てっきり桃子と約束をしたと思い込んでいたが、間違いだったのか。思い起こしてみれば、確かに桃子は「デートしてほしい」とは言っていたが誰とは言っていなかった。珍しい誘いに浮かれて修が聞き逃したのかもしれない。

 最初から勘違いしていた自分が恥ずかしくて、昨日までの自分を叱りたくなった。考えてみれば、待ち合わせ場所もコトの家からほんの数分の場所だ。

 気を取り直してコトを見遣る。

 初めて家の外で会う。コトは、杖さえついているものの、涼しげなブラウスに丈が長めのスカート、白い帽子で清楚に決めていて、可愛らしい姿に頬が緩む。せっかく出かけるのだから、目一杯楽しみたい。

――可愛いおばあちゃんだな。

 今のコトに「おばあちゃん」は禁句だろうから心うちで留めておくことにして、それ以外を素直に口から漏らす。

「今日の恰好、コトさんに似合っていますね。夏らしくて爽やかです」

 途端、うっすら頬を染めたコトが視線をきょろきょろさせる。女学生の反応に、年下を相手にしているようで、帽子を目深に被り直した。

 ところで、今日は何処に行けば正解だろう。若者と同じ行動をしては疲れさせるだけだ。そもそも、杖を突いて長時間歩けないと聞いている。休み休み、ゆっくり楽しめる道がいい。座る場所があって飲み物も飲めるから、景色の良いカフェでもいい。

「行きたいところはないですか」

 自由に外に出られる機会は少ないだろうから、コトの行きたい所へ行ってみたい。純粋に、コトが興味のある場所が知りたかった。

「いつもは、お姉さんとお散歩に行くんですよ。だから俊彦さんとも行ってみたくて」

 控えめな答えに少なからず落胆する。もちろん、コトが希望するのならば賛成だが、遠慮しているのであれば訂正してほしい。

「散歩……たまにしか行けないとこでもいいんですよ。散歩でいいですか?」
「はい。俊彦さんと歩きたいのです」

 聞き直しても答えは変わらず、わざわざ約束まで取り付けて無茶をしてやってきたのだから、これが本心というわけだ。まさか散歩をしたいと言われるとは思わなかった。変わり映えのない風景で構わないのだろうか。遠慮しているのかと考えたが、嬉しそうにコトが杖を前へ出して歩き出したので、半歩後ろを付いていった。

 近所をうろうろ歩きながら、ゴールと思われる公園に辿り着く。休日の午前中ともなれば、遊具が多くないながらに親子や小学生が思い思いに遊ぶ様子が窺える。笑顔の集団を見ているだけで心が明るくなった。これを散歩のたびに眺められるのなら、短い散歩コースも中々しゃれている。

「ほら、周りを見渡してみてください」

 ベンチに座り、目線を動かす。右も左も、溢れる緑に色とりどりの花が笑っている。ほう、感嘆のため息が漏れた。

「すごい……。公園は滅多に行かないので、こんなに自然が沢山あるなんて知りませんでした」
「このベンチは昔から、それはもう私が女学生の頃からあるんです。公園なんて当然無くて、辺りで変わらないのはこのベンチだけ。よくここで、俊彦さんと本を読みました」

 今日は調子が良いのか、はたまた現実と過去を行き来している最中か。しっかり、修と俊彦が別人だと理解しているように話す。ふと、吹いていた風が止んだ。

「実はね、少し前から目が大分見えなくなってきているんです」

 突然の告白に目を剥いた。一人暮らしの、その上読書が趣味のコトにとって、それは修が思う以上に辛い事実だったろう。修だったら、事実に落胆し己に呆れ、医師に縋るか家族や友人にあたるか、どう転んでもひどいことになる。コトは何でもないことのように言う。

「でも、こうして顔を上げれば、綺麗なお花が私に向かって励ましてくれるんですよ。大丈夫、大丈夫だよって言ってくれる気がして。まだこの花が何色か私には分かる。だから、生きていかれるのです」

 花びらを指先の先にちょこんと触れさせる。

 花の名前は修には分からない。指先に寄り添う花が、まるでコトであった。

 涼しげな白にゆったり伸びた緑が、風に逆らわずに揺られている。背中に手のひらを触れさせた。「コトさん」

「僕が、あなたの目になります。大学があるので毎日とはいきませんけど、週に二、三日は伺えると思います。どうか、本が読めなくなっても諦めないでください。僕の目を、存分に使ってくれていいですから」

 その日の帰り道、修は腰程の背丈しかない小さな本棚を買った。