週末、三人は海へ来ていた。バイト仲間に相談したところ、一番近い土曜日なら代わりに出られると言われ、思いがけず早くに計画は実行された。九月といえど、昼間は暑い日もあるため、帽子と首元にタオルを巻いた状態で車椅子に座り、修がそれを押し、芽衣は弁当や水筒を持って出かけた。

 何やらピクニックに来た装いであるが、コトの希望が「昼食はレジャーシートを敷いて、皆でお弁当を食べたい」だったのだから仕方あるまい。場所が海だったことは意外だと修は思ったが、この足では海を眺めに来る機会も無かったはずだから、元々海が好きであるなら自然なことだ。

 海の家でパラソルをレンタルして、レジャーシートの真上に設置する。これであれば、じっとしていても日に焼けることもない。広めのシートなのに、三人はこじんまり、真ん中に寄って座った。

 シーズンはもう過ぎて、数人のサーファーが海に入っている程度の静かな海。一方、砂浜は近所の親子連れが遊びにやってきているため、なかなかに賑やかな音が躍っていて、耳を楽しませてくれる。

「あら」

 ころり、小ぶりのサッカーボールが、シートの前に迷い込んできた。横へ顔を向ければ、三歳くらいの男の子が手足をばたつかせて走ってくる。微笑ましく見守るが、あと少しのところで砂に足を取られ転んでしまった。

「ふっ……うあ~ん」

 上半身だけ起こしびっくりした様子できょろきょろした後、状況を理解したらしく大声で泣き出した。コトが男の子の傍へ歩み寄り、ボールを渡す。遠くの方で、泣き声を聞いた母親が慌てて荷物を放った。

「痛かったねぇ。どれどれ、おや、血は出ていないよ。これならすぐ治るね」

 服の裾をまくり、赤くなっただけのひざを見せる。血が出ていないことを知った男の子は、もう笑顔に変わっていた。

「痛くない! 治ったよ!」
「よかったね。これからも思い切り遊ぶのよ。男の子だって、転んだら痛いものね。痛い時は「痛い」って言っていいからね」
「うん! ボールありがと!」

 頬を伝う跡のことはすっかり忘れ、ボールを持つ手は次の遊びを待ちわびている。

「すみません。うちの子がご迷惑を」
「とんでもない。元気なお子さんとお話して、こちらまで元気になれました」
「ほら、ご挨拶は?」

「おばあちゃん。じゃあね!」
「じゃあね」

「失礼します」深々お辞儀をして、親子が去っていく。今度は逃げないよう、腕をガッシリ掴まれている。たまに男の子が抵抗して海へ行きたがるのを、母親が困りながらも無心で引っ張った。

「もっと遊びたいんですね」
「いつの時代も、男の子ってああなのねぇ」

 自身の子どもの時か、はたまた子育ての記憶を思い出しているのか。

「修君も、昔はあの子みたいだった?」

 興味津々な瞳に後ずさりする。とてもじゃないが、自慢するような子供時代など過ごしてきていない。

「う……今と、同じですよ。本を読んで近所を散歩するくらい。あ、兄が暇な時、遊ぶ相手がいないからって、駄菓子屋連れ回されたりはしていました」
「へー!」

 そんなに面白いことか。親しい友人もろくにおらず、兄弟で遊んでも引きずられている、むしろ暗い子どもだったろうに。そんなことを考えていたが、つい数週間前、逆の立場で喜んでいたことを思い出した。

「私が修君と話すようになって、まだ数か月しか経ってないでしょ。ちっちゃいことでも、修君のこと知れて嬉しい」

 きっと、この顔は耳まで赤い。だってすごく、熱いのだ。コトが笑う。

「精悍な顔立ちなのに可愛らしいなんて、修さんとてもモテそうね」
「いや、全然……そんな経験ありません」

 思い切り首を振る。ますます笑い声が高くなった。

 モテたと思ったことは、人生において一度も無い。芽衣と付き合えたのも、奇跡だと感じているのに。俊彦と似ているから、その欲目があるのではと疑ってしまう。

――でも、コトさんと芽衣さんの好みが似ているとしたら、芽衣さんが僕の外見を好きでもおかしくないか?

 落ち着いてきた熱が再発した。

「修君!? 大丈夫?」
「は、はい。頭冷やしてきます」

 ふらふら歩いて、波打ち際にしゃがみ、裸足になって海へ付けた。ひんやり、じんわり、体に染み込んでいく。

 すぐに顔の熱は治まり、二人の元へ戻る。濡れた足もタオルで拭いてしまえばすっきりして、久々の海を右へ左へ顔を動かし満喫した。

「ふあぁ」これがどうにも気持ちが良くて、大きな欠伸が出る。

 何をするでもなく、ごろんと横になり昼寝をする。別段疲れてもいないのに、気付いたら三十分以上経っていた。起きたら弁当を食べてぽつぽつ会話をし、また横になって空を見上げた。

 手を翳す。手のひらが空と同化して、溶け込んで地球の一部にでもなった気分だ。座っていたコトが、杖に力を入れて立ち上がった。

「コトさん、いきなり立つと危ないですよ」

 芽衣と一緒にコトを支えてやる。コトは修の忠告が聞こえていないのか、大きく上を向いて息を吐いた。

「あれは、飛行機かしら」
「あ、ほんと。意外と近くで飛んでるんだ」

 視線の先に、旅客機が飛んでいた。何に驚いているのか分からなかったが、実に見慣れたものだった。芽衣がここからでも形が分かる程の大きさに驚き声を上げる。何の変哲も無いそれを、コトは宝物を見つめるように空を撫でた。よく見えない瞳を凝らして、何度も何度も手を揺らす。輪郭もかたどれないだろうに、丁寧に。

 コトが両手で、飛行機を包み込んだ。

「俊彦さんが飛行機で飛んでいった日も、私はここにいたの。何も出来なくて悔しくて、土下座をして何度も祈ったわ。でも、空はこんなに綺麗だったのね。あの時は飛行機ばかり目で追って、空の色なんて見もしなかった」

 コトの目に映る空は、はたして今日という日か、はたまた。修にとっては遠い昔が、彼女にはつい、昨日だ。

「きっと、その日も綺麗だったんでしょうね」
「はい……きっと」

 納得したのか、海と空を交互に見てからすっきりした声で二人へ振り向いた。「そろそろ帰りましょうか」

 帰りの電車では、午前中にもうたた寝をした修がまた居眠りを始める。起こすでもなくそっとしておく。芽衣とコトが幼い寝顔をからかい、二人して修に寄り添った。修は夢の中で、祖父と、写真でしか見たことのない祖母とキャッチボールをして遊んでいた。