学校とは反対方向の電車。窓の外は真っ暗で、いつもと違う景色が見えるはずだったけど、明るく照らされた車内の風景が反射しているだけだった。
座っている人も立っている人もみんな窓ガラスに映っているのに、私の姿は映っていなかった。ガラスに手を近づけても、目の前に立ってみても、見えるのは私の後ろの景色。
駅の名前も確認せずに、私は適当な場所で降りた。
夜も更けてきたからか、駅は閑散としていた。
今度は改札を飛び越えないで、改札を通る人の後ろにくっついてやり過ごした。別に改札も体は通り抜けるんだけど、なんとなく。
夜の早い街みたいで、駅前のロータリーもなんだか薄暗かった。
居酒屋さんのポツポツと明かりをつけているだけで、ほとんどのお店はシャッターがしまっていて、タクシーも一台止まっているだけ。
街灯はあるけどそんなに数は多くなくて、月の光が明るかった。
「今日は満月かぁ」
太陽ほどまぶしくないけど、思わず手のひらを月に翳してみる。
まるい赤みを帯びた黄色い光。行く当てのない私は、その月に向かって歩き始めた。
シャッターだらけの商店街っぽいところを通り抜けて、小さな公園の前を通って、丁字路に差し掛かるとその向こうに――病院、かな?
満月をバックに、白い建物がそびえ立っている。なかなかいい雰囲気。今の私にぴったりなシチュエーションな気がする。忍び込んで怪談話になってやろうかという気もしたけど、闘病中の患者さんやお仕事中の看護師さんたちの邪魔をするのも忍びない。まあ、病院といういいシチュエーションだからって、幽霊の私の姿を見てもらえるのかもわからないし。期待してスルーされたら、それはそれで傷つく。
満月を眺めながら、私はそのまま病院の前を通り過ぎようとした。
満月の逆光で影になる病院。その病院の屋上にある給水タンクの上――そこに、誰かが立っている気がした。
立ち止まって目をこらす。
――やっぱり、いる。
こんな時間にタンクの点検作業なんてしないだろうし、あんなタンクの真上で仁王立ちだってしないと思う。
もしかして……
ある予感に、私は病院に向かって走り出していた。
この時間だから病院のエントランスは静まり返っていて自動扉も動かないし、幽霊の私じゃどのみち動かない。これだけ大きな病院なら救急車とかが来るような夜間の出入り口もあるのかもしれないけど、わからないからパスして自動扉に向かって目をつぶって突進する。
あの風が吹き抜けるような不思議な感覚がして、目を開けたときにはもう私は病院の中に入り込んでいた。
消灯した待合室は非常口の緑の光に照らされているだけで、なんだか不気味だった。でも、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。たぶん、それどころじゃないから。
階段はどこだろう。
エレベーターがあるのはすぐ目に入ったけど、今の私じゃ扉をすり抜けて中に入れてもスイッチを押せる気がしない。ぐるっと見回しても、階段の場所はわからなかった。
そうだ。
私はふと思いついて、床を強く踏んで飛び上がった。普段のジャンプの距離を軽々と飛び越えて、天井に頭がぶつかりそうになる。目を閉じて、また風が吹く。バランスを崩して体が一回転する。驚いて目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、ナースステーション。一回転した背中はそのまま床をすり抜けることなく、仰向けに地べたに着地した。
二階に来れた。
明るいナースステーションの光に、暗闇に慣れていた目がまぶしい。私にはもう眼球なんて本当はないはずなのに、そう感じるのが不思議だった。
私は起き上がると、夜勤に勤しむ看護師さんたちを無視してもう一度飛び上がった。各階同じような造りなのか、三階もまたナースステーションの前に出た。それを何度か繰り返して、ナースステーションからリネン室みたいなのに変わったり、徐々に景色が変わって、最後は星空が見えた。
月の光が明るく屋上を照らしている。白い屋上の床に私の足がつくけど、影は落ちない。私の足元まで伸びた給水タンクの影。その影の上に、私がみた人の影は乗っていない。でも私が振り返ると、給水タンクの上には確かに人が立っていた。
満月をバックに、仁王立ちする青いストライプのパジャマ。色の薄い癖のある髪に、青白く細い手足。服装からして、この病院で亡くなった患者さんなんだろう。整った顔立ちの彼が、床から現れた私と目が合い顔をしかめる。
「なんやオマエ――オマエも幽霊か」
関西弁っぽいしゃべりをする、薄幸の美青年が私を見下ろしていた。
「やっぱり」
彼の言葉に、高揚した。こんな時間に給水タンクの上に立っているなんて普通じゃない。だから、もしかしたら私と同じ状態の人なんじゃないかって思った。
「水干の犬に、会ったの?」
「なんやそれ」
私が問いかけると、彼は給水タンクの上から飛び降りた。ううん。飛び降りたっていうよりも、飛んだ。ふんわりと、重力なんてないみたいな速度で、私の隣に降り立った。
「オレが会ったんは、十二単の猫やったで」
隣に立った彼は、私よりも背が高かった。でも、私よりたぶん細い。だぶついたパジャマが、より一層そう思わせるのかもしれなかった。
「ネコちゃんか。いいな。私、犬より猫派なんだよね」
ドキドキした。自分と同じような幽霊に会えるとは思わなかった。
間近で見る彼の目は色が薄くて透き通っていて、でもちゃんとそこにあった。
「犬猫ってより、あれはああいう妖怪やろ」
笑うと八重歯が見えた。
「オレ、チヒロっていうねん。オマエは?」
「フーカ」
チヒロが下の名前を名乗ったから、私も下の名前だけ名乗った。
「フーカ、よろしくな。誰にもオレのこと見えんみたいやし、暇しとったんや。朝まで付き合ってぇな」
学校じゃあ、こんな風に男子と話すことなんてなかなかなかった。男子とも仲良く話す友達がいたからその子がいたら別だけど、私一人で一対一で話すことなんてまずない。
なのに不思議。自分の状態がいつもと違うからか、チヒロとはすらすら話せた。
「ええなぁ、制服。パジャマにスリッパで、オレ最悪やで」
チヒロが私の姿を見て言う。チヒロは確かにスリッパだった。とはいえ、学校の来賓用みたいなつま先だけのスリッパじゃなくて、ルームシューズみたいなカカトのあるタイプ。それでも、パジャマにスリッパ姿は見るだけで寒そう。
「寒くなくて、よかったね」
「幽霊やからな」
今気が付いたけど、幽霊になってから全然寒さを感じていなかった。うんと飛び上がって着地しても足が痛くなることもないし、駅から結構歩いてここまで来たのに疲れも感じていなかった。
生前となにも変わらないような気がしていたけど、やっぱり幽霊になったんだなって改めて思う。
「苦しゅうなくなったんも、よかったわ」
ため息をつくようにつぶやいたチヒロ。確かに息を吐く音が聞こえたのに、その息は白くならなかった。
チヒロに触れて確かめる勇気はなかったけど、きっと今の私たちには冷たさも温かさもなにもない。
「なあ。ここで会ったんも縁やし、ちょっと付き合ってーな」
座っている人も立っている人もみんな窓ガラスに映っているのに、私の姿は映っていなかった。ガラスに手を近づけても、目の前に立ってみても、見えるのは私の後ろの景色。
駅の名前も確認せずに、私は適当な場所で降りた。
夜も更けてきたからか、駅は閑散としていた。
今度は改札を飛び越えないで、改札を通る人の後ろにくっついてやり過ごした。別に改札も体は通り抜けるんだけど、なんとなく。
夜の早い街みたいで、駅前のロータリーもなんだか薄暗かった。
居酒屋さんのポツポツと明かりをつけているだけで、ほとんどのお店はシャッターがしまっていて、タクシーも一台止まっているだけ。
街灯はあるけどそんなに数は多くなくて、月の光が明るかった。
「今日は満月かぁ」
太陽ほどまぶしくないけど、思わず手のひらを月に翳してみる。
まるい赤みを帯びた黄色い光。行く当てのない私は、その月に向かって歩き始めた。
シャッターだらけの商店街っぽいところを通り抜けて、小さな公園の前を通って、丁字路に差し掛かるとその向こうに――病院、かな?
満月をバックに、白い建物がそびえ立っている。なかなかいい雰囲気。今の私にぴったりなシチュエーションな気がする。忍び込んで怪談話になってやろうかという気もしたけど、闘病中の患者さんやお仕事中の看護師さんたちの邪魔をするのも忍びない。まあ、病院といういいシチュエーションだからって、幽霊の私の姿を見てもらえるのかもわからないし。期待してスルーされたら、それはそれで傷つく。
満月を眺めながら、私はそのまま病院の前を通り過ぎようとした。
満月の逆光で影になる病院。その病院の屋上にある給水タンクの上――そこに、誰かが立っている気がした。
立ち止まって目をこらす。
――やっぱり、いる。
こんな時間にタンクの点検作業なんてしないだろうし、あんなタンクの真上で仁王立ちだってしないと思う。
もしかして……
ある予感に、私は病院に向かって走り出していた。
この時間だから病院のエントランスは静まり返っていて自動扉も動かないし、幽霊の私じゃどのみち動かない。これだけ大きな病院なら救急車とかが来るような夜間の出入り口もあるのかもしれないけど、わからないからパスして自動扉に向かって目をつぶって突進する。
あの風が吹き抜けるような不思議な感覚がして、目を開けたときにはもう私は病院の中に入り込んでいた。
消灯した待合室は非常口の緑の光に照らされているだけで、なんだか不気味だった。でも、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。たぶん、それどころじゃないから。
階段はどこだろう。
エレベーターがあるのはすぐ目に入ったけど、今の私じゃ扉をすり抜けて中に入れてもスイッチを押せる気がしない。ぐるっと見回しても、階段の場所はわからなかった。
そうだ。
私はふと思いついて、床を強く踏んで飛び上がった。普段のジャンプの距離を軽々と飛び越えて、天井に頭がぶつかりそうになる。目を閉じて、また風が吹く。バランスを崩して体が一回転する。驚いて目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、ナースステーション。一回転した背中はそのまま床をすり抜けることなく、仰向けに地べたに着地した。
二階に来れた。
明るいナースステーションの光に、暗闇に慣れていた目がまぶしい。私にはもう眼球なんて本当はないはずなのに、そう感じるのが不思議だった。
私は起き上がると、夜勤に勤しむ看護師さんたちを無視してもう一度飛び上がった。各階同じような造りなのか、三階もまたナースステーションの前に出た。それを何度か繰り返して、ナースステーションからリネン室みたいなのに変わったり、徐々に景色が変わって、最後は星空が見えた。
月の光が明るく屋上を照らしている。白い屋上の床に私の足がつくけど、影は落ちない。私の足元まで伸びた給水タンクの影。その影の上に、私がみた人の影は乗っていない。でも私が振り返ると、給水タンクの上には確かに人が立っていた。
満月をバックに、仁王立ちする青いストライプのパジャマ。色の薄い癖のある髪に、青白く細い手足。服装からして、この病院で亡くなった患者さんなんだろう。整った顔立ちの彼が、床から現れた私と目が合い顔をしかめる。
「なんやオマエ――オマエも幽霊か」
関西弁っぽいしゃべりをする、薄幸の美青年が私を見下ろしていた。
「やっぱり」
彼の言葉に、高揚した。こんな時間に給水タンクの上に立っているなんて普通じゃない。だから、もしかしたら私と同じ状態の人なんじゃないかって思った。
「水干の犬に、会ったの?」
「なんやそれ」
私が問いかけると、彼は給水タンクの上から飛び降りた。ううん。飛び降りたっていうよりも、飛んだ。ふんわりと、重力なんてないみたいな速度で、私の隣に降り立った。
「オレが会ったんは、十二単の猫やったで」
隣に立った彼は、私よりも背が高かった。でも、私よりたぶん細い。だぶついたパジャマが、より一層そう思わせるのかもしれなかった。
「ネコちゃんか。いいな。私、犬より猫派なんだよね」
ドキドキした。自分と同じような幽霊に会えるとは思わなかった。
間近で見る彼の目は色が薄くて透き通っていて、でもちゃんとそこにあった。
「犬猫ってより、あれはああいう妖怪やろ」
笑うと八重歯が見えた。
「オレ、チヒロっていうねん。オマエは?」
「フーカ」
チヒロが下の名前を名乗ったから、私も下の名前だけ名乗った。
「フーカ、よろしくな。誰にもオレのこと見えんみたいやし、暇しとったんや。朝まで付き合ってぇな」
学校じゃあ、こんな風に男子と話すことなんてなかなかなかった。男子とも仲良く話す友達がいたからその子がいたら別だけど、私一人で一対一で話すことなんてまずない。
なのに不思議。自分の状態がいつもと違うからか、チヒロとはすらすら話せた。
「ええなぁ、制服。パジャマにスリッパで、オレ最悪やで」
チヒロが私の姿を見て言う。チヒロは確かにスリッパだった。とはいえ、学校の来賓用みたいなつま先だけのスリッパじゃなくて、ルームシューズみたいなカカトのあるタイプ。それでも、パジャマにスリッパ姿は見るだけで寒そう。
「寒くなくて、よかったね」
「幽霊やからな」
今気が付いたけど、幽霊になってから全然寒さを感じていなかった。うんと飛び上がって着地しても足が痛くなることもないし、駅から結構歩いてここまで来たのに疲れも感じていなかった。
生前となにも変わらないような気がしていたけど、やっぱり幽霊になったんだなって改めて思う。
「苦しゅうなくなったんも、よかったわ」
ため息をつくようにつぶやいたチヒロ。確かに息を吐く音が聞こえたのに、その息は白くならなかった。
チヒロに触れて確かめる勇気はなかったけど、きっと今の私たちには冷たさも温かさもなにもない。
「なあ。ここで会ったんも縁やし、ちょっと付き合ってーな」