二日経って、黒いワンピースを着させられ、両親の棺の横に座らされた。次々にやってくる親戚や友人と名乗る大人たちが、皆一様に同じ言葉を投げかける。表情すら張り付けたように揃っていて、ぼんやりした頭の中でそれらを眺めながら、もう両親に会えないのだろうと考えていた。

 それからのコトは働き詰めだった。年金だけでは大学まで出せないと、慣れないアルバイトを始めた。家に帰ったら芽衣の世話も待っている。まだ家事を手伝える歳には及ばず、一人で行えたのは、せいぜい取り込まれた洗濯物を畳むことくらいだった。

 月日が経ち、料理を覚え、一人で広い部屋を綺麗にすることも当たり前の日課になり、義務教育である中学を卒業してやっとコトは仕事を辞めた。

 高校からの小遣いくらいはバイトで賄えるし、大学の学費はコトが大切に残しておいた両親の預金があったため、芽衣は何の不自由無く大学を卒業した。

「今度は自分の番」そう思った芽衣は、近場の会社に入社した。大きな会社ではないけれども、定時上がりが魅力だった。コトは好きなことをせず遠慮していると気にしていたが、傍にいないと不安だったのは芽衣の方なのだ。

 ずっと支えになってくれ、芽衣の一番だった。今だって、そう。家族はコト一人きりで、もう失くしたくない。

 いつだったか、コトが言った。『足がなんだか痛いねぇ』

 しばらくしてコトの片足は言うことを聞かなくなり、細身の杖を持つようになる。一人では危ないから、午前中だけヘルパーに頼むことにした。近くを散歩するだけで息が上がり出し、いよいよ広い家を持て余し始めた。

『あーあ、この家古いから段差多いし土間もあるし……もっと小ぶりな家に引っ越すべきだろうな』

 思い出が沢山ある家を手放すのは惜しい。コトも同じだろう。かといって危険な家の中を一人の時間が半日近くあるのでは、コトに怪我をさせてしまうかもしれない。リフォームする程の金も無く、売り払って安い賃貸に住む方がずっと建設的だ。反対されるだろうが、もっと杖を突いて動き回れる家を探さなければ。

 そんなある日のことであった。

『お姉さんは、誰ですか』

 鍵を開けて玄関で靴を脱いでいる最中、後ろから話しかけられた。自分のこととは思わず振り向くが、コトは芽衣を見上げていた。前触れなどなかった。だから、とても信用ならざる事実だった。その内容を頭が理解した瞬間、足の先まで一瞬で凍りつき、視界は一人孤独に闇へ落とされた。

 すぐにヘルパーに相談すると、予想通りの答えが返ってくる。心配して付いてきてくれたヘルパーとともに病院で診察を受け、不安が的中し認知症と診断された。

 今まで親身になってくれたヘルパーの名前も忘れ、最初の内は手伝いにやってくることも拒否していた。段々と慣れてきて、業務をこなす分には文句を言わなくなったが、芽衣が家に泊まることは強く嫌がった。

『帰って、ここは私の家です。私は俊彦さんを、俊彦さんだけを待っているのです。あなたじゃない!』

 地獄だった。コトの髪の毛が白に染まり、皺の増えていく頬を見ては、いつしか物忘れが始まって最後は芽衣の名前も出てこなくなるかもしれない。妄想めいた頭で覚悟をしていた。しかし、覚悟だと思っていた心は、ふやけた麩のように潰され溶けて無くなり、後に残ったのは幼い迷子の芽衣だった。

 すぐに家にいられなくなり、追い出される形で近所のアパートに移り住んだ。急な一人暮らしに戸惑い、毎日ヘルパーの振りをして家に伺うも、これでは一向にコトの安全が保障されない。半ば強引な形で引っ越しに踏み切った。

 仕事も辞め、アルバイトに切り替えた。コトの前では自分との関係を言わなくなり、仕事をしにきたことを伝えれば、快く迎え入れてくれることに傷つく。誰にも相談出来ず、鬱々した日々を送った。

『本棚はどうしましょうか。最近、おばあ……コトさんも図書館で借りることが増えてここの本はあまり読んでませんし、処分しますか?』

 年々下がってきたコトの眉が、より一層下がり切なさを覚える。伝染した芽衣の瞳に膜が張った。

『お姉さん、私には宝物なのです。部屋が狭くなっても構いませんから、出来る限り新しい家にも持っていきたいです』
『じゃあ、二冊ある本だけ片方処分して、残りは持っていきましょう。それなら一部屋を全部書斎にすれば入ると思いますよ』

 こうして、俊彦が所有していた方を残し、コトの本は図書館へ寄付された。それであれば、自分の本たちが再利用されて役立っているところも自分の目で確かめることも可能だ。

 引っ越し当日、荷物が次々に運び出される様を、コトと二人で呆然と眺める。

 子どもの時から、それこそコトが赤ん坊の時からあった家が無くなっていく。

 言いようのない不安が押し寄せて、思わず隣の手をぎゅう、と握りしめた。

 嫌がられるかと焦ったが、コトは触れられていることすら気付かないのか、ただただ家を見つめたまま。

 中の整理が終わり、引っ越し業者のトラックが新しい家に向けて走り去る。コトの両肩に手を置いて、努めて明るく振る舞った。

『私たちも行きましょうか』
『ええ……寂しいですね』
『……私もです』