この世界から隔絶されている。誰も私たちを見ないし、私たちも何も出来ない。全部すり抜けて、痕跡さえ残さずに、このままお迎えが来て消えてしまうんだろう。

「そう、なのかな……」

 自殺じゃなくて、病死。チヒロとお揃い。

 不謹慎だけど、ちょっと嬉しかった。

「そうやって。学校とかも大変やろ。同じ年に生まれて住んでる場所とか頭の出来が似たり寄ったりってだけの人間が何十人って集められるんやろ。俺やったらやってける気ぃせぇへん」

 チヒロの声が、優しく沁みる。

「たった六人しかおらん大部屋の人間模様もなかなか過酷やで。その何倍おるんや。怖いわ」

 流れ出た涙の分だけ、チヒロの優しさが染み込んでくるようだった。

「そういうんもあって、通信にしたとこあるわ。入院多いし、学校しんどかったわ。関西弁真似しとんのも、キャラ作りの一環や。誰も見舞いに来んとか、やっと退院できたと思ったら誰オマエ状態、結構キツい」

 私とチヒロ。全然立場が違うのに、チヒロは私の話に共感してくれる。

「チヒロも、頑張ってたんだねぇ」

 意識するでもなくこぼれ出た言葉に、チヒロがはっと息を呑む。

「ありがとう」

 そう言ったチヒロの表情は、痛みを堪えている様な、今にも泣きだしそうにも見えた。