偽りの花嫁~虐げられた無能な姉が愛を知るまで~

和葉は、幼少期の幸せな思い出の詰まったその手鏡が、鏡の部分が割れて抜け落ちたというのに、その日から変わらず着替えるたびに帯に挟んでいたのだった。


これを見ると両親の顔も思い出されるが、それよりもこの10年以上毎日帯に挟んでいたため、和葉の中では習慣化していた。


入れておかないと、落ち着かないというか。

入れない理由も見つからないから。


「…前に落として、割れてしまった手鏡です。いつも帯に入れていたので、わたしのお守りと言いますか…。鏡としては使えないのに、どうしても手放すことができないのです」

「そうか。細かい花の絵も描かれて、きれいなものだな。手放したくない気持ちもわかる」

「はい…」


和葉は、玻玖から渡された手鏡の枠を再び帯にしまう。


「そうだ。あの娘に、うちにいると黒百合さんに文を飛ばすように伝えておいてくれるか?」
「あの娘…とは、乙葉のことですか?」

「ああ。きっと黒百合さんも心配していることだろう。しかし、前に啖呵を切った手前、俺から文を飛ばすのは気が引けるからな」

「旦那様が気に病まれることではありません…!乙葉にはそう伝えておきます」

「ああ。そうしてくれると助かる」


玻玖は、いつだって和葉のためを思っている。

さらに、乙葉の心配までも。


それなのに、自分はなんてことを考えているのだろうか――。


和葉は、短刀が仕込まれている着物の懐に手を添えた。


「どうかしたか?」

「い…、いえ…!」

「それでは、そろそろ寝るとするか」

「はい」


玻玖は和葉を部屋へと送り届けたあと、自分の部屋に戻るのだった。


翌日、乙葉は和葉に言われたとおり、黒百合家に嫌々ながら文を飛ばした。
乙葉がいなくなって、貴一も八重も心配していたことだろう。

まさか、東雲家の屋敷に家出にきたとは予想外だろうが。


乙葉は、そのうち帰るという内容を書いていたため、貴一や八重が無理やり連れ戻しにくることもなかった。

そもそも、玻玖とは顔を合わせられないだろうから。


そして、乙葉がきて5日ほどがたった。


「和葉様、今日の夕食はさんまにいたしましょうか」


買い物から帰ってきた菊代が和葉に声をかける。


「旬もののさんまはこれで最後とのことなので、買ってまいりました」

「いいですね。それじゃあ、塩焼きにしましょうか。七輪はありますか?」

「七輪…でございますか?」

「はい。実家では、それでさんまを焼いていましたので」


洋食好きな乙葉でも、旬のさんまの塩焼きは大好物だった。
玻玖にも、おいしいものを食べてもらいたい。


そこで、七輪の炭火でじっくり焼こうと思っていた和葉。

しかし、なぜか菊代は渋っていた。


「あの…わたし、なにかおかしなことでも…」

「…い、いえ!そういうわけではございませんが…。七輪となると、外で火を…」


狐の面で菊代の表情は読み取れないが、困っているということはわかる。


「…そうですねぇ。玻玖様が戻ってこられるのもまだ先ですし…」


つぶやく菊代。


「わかりました!それでは、和葉様にお任せしてもよろしいでしょうか」

「はい!任せてください」

「それでは、すぐに七輪の準備をいたしますね」


渋っていた菊代だったが、なにを思ったのかすぐに外に七輪と炭を用意した。


うちわで扇ぎながら、ゆっくりじっくりさんまを焼く和葉。
その匂いは風にのって、乙葉を呼び寄せてきた。


「あら、おいしそう。今日の夕食はさんまの塩焼きね」

「そうよ。…ところで乙葉、いつまでもお客様気分ではなく、少しは菊代さんたちのお手伝いをしたらどうなの」

「まあ!お姉ちゃんったら、わたくしに使用人の仕事をしろとおっしゃるの?」

「そういうわけではなくて、乙葉も結婚するのだから…。清次郎さんにおいしい食事を作るための練習くらい――」

「だから今は、清次郎さんの話も出さないで!」


乙葉を諭すつもりが、逆にへそを曲げてしまった。


そもそもは自分が悪いというのに、貴一と八重に叱られる原因となった清次郎に、乙葉は腹を立てていた。


「それにわたくし、まだ清次郎さんと結婚すると決めたわけではないから」

「え…?この前、結納を交わしたというのに?」
「あれは、お父様たちが勝手に取りつけただけ。たしかにお顔はまあ悪くはないけれど、わたくしの着る着物にまで指図するなんてありえないわ!」

「そこは…2人で話し合って折り合いを――」

「妻の着物ひとつひとつに口を挟まないと気がすまないのかしら。あーあ、清次郎さんって女々しいお方」


乙葉の話を聞いていると、結納は交わしたものの、婿として気に食わないことがあれば、この婚約を白紙に戻せると思っているようだ。


結納のときに見た清次郎は、どちらかというと乙葉に気があるように見えた。

そんなつもりで着物のことを言ったわけではないのだろうけど、相手はこれまで人の気持ちなど考えずにわがまま放題に育てられた乙葉。


姉としては、清次郎が不憫に思えて仕方がなかった。


「それに比べて、東雲様は…」
そうつぶやきながら、和葉の顔をのぞき込む乙葉。


「寡黙で、わたくしがすることにもなにも言わずに受け入れてくださって、案外いいお方なのね」


たしかに、和葉も少し驚いてはいた。

乙葉が家出をしたと言ってやってきたときも追い返す素振りもなく、夕飯の酒も勧められるまま断ることなく飲み続け…。


こんなに乙葉を受け入れるとは思っていなかったから。


「やっぱり、わたくしが東雲様と結婚していたらよかったかしら。…まあ、あの狐の面を外されないところを見たら、よほどお顔に自信をお持ちでないのだろうけど」


玻玖がいないのをいいことに、クスッと笑う乙葉。


「乙葉、それは旦那様に失礼よ。それに、面を外された旦那様は、とてもきれいなお顔をしていらっしゃるわ」

「…えっ!お姉ちゃん、東雲様のお顔を見たことがあるの!?」
「…ええ。といっても、一度だけだけど」

「うっそー!?それなら、わたくしも見てみたい!東雲様にお願いしてみようかしら」

「それはやめなさい…!きっとなにか理由があって、面をつけられているのだろうから」

「え〜…、つまんな〜い」


乙葉は口を尖らせて、頬をぷうっと膨らませる。


「それよりも東雲様、そろそろ夕食の時間だというのに、お帰りが遅いのね」

「そうね。最近よく外出されているけど、今日はとくに…」


和葉としては、何気なくつぶやいただけのつもりだった。

しかし、それを乙葉は聞き逃さなかった。


「もしかして、他に女の人がいらっしゃったりして…!」


和葉の反応を楽しむように、乙葉が意地悪く笑う。

それを聞いて、思わず和葉はうちわでさんまを扇ぐ手を止めてしまった。


「他に…女の人が……?」
固まる和葉。


「だってお姉ちゃんと東雲様って、同じ部屋でおやすみになっていないのよね?」

「…そのどこがおかしいっていうの?」

「わたくしの結婚したお友達はみな、結婚初夜から旦那様とは同じ部屋だと話していたわよ」

「そう…なの?」

「ええ。すでに、子どもだっている友達も多いわ」


これまで夫婦喧嘩もしたことはなく、玻玖とはいい夫婦関係が築けていると思っていた。

そんな和葉を一気に不安が駆り立てる。


「…まあ、お姉ちゃんってわたくしと違って魅力的とは言えないし」


含み笑いをしながら、和葉を見下ろす乙葉。


「そんな地味な見た目じゃ、東雲様が違う女性に目移りしたっておかしくはないわよね。なにをお考えになっているのか、いまいちよくわからないし」


乙葉の言葉が和葉の胸をえぐる。