水干だ。

 それを見た瞬間、真っ先にその単語が思い浮かんだ。詰め込んだ受験のための知識の一端が、こんなところで役に立つなんて。

「申し訳ございませんが――」

 その水干を着た犬は、ゆっくりと口を開いた。

 そう、犬。たれ耳の白い犬。抱っこするのにちょうどいいぬいぐるみサイズの犬。その犬が二足歩行で水干を着て、人間の言葉をしゃべっている。

「本日二月二十九日は四年に一度の冥府の休業日でして……そのまま夜明けまでお待ちください」

 そう言って、水干ワンコはうやうやしく礼をした。

「夜が明けましたら真っ先にお迎えに参りますので」

 そう言い残して、ゆっくりと透けて消えていった。

 あまりにも現実離れした出来事に、質問を返すことさえ出来なかった。

 冥府に定休日ってあるんだ。でも、四年に一度しかないってとんだブラック企業。

 お盆休みとかってどうなってるんだろう。シフト制で交代で休んでるとか?

 混乱しすぎて、思考があさっての方向に飛んでしまう。

 小さな水干ワンコに合わせてアスファルトに座り込んでいた私は、ゆっくりと顔を上げる。

 そのままって、このままってことよね?

「救急車呼びました!」

「AED探してきます!」

 顔を上げた視線の先は、大騒動だった。

 人だかりが出来て、いろいろ騒ぎながら右往左往している人がその奥にいる。そして、その中心部には頭から血を流して倒れているブレザー姿の女の子。

 その道のプロの方でもいたのか、救護に当たっている人たちの行動はテキパキしていてお手本みたいな迅速さ。でも、きっとあの子は助からない。だって、私がここでこうしているんだから。

「死んじゃったんだよね……?」

 私は立ち上がって、自分の手のひらを見る。いつもと変わらない、少し乾燥した手。プリーツのスカートをつまんで足元を見てみても、少し剥げたローファーが地面を踏みしめている。なにも変わらない。いつもと変わらない。透けていたり浮いていたりするわけじゃない。でも、私は私を見ていた。


 血を流している女の子は、いつも鏡で見ている私の顔をしていた。


 救急車が走り去ると、集まっていた人たちも散り散りになっていった。

 一瞬、救急車に同乗していこうかとも思ったけど、私はそこに留まった。自分の死に顔なんて、あんまり見るもんじゃない。

 アスファルトに残った血だまりをしばらくぼんやり眺めていたけど、近くの店舗からバケツを持った人が出てくるのに気が付いて、私はその場を離れた。

「これからどうしよう」

 夕日はもう沈んだけど、まだまだ西の空は明るさを保っていた。夜明けまで待てって言われても、まだまだ時間がある。

 独り言をつぶやいてみても、誰も私を気にしてない。見えてない。私のほうから避けないと、みんなぶつかりにやってくる。歩きながらしばらく頑張って避けていたけど、試しに立ち止まってみた。

 真正面から私と同じ女子高生らしい制服の子が向かってくる。私のことなんてまったく気づいてない様子で、隣の子とずっとしゃべりながら真っ直ぐ向かってくる。

 ぶつかる! そう思って目を閉じた瞬間、体の中を風が吹き抜けるような奇妙な感覚がした。

 それだけで、私は誰ともぶつからなかった。

 すり抜けていく。私の体が煙になったみたいだ。自分の目にはこんなにもはっきりといつもの体が見えているのに……

「本当に幽霊になっちゃったんだ……」

 ショックじゃないっていえば、嘘になる。でも、ちょっとだけワクワクもした。

「飛べたりしないのかな」

 普段だったら、絶対こんなことしない。

 私は人混みのど真ん中でジャンプした。

 膝を軽く曲げて、地面を蹴って、そしたら――重力なんてないみたいに体がふわりと浮き上がった。

 小学校の時に遊んだトランポリンみたいに。でもそれよりもずっと軽やかに、ゆっくりと体が跳ね上がる。道行く人たちの頭上も飛び越えていく。

「わわっ」

 でも、空中でどうバランスを取ったらいいのかなんてわからなかった。支えを求めて腕を伸ばしてみても、空中にそんなものない。私はそのままバランスを崩して頭から地面に――叩きつけられることなく、くるっと回転して足から地面に着地した。

 片膝をついて、両手をピシッと広げてバランスを取って、すごく恥ずかしいポーズのはずなのに誰も見えてないから一人で赤くなるしかなかった。そしたら、サラリーマンの中年太りしたお腹が私の顔を素通りしていった。

 気分はよくなかった。

 見えないとはいえスカートの中が気になるし、あんまり跳ばないようにしよう。人をすり抜けるのもなんだか嫌な感じだし、なるべく避けるようにしよう。

 そんなことを心に決めて、私の一晩だけの幽霊生活がスタートした。