――『わかったな、和葉』。
こう言われれば、嫌でも体が貴一の言うとおりに勝手に動いた。
まさかそれが、長年にわたってかけられ続けていた呪いの言葉だったとは知らずに。
「わたしは…言いつけを守っていたのではなく、『守らされて』いたのですね…」
この歳になって初めて知らされた事実。
…落胆した。
しかし、不思議と涙は出てこなかった。
もう、家族から裏切られることなど慣れてしまったのだろうか。
――いや、そうではない。
どんなにつらい、悲しい出来事に見舞われようと、今の和葉にはそれをともに乗り越えてくれる存在がいるから。
和葉はもう1人ではないから。
「『無効化ノ術』で『言ノ葉ノ術』は解いておいた。だから、もう恐れることはない」
「ありがとうございます…旦那様」
頭を下げて、玻玖に感謝する和葉。
しかし、玻玖の口元を見ると、どうにもよくはなさそうな表情だった。
「旦那様、…どうかしましたか?」
「…いや。それと同時に、もう1つの『言ノ葉ノ術』も解けることとなった」
「もう1つの…『言ノ葉ノ術』?お父様は、2つもわたしにかけておられたのですか…?」
「違う。黒百合さんではない」
「それでは…」
玻玖は、『言ノ葉ノ術』は『高度な負の呪術』と言っていた。
そんな呪術がかけられる人間は限られているはず。
一体、だれが――。
「俺だ」
ふと、和葉の隣から聞こえた…そんな声。
見ると、そこにいるのは――もちろん玻玖。
和葉は呆然とする。
なぜなら、『言ノ葉ノ術』は相手の精神を乗っ取り支配する負の呪術。
そんな恐ろしい術を、なぜ…玻玖が……。
「隠していた俺の本来の姿を見せたが、…どうやら俺も和葉を二度騙していたことになるな」
玻玖の口元が切なげに微笑む。
「…どういうことですか、旦那様」
「そうだな。ここで少し…、昔話を聞いてくれるか?」
「昔話…?」
「ああ。先程和葉が知りたがっていた、ずっと昔からお前のことを愛していた…という話もいっしょにしようか」
静かに語る玻玖を見つめる和葉。
聞こえるのは、草木を揺らす夜風の音だけだった。
これは、今から約300年も昔の話――。
徳川家が国を治めていた、江戸時代初期。
徳川が天下を取ることができたのは、実は陰である人物の働きがあったからだと噂されていた。
その人物とは、どの軍師よりも的確に戦を読み、必ず勝利をもたらす――。
まるで、神のような力を持っていたと言われている。
その者の名前は、『東雲玻玖』。
まるで蜘蛛の糸のような銀色の短髪。
両耳には耳飾り。
そして、見る者を引きつける翡翠色の瞳。
どこか怪しげで。
しかし、なぜか目を奪われるようなその男は、自らを『呪術師』と名乗っていた。
戦国時代の戦において、呪術師は欠かすことのできない存在であった。
敵兵力を潰す、攻撃呪術に特化した呪術師。
傷ついた味方兵を一瞬にして癒やしてしまう呪術師。
呪術師と語っても、だれもが将軍の手元に置かれるわけではなく、とくにこの2つの呪術を得意とする呪術師が重宝された。
ところが、徳川家に気に入られていた玻玖という名の呪術師は、そのどちらの呪術も兼ね備えており、どの呪術師よりも豊富な知識と桁違いの能力を秘めていた。
いくら数で勝ろうとも、奇襲をかけようとも、決して徳川の強さは揺るがなかった。
なぜなら、玻玖の『予知眼ノ術』で、徳川にはそれらすべてが手に取るようにわかっていたから。
おそらくこの時代では、『予知眼ノ術』を使える呪術師は玻玖だけ。
その玻玖ほしさに戦を仕掛ける武将もいたが、ことごとく返り討ちにあわされた。
こうして徳川家が天下を取り、江戸時代が幕を開けたのだ。
強い呪術の力を持って生まれたあやかしの狐――。
妖狐の玻玖。
妖狐の寿命は人よりも遥かに長く、玻玖は人と人が争い合って殺し合う時代を目の当たりにしてきた。
玻玖にとっては、つまらない日々の繰り返しだった。
呪術の力を持て余し、暇潰しで力を貸したのが徳川家だった。
徳川家は、これまでの玻玖の功績を認め、『最高の呪術師』という意味合いを込めて、『神導位』という地位を新たにつくり、玻玖を任命した。
不思議な呪術の力は忌み嫌われ、差別の対象となる時代もあり、江戸時代となっても『呪術師』と名乗らず普通の人間として静かに暮らす呪術師も少なくはなかった。
しかし、『東雲玻玖』という呪術師が将軍様をそばでお守りし、助言を授ける『神導位』になったという知らせは、日本中の呪術師たちを沸き立たせた。
もしかしたら、自分も将軍様のお眼鏡にかなうかもしれない。
そんな思いを抱えた呪術師たちが、全国から都に集結した。
これが、のちに『呪披の儀』が誕生するきっかけとなる。
玻玖は、次々とやってくる呪術師相手に試されることに。
要は、将軍の退屈しのぎとなる余興のようなもの。
毎日に楽しみを見出だせていなかった玻玖も暇潰しとして手合わせしてみるが、どれも足元にも及ばない呪術師ばかりだった。
そんなある日。
玻玖が初めて、手合わせしてみて『おもしろい』と思えるような呪術師が現れる。
名は、『黒百合瞳子』。
代々、呪術の力で商いで財をなしてきた呪術家系、黒百合家の現当主、冬貴の娘であった。
まだ15歳になったばかりの少女でありながら、これまでの呪術師とは違い、玻玖の繰り出す呪術をすべて真似ることができた。
しかし、あと一步及ばずで、玻玖に勝ることはできなかった。
瞳子の後ろには残念がる父、冬貴の姿があったが、これまでの呪術師たちとは違い、将軍の目にとまったのは明らかだった。
「なぜ、手加減をした?」
手合わせ後、城の庭を散策していた瞳子に玻玖が声をかける。
桜色の着物によく映える腰まである美しい黒髪をなびかせながら、瞳子が振り返る。
「なにも、手加減などしておりません。わたしの力が及ばなかっただけです」
「そんなはずはない。そなたはまだ、…隠しているだろう」
玻玖の言葉に、瞳子が一瞬目を見開く。
そして、すぐに目を細めてフッと微笑む。
「…やはり、お気づきになられていましたか」
「当然だろう。内に秘めたる力が漏れ出ていたからな」
「…そうですか。この力は封じ込まれているはずなのに、わかる方にはわかるのですね」
「そのへんの呪術師には感じ取れなくとも、俺を騙すことなどできぬ」
「さすが、『神導位』という地位を与えられたお方…。まさか、人間でないということは予想外でしたが」
玻玖の目尻がわずかにピクリと動く。
「あれ…、違いましたか?お狐様でいらっしゃいますよね?」
玻玖は驚いた。
『妖狐』ということを隠して人間の姿でこれまで過ごしてきたというのに、初めて出会った――しかもこんな娘に言い当てられるとは思っていなかったから。
「なぜわかった?」
「東雲様がわたしに感じものと同じです。東雲様からも、膨大な呪術の力が漏れ出ているのがわかります」
玻玖の姿をやさしいまなざしで見つめる瞳子。
「おもしろい娘だ」
玻玖も自然と口角が上がっていた。
瞳子は、一人娘として黒百合家のもとに生まれた。
幼いころより呪術の才能があり、将来を期待される呪術師であった。