アパートから自転車で十分、駅前商店街の端、例の図書館からもさほど離れていない位置にバイト先はある。

 個人経営のレストランなのだが、包丁を握ったことが無い修は自動的にホールへと回されている。本音を言えば、厨房のバイトで採用されたら料理が出来るようになるのでそうしてほしいと思っているものの、そもそも包丁の握り方すら知らない修に、店長は一から教える気は無いらしかった。十一時オープンのため、三十分前からホールの掃除をして過ごす。チェーン店より値が張るここでも、常連客が多いおかげで土日はかなり忙しい。

 土日にシフトを入れている修も、一か月も働ければあっという間に客たちの顔を覚えて、今では好きなメニューまで把握してしまった。十二時ぴったりにやってきて、奥の席に一人座る中年男性。ランチを過ぎた閑散時間にお茶会をする主婦たち。そして――。

「いらっしゃいませ」

 からん、ドアに取り付けられた鐘が控えめに鳴り客が来たことを告げる。恐らくあの人だろう。オープン直後に一人で来る若い女性。

「何名様ですか」
「一人です」
「かしこまりました。お好きな席へどうぞ」

 こちらは一人でいることを把握しているが、お決まりの科白を挟み、水を用意して女性が座る席に向かう。

 彼女は決まって一人で来る。誰かと一緒にいたことは、少なくとも修がシフトに入っている時には一度もない。席は日によって奥側だったり手前だったりまちまちだが、外の景色がよく見える窓側であることが多かった。

「失礼致します。ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
「あ、ケーキセットで」
「かしこまりました」

 控えめな受け答えを終えて肩掛け鞄に手を伸ばす。横目でちらりと見遣りながら、定位置に戻った。二十代、自分よりは年上に見える。

 肩に付かないショートボブの黒髪は、緩くパーマがかかっていて時おり柔らかく揺れている。鞄から取り出した物に視線を落としたまま動かなくなった彼女を見て、一言でいいから話しかけてみたくなった。決して一目ぼれしたわけでも、誰もが振り向く程の美人でもない。落ち着いた可愛らしい女性と言った方が正しいだろうか。声をかけたい一番の原因は、見目ではなく鞄の中に忍ばせている物であった。

 いつも本日のケーキと紅茶がセットになった商品を頼み、せっかく窓際の席を選んでいるのに外を見ることなく一点を見つめたままだ。

 彼女は修と同じ、読書が趣味のようだった。購入してきた本らしくブックカバーをかけているそれは、一体誰の本なのか窺い知ることは出来ない。後ろから覗き見る不躾なことは当然出来ず、気になりながらも全く距離は縮まらないでいた。

――今日もランチは頼まないんだ。予定までの時間調整ってとこか。

 十二時より少し前に出ていくので、この辺りで昼から用事があるのだと思う。今日も昨日までの日常と変わらず、先週と同じ姿で過ごした女性は昼前に出ていくのだ。

「デート……いや、仕事とか」

 どのような用事があろうと関係の無いこと。すぐ近い距離にいても、二人には壁があり、突き抜ける何かを手に入れない限りは壁を壊してはならない。つまり、彼女の外面しか知らない今はそこまで興味を持ち合わせていないわけだった。

 むしろ、一番話したい相手と言えば図書館で見かけた裏表紙の女性であり、年齢を考えると、まだ色恋よりも趣味を共有したい欲求が上回っていることを理解した。

「もしも、今読んでいる本が坂口安吾だったら」

 ケーキが来るまでの間読んでいる本は、ただの暇つぶしかもしれない。しかしながら、それが自分の好きな作家であったら、一瞬の内に心が彼女で一杯になるだろう。そこまで夢想して、幻滅した。

――それじゃ誰でもいいってことに……。

 いや、それは相手を特別に見る時であって、単なる友愛であれば全くおかしくない。それなのに、頭の中が肯定と否定が混ざり合って他人の心を覗いているようだった。

「レジお願いしまーす」
「はい!」

 ホール仲間に言われ、レジに立つ。いつの間にか時間は過ぎていて、会計待ちをしていたのは彼女だった。機械的な言葉以外は何も無く、流れる風とともにドアをすり抜けていく。見渡せば、ランチ目的の客で席はほとんど埋まっており、集中するため彼女のことはすでに頭から離れていた。