「おい、酒が無いぞ」

 ある夜、バイトから帰ってきたら、部屋の電気が点いていて鍵が開いていた。朝鍵は閉めたはずであるし、合鍵を持ってくれる彼女も存在しない。不審に思って音を立てないよう注意を払いながらドアを動かすと、すぐ傍に二メートル近くある大男が仁王立ちで待ち構えていた。

 兄だ。

「何……来るって連絡もらってない」

 社会人だが実家で暮らしているはずの兄が、何故ここにいる。しかも先に寛いでいるということは合鍵を持っているということで、恐らく母親から借りたのだろうが、兄弟といえどももう少し遠慮してもらいたい。忙しく働いた後に面倒事を請け負う人間は余程の物好きで、当然、修も歓迎しなかった。不機嫌を顔に貼り付け、廊下に荷物をどさりと置いて兄を見上げる。

「今日はどうしたんだよ」

 形はいびつでも、せっかく家族との再開に喜びこそあれ怒りなどあるはずないのだが、疲れから低めの声が出てしまう。兄は気にも留めず、途中の短い廊下を歩き、数歩で辿り着く唯一の部屋でごろんと地面に横たわった。

「オレ明日有給でさ。だから友だちと東京でも行こうってなって。だから、今日前乗りして遊んでイマココって言う訳。ホテル高いだろ」

「理由は分かったけど、連絡あれば泊める準備したのに。僕、バイト終わったばっかで何も買ってきてないし夕飯も食べて来ちゃったよ」

 修の問いに「腹減ったからとっくに外で食ってきた」と腹を擦りながら答え、転がりながらテレビをつけて修に背を向けてしまった。何でもない仕草が夜に染みて腹が立つ。

 兄弟として十八年間同じ屋根の下隣の部屋同士で暮らしていたのに、何故こんなにも性格が違うのだろうか。突然訪ねてきた割に平然と寛ぎ出した兄を諦め、洗面所へ向かう。顔を洗って戻ると、バラエティ番組を観て声を出して笑う兄が世間話を始めた。

「これ新しく買ったのか? 家から本棚持ってきてないだろ、狭い室内によく入れる気になったな」

 小さいながら鎮座する本棚は、狭い室内にそれなりの圧迫感を与えている。兄が邪魔そうに本棚を軽く叩いた。

「そう、ついこの前ね。本好きの友だちから影響されて、やっぱ借りるだけじゃなくて買ってみようってなった」
「相変わらずギャップで出来てる男だなぁ、弟よ。いっそ引く」

 会うたびに言われる言葉を今回も例外なくもらう。つり目気味に筋肉質であるにも関わらず、大学で運動部どころかサークルにも入らない上一人称が「僕」なのが気に食わないそうだ。修をさらに一回り大きくさせた見目の兄からすれば、筋肉があれば使わなければ悪で、見合った態度が当然というところか。

「文学青年とか流行んねぇぞ? もちっとカッコつければモテるだろうによ」
「それだ!」

 急に叫ぶものだから兄の体がびくりと跳ねた。家族の小言など右から左が常である修の食いつきに驚きながらも、やる気を出したなら手助けしたいのが兄という生き物。起き上がり肘をローテーブルに置いて、目の前に立つ修を上から下まで眺めてやる。

「それってつまり、モテたいってことか」
「いや、モテたいって言ったら語弊があるけど、外見を良くしたいと思って」

「へえぇ」にやにや口もとを緩めて立ち上がる。横に並ばれると威圧感が押し寄せてきて、ただでさえ狭い室内の空気が少なくなった気さえしてきた。肩に手を置かれる。

「そうかそうか、やっと春が来たんだな。二十歳で春って遅すぎだけど、気が付いただけマシだ。兄ちゃんがどうにかしてやるからな」
「春とは違うから。新しい友だちが出来て、自分の恰好改めて見て大丈夫かって思っただけだから」

 もしかしたら面倒な相手に声をかけたか、友人にしておけばよかったと後悔が押し寄せてくるが、もう遅い。体を休めるはずの時間は、兄とのファッションレッスンに費やされることとなった。

「まず、無地のシャツにデニムってインパクト無さすぎ。それに顔面が真面目ちゃんじゃないんだから、ぶっちゃけ合ってない。他の服もこんなん?」

 高校までは制服でよかったから、誤魔化せていたのかもしれない。兄の鋭い指摘に小さくなって頷くしかなく、ベッドの上に服を乱雑に広げられても文句など出るわけがなかった。目立たないからいいと評価していたものが、他人からしたら反対に作用していたことに驚く。見目とのバランスがあると考えたことがなかったので、これまでの二十年間がいかにぬるま湯であったか思い知らされた。

「この恰好の人間と並んで歩きたくない? 結構やばかったのか……」
「そこまでは言ってないけど、似合う恰好って人によって全然違うから。お前、考え方も大正時代で止まってんのか? 古いもんがダメとは言わないけど、新しいのも良いぞ」

――僕は見る目が無いんじゃなくて、端から狭かったのか。

 たまたま手に取って趣味まで辿り着いたものが文豪と呼ばれる作家たちで、新しい作家から読み始めていれば新刊が出るたびに追って購入したかもしれない。ファッションに関しても、友人と会う時に一度でも気にしていればまた違っていただろう。

 何かを間違っていたというよりは、見てすらいなかったわけだ。だが、認めてしまったら最後、好きだったものや信じていたものが崩れそうな気がして立ち止まってしまう。

 兄が流行りのものが好きでファッションに気を付けている印象は無い。しかし、自分に比べれば余程周りが見えている。これだけは正しいと納得せざるを得ない。深い息を吐いていると、思い切り背中を叩かれた。

「うっし! 買いに行くぞ」
「明日用事あるんだろ、それにそんなお金無い」
「昼までは時間あるから平気平気。春記念に一着買ってやる。明日三限からだろ、ていうか今時大学生で時間割壁に貼ってるとか!」

 集め始めた本棚の中身や荷物の少なさを馬鹿にされながら話は進み、時計の針が次の日を迎えた頃ようやく解放される。挙句の果てベッドを占領され床に転がりながら、コトや桃子のことを思い浮かべた。

 ほんの数週間前までは、図書館で昔から親しんできた本を順番に借りて週末を過ごし、平日は大学が早く終わる日はバイトに励む毎日。一見充実していそうで何も進展の無い無味な日々であった。それなりに楽しんでいた。満足していた。気付いてしまった。気付きたくなかった。今日は寝付けそうにない。