その日の紅葉はいつも以上にぐったりとしていた。

目の焦点が定まっていない、足取りもおぼつかなくて、中身が入っていないように空虚(うつろ)な表情だ……。

どうして、あんなことに。昨日だって本当に限界なくらいまで追い詰められていた。今日ぼくに何も言わずに任務に行っちゃったのはーーいつの間にか早退していたのは、止められると思ったから……?

ぼくが止めたって、勝手に行っちゃうくせに。EPAの任務にぼくの意思なんて関係ない。介入することすら許されないのに。

でももしかしたら、止めて欲しかったのでは……。そんな風にも思ってしまう。

あの時、顔を会わせた時。紅葉を止めていたら、何か変わっていただろうか。
こんな風に変わり果てた紅葉を見ることはなかったのだろうか……。

それでも指輪(リング)があるから。指輪(リング)と言う目印がある場所へ……。紅葉はここまで帰ってきた。

――――――それなのに。
紅葉の側から身を引こうとしていたのに。紅葉の側にいられない自分が……もどかしいんだ……。あの場所に、いたいと思ってしまった。紅葉を一番に抱き締めてあげたいと……。ぼくにはそんな資格、ないのに。

そしてとた……とた……とよろよろになりながらも歩を進める紅葉の目の前に、高林寺さんがその指に嵌められた指輪(リング)を見せ付ける。その指輪(リング)を焦点の定まっていない瞳で見つめながら、紅葉がピタリと立ち止まる。そして今にも倒れ伏しそうなよろける紅葉の身体を、高林寺さんが颯爽と受け止める。

ふわり……と、髪を夕風に靡かせ、聖母のごとく紅葉をその腕の中に抱き締める高林寺さんは……とても美しかった。そしてこれが本来あるべき姿なのだと悟った。

もともと、ぼくが紅葉のそばにいることが間違っていたのだ。あの図式は、多分正しい。世界のことわりが許したもののようにすら思えた。

夕陽に照らされながら輝く2人は、とても美しい。
世界が祝福するように、鐘が鳴り響く。

ぼくがEPAに囚われて、家族が悲しい思いをするのは、とても心苦しいけれど。

それでも紅葉が、ぼくという枷から自由になって、幸せになってくれるなら……。
あの場所に、ぼくはいてはいけない。行ってはいけないんだ……。

だから……、だめ。
ダメだと、分かっているのに。

「もみじ……」
その名前を呼ばずにはいられなかった。

……あれ……?ふと漏らした声に、その言葉に……。口を拘束していた大きな掌が外れたことに気が付く。
――――――どうして?
そして羽交い締めにしていた腕がするすると緩んだのを感じた。

――――――そっか、もう、終わったから。紅葉は高林寺さんとペアリングになったから。

ぼくなあの場に乗り込むことすら不可能だと、判断してくれたのか。
ぼくは、いらないんだ。

今まで、ありがとう。そして、ごめんね……。
幸せになって……紅葉。

――――――でも。

「……どうして、あなた()泣いているんですか?」
ふと、ぼくの傍らでうずくまる男性が視界に入り、ぼくの身体を拘束していたもうひとりも振り返る。

――――――――彼らは、涙を流していた。どうして、どうして、泣いているんだ。

「どうしてだ……身体が、動く。動いたんだ。自分の、意思で……っ」
「還って来られたのか……っ!あぁ、戻って来られた……!!」
彼らは呆然とそう呟き、そして俺を見上げた。

「人間に、戻れたのか」
「本物のホーリーリングは、君の方だったんだ……」
……は?人間に戻れたって……このひとたちはもともと人間で……。

そうだ。彼らはエージェントだと高林寺さんが言っていた。つまりは特殊体質。特殊能力を使う度にその反動に苛まれる。

しかも、本物の、ホーリーリング……?

「あの……あなたたちは……」

「カザリだ。俺たちは……自我を失いかけていた」
「俺は、トオキと言う。リングもなしに……一方的に力を使わされて……っ」
リングもなしにって、そんなの、自殺行為じゃないか……っ。いつ、自分が自分でなくなるのかも分からない。

「違う……奪われたんだ」
奪われた……?カザリさんが驚愕に目を見開き、トオキさんもそれに頷いた。

「ある日リングの居場所が分からなくなった。そんな時、高林寺アゲハが現れたんだ……!そして自分なら俺たちをもとに戻せるって!回復させられるって!」
「そうだ!俺もだ!」

「でも、あなたたちは……」
自我を失いかけるほどに、特殊能力の反動を受けていた。

「EPAのエージェントには救う優先順位があるからと……エースであるエージェント番号1852を救った後になると……っ!それで……っ」
「でもこのままでは、ペアリングですら、探せない」
リングの居場所を感知できる特殊体質もいるが……自我を忘れそうになるほど壊れかければ、ペアリングに持たせた指輪(リング)を頼りに、濃霧の中を進むことになる。

それなのに紅葉を救ったあとにこのひとたちを治すと……。その上、ぼくを拘束するためにこのひとたちを使ったのか……?目の前で、苦しんでいる……今にも自我を失おうとしているひとたちが、いるのに。

彼女はホーリーリング!彼らを救う力があるのに……っ。

「貴様は……、貴様アァぁ……っ!誰だアあァぁアァ――――――――ッッ!!!」
その時、巨大な咆哮のような衝撃と共に、悲鳴が上がる。

「キャアァァァァァ――――――――っ!!!」
紅葉が怒号を上げ、そして紅葉に抱き付いていたはずの高林寺さんが、ぶっ飛ばされて、地面に打ち付けられていた。

「あ、うぅ……エージェン、ト……番号っ!1852……!や、めなさいっ!わたし、は、聖女っ!」
こんな時まで、紅葉をそんな番号で呼ぶのか。

「貴様は、誰だ……っ!アァ……っ、カイ、リ……っ、ドコ、ダ……、カイ、リ゛、アァアァァァァ――――――っ!!!」
あんなの……っ、絶対普通じゃない!紅葉は一体どうなって……!?まさか自我を失ったとか……!?そんな、バカな……っ!!

咆哮は空高く反響し、周囲から竜巻が立ち上ぼり、高林寺さんに迫る……!!

「た……助けな、さい!あなた、だっ」
左目を負傷したらしい高林寺さんがこちらをギリッと睨んで叫ぶ。

「エージェント、ばんご……っ、926!463!」
彼女は、彼らすら番号で呼ぶのか。こんな時にまで……!

「俺は……番号じゃない」
「そうだ……そうだ……!俺たちは番号じゃない!」
少なくとも彼らは……自我を失う寸前で戻ってきた。人間に、戻ってきた……。それなのに。
彼らの、人間としての叫びすら、高林寺さんは掻き消すように怒鳴る。

「お前ら、リングがど、なっても……っ」
あぁ、彼女は、本当に……。

「やっぱり!俺たちのリングの居場所を知っていたな!?」
「リングを人質に、決して許されないことをした!」
リングに手を出さないことは、暗黙のルール。

「わた、……は、リング、よ?」
ニタァっと嗤う高林寺さんには、先程までの高潔さはない。

確かにその暗黙のルールは、特殊体質者たちの間でのものだけど。それに守られているリングだからこそ、リングが同じリングに牙を剥くことなんて、考えたこともなかった。

……それよりも彼女は本当に、リングだったのか……?何か、恐ろしい仮説に辿り着いてしまったような……。

EPAは、決して特殊体質とリングだけの団体ではない。支部長の篠田先生は特殊体質者だけど、そうじゃないEPA職員が、いたとしたら。

彼女は美人だし、大人っぽい。転校してきたからこそ高校生だと思い込んでいたけれど、違うとしたら。篠田先生だって、EPAのつてを使って紅葉の通う高校に配属されているのだ。

生徒に紛れ込むことが、できないとは限らない。そしてぼくの指輪(リング)を奪い取り、自らが紅葉のペアリングとなろうとした。

しかし、彼女はどうやってホーリーリングだと……聖女だと嘯いた?
特殊体質のリングを奪い取り、リングがいなくなり、藁にもすがる思いの彼らの心理を利用して……ホーリーリングになろうとしたのではないか。

「狂っている……っ。リングを……ペアリングがどれだけ大切な存在か、知りもしないのに……!」
「俺たちのリングを返せ!この、悪魔あぁぁっ!!」
【悪魔】と、その言葉を聞いた途端、高林寺さんがカッと目を見開く。

「化け物どもが……っ!!何をほざく!この聖女の私に対して……っ!!……がはっ、げほごほごほっ」
高林寺さんが本性とも言える怒りの形相でこちらを睨み付け……全力で吠えたせいか、勢い良く咳き込む。

化け物……か。無情な呼び名。ぼくは決してできなかった。例え紅葉が自分自身をそう称したとしても。

ぼくは、リングは、特殊体質を癒す。人間に繋ぎ止める。人間に戻す存在。

紅葉が人間として()るその体温を、誰よりも知っている。感じてきたんだから。

――――ぼくの意思は、決まった。

「……紅葉」
ぼくは、紅葉に向かって、ゆっくりと足を踏み出した。

「おい、危ないぞ!あれは崩壊しかかっている!それもエースだ!EPAのエースだぞ!最強だ……かなうもんなんていやしない!!」
「こんなところで本物のホーリーリングを喪ったら、俺たちは……特殊体質は化け物に堕ちるしかないんだ……っ!」

「それでも、紅葉はぼくのペアリングだから」
そう、彼ら2人を見つめて、諭すように告げる。
ぼくは行かなくちゃならない。

「最()に、あなたたちを救えて良かった」
ぼくは頷くと、紅葉の元へと再び足を進める。
一歩ずつ、ゆっくりと、暴走する紅葉の元へと辿り着けるよう……。

「おい、待て……!!」
「そっちに行くな!」
「いや、行かせてやれ!!」
篠田先生の声がした。うん、そりゃぁ駆け付ける。ここは篠田先生の勤務場所の高校のすぐ近くだ。
特殊体質の秘密を漏らさぬよう、恐らくその準備に掛かりっきりで駆け付けるのが遅くなったのだろう。

「どのみち相手があの状態の紅葉だぞ!誰にも止められない……止められないんだ……ペアリングの……っ、浬しか!」
篠田先生の祈るような声が響いてくる。
でも、ぼくみたいな犠牲がほかに、出ないのなら。顔も名前も知らない生徒もいるけれど、これでみんなが助かるなら。

一般人として、日々を平穏に過ごせるのなら……。

「……紅葉……、今、行くから」

そっちへ……。

「あ゛……、……ぁ゛、かい、リ゛……」

獣のような咆哮と共に、懐かしいような、切ないような、紅葉がぼくを呼ぶ声を聞いた。

あぁ、あの声を、ぼくは知っている……。あの日もこんなきれいな夕焼けだったな……。

しかし全てを失った日。家も、家族も、妹も、喪ったんだね。

何もない、無音の、けれど鮮烈に射し込む夕焼けが、大音量のように降り注いでいた。だからぼくは耳を塞がずに済んだ。

いつまでもいつまでも、夕陽が沈むその時まで、その色に染まっていられるから。

そして、そんなぼくを迎えにきたのが……紅葉だった。

言葉は通じないはずなのに、紅葉の声はぼくの脳内に響いて届いた。
その声は心地よくぼくの中に染み渡って、降り注ぐ悲しい唄を掻き消してくれた。

お人形さんのようにきれいで、笑わない男の子。
名前なんてなかった。彼には名前など与えられなかった。

彼の産みの親は、彼の特殊体質に脅え、恐怖し、彼を捨てた。EPAは彼を拾い、最高の特殊体質が生まれたと賛美した。与えられたのは1852と言う数字だけ。

彼には何もなかった。あったのは彼に恐怖し、脅える人々の悲鳴。そして興味深い実験材料だと目を輝かせる、人を人とも思わぬ者たち。

だから彼は、探した。唯一の存在を。彼のために存在する、リングと言う存在を。

彼はテレポートした。国境を越えて、海を越えて、言葉の壁を越えて、ここに来た。

自分の唯一を手にするために。

その知識が、彼の記憶が、ぼくの中に流れ込み、刻み込まれた。

自分のものになって欲しい。自分だけのリングとなって欲しい。そんな魂の叫びにも似た思いを、ぼくに届けるために。

まるでプロポーズのように。
彼はぼくに与えた。

他に、与えられるものなど彼にはなかったから。

紅葉のように赤い、夕焼け色に染まった美しいその子を、1852と呼ばれたその子を……ぼくはもみじと呼んだんだ。

そして求められた。
ぼくの、望むものを。望む特殊体質を。ぼくは特別なリングで、そしてもみじにとっての唯一無二のペアリング。

――――――欲しいもの。

『かぞく』
ぼくはそう、望んだ。だから家族ができた。両親はたまにしか帰ってこない、妹とぼくしかいない、あの家。ただ様子を見に、たまに家族ごっこをするために。

何で、忘れていたのだろう。どうしてぼくは、気付かないふりをしていたのだろう。

――――――――妹は、どうしてあの家に住んでくれたのだろう。もみじやぼくの両親と同じく、必要な時にだけ来ても良かったのに。やっぱり、もみじへの惚れた弱みかなぁ……。

そしてぼくはもみじ以外を選んだのに、ずっとずっと側にいてくれたんだ。お隣さんとして。

――――――そしてもみじにとっても、ぼくが唯一無二のリングだったから。ぼくがホーリーリングであっても、ぼくの側にいることが許された。ペアリングとなることを許された。


――――――でもね、もみじ。
ぼくがあの時言った家族ってのは……


鮮烈な夕陽が作り出す、影法師の中。とても冷たくなったその身体を抱き締めた。

何度も何度も抱き締めた、その触りなれた、背中を抱いた。

降り注ぐ夕陽は暖かいのに。紅葉の身体は冷たくて、冷たくて、凍えそうで。だけど本当に凍えてしまう、夜がくる前に。

暖かく、(あった)めてあげよう。温めて、あげるから。人間に戻して、あげるから。

「もみじ……もう、大丈夫だよ」

もう足の感覚もないけれど、この腕だけは、決して放すまい。なでなでと、なで心地の良い背中をさすって、微笑む。
安心する、この背中にまたすがることができた。抱き締めることができた。

その、幸せな温もりに、頬を温かい涙が伝った頃……。

「あ……、あぁ、かい、り……」

もみじの声を聞いた。

――――――あぁ、ちゃんと、戻れたんだな……。

なら、今度こそ、ぼくが望むのは……。

「もみじ」

ただひとり。ぼくの唯一だ。