女性を慰める方法など分かるはずもなく、おろおろする両手を何とか鎮めて近くの公園へ誘う。

 修が璃子を瞳に見つめた瞬間、璃子はぼたぼた大きな雨を降らし始め、化粧が剥げるのも気にせず泣くものだから、どうしたものか悩みつつハンカチを差し出すだけに留めた。

 やがて暗くなり始めた公園に辿り着き、ベンチへ座る。そういえば、ここはコトと散歩に来た場所だと思い出し、またもう一度来たいと的外れなことを考えた。

「泣き止んだ?」

 鼻をすする音が止み、顔を見ずに問えば、小さく「うん」と返される。言いたいことも聞きたいこともあるけれど、璃子が口を開くまで公園の遊具を眺めて待つ。数分経ち、鞄を両手で握りしめた璃子がようやく顔を上げた。

「軽蔑した?」
「なんで? そう言うってことは、璃子は僕に嫌なことをしたってことだよね?」
「……うん、そう……だね。ごめんなさい」

 口もとが不格好に崩れて、どうにも不細工な顔を修の前に晒すことが情けない。すでに璃子の価値など地まで落ちただろうが、少しでも綺麗な自分を取り戻したかった。

「それより、僕じゃなくて桃子さんに謝ってほしい。あの人のこと知ってて文句言ったんだろ」

 それはそうだ。

 直接的に攻撃をした相手は桃子で、修の言い分はもっともだった。
 それなのに、トドメを刺された被害者な気分になるのは何故だろう。

 どんな時でも桃子の方を優先されている気がして、どうしても桃子を受け入れられない。謝るなどまっぴらだ。

 性格の悪さに今更気付いても遅く、築き上げた信頼を壊したのは全て自分の責任である。

 この数週間悪夢に苛まれ、桃子より悪者がいたのではないかと考え始め、ようやく元凶に辿り着いた時には全てが璃子から遠のいていた。

「ほんとに、嫌になる。別にあの人自身が憎くて言ったんじゃないの。ただ、修君と親しくしてて、それが自慢しているように見えて。もう桃子さんに会うこともないだろうから、ごめんなさいって伝えてくれる? わたしなんかが言っても本気じゃないって思われるだろうけど」

「うん」

 修自身も会う術が見つからないが、それを悟られたくなくて頷くに留まる。

 あの日、二人の様子を途中から目撃したため話の内容をはっきりと聞いてはいない。璃子が桃子に一方的に文句を言っていることは理解し、桃子の後を追った。それを桃子は拒否し、「勘違いではない」と逃げてしまった。どのようなやり取りが交わされたのか。もしかしたら、修が思うこととは別の何かであったのかもしれない。

 それならば、修にもしなければならないことがあった。

「僕も……ごめん」
「修君がどうして謝るの!」

 同情ならいっそ罵ってくれた方がいくらかましだ。璃子が心の悲鳴を上げるが、修は璃子に向かって頭を垂らす。

「僕は二人がどんなことを話したのかよく知らない。璃子が桃子さんに「弁当を作っていることを勘違いするな」と言ってるのだけ聞こえたんだ。雰囲気が険悪で桃子さんが泣きそうにして走っていったから、つい。もっと内容を確認してから璃子に言うべきだった。大声出してごめん」

「そんな、こと、な」

――ああ、こういうことか。

 心の奥底の嫌な泥溜まりを見せつけられて、いかに卑しい存在か知らしめる愛しい相手が怖い。

 ひどいことをした。
 桃子に、第三者である自分は随分と恐ろしいことをしてしまった。

 内面から綺麗になりたいと思ってしたことは、まるで逆の、可哀想な悪者だった。

 桃子に限らず、今までどんなひどいことをしてきただろうか。記憶の彼方に忘れ去られたものたちを思うと、無知な自分が恐ろしい化け物に見えた。

 一粒、また一粒、治まっていた涙がまた決壊する。一人暴走してしでかしたことを、何より大切に想っている人に謝らせるなど。

「あ……きついこと言った? 泣かせるつもりはないんだ。どうしよう、もう拭く物無いしな」

 新しいハンカチを探すが、先ほど渡した一枚で終わりで困った顔で璃子を見つめる。仕方がなく濡れたハンカチで我慢してもらうことにして、空いている手で赤子をあやすように背中を優しく擦った。

 ぐずぐず不格好に泣き続ける璃子を慰めながら、時間を確認しようとスマートフォンを探る。ちょうど手に触れた時に震え出し、発信元を見れば「遠藤桃子」の文字が。

「ごめん、電話が着ちゃったんだ。ごめんな」

 璃子に断りを入れて電話に出る。数日会ってすらいないところに電話を掛けてくるなど、何かあったとしか思えない。予感は的中する。

『修君! コトさんがッ倒れて! どうしよう私……!』


 出た途端、桃子の悲痛な叫びが貫く。あまりの状況に頭が追い付かない。しかし、呆けている暇は一秒も無かった。

「コトさんが……早く救急車を! 意識は?」
『ある……けど、苦しそうで』

 横目で璃子を見遣る。医療に関する知識の無い者が行ったところで役に立たないことは分かっているが、遠いところで心配するよりコトの傍にいたかった。どこまで説明しようか悩んでいる間に、璃子の方が手を挙げる。

「大変なんでしょ? 行ってあげて」
「璃子」
「わたしはいいから!」

 背中を押され、一歩を踏み出してしまえば簡単で、固まっていた足は次々に地面を蹴って璃子から離れていった。どんどん見えなくなる後ろ姿に璃子が小さく手を振る。

 今の二人の距離を表しているようで、修の姿が全く見えなくなった瞬間、ついに奮い立たせていた最後の糸がぷつりと切れた。耐え切れずその場に蹲る。小さなショルダーバッグがしゃがんだ弾みで斜めに曲がり、中身がいくつか落ちる。ハンカチ、化粧直し用の鏡に細身のカッターナイフ。ばらばらと地面に撒かれたそれらも気にせず、声を上げた。

「…………うえ~ん」

 ぼやけて何も見えない。

 こんな結末は望んでいなかった。
 修の隣で可愛く着飾り笑っていたかった。

 それどころか、自分の嫌な部分ばかり曝け出した上、告白をすることなく終わりを迎えた。人生は難しく、やり直しのきかない戦いであることを初めて知った。

 月が璃子を照らす。何でも許してくれる明かりが少しばかりの救いとなり、弱さにまみれた足を立ち上がらせた。

「暗くなってきちゃった……帰らなきゃ」

 家に帰って顔を洗って、土日は買い物をして可愛い物を沢山買う。夏休みはまだ沢山余っているから、友人を誘ってカラオケで大声を出してみよう。そしてまた、九月になったらとびきりの笑顔を持って修に会いに行くのだ。友人の一人としてでも、修といられるならば。

「はーあ、わたしってもうちょっと良い女だと思ってたのに」

 自分に嫌味を言ってみる。今日だけは落ち込むところまで落ち込もう。そうしたら、底まで辿り着いて、後は上るだけだ。