寺を出たところで少しの段差があり、とっさに声をかけないで手を握ってしまった。

「すみません、つい」
「ふふ、ありがとう。目があまり見えなくなっても、慣れた町なら大丈夫って思うのだけれど、やっぱり少しずつ変わっていくのね」
「おばあちゃん」

 芽衣が心配そうな声を上げたが、振り向いたコトは全く悲壮に濡れていなかった。

「それが、人生よね。そうじゃなくちゃ面白くないわ。二人みたいに」

 先ほどの告白が思い出されて、修が黙り込む。その様子に、いつものじゃれあいではないことに芽衣が感づく。

「おばあちゃん! 修君いつの間に」

 口を開けたまま、芽衣が修へ抗議する。しまった。相談せずに報告したのはマズかったか。
 青ざめ、どう弁解すべきか、鳴らない喉をはくはく動かしていたら、芽衣はおろかコトにまで吹き出された。

「ふっほんと純粋。可愛い」
「格好良いって言ってもらう方が嬉しいです」
「じゃあ、格好良い」

 昼食はどこにしようか。ぶらぶら商店街を吟味していたら、前から上背のある厳つい男が歩いてきた。あまり揉め事に関わりたくないので回れ右をしたいところだが、残念ながらとても見覚えのある男だった。

「修!」

 手を振られる。無駄にコミュニケーション能力が高い男は、修が誰といようが構わず話しかける。

「……兄ちゃん」

 久しぶりの兄だ。この男はいつも突然やってくる。修が家にいないという考えには至らないのか。サークルに入っていないため、泊まりの予定が無いのは確かだけれども。どんな相手にも自分からどんどん敷地に入っていく性格だから、コトとの接触は諸手を挙げて歓迎出来なかった。

「偶然だな。今からお前んとこ行こうと思って……どうしたの、そのおばあちゃん。道案内?」

 今は芽衣が違う通りを探している。傍から見たら祖母と孫の散歩に見えるだろう。しかしそれは他人が見たら、の話だ。

「あ、この人は友だち? で」

 形容するならば「友人」で合っているが、説明するとなるとややこしい。思った通り、兄は顔をしかめながら首を傾げてしまった。

「ん、んん~~? イメージ変えて積極的になれって言ったけど、女のタイプまで変えることは……守備範囲広すぎじゃね?」
「違う!」

 盛大な勘違いをされた。即座に否定する。コトは大好きだが、さすがにそういう対象とは違う。横でコトも腹を抱えている。お願いだから、一緒に否定してほしい。

「この人は大切な友だちなんだよ。趣味が同じっていうか」
「あー……読書? へー、せっかく俺が協力したってのに、お前はまた。あ、でも、ちゃんと髪型も変えてんな。エライエライ」

 髪の毛を撫でる振りをしてぐしゃぐしゃにされる。必死に抵抗していたら、芽衣が戻ってきた。

「修くーん」
「誰! まさか! 彼女」
「ダメ! 兄ちゃんはダメ! 今すぐ帰れ! そして戻ってくるな!」
「強気ィ~?」

 兄は当然自分より年上で、つまり芽衣と年が近い。芽衣の気持ちを疑いなんぞしないが、兄の方からアプローチをされたら勝てる自信が無かった。この接触は、かなり困る。

「どーもどーも、俺、修の兄でして」
「こんにちは。山口です」
「ぶっちゃけどういうご関係で」
「あーあー! 兄ちゃん用事あるんでしょ! 早く帰らないと!」

 背中を押す。これでもかという程押す。しかし、筋肉の塊は予想の十倍重く、全く動かない。

「お兄さんが遊びに来たのなら、今日は一緒に帰ったら? 今日はご飯食べるだけだったし」
「でも」
「いいんですよ、修さん。家族水入らず、ゆっくりしていらっしゃい」

 変に気を遣わせてしまった。それもこれも、兄がおかしなサプライズをした所為だ。断って一人で帰ればいいものを、「お言葉に甘えて」など言いつつ、修は引きずられていった。

「あああ、コトさん、芽衣さんっ」
「修君、またね」

 無邪気に言われて、ついに最後の力が切れる。逃げ出しても不格好なだけなので、離された腕を擦りつつ付いていった。アパートへ着き、当たり前に鍵を開ける兄は、はたして彼女を大事にしているのだろうか。

「つっかれた。ジュースくれ」
「無い」

 水をペットボトルのまま、テーブルにどかんと置く。

「機嫌悪いな。邪魔されたからか」
「分かってるなら、先に家で待って僕をあそこに置いてくれればよかったのに」
「言うようになっちゃじゃんか。根暗の甘ちゃんがよぉ」

 頭を小突かれる。これで褒めているらしい。首に腕が絡まる。本気で締まってきた。苦しい。

「止めて。マジ、マジでやばい」
「これくらい受け止められなくてどうする」
「こんなんしてくる女の人じゃないから!」

 真横で笑われて、首が締まったままスマートフォンを取り出された。嫌な予感がする。

「あー、母ちゃん? 修がさ、春来たってよ! こりゃ、卒業と同時に結婚かな!」
「わーっわーっわー!」

 ひどい。田舎の母親に電話された。しかも、自分たちすらまだ考えていない結婚まで報告されている。電話越しに「まーっお赤飯炊くわっ」と上機嫌な声が聞こえる。本気にはしていないだろううな。慌てて奪い取り、必死の弁解をした。

「あのね、これは兄ちゃんが勝手に言ってるだけで。そういう予定はまだ無いから。いや、うん、それはほんとだけど……家には連れていかないよ!」

 無理矢理通話を切る。なんだこの親子。自分でも真面目過ぎて不器用なのは重々承知しているが、彼らの奔放さを目の当たりにしての結果な気もしてきた。そういえば、父親は元気にしているだろうか。彼もまた、二人の被害者と言える。しかし、テンションの高い妻と二十年以上連れ添って文句の一つも言わないのだから、ああいうタイプが合うのかもしれないけれども。

「まあ、いいや。さっさとプロポーズして決めちまえ。お前は誰かと付き合うだけでも時間がかかるんだから、別れてまた新しい人なんて言ってたら、いつの間にか魔法使いになっちまうぞ」

「兄ちゃんの方が親に挨拶するの先じゃないか」
「いない。振られた」
「また!?」

「またじゃない! アイツが悪いんだよ。「仕事と私どっちが大事」なんてよく聞くアホな科白ぬかしやがって。自分やその「私」の為に働いてんだろうが! なら、仕事しないニートになってやろうか? そしたら「お金持ってないニートだっせ」って絶対言うんだ、ああいうテンプレ女」

 乾いた笑いしか出ない。それはそれは残念な目に遭ったというか、そういう女をよく選んでいる兄にも問題があると思う。前に、派手な可愛い女性が好みだと言っていた。いつか結婚する際は、是非とも家族を大切にする、誠実な人だと有り難い。

「腹減った~」
「僕だって誰かの所為で昼食食べ損ねてる」
「おっしゃ。弟の初彼女祝いに、俺が奢ってやろうじゃねえか。んで、今日泊めてね」
「やっぱり……」

 強引な兄だが、彼なりに修を想ってくれていることは伝わった。明日までの時間くらいは彼に委ねるのもいいかもしれない。

「明日はどっか行くの」
「午前中で用事終わるから、また買い物でも行こうぜ」
「いいよ」

「あと、彼女をよく紹介してほしい」
「丁重にお断りします」