水干だ。

 それを見た瞬間、真っ先にその単語が思い浮かんだ。詰め込んだ受験のための知識の一端が、こんなところで役に立つなんて。

「申し訳ございませんが――」

 その水干を着た犬は、ゆっくりと口を開いた。

 そう、犬。たれ耳の白い犬。抱っこするのにちょうどいいぬいぐるみサイズの犬。その犬が二足歩行で水干を着て、人間の言葉をしゃべっている。

「本日二月二十九日は四年に一度の冥府の休業日でして……そのまま夜明けまでお待ちください」

 そう言って、水干ワンコはうやうやしく礼をした。

「夜が明けましたら真っ先にお迎えに参りますので」

 そう言い残して、ゆっくりと透けて消えていった。

 あまりにも現実離れした出来事に、質問を返すことさえ出来なかった。

 冥府に定休日ってあるんだ。でも、四年に一度しかないってとんだブラック企業。

 お盆休みとかってどうなってるんだろう。シフト制で交代で休んでるとか?

 混乱しすぎて、思考があさっての方向に飛んでしまう。

 小さな水干ワンコに合わせてアスファルトに座り込んでいた私は、ゆっくりと顔を上げる。

 そのままって、このままってことよね?

「救急車呼びました!」

「AED探してきます!」

 顔を上げた視線の先は、大騒動だった。

 人だかりが出来て、いろいろ騒ぎながら右往左往している人がその奥にいる。そして、その中心部には頭から血を流して倒れているブレザー姿の女の子。

 その道のプロの方でもいたのか、救護に当たっている人たちの行動はテキパキしていてお手本みたいな迅速さ。でも、きっとあの子は助からない。だって、私がここでこうしているんだから。

「死んじゃったんだよね……?」

 私は立ち上がって、自分の手のひらを見る。いつもと変わらない、少し乾燥した手。プリーツのスカートをつまんで足元を見てみても、少し剥げたローファーが地面を踏みしめている。なにも変わらない。いつもと変わらない。透けていたり浮いていたりするわけじゃない。でも、私は私を見ていた。


 血を流している女の子は、いつも鏡で見ている私の顔をしていた。


 救急車が走り去ると、集まっていた人たちも散り散りになっていった。

 一瞬、救急車に同乗していこうかとも思ったけど、私はそこに留まった。自分の死に顔なんて、あんまり見るもんじゃない。

 アスファルトに残った血だまりをしばらくぼんやり眺めていたけど、近くの店舗からバケツを持った人が出てくるのに気が付いて、私はその場を離れた。

「これからどうしよう」

 夕日はもう沈んだけど、西の空は明るさを保っていた。夜明けまで待てって言われても、まだまだ時間がある。

 独り言をつぶやいてみても、誰も私を気にしてない。見えてない。私のほうから避けないと、みんなぶつかりにやってくる。歩きながらしばらく頑張って避けていたけど、試しに立ち止まってみた。

 真正面から私と同じ女子高生らしい制服の子が向かってくる。私のことなんてまったく気づいてない様子で、隣の子とずっとしゃべりながら真っ直ぐ向かってくる。

 ぶつかる! そう思って目を閉じた瞬間、体の中を風が吹き抜けるような奇妙な感覚がした。

 それだけで、私は誰ともぶつからなかった。

 すり抜けていく。私の体が煙になったみたいだ。自分の目にはこんなにもはっきりといつもの体が見えているのに……

「本当に幽霊になっちゃったんだ……」

 ショックじゃないっていえば、嘘になる。でも、ちょっとだけワクワクもした。

「飛べたりしないのかな」

 普段だったら、絶対こんなことしない。

 私は人混みのど真ん中でジャンプした。

 膝を軽く曲げて、地面を蹴って、そしたら――重力なんてないみたいに体がふわりと浮き上がった。

 小学校の時に遊んだトランポリンみたいに。でもそれよりもずっと軽やかに、ゆっくりと体が跳ね上がる。道行く人たちの頭上も飛び越えていく。

「わわっ」

 でも、空中でどうバランスを取ったらいいのかなんてわからなかった。支えを求めて腕を伸ばしてみても、空中にそんなものない。私はそのままバランスを崩して頭から地面に――叩きつけられることなく、くるっと回転して足から地面に着地した。

 片膝をついて、両手をピシッと広げてバランスを取って、すごく恥ずかしいポーズのはずなのに誰も見えてないから一人で赤くなるしかなかった。そしたら、サラリーマンの中年太りしたお腹が私の顔を素通りしていった。

 気分はよくなかった。

 見えないとはいえスカートの中が気になるし、あんまり跳ばないようにしよう。人をすり抜けるのもなんだか嫌な感じだし、なるべく避けるようにしよう。

 そんなことを心に決めて、私の一晩だけの幽霊生活がスタートした。
「この映画、見たかったんだよね!」

 幽霊になった私は、映画館に繰り出していた。

 高校三年の夏、受験に向けて遊ぶ余裕なんてずっとなかった。ううん、今だけじゃない。ずっと余裕なんてない。

 周りに合わせて浮かないようにして、親が学校が友達が、私になにを求めているのかばっかり気にして、自分がなにが好きで嫌いかさえ忘れそうになってた。

 絶対言ったらバカにされる。ううん、バカにされて笑われるぐらいならまだマシだった。ドン引きされて孤立することが、一番怖かった。

「サメベロス、開場でーす」

 劇場の人の声がフロアに響くけど、入場に向かって行く人は皆無だった。

 サメベロスーー地獄のケルベロスと融合した三つの頭を持つサメが人々を襲うパニックホラー……と見せかけた、たぶんコメディー。

 絶対ばかばかしくて面白い。パニックホラーを見ていたはずなのに、なぜか笑っちゃう展開しかないと思う。

 すごく、楽しみ!

 私は幽霊になったのをいいことに、私は鑑賞券を買わずにいそいそと入場していった。

 やや後方よりの中央席。そこに腰かけて、私はスクリーンを見つめる。ポップコーンでも欲しいところだけど、さすがに幽霊じゃ買えないし食べれないよね。

 上映時間を待っているとポツポツと人が入ってきた。そのうちの一人。ポップコーンを片手に一人で入ってきた男性がそのまま私に近づき……私の膝の上に座ろうとした! たぶんすり抜けてしまうだろうけど、咄嗟に回避する。
 やっぱりこの席が一番見やすいよね。考えることは同じらしい。

 同じ趣味の仲間だと思うと、入場してくる人がみな好ましく思えてくる。上映時間まで誰も通らない奥の通路で待ってから、空いた席に座った。

 映画は面白かった。血しぶき舞うR15の映画だったんだけど、やっぱり要所要所で座席から笑い声が聞こえてきた。私も笑った。どうせ誰にも聞こえないしと、映画館だけど自宅でテレビを見ているノリで笑った。

 エンドロールが流れて、最後のオマケのワンシーンも終わって、明るさが戻ってくる。

 連れだって来た人たちが、笑いながら映画の感想を言い合って楽しそうに帰っていく。

 私も、流行りの映画を友達と見に来たときはそうだった。映画は誰かと感想を語り合うまでが映画だと思っているタイプだった。

 でもこんな映画に誘える友達はいないし、今も一人。

 映画は楽しかったけど、虚しかった。

「別んとこ行こ」

 誰にも聞かれてないって思うからか、独り言が増えてしまう。

 どこか他に行きたいとこあったかな。

 そんなことを考えながら映画館を出ようとロビーに戻る。

 ここの映画館はビルの二階にあった。ガラス張りの壁から、街の雑踏が見下ろせる。もうすっかり外は夜だった。

 ふと、思い立つ。

 ガラスを見つめたまま、後ろに下がる。途中誰かにぶつかったけど、さっきみたいにすり抜ける。だから、もしかしたら……
 壁際まで下がって、私はそのまま助走をつける。

 普通だったらこのまま激突して、なにあの子って目で見られる。でも、今の私ならきっと――ガラスに向かって踏み切る。さすがにちょっと怖くて、腕で顔をガードしてしまう。でも、私はガラスに当たらなかった。

 世界がスローモーションに見えた。ガラスをすり抜け、空中に放り出されて、思わず手足をばたつかせてしまう。それで飛べるわけないんだけど、落下するスピードがゆっくりになる。さっきジャンプしたときみたいにふんわりと体が浮くような感覚がする。ガラスはすり抜けたのに、地面にはしっかり足が付く感触があるのが不思議。少し膝を曲げて、衝撃を吸収しながらゆっくりと着地した。

 だからなんだっていう感じだけど、幽霊らしさを味わってみたかった。ちょっと、楽しい気分になるんじゃないかなって……じゃないと、世界中に無視されているこの状況は結構精神的にくるなって気づき始めていた。

 生きてても死んでても、なにも変わらないじゃない。

 暗くなる気持ちを振り払って、私は駅に向かって歩き始めた。

 幽霊が電車に乗って移動って結構シュールだなって思っただけ。特に行く当てもない。適当な駅で適当にうろついてみるのも面白いかもしれない。学校へ行くホームで、反対方向の電車に乗ったらどうなるだろうって毎朝思ってた。

 でも、そういえばさっきの水干ワンコは私を迎えに来るって言ってた。あの場所で待ってないといけなかったりするのかな? 一応、始発で戻ろうかなと考えてみるけど、始発と夜明けってどっちが早いのかどっちも調べたことがないしわからない。終電ですぐ戻ってくるのも、もったいない気がした。

 きっと幽霊は眠らない。夜明けまであの場所でぼんやり時間が過ぎるのを待つのは嫌だった。

 幽霊だし、電車がなくなってもなんとかなるでしょ。

 私は駅の改札を文字通り飛び越えて、駅のホームに降りて行った。この大ジャンプ、ゲームのキャラクターを思い出してちょっと楽しい。キノコを拾ったら一機UPで生き返ったりするのかな――生き返りたいとも、思わないけど。
 学校とは反対方向の電車。窓の外は真っ暗で、いつもと違う景色が見えるはずだったけど、明るく照らされた車内の風景が反射しているだけだった。

 座っている人も立っている人もみんな窓ガラスに映っているのに、私の姿は映っていなかった。ガラスに手を近づけても、目の前に立ってみても、見えるのは私の後ろの景色。

 駅の名前も確認せずに、私は適当な場所で降りた。

 夜も更けてきたからか、駅は閑散としていた。

 今度は改札を飛び越えないで、改札を通る人の後ろにくっついてやり過ごした。別に改札も体は通り抜けるんだけど、なんとなく。

 夜の早い街みたいで、駅前のロータリーもなんだか薄暗かった。

 居酒屋さんのポツポツと明かりをつけているだけで、ほとんどのお店はシャッターがしまっていて、タクシーも一台止まっているだけ。

 街灯はあるけどそんなに数は多くなくて、月の光が明るかった。

「今日は満月かぁ」

 太陽ほどまぶしくないけど、思わず手のひらを月に翳してみる。

 まるい赤みを帯びた黄色い光。行く当てのない私は、その月に向かって歩き始めた。

 シャッターだらけの商店街っぽいところを通り抜けて、小さな公園の前を通って、丁字路に差し掛かるとその向こうに――病院、かな?

 満月をバックに、白い建物がそびえ立っている。なかなかいい雰囲気。今の私にぴったりなシチュエーションな気がする。忍び込んで怪談話になってやろうかという気もしたけど、闘病中の患者さんやお仕事中の看護師さんたちの邪魔をするのも忍びない。まあ、病院といういいシチュエーションだからって、幽霊の私の姿を見てもらえるのかもわからないし。期待してスルーされたら、それはそれで傷つく。

 満月を眺めながら、私はそのまま病院の前を通り過ぎようとした。

 満月の逆光で影になる病院。その病院の屋上にある給水タンクの上――そこに、誰かが立っている気がした。

 立ち止まって目をこらす。

 ――やっぱり、いる。

 こんな時間にタンクの点検作業なんてしないだろうし、あんなタンクの真上で仁王立ちだってしないと思う。

 もしかして……

 ある予感に、私は病院に向かって走り出していた。



 この時間だから病院のエントランスは静まり返っていて自動扉も動かないし、幽霊の私じゃどのみち動かない。これだけ大きな病院なら救急車とかが来るような夜間の出入り口もあるのかもしれないけど、わからないからパスして自動扉に向かって目をつぶって突進する。

 あの風が吹き抜けるような不思議な感覚がして、目を開けたときにはもう私は病院の中に入り込んでいた。

 消灯した待合室は非常口の緑の光に照らされているだけで、なんだか不気味だった。でも、不思議と恐怖心は湧いてこなかった。たぶん、それどころじゃないから。

 階段はどこだろう。

 エレベーターがあるのはすぐ目に入ったけど、今の私じゃ扉をすり抜けて中に入れてもスイッチを押せる気がしない。ぐるっと見回しても、階段の場所はわからなかった。

 そうだ。

 私はふと思いついて、床を強く踏んで飛び上がった。普段のジャンプの距離を軽々と飛び越えて、天井に頭がぶつかりそうになる。目を閉じて、また風が吹く。バランスを崩して体が一回転する。驚いて目を開けた私の視界に飛び込んできたのは、ナースステーション。一回転した背中はそのまま床をすり抜けることなく、仰向けに地べたに着地した。

 二階に来れた。

 明るいナースステーションの光に、暗闇に慣れていた目がまぶしい。私にはもう眼球なんて本当はないはずなのに、そう感じるのが不思議だった。

 私は起き上がると、夜勤に勤しむ看護師さんたちを無視してもう一度飛び上がった。各階同じような造りなのか、三階もまたナースステーションの前に出た。それを何度か繰り返して、ナースステーションからリネン室みたいなのに変わったり、徐々に景色が変わって、最後は星空が見えた。

 月の光が明るく屋上を照らしている。白い屋上の床に私の足がつくけど、影は落ちない。私の足元まで伸びた給水タンクの影。その影の上に、私がみた人の影は乗っていない。でも私が振り返ると、給水タンクの上には確かに人が立っていた。

 満月をバックに、仁王立ちする青いストライプのパジャマ。色の薄い癖のある髪に、青白く細い手足。服装からして、この病院で亡くなった患者さんなんだろう。整った顔立ちの彼が、床から現れた私と目が合い顔をしかめる。

「なんやオマエ――オマエも幽霊か」

 関西弁っぽいしゃべりをする、薄幸の美青年が私を見下ろしていた。

「やっぱり」

 彼の言葉に、高揚した。こんな時間に給水タンクの上に立っているなんて普通じゃない。だから、もしかしたら私と同じ状態の人なんじゃないかって思った。

「水干の犬に、会ったの?」

「なんやそれ」

 私が問いかけると、彼は給水タンクの上から飛び降りた。ううん。飛び降りたっていうよりも、飛んだ。ふんわりと、重力なんてないみたいな速度で、私の隣に降り立った。

「オレが会ったんは、十二単の猫やったで」

 隣に立った彼は、私よりも背が高かった。でも、私よりたぶん細い。だぶついたパジャマが、より一層そう思わせるのかもしれなかった。

「ネコちゃんか。いいな。私、犬より猫派なんだよね」

 ドキドキした。自分と同じような幽霊に会えるとは思わなかった。

 間近で見る彼の目は色が薄くて透き通っていて、でもちゃんとそこにあった。

「犬猫ってより、あれはああいう妖怪やろ」

 笑うと八重歯が見えた。

「オレ、チヒロっていうねん。オマエは?」

「フーカ」

 チヒロが下の名前を名乗ったから、私も下の名前だけ名乗った。

「フーカ、よろしくな。誰にもオレのこと見えんみたいやし、暇しとったんや。朝まで付き合ってぇな」

 学校じゃあ、こんな風に男子と話すことなんてなかなかなかった。男子とも仲良く話す友達がいたからその子がいたら別だけど、私一人で一対一で話すことなんてまずない。

 なのに不思議。自分の状態がいつもと違うからか、チヒロとはすらすら話せた。

「ええなぁ、制服。パジャマにスリッパで、オレ最悪やで」

 チヒロが私の姿を見て言う。チヒロは確かにスリッパだった。とはいえ、学校の来賓用みたいなつま先だけのスリッパじゃなくて、ルームシューズみたいなカカトのあるタイプ。それでも、パジャマにスリッパ姿は見るだけで寒そう。

「寒くなくて、よかったね」

「幽霊やからな」

 今気が付いたけど、幽霊になってから全然寒さを感じていなかった。うんと飛び上がって着地しても足が痛くなることもないし、駅から結構歩いてここまで来たのに疲れも感じていなかった。

 生前となにも変わらないような気がしていたけど、やっぱり幽霊になったんだなって改めて思う。

「苦しゅうなくなったんも、よかったわ」

 ため息をつくようにつぶやいたチヒロ。確かに息を吐く音が聞こえたのに、その息は白くならなかった。

 チヒロに触れて確かめる勇気はなかったけど、きっと今の私たちには冷たさも温かさもなにもない。

「なあ。ここで会ったんも縁やし、ちょっと付き合ってーな」
「動物園……?」

 チヒロに連れられるまま歩いて行った先に遭ったのは、営業時間を過ぎて閉園した動物園だった。

「オレの病室からずっと見えとったんやけど、一回も来たことなかったんよ」

 閉ざされた門を前に、チヒロはなんだか嬉しそうだった。

「あ、すり抜けられるよ」

「え、どうやって?」

 門をつかんでよじ登ろうとする仕草をするチヒロにそう言うと、そう返されてしまった。

「どうって……」

 言われてみれば、どうやってたんだろう。人間とかは勝手にすり抜けてたけど、さっきの病院も一階の天井はすり抜けたのに二階の床には立ててたし、すり抜けた天井と立った床って、ほぼ同じものなのに、どうやってすり抜けるのとすり抜けないの使い分けてたんだろう。改めて聞かれると、困ってしまう。

「気合?」

 チヒロは今柵をつかんでいるけど、たぶんその柵だってすり抜けられると思う。気持ちの問題なのかなぁ。幽霊に実体はないんだろうし、今チヒロが柵をつかんでいるのもつかんでるって思いこんでるだけの、パントマイムなのかもしれない。

「こういう、感じで……!」

 実際にやってみせた方が早いかもしれない。

 私は映画館でやったみたいに助走をつけて、柵に体当たりをする。ぶつかる瞬間目をつむってしまうのは、やっぱり怖いから仕方がない。意識したせいで出来なかったらどうしようって思ったけど、あの風の感覚がして、目を開けたときには柵の内側にいた。

「おー」

 ぱちぱちと、柵の向こう側でチヒロが拍手していた。

「でも、なんか怖ぇな」

「慣れれば、案外平気だよ」

 柵の中と外。チヒロは、なかなか動こうとしなかった。

「なあ、手ぇ握ってーな」

「え?」

 また、チヒロが八重歯をのぞかせて笑う。

「そっちから、手ぇ引っ張ってーな」

 柵の隙間から、チヒロが手を差し出してくる。

 さっき握れなかった、チヒロの手。

 さわると、どんな感じがするんだろう。

 生きてる人間みたいに、すり抜けたりしないかな。

「いいよ」

 私はチヒロの手を握り返した。

 ちゃんと触れたチヒロの手は、決して温かくはないけど冷たくもなかった。なんだか、ぬるいような不思議な感じがした。

「いくよ!」

「おう!」

 勢いをつけて、チヒロの手を引っ張る。

 自分じゃないのに、チヒロが柵にぶつかるっていう瞬間は思わず目をつぶってしまった。勢いよく引っ張ったのに上手くすり抜けられなくて、チヒロが激突したらどうしよう。そう思ったけど、チヒロの動きが止まっておそるおそる目を開けると、柵の内側に立つチヒロが目の前にいた。

「へえ。おもろいなぁ」

 私の胸に飛び込むすんでのところで立ち止まったチヒロが、楽しそうだった。

「じゃあ、行こか」

 そう言って歩き始めたチヒロは、私の手を握ったままだった。

 男の人と手を繋いで歩くなんて、幼稚園ぶりかもしれない。

 幽霊でも顔色変わったりするのかなって、自分の顔が赤くなってないか心配になる。

 なんで手を繋いだままなんだろうって不思議に思うけど、なんだか聞けなくて手を離すことが出来なかった。

「やっぱ、みんな寝とんなぁ」

 パジャマ姿のチヒロが夜の動物園の中を歩いているのはなかなかシュールな光景だった。

 B級ホラー映画にありそうとか、ちょっと思ってしまった。

 私もだけど、チヒロも全然怖くない幽霊だった。お互いにしかお互いが見えてないだけで、自分たちがもう死んでいるだなんて信じられない。

 静かな動物園の中で、時折なんだかよくわからない動物の鳴き声がする。その声の方が、よっぽど幽霊らしかった。

「隠れててよく見えないね」

「暗いしなぁ」

 動物たちは木の影とかで眠っているか、大型動物は別に寝床があるみたいで檻の中はからっぽだった。起きている動物がいないか、歩きながら探してみる。

「知っとる?」

「えっ、なにが?」

 手を引っ張ってもらってるとはいえ、チヒロは早足だった。気の向くままに動物園内を歩くチヒロについていくのに必死になって、話をよく聞いてなかった。

「夜行性の動物」

 チヒロの問いかけに、頭に思い浮かんだ動物がそのまま口をついて出る。

「ハムスター」

 小学生のころ飼いたくて、エッセイマンガを読んだり、飼ってもらえる予定もないのに飼育書を図書館で借りたりしていた。

「ハムスター! ええなぁ。ふれあい広場みたいなん、あらへんかな」

 おあつらえむきに、動物園内の案内板を見つけた。

 園内はとっくに消灯されていて、明かりらしい明かりもなかったけど、満月だからか、それとも幽霊だからか、意外なほどはっきりと案内板を読むことが出来た。

「あっちの方やな」

 チヒロが、動物園の奥の方を指差した。

「じゃあ、行こか」

 チヒロがまたそう言って、私の手を握り直してまた歩き始める。
「ええなあ。こんなけ歩いても、全然しんどならへんわ」

 独り言のような、チヒロの声が聞こえてきた。

 こんだけ歩いてて言っても、この動物園はそんなに広くないし道も平坦だ。私にとっては、日常より多く歩いたって気はしない。チヒロのパジャマ姿がなんだか痛々しかった。

「フーカはええんか? なんも言わんと手ぇ繋いだまんまやけど」

「えっ? う、うん。別にいいよ……」

 今更聞かれても、困ってしまう。さんざん手を繋いだ後で今更恥ずかしいからって手を振りほどくわけにもいかないし、正直彼氏いない歴が年齢と一緒だからちょっとしたデート気分が味わえてまんざらでもなかったなんて言えない。

「そっか、よかったー。一回やってみたかってんよ。動物園デート」

 振り返ったチヒロが笑う。月の光に照らされて、輪郭が青白く光る。

 同じこと考えてたんだって思うと、なんだか嬉しかった。

 最初で最後のデート。たまたま同じ境遇で出会ったってだけだけど、その相手に選んでもらえて光栄だった。

 初めて会った人とこんな風に手を繋いで、それってどうなのかなって思わなくもないけど、チヒロだからいいやと思えた。

 何故だろう。チヒロは悪い人じゃないって思える。若くして死んで怨霊とか怖い物になっちゃってて、これから取り込まれるホラー展開が待っていたりするのかもしれない。でも、ありえない。繋いだ手から伝わってくる。

 私とチヒロは今、幽霊だ。魂だけの存在。魂と魂が触れ合ってる。だから、かな。

「ぁ……」

 ふれあい広場に向かって歩いていると、チヒロが小さく声を漏らして立ち止まった。

 私も一緒に立ち止まり、チヒロが見ている先を見る。

 ――献花台だ。

 テントの下に白い台が置かれて、そこに色とりどりの花束や果物が置かれていた。案内板には、カバのハナコが五十歳で大往生したことが書かれていた。

「なあ」

 大きなため息をついたチヒロが私を見る。

「自分語りしてもええか?」

「どぞ」

 特にダメだと言う理由もないので、こくりと頷く。チヒロは、献花台近くの植え込みの前に腰かけて、膝に頬杖をついた。反対側の手は、まだ私の手を握っていた。

「ちっさい頃から病気でなー。良くなったり悪くなったり繰り返し取って、薬とか手術とかやってもよおならんから、骨髄移植することなってずっとずっとドナーを待っとったんやけど、あかんかったわ」

 今、私の隣にいるチヒロは元気そうに見えた。

 顔色も普通だし、パジャマにスリッパっていう格好だけが病人らしさをかもしだしている。でもこれは、死んで病気だった体を抜け出したからなんだろう。そういうえば私も、寝不足で頭痛が酷かったのに死んだら治ったや。

「もっと早く移植に決まってれば、ドナー見つかっとったんかなとか考えんのよ。輸血とかするとドナー登録取り消しなるらしいし、俺に合っとったやつがおったのに、そうやっておらんなったのかもしれん」

 ドラマとかでしか見聞きしたことのない世界の話だった。学校の授業で聞いたこともあったけど、ドナー登録している人は知らないし、ドナーを待っている人も私は知らない。

「中学のころになーあ。俺、今十八やねんけど、フーカも同じぐらいか?」

「う、うん……」

 献花台の方を見ていたチヒロの顔が私の方を向いて、ドキドキしてしまう。どんな顔をして、チヒロの話を聞いたらいいのかわからなかった。

「その制服なんや見たことあるわ。俺は制服ないんやけどな。入院ばっかやから、通信にしたんや。それも勉強どころじゃないこと多くてダブっとんねんけどな」

 学校とは逆方向の電車に乗ったけど、そう遠くない駅で降りたから、この辺りから私と同じ学校にいる子もいるのかもしれない。

 チヒロが言う通信ってのは、通信制高校ってやつなんだと思う。名前は聞いたことあるけど、通っているっていう人には初めて会った。高校生も単位や出席日数が足らなかったら留年するって知ってはいたけど、実際に留年してしまった人に会うのもチヒロが初めてだった。

 私と同じ十八歳なのに、こんなにも私とチヒロは違う。

 きっと、今日が二月二十九日じゃなかったら私とチヒロの人生が交わることなんてなかったかもしれない。もう死んでるのに、人生って言うのもおかしいかもしれないけど。

「で、中学のころに同じ病気のヤツが入院してきたんや。で、死んだ」

 また献花台の方に視線を戻したチヒロの言葉をうんうん頷きながら聞いていたら、重たい言葉が出た。

 私もチヒロももう死んでいるっていうのに、生きてたころと同じ重さを持って死は響く。

「そいつが関西弁やってんよ。本人はコッチの生まれらしいけど、親が関西出身や言うて」

 重たい言葉をさらさらと流暢にチヒロは流していく。病院に長く入院していれば、こういう単語も飛び交うのかもしれない。

「で、それを真似してしゃべっとんのがオレや」

 またチヒロの目が私の目を見る。

「そうなんだ」

 当たり障りのない返事しか出来ない自分が嫌になる。

「下手くそな関西弁やってよお怒られたけど、なんや……アイツのこと忘れとうなくて真似しとんのや」

 チヒロの関西弁が下手くそなのかどうかは私にはわからなかった。

「俺と同じ病気で死によって……ああ、やっぱコレて死ぬ病気なんやなぁ思ったわけよ」

 でも、チヒロにとってその人の存在が――その人の死が、とても大きなものだったんだっていうのは伝わってきた。

「で、案の定死にましたわ」

 ははは、とチヒロが乾いた声で笑う。私もつられて口元を笑みの形に取り繕おうとしたけど、きっとぎこちない。

「ええよな、ハナコは寿命で死ねて……」

 また、チヒロの目が献花台に向く。

 握り締められたままの手に、力が込められた。

「せやけど、ちょっと死んでホッともしとるわ。もうしんどい思いせんでええんやなーって」

 献花台を見つめる目が、月の光を受けてきらきら光っていた。瞳に張った膜が、揺れている。

「親には悪いことしたけど、弟もおるし、なんとか踏ん張ってくれるやろ」

 力が込められた手が、震えていた。

「フーカは事故かなんかか? 制服やし」

 チヒロが私の方を見る。来るだろうなって、思った。

「立ち入ったこと聞いてあかんな。すまん、答えんでいい」

 チヒロが、私からすぐに視線を逸らした。でも、私は口を開きかけていた。

「わた、私は……」

 黙ることも、嘘をつくこともしたくないと思った。

「――――自殺したの」

 チヒロに罵られたいと思った。

 健康な体を持って、普通に生活出来ていたのに、私は自分で自分の命を手放した。

 病気で生きたくても生きられなかったチヒロの前でこんなことを懺悔するなんて、悪趣味だとわかってる。それでも、言葉が止まらない。

 こんな自傷行為にチヒロを巻き込むなんて最低だ。
「本当に死ぬなんて、思わなかった」

 こんな言葉、言い訳に過ぎない。

「ううん。もしかしたら、死ぬかもって思った。でも、やってみたかった」

 チヒロに握られた手が震える。

「手すりが、壊れそうだったの。錆びてボロボロで、触ったら危ないだろうなってずっと思ってた」

 塾サボって、いつも時間つぶしてた空きビルの非常階段。ずっとずっと、誘惑されてた。眠り姫の錘みたいに、さわってはいけないとわかっているのに、さわってみたい衝動がずっとあった。

「なんかもう、全部嫌になっちゃって……体重をかけてみたの」

 案外、大丈夫じゃないかって思った。ビル自体はそんなに古いわけじゃないし、見た目ほど壊れてないんじゃないかって。でも、壊れるかもって少しは思ってた。

「だって、明日は卒業式なの。第一希望の合格発表だってまだなのに……後期試験に向けてまだまだ勉強しなきゃいけないのに、疲れちゃって……」

 しゃべっていて、自分が情けなくて涙が出てくる。

「居場所がないの……学校にも塾にも家にだって、居場所がない。周りに合わせてばっかで、自分がない。自分がないのに、自分がここにいるのが嫌になって……それで……私は」

 自分の命を消した。

 流行りの物に乗っかって友達と話を合わせて、学校や塾の先生に言われるがまま勉強して、親が指示する通りの大学を受験して――サメ映画見たの、何年ぶりだろう。

 死んでやっと好きなことができるなんて……

「そかー、フーカも頑張っとったんやなぁ」

「え?」

 チヒロからはお怒りお説教が返ってくると思ったのに、返ってこなかった。それどころか、労われてしまった。

 予想外の反応に、思わず間抜けな声がもれて、涙も引っ込む。

「俺、まともに受験勉強したことないねんよなー。大変やとは聞いてるわ。夜遅ぉまで何時間も勉強すんねんやろ?」

 私の決死の告白を雑談みたいなノリで受け止めるチヒロを、私はどんな気持ちで見ればいいんだろう。

「私は、全然頑張ってなんかないよ。塾だってサボっちゃって」

 最近は塾をサボって、あの空きビルでスマホさわってずっと時間を潰していた。

 志望校に合格した子も中にはいるけど、友達もみんなまだまだ受験にまっしぐら。塾休んでいることも友達にどうしたのか聞かれてしまって、でもライバルが一人減ってちょうどよかったって陰で笑われてたのも知っている。

 そろそろ家族にもサボっているのがバレてるかもしれない。そう思うと家に帰る気にもなれなくて、怪我をすれば――死んじゃえば、家に帰らなくて済む。そんな浅はかな気持ちで手すりに体重をかけた。

 目の前にニンジンぶら下げられて、走っても走っても追いつけない。もうちょっと頑張ればA判定になるんじゃないか、今でこの大学がA判定なら試験まで頑張ればもっと上の大学もいけるんじゃないかって、到達したはずの目標がすり替えられて走っても走ってもゴールにたどり着けない。ようやくたどり着けたと思ったゴールも、自己採点で絶望的だった。終わるはずだったマラソンは、後期試験まで延長されてしまった。でも、私はもう息も絶え絶え。
もっと頑張れもっと頑張れ、もう私の気持ちはポッキリ骨折してしまっていた。

「みんな私よりももっと頑張ってるのに、私は全然ダメなの」

 チヒロの隣で、私は膝を抱えて丸くなる。チヒロが大きなため息をついたのが聞こえて、チヒロの手を握ったままビクリと跳ねる。

「ああ、悪い悪い。怯えんといて」

 ひらひらと手を振って、チヒロが私に向かってのため息じゃないアピールをしてくる。

「いやな、俺もそういうのあったんよ。検査嫌で嫌や嫌や文句言うとったら、俺より小さいのに頑張ってる子だっておるとか言われてな。知らんがな。俺は頑張れへんねん、しゃあないやん。俺と同じ年でオリンピックでとるやつがいるって言われても、俺はオリンピックには出られんし、もっと頑張ってるやつがいる言われても、俺にはそこまで頑張れん。オリンピック出れるぐらい走ったら文字通り死んでまうし、嫌や嫌や弱音吐かんと気持ちが死んでまう」

 合点がいったように、チヒロがうんうん頷く。

「そっか。フーカはそれで死んだんやな。サボりの弱音吐いてても、間に合わんくて気持ちが死んでしまったんやな」

 チヒロの手が、私の頭にふわりと触れる。

「頑張っとったんやなぁ」

 私に聞かせるでもなく小さくつぶやかれた言葉が、本当にチヒロがそう思ってくれているんだと伝えてくれる。

「フーカも病死やな。鬱とかノイローゼとか、なんかなっとったんちゃうか?」

 涙が止まらない。幽霊なのに、涙が出るって変な感じ。ぬぐってもぬぐっても涙が止まらなくて、チヒロが優しく頭をなでてくれる。

 相変わらずチヒロの手ははっきりとした体温は感じないのに、凄く温かい。錯覚だとわかっていても、嬉しかった。

 私の涙は、拭った手も私の服にもはっきりと涙の痕跡を残すのに、地面に落ちた涙は一瞬で蒸発したみたいに痕跡を残さない。

 私たちはもう、この世界から隔絶されている。誰も私たちを見ないし、私たちも何も出来ない。全部すり抜けて、痕跡さえ残さずに、このままお迎えが来て消えてしまうんだろう。

「そう、なのかな……」

 自殺じゃなくて、病死。チヒロとお揃い。

 不謹慎だけど、ちょっと嬉しかった。

「そうやって。学校とかも大変やろ。同じ年に生まれて住んでる場所とか頭の出来が似たり寄ったりってだけの人間が何十人って集められるんやろ。俺やったらやってける気ぃせぇへん」

 チヒロの声が、優しく沁みる。

「たった六人しかおらん大部屋の人間模様もなかなか過酷やで。その何倍おるんや。怖いわ」

 流れ出た涙の分だけ、チヒロの優しさが染み込んでくるようだった。

「そういうんもあって、通信にしたとこあるわ。入院多いし、学校しんどかったわ。関西弁真似しとんのも、キャラ作りの一環や。誰も見舞いに来んとか、やっと退院できたと思ったら誰オマエ状態、結構キツい」

 私とチヒロ。全然立場が違うのに、チヒロは私の話に共感してくれる。

「チヒロも、頑張ってたんだねぇ」

 意識するでもなくこぼれ出た言葉に、チヒロがはっと息を呑む。

「ありがとう」

 そう言ったチヒロの表情は、痛みを堪えている様な、今にも泣きだしそうにも見えた。