走る。

 走る。

 運動不足の所為で足がもつれても、息が切れておかしな咳が出ても走ることを止めなかった。景色が早回しで過ぎていき、修の瞳はコトの家以外霧に包まれる。そこへ、唐突な音が耳をつんざいた。

――救急車だ!

 安心と焦りがない交ぜになって体を融かす。

 体中が限界を超えた頃、ようやくコトの家に辿り着いた。倒れ込みながら玄関を開ける。

「コト、さんッ」

 段差に手を付き、荒い息を立てながら廊下に目を向けると、コトを抱き留めながら座る桃子がこちらを驚いた様子で見ていた。

 久しぶりに会う。しかし、嬉しい再会ではなかった。

「失礼します」靴を乱雑に脱ぎ捨て、すぐにコトの顔色を観察する。開けられた口からか細い息が漏れ、青白い姿に恐怖した。何かしたいが、原因が分からないままでは逆効果になる。ぐっと我慢して垂れている腕を擦ってやると、僅かに反応を示した。追い付いた救急車が家の前で止まる。

「急病人はどちらですか」
「こっちです! お願いします」

 二人組の救急隊員が騒がしく入ってきて、担架に乗せられる。状況を理解しているのかいないのか、コトは文句も言わずにぐったりしたまま身を任せていた。

「ご家族ですか、一緒に乗ってください」
「いや、僕……乗ります」

 家族という言葉に否定を示そうとしたが、一緒に誰かが乗らない方が不安だ。この際、親しい友人でも構わないだろうと開け放たれた救急車の扉に足を掛ける。後ろを向くと、付いてくるとばかり思っていた桃子が未だ玄関先で立っていた。

「桃子さん、早く」
「私は、ここで待ってるよ」
「僕だって行くんですよ! とにかく乗って」

 動かない桃子に、焦れた修が煮え切らない体を引っ張り上げる。桃子はそれすら拒否をした。

「何してるんですか!」
「だって、修君は「俊彦さん」なのに、私はいつだって「お姉さん」なんだもん!」

「でも、あなたはコトさんの孫でしょう!」

 桃子の体から力が抜ける。その隙に修が無理矢理車内に乗せ、救急車は発進した。

 サイレンの音がやけに遠く聞こえる。静寂な車内は、隊員がコトの様子を確認する風だけが忙しなく動いた。不安な眼差しを送る桃子に隊員が優しく声をかける。

「軽い熱中症です。この分なら大丈夫です、安心してください」
「そう、ですか!」

 強張った体を擦り、立ったままであったことに気が付いて簡易ベンチに座る。背中を壁に預け顔を両手で覆った。修は一度桃子を一瞥してから、視線をコトに戻して長い息を吐く。

「僕、今日も会ってたのに気付きませんでした」
「ぎりぎりまで本人ですら気が付かないこともあります。放っておいたら大変ですけど、早く呼んでくださって適切な処置が出来るので問題無いですよ」
「宜しくお願いします」

 何も出来ない自分に歯痒さを感じながら頭を下げる。

 生きた心地がしなかった。コトは毎日を朗らかに生きる明るい人だが、足が悪く目も見えなくなってきているので、いつ“そう”なってもおかしくないとも思っている。

 ふわふわ浮ついていた心が自分の場所に戻ってきて、どっと疲れが押し寄せた。横にいる桃子も同じで、目を半分閉じながらコトを見ている。

「よかったですね」

 言われた桃子がゆっくり修に向き直る。桃子の口がへの字に曲がった。

「うん……それにしても修君」
「はい。気付いてました」
「だって、一度も私は言ってない」

 口に当てていた手を離し、修の服の裾を掴む。必死な形相は、まるで隠してきた過去を曝け出す悲しい少女であった。修が空いている手で桃子の腕を優しく擦る。

「僕、本好きなんですよ。コトさんの本棚は素敵な世界で溢れている。だから、端から端まで眺めてしまうのも仕方がないと思いませんか? 隅っこにこっそり、「遠藤桃子」という作家の作品が三冊置いてありました。だから、何か事情があってその名前を偽名に使ったのかなって。それで、名前を知られたくないってことは、コトさんと同じ名字なんだろうと考えたんです」

「そっか。じゃあ、始めから分かって黙ってたんだね」
「年齢的に孫だろうとは予想していましたが、言いたくなさそうだし無理に聞ける関係じゃないと思って。あの作家さんは誰なんですか?」
「あれは、コト……おばあちゃんの本なの」
「コトさんの本……?」

 本棚にコトが書いた本があることは知っていた。俊彦がいなくなって、独りで子どもを育てることになり、何も楽しみが無い毎日に一粒でも拾えるものが欲しくて書いたことがきっかけだったと聞いた。運良く本を出してもらえる運びとなり、売れ行きはいいものではなかったけれども、大好きな作家と並んだだけで幸せだったと涙ぐんでいた。

 修に名前を聞かれ、本名を伝えれば孫だと知られると、咄嗟に出た名前が何故かコトの筆名であったのは今でもよく分からない。

「遠藤桃子って名前ね、ちゃんと意味があるんだよ。下の名前はコトを反対から伸ばして読んだ読み方で、名字は俊彦さんのものなの。結婚しそこねちゃったから、せめてって思ったのかもね」

――結婚するはずだった二人、ずっと俊彦さんの次を見つけなかったコトさん。

 まだ知り合って間もないけれども、コトの一途さはよく分かる。いつも俊彦を想って息を刻む様を間近で感じていた。何十年経っても、コトの相手はたった一人だった。

「今度、コトさんの本読んでみよう」
「私も」
「ところで、本当の名前聞いてもいいですか」

「え? あ、はい……山口芽衣です」
「芽衣さん……」

 最初に本棚を見せてもらった時から、桃子が本名でないことに気が付いていた。あとは、いつ伝えるかで、思ったより遅くなってしまったが、ついに名を呼ぶことが出来た。桃子……芽衣が教えてくれたことで、触れることさえ出来ない見えない壁が完全に取り払われた。