コトは泣いた。二人の悲劇に、日本の未来に泣いた。女の自分に出来ることもなく、毎日祈る日々が過ぎる。戦地へ向かう前、平和だった頃に購入した指輪を嵌めて再び会うことを誓った日を想った。指輪だけが、俊彦と繋がる全てに思えて、俊彦が無事帰ってくることを励みに必死に生き抜いた。

 一年が経ち、国に沈黙が訪れ、やがて他の兵士とともに俊彦も帰ってきた。しかし、俊彦は俊彦でなかった。コトは確認するや否や涙に溢れ、立ちすくんだまま動くことが出来ない。撃たれた腹は皮膚がただれ、左手は五指の内四指を失っていた。痛む体を引きずってコトを訪ねた俊彦は膝を付き、地面に頭を擦りつけた。

『申し訳が立たない体となりました。コトさんとの結婚は出来ません』

 俊彦の姿を見て体の心配ばかりしていたコトは、思いもよらない科白に言葉を失くす。俊彦は続けた。

『僕はもう、あなたを両手で強く抱きしめることも、あなたとの想いを左手に嵌めることだって出来やしない。ご両親も当然反対なさるでしょう』

 俯いた頭から地面に染みが広がる。

『左手にあなたとの約束があると知っていたのに、銃を握る右手を庇ってしまったのです。銃が持てなくなれば二度と会えなくなると思ったら……僕はあなたに会う為に、あなたを裏切ってしまった』

 自由の利き出した体を、地面に蹲る俊彦へ投げ出す。赤子を抱くように弱く強く、決して離さないと誓いながら背中を擦る。

『違います。それは違います。生きて帰らなければ、叶うものも何一つ叶いません。俊彦さんは、私との約束を守る為に動いてくださったのです。私は指輪が大切なんじゃありません。俊彦さんがいて初めて、その指輪だったのです。だから、あなたがいなくてはッ私はあなたがいなくて、どうして生きていられましょうか!』

 顔を上げた俊彦の瞳と重なる。顔中、涙と泥に塗れ、汚らしい様はそれでもコトの唯一だった。

 帰ってきてくれた。

 コトには返してくれない。

『でも、僕は死ぬのです。あなたと手を取り合って生きていかれない僕に、あなたを守る資格は無い』

 左手を見る。白い布が幾重にも巻かれていて、その先にあったものを思うと、コトも大粒の水を流すしかなかった。今も指輪は戦地に置いてけぼりにされているのだろうか。コトと出会うことを、今か今かと待っているのだろうか。

 布に手を触れる。

『治しましょう。左手はもう、ありませんが、他の治療ならば受けられましょう。私にはあなた限りなのです。あなた無しでは、この世はもうあの世と何も変わりません。指輪だって、まだ私のものがあります』
『指輪……なら』

 無事である右手をズボンのポケットに手を入れ、乱暴に引き出す。そこには、俊彦と刺繍されたベージュのハンカチが握られていた。震える手がコトの右手にぶつかる。

『開けてください』
『これは……』

 中に、汚れた輪が一つ。ところどころ赤茶色く変色してしまっているが、確かに二人の約束証であった。ハンカチでごしごしと拭いてやるが、一向に汚れが落ちることはない。

 血だ。

 俊彦の血で、指輪も泣いている。

 きっと、覚悟して必死に指輪を守ったのだ。自分の指から引き抜いて、指輪だけでも持ち帰ろうと。

『とても見られたものではなくなり、僕はもう嵌めることは出来ませんが、どうしても置いていくことは出来ませんでした。勝手だと、我儘だと罵ってくださって結構です。皆が戦い抜く間、僕はコトさんを想ってしまいました』

『何をおっしゃいます。同じです。皆それぞれ大事なものがあって、大切な人がいて、その為に戦っていたのです。だから生きようと思うのです。何も違いません。私たちの大切な指輪を守ってくださって、有難う御座います』

 両手で包み込む。温もりが伝わってくる。

『磨いたら綺麗になるやもしれませんよ。それに、左手は無くなってしまったけれども、右手が残っているじゃありませんか。傷がよくなればきっと、日常生活も送れますし、指輪も右手に嵌めればいいのです』

 コトの願いは一つ。俊彦と一緒にいることだけ。

 誰に反対されようと、コトの道はそれしかなかった。

 俊彦が来た時と全く同じに、地面に頭を擦り付けて言った。

『それなら一年、あと一年待ってください。それまでに僕の体がよくなれば……。もしその間に良い人が現れたら、迷わずその手を取って結構です』

 コトも俊彦に合わせて頭を下げる。

『すでに一年、遠い地にいる俊彦さんを待っていた私です。もう一年なんて、あっという間ですよ。私は軽い女ではありません、重い女だと面倒に思ってくださっても待ち続けます』
『……あなたはいつでも嬉しい言葉をくださる』