そして僕らは、世界を広げていった。中学の文化祭や高校の文化祭、それだけでは飽き足らずに、あるアマチュアバンドのコンテストに参加することを決定した。

 あれは、高校2年生のとき。君——ミツハと、モモと、僕のはじめての大きな舞台。



「ああーどうしよう、緊張で指動かなかったらどうしよう」



 あわあわと震える僕に、いつも通りを装うモモ。どちらも肩には己の片割れ、エレキギターとベースをぶら下げていた。




「ミツハ、遅くね?」

「あっ、やっぱりモモもそう思う? ……どうしたんだろう、お腹壊したんかな」



 ミツハは小さな時から大事な時によくお腹を壊していた。小学校での運動会での選抜リレーの前や、中学校での合唱コンクールでピアノの伴奏をする前、そうして、文化祭で軽音楽部の発表がある直前も。



「あと5分経ってこなかったら会場の女子トイレ全部探すぞ」

「ええ~……僕ら不審者で通報されちゃうよ……」

「ナシならパッと見女みてーだから大丈夫だろ」

「嘘でしょ……」



 モモがしれっとそんなことを言うものだから、僕は余計に胃が痛くなった。頼む、早く帰ってきてくれ。冷や汗でも滲み出てきそうな己の身体に、懸命に大丈夫と言い聞かせていた、その時。



「お待たせ~、ごめんごめん、トイレ混んでた~」

「ミツハ! 遅いよ」



 危うく僕が不審者にならなきゃいけないところだった、という間もなく、モモがミツハに尋ねた。



「腹、壊したか?」



 心配げに眉を下げてそう尋ねるモモに、ぐっと胸の辺りが重くなる。嫌だなァ、もうすぐ本番だって言うのに。黒く鎌首を擡げたその感情を、どうにか抑え込もうとして、飲み込むみたいに咳ばらいをした。



「大丈夫、普通にメイク直してただけ」

「何だ、そんなことか」

「モモってば! 女の子には大事なことなんだよ!?」

「……別にそのままで可愛いと思ってるから言ってんだけど」



 抑え込み、失敗。もやもやと湧き上がる黒い感情の名前は、良く知っている。これは、嫉妬だ。

 僕は、ミツハのことが好きだった。いつからかなんて分からない。明るくて可愛くて優しくて、それでいて時折男前でおっちょこちょいなミツハに、いつの間にか惚れていた。

 それからの日々は、気がつけばミツハを目で追う生活だった。

 だから、ミツハが誰を見ているのかなんて、すぐに気がついてしまった。



 彼女の目線の先には、いつも、彼がいた。

 僕のもう一人の幼馴染、モモ。



 それを知った日の衝撃は思ったよりも少なくて。心のどこかで、僕はこうなることが分かっていたみたいだった。

 かっこいいモモと、かわいいミツハ。お似合いだと思った。

 だけれども、僕の心に生まれた醜い感情は、こうして時折姿を現しては、僕の感情を揺さぶっていく。




「随分嬉しそうじゃん、ミツハ」

「え? ナシ……?」

「モモに言われるの、そんな嬉しい?」



 やめろ、やめろ。こんなこと、言ったってしょうがない。今は本番前なんだぞ、集中しろ。

 ちゃんと頭ではそう思うのに、止まらなかった。



「ナシ、あの、えっと……」



 ドラムのスティックをぎゅっと握りしめたまま、ミツハはおろおろと目を泳がせる。ああ、困らせてる。そう思った。



「ちょっとお前、ギターここにおいてこっちこい」

「……何」

「ええっ、ちょっと二人とも」



 慌てるミツハに、モモは自分もベースを置きながら、「すぐ戻るから」と言った。そのまま僕は舞台袖のもっと奥の方まで連れていかれた。



「お前、なんなの」

「……何でもない」

「何でもねぇわけねーじゃん。何? 俺のこと敵視してんなよ、俺達は同じ立場にいんだろ」



 その言葉に、堪えていた黒い感情が爆発した。



「……何が同じ立場だよ。ミツハが誰のことが好きだか知ってその台詞かよ。これだから勝組は嫌だね」



 ひねくれにひねくれを重ねたみたいな僕に、モモがくれたのは強烈な平手打ちだった。頬が熱を持って、あ、今、モモに叩かれたんだと遅れて頭が理解した。



「ッ、……痛った、何すんだよ!?」

「ふざけんなよお前」

「はぁ……?」



 それはこっちの台詞だよ、と言い返そうとして、モモの目を見上げた。瞬間、息が止まった。

 モモは、いつもみたいな勝気な目をしていなかった。それは、どこか寂し気で、今にも泣きだしそうな、幼子のような表情に思えた。



「お前はミツハにそれを聞いたのかよ? 違うだろ。勝手にそうだって、思い込んでるだけだろ……」

「でもっ、ミツハはいつもモモの方ばっかり見てるし」



 モモの唇がぐにゃりと歪んだ。そのまま、ぐっと噛み締められた下唇が、とても痛そうだった。数秒間、モモは下唇を嚙み締めていた。そうして、次に落とされた言葉は。



「お前のことだって、めちゃくちゃ見てるやつがいんだよ!」

「ッ」



 どくん、どくん。心臓が、うるさかった。

 どういう、ことだ。僕のことを見ているやつがいる? それは、ミツハのことだろうか。それとも……、

 頭に浮かんだ名前を打ち消す。そんな、そんなわけないだろ。

 シン、と沈黙が僕らの間に流れた。前のグループの演奏が始まったのか、反響板で仕切られたこの薄暗い場所にもその喧騒は響いていた。



「お前、ミツハが好きなんだろ。だったら……正々堂々としようぜ」

「……うん」



 ほら。モモも、ミツハが好きなんだ。



「もうそろそろ戻んねーと」

「うん、そうだね。戻ろ」



 無言のままミツハのいる場所に戻った。ミツハは僕とモモを交互に見ては泣きそうな顔で「何があったの」とそう言った。



「何もねぇよ。な」

「うん……」

「しいて言えば、ナシが我儘言った」



 何も言い返せなかった。本当に、何も。

 言えたのは、ただひとつ。



「ごめん」

「目ぇ醒めたか、このあんぽんたん」

「……醒めたよ、モモ」



 まっすぐにそう言えばモモは「そうかよ」と言ってにやりと笑った。



「でもちょっと手荒すぎない……? もうちょっと優しくさぁ……」

「あ? 聴こえねーな!」

「もう! 何でもないよ!」



 そう言いながら、下ろしてあったギターに手を伸ばそうとした。

 刹那、「手、貸して」と可愛らしい声が耳元で鳴り。

 そのまま、ふわりと右手が掬われた。

 驚いて自分の右手に目を落とせば、僕の手のひらはミツハの手のひらに捕らえられていた。



「ミツハ……?」



 その声に顔を上げると、モモも同じように目を瞬いていた。その左手は、僕の右手と同じ様にミツハの指先に囚われていて。

 理解するより先に、感覚が来た。

 きゅっと絡められた指先に、ジワリと伝わる手のひらの熱。

 ミツハの、ぬくもり。

 どくん、と心臓が大きく鳴った。



「よーし、これで仲直り! ね! あとは願掛けだよね!」



 ミツハがそう言ったとき、ちょうど前のグループの演奏が終わり会場が拍手に包まれた。その拍手の中、ミツハは僕らに向かって悪戯っ子のようににやりと笑った。



「モモ、ナシ。3人で、絶対、優勝しよう!」



 そこから先は、よく覚えていない。

 モモのベースがぐいんと踊って、君のリズムが弾んで、そうして、僕の弾いた音に乗せて、声がまっすぐに伸びて。

 きらきら、キラキラ。世界が、煌めいた。

 たくさんのネオンカラーのライトが僕らに当たって分散して、赤、黄、青、溢れて。

 ああ、今この世界で一番輝いているのは、僕らに違いない。間違いなく、そう思った。

 それくらいに、君の音もモモの音も僕の身体に響いて僕のBPMを高めていく。どくどくどくと早鐘を打つ心臓と濁流のように流れる血潮に、興奮が上乗せされた声が喉から飛び出て散っていく。

 まるで、僕らの創り出す音楽に色がついているみたいに思えるくらい、君も、モモも、僕も、はっきりと自分たちの世界を感じていた。

 実際に演奏しているときは、結果なんて忘れていた。これがコンテストだってことも、勝敗があるってことも、僕がミツハを好きで、ミツハがモモを好きだってことも、全部忘れていた。そんなのがどうでも良くなるくらい、それくらい楽しかったんだ。