「弱ったな。繋がらない」

 幸い、連絡先のメモを持っていたので桃子に電話を掛けたが、コール音が鳴るばかりで出る気配が無い。恐らくこちらへ向かっているのだろう、諦めて受話器を置き戻ろうと踵を返したところ、たった今電話をしていた相手が璃子とともにいた。

 たまたま入れ違いで待ち合わせ場所に着いて、偶然傍に立っているだけだと思い近づいたのだが、どうにも様子がおかしい。明らかに璃子と言い争いをしている。駆け出したが遅く、二人がいる場所に着いた時には、すでに桃子が走り出した後だった。修を見つけて嬉しそうに璃子が笑う。

「あ、おかえりぃ」
「今のは……?」
「何処行こっか。わたしこの駅初めてだから案内してほしいなぁ」
「今のは誰だった!」

 珍しい荒げる修に璃子の顔が引き攣る。普段の修であれば、女性へ大声を出すことに躊躇してここで引くはずなのだが、如何せん桃子への心配が頭の大部分を支配していた。計算外らしい璃子の顔に、汗が滲む。

――私は間違えていない。邪魔者を追い払っただけ。

「怖い顔しないで、あの人と修君じゃ似合わないよ。地味だし、何考えてるか怪しいし……だからわたしッ」
「これ以上、おかしなことを言うな」

 言葉を遮って、璃子に詰め寄る。鏡を見たらきっとひどい顔をしていると思うけれども、衝動を止めることはせず感情のまま璃子に棘を突き刺した。

「彼女に何を言った? 僕が誰といるか決めるのは僕だ、今日は悪いけど帰るよ。一人で大学行ってくれ」
「修君ッ!」

 止めても無駄だった。すでに修は桃子を追いかけて、負けたのは勝った気でいた璃子であった。

 おかしい、これは現実か。きっと悪夢で、目が覚めれば笑顔の修に会えるはず。早く起きなければ、行ってしまう。修が、せっかく手に入れた幸せが。

「……行かないで」

 すり抜ける風が冷たい。全てを手放して修を選んだというのに、修は認めてくれなかった。

 何が悪かった。どこがいけなかった。

 璃子には分からない。正解が分からない。修が分からない。



「桃子さん!」

 ものの数分で追いかけっこは終いになり、桃子の腕を掴み取る。しかしそれを許してくれず、桃子が掴まれた腕を左右に揺さぶった。

「離して!」
「桃子さん、ごめんなさい。何か言われたんですよね、さっきのは僕の友だちで、何を勘違いしているのか」
「勘違いじゃないの!」

 ついに腕は解かれ、桃子が一歩、二歩と後ずさりする。顔は歪み髪が乱れ、弁当袋の中身はきっと無残な姿になっているだろう。

「勘違いじゃなかったの……だから、忘れて」

 走り去る後ろ姿を追いかけることが出来ない。忘れるとは、どれだ。今日の出来事か、泣き顔を見たことか。

 桃子の、存在か。




 瞬く間に日が過ぎていく。修は桃子と顔を合わせられず、時間を避けてコトの家に行った。桃子もわざわざ修と時間を合わせることなく、以前と同じ時間帯に来ているらしい。女性との距離を知らず、上手い言葉を選んでも誤魔化しているように聞こえそうで連絡を取ることも出来ずにいた。このまま疎遠になるのならば、せめて初めて自覚した揺れ動く心を打ち明けられていたら。

 結局は二の足を踏むばかりで、自分の力で糸を引き寄せることなく切れるのを待つばかり。ほころび始めた蕾を刈り取ったのは、誰でもなく自分自身だった。

 璃子とはそもそもクラスが同じなので大学に行けば顔を見るが、教室に講義が始まるぎりぎりにやってきて終わればすぐ帰ってしまい、おろおろ迷い子をしている内に、テスト期間に埋もれ夏休みに突入した。

 言い訳を聞くことも、こちらが何か言うことも難しく、頭を冷やしてみると些か言い過ぎたと反省する。

 何故璃子が桃子を知っていたのか、桃子を侮辱する理由も分からない。けれども、その現場を見て、事情も聞かないまま大声を張り上げたのはらしくなかった。それくらい動揺していた。

 最寄り駅に着いて自転車に跨る。スマートフォンを取り出して、何もせずにまた仕舞い込む。

 寄り道もせず真っ直ぐ向かっていたコトの家、本を読みきかせ世間話をして、桃子の手料理をもらう。せっかく手に入れた居心地の良い日常が遠ざかる足音が不気味で、元の生活に戻ることが怖くなった。

「俊彦さん、最近どことなく元気がありませんね」
「……気を遣わせてしまってすみません。ちょっと忙しいだけですので」

 コトの目にも明らからしく、修は申し訳なく眉を下げる。揉め事はコトには関係の無いことで、寂しい顔をさせたいわけではなかった。読んでいた本から目線を上げてコトを見遣る。

「大丈夫です。すぐに元気になりますから」
「それなら安心しました。私には俊彦さんだけですから」

 最近、コトと視線が噛み合わないことが増えた。こうして一メートル程の距離でいても、少しずれている。いよいよ目の調子が悪くなったコトにもっと何か手助けをしたくて、俊彦になれない自分が歯痒かった。

「僕が、コトさんともっといられたらいいのに」

 はっとする。知らぬ間に口に出していて、慌てて口を手で覆うが遅かった。聡いコトならば分かってしまったかもしれない。コトにはいつも笑顔でいてほしい、影のある気持ちは伝えたくなかった。

「あら、嬉しいことを。私は今でも十分もらっていますよ。これ以上望んでしまったら、他の皆様に幸せをお裾分けしなければならないくらいです」
「参りました」

 さすがは年の功か人の良さか。修を俊彦と間違えても、ヘルパーたちの名前が出てこなくても、コトは修より何枚も上手だった。立ち上がろうとするコトに手を伸ばす。

「このくらいはさせてください。僕はあなたの目ですから」
「もったいないお言葉ね。今、お茶を入れますから。俊彦さんが下さったポット、毎日使ってるんですよ」
「コトさんは熱いお茶が好きですね」

 流れる時間がゆっくりで、この時間がもっと、もっと続けばいい。明日も明後日も、来年だって。もしこの先桃子を怒らせてしまって会えなくなっても、コトの傍にはいつづけなければならないと実感する。コトの一日一日を自分が延ばしていることには、とっくに気付いていた。

――まあ、桃子さんに会えないのは、ちょっと……かなり、寂しいけど。