匂いがする。

 畳の、線香の、古いドアをがらがら横に開けてみれば、祖母の匂いたちがたちまち芽衣を包み込む。

 学校で嫌なことがあっても帰り道に近所の犬に吠えられても、部屋でごろんと大の字に寝転んで目を瞑れば、何を言わずともコトが台所からやってきてしわくちゃの手のひらで優しく撫でてくれた。

 それがくすぐったくて恥ずかしくて、いつまでも目を開けることが叶わずに終わってしまうのだけれども、もし開けていたら畳に水溜まりを作ってしまうだろうから。

『芽衣ちゃん、おかえり。今日も良い子だねぇ』

 大きな、和室ばかりの古い家。掃除や買い物を手伝うのは億劫な日もあった。けれども、コトの笑顔が芽衣を温かくさせるので、寂しいと思う夜はあっても、哀しくて堪らない夜は一度も無かったのだ。

 芽衣の祖母は、祖父で、父で、母だった。

 二本きりの細腕で、芽衣を力いっぱい抱きしめてくれた。



――父と母がいなくなった日のことは、まだ幼くてはっきりとは覚えていない。確か、近所のおばちゃんがばたばた五月蝿い足音を立てて、おばあちゃんと怖い顔をしていた。

 結婚して十年、やっと子宝に恵まれた両親は、生まれてきた芽衣を大事に大事に育ててきた。

 毎日休まず働いて、仕事が終われば真っ直ぐ帰宅する父。家事は午前中に済ませて芽衣が幼稚園から帰ってくるのを笑顔で迎え、毎日遊んでくれる母。父と母と祖母、一緒に暮らす家族が大好きで、大人になるまで続くものだと思っていた。

 芽衣は祖母の様子を障子の影に隠れて、こっそり窺う。怒られることをしたわけではないのに、縮こまってどこかに隠れようか考えていると、電話をかけ終わったコトが顔をくしゃくしゃにさせて近寄ってきた。

 掴まれた両腕が痛く、振りほどくことも敵わず、ただただじっとコトの顔を見つめるしかなかった。

『ちょっと出かけるけど、外には絶対に出てはいけないよ。分かった?』
『うん、パパとママはもう帰ってくる?』
『……良い子にしてるのよ』

 問いには答えず、慌ただしく出ていった。

 どれくらい時間が経ったのか、座布団の上で横になりうつらうつらしていたところにドアが音を立てた。帰ってきたのは両親でも祖母でもなく、一度か二度会ったことがあるだけの中年女性であった。

 驚いた芽衣は飛び起きて、傍にあった毛布をかき集めて体にぐるぐる巻きつける。女性は少々高めの優しい声色で言った。

『芽衣ちゃん、よく聞いてね。おばあちゃんは今パパとママの病院にいるの。だから、今日はおばちゃんの所で寝ましょう』
『……びょういん?』
『そう、忙しくてしばらく帰れないから。おばちゃんのこと知ってるわね? 二軒隣にいるおばちゃんよ。ね、そうしましょう』
『いや』

 ふるふる首を振る芽衣に、女性は殊更静かに問いかけた。

『もしかしたら夜中ずっと帰ってこないかもしれないよ。怖いから、おばちゃんといましょう』
『ううん、待ってる』

 無理に連れ出すことも出来ず、やがて廊下にある家の電話を借りた女性は、もう一度戻ってきて芽衣の前にしゃがんだ。何を言われても芽衣はここにいるつもりで、両手を強く握りしめて迎え撃つが、女性の言葉に芽衣は拍子抜けする。

『おばあちゃんに連絡しておいたから。ここにいてもいいそうよ、何かあったらおばちゃんの家においでね』

 頭を人撫でされて嵐は瞬く間に収まった。ぽつんと残された芽衣に四人で暮らす家は広すぎて、ひゅうひゅう吹き付ける風が家の中をすり抜ける。

 途端、何やら恐ろしいものに憑りつかれて、押し入れから布団と毛布をありたけ出してその中へ潜り込んだ。外は雨など降っていない。それなのに、芽衣の耳元で洪水程の水音が響き渡る。

 怖さは極限までやってきて芽衣を連れていこうとする。広い広い暗がりで、必死に家族の帰りを待ち続けた。

 いつの間にか芽衣に襲いかかる闇は無くなり、窓から眩しい光が差し込んだ。寝たのか寝ていないのか、自分でも分からないまま目を擦って起き上がる。すると、すぐ真横にコトが座っていた。

『おばあちゃ……』

 声をかけようとして伸ばした腕が、触れられずに舞い戻る。正座をしているコトは、両手を合わせて顔につけ、そのまま上半身を床に付く程折り曲げて「俊彦さん、俊彦さん、私たちの子どもたちが」ぶつぶつ唱えていた。呪文のような言葉は芽衣には難しく、しかし良くないことが起きたことだけは理解した。

 ようやく芽衣に気付いたコトが体を起こす。

『芽衣ちゃん』
『おばあちゃん、どうしたの。誰かにいじめられたの?』

 コトはひどい顔色で、目は腫れぼったくむくんでいた。抱きしめてくる両腕は力が強く、そして震えていた。

『大丈夫、大丈夫よ。芽衣ちゃんはおばあちゃんが守るから』
『パパとママは? ずっと帰ってこないね』
『パパとママは……遠い所に出かけてしまったの。すぐに会えないけど、おばあちゃんは二人の分まで頑張るからね』