「ラフィエル?」
部屋の入り口に立っているのはアレットだ。ずいぶんとやつれている。何より痛ましいのは、肘から先の左手を失っていること。
「ア……レ……」
身がすくみ、どう反応していいのか分からずにいる僕に、アレットはいきなり飛び掛かってきた。
視界の隅で、血に汚れた蒼白いものが跳《は》ねるのが見える。
混乱し、喉の奥で悲鳴を上げた僕の頬を、アレットの喉元から迸る血が汚した。
「アレット!!」
萎びた蒼白いそれは、失われた彼女自身の左腕だった。
掌のまん中に開いた細かい牙の並ぶ口が、アレットの喉に食らい付いている。
「放せ! はなれろ!!」
引き剥がし、椅子で叩き付けても、それはまだ動き続けている。ソファやテーブルの残骸を積み上げ動けなくすると、僕はアレットを抱き起した。
「……ラフィ……エぇル?」
ハンカチで押さえてみても、血が止まらない。必死に僕に何か伝えようとするアレットをなだめ、レスキューに助けを求める。
「大丈夫。すぐに来てくれるから。大丈夫」
「……あの、……あのねぇ……」
アレットが残った右手で差し出したのは、地下室で見た彼女の日記帳。
「ごめん……ごめんねぇ……」
「いいよ。何も怒ってないから」
いまさらだ。アレットがどんな存在であるにせよ、気が狂うほどの飢餓感に襲われながら、それでも耐えていたんだ。胸の肉ひと口分くらい、なんてことない。
ゆるゆると首を振り、アレットは血に汚れた手でページをめくる。
『2がつ10にち
いっぱいかべをのぼる。たべたあとのがいこつのかべをのぼる。はじめていきたにんげんにあう。
うおーらんわにくをよういしてかってやるという。だけど、わたしわちがう。わたしはおかあさんのようにわならない』
『3がつ24にち
ちゃんとほかのものも食べられた。でもやっぱりおなかがすく。でもがまんできる』
『5月6日
ウォーランの用意した肉を食べておちつく。羊の肉だとばかり思ってたのに、彼は笑いながら人の肉だという。ちがう。もうあんな人の言うこと信じない。』
アレットの、ページをめくる手が止まった。
『6月6日
図書館の日。じろじろ見てる子がいて、恥ずかしくて本が取れない。ゴシックホラーが好きなんて、背伸びして言わなきゃよかった。』
「……私、ほんとはぁ……『トワイライト』のほうが好ぅき……」
苦しい息の下で、アレットは悪戯っぽく笑顔を作って見せる。
「ごめん、僕も嘘ついてた。『呪われた町』に手をのばしたのは、君に話し掛けたかったからで、本当は『ハリー・ポッター』のほうが好みだ」
笑おうとしたのか。アレットは大きく咳き込み、血を吐いた。
「……アレット? ……アレット……」
ごとごと動き続けていた、調度品の山が静かになっている。
サイレンの音が近づき、救急隊員が踏み込んでくるまで、僕は彼女を抱え動けずにいた。
§
クリストファー・ウォーランの死は、一時ニュースとして取り沙汰されたが、父親であるウォーラン市議の力か、すぐに忘れ去られた。ささやかながらちゃんとした葬儀のあと墓地に葬られ、今でも立派な墓石を見ることが出来る。
だけど、アレット・アンフェールには墓がない。不法移民だったとか、性的虐待を受けていたとか。不名誉なレッテルの数々は、彼女が人間でなかったかもしれないという事実を隠すためには、むしろ好都合だったのかもしれない。埋葬されなかった遺体は、ミスカトニック大学あたりで標本保存されているのかもしれないが、それがアレットの存在した証明だというのなら、僕はそんなの絶対に認めない。
僕の恋した本好きの少女の生きた証は、胸の傷と一冊の手記として、いまも僕とともにあるのだから。
The Diary of Alette Enfer. END
部屋の入り口に立っているのはアレットだ。ずいぶんとやつれている。何より痛ましいのは、肘から先の左手を失っていること。
「ア……レ……」
身がすくみ、どう反応していいのか分からずにいる僕に、アレットはいきなり飛び掛かってきた。
視界の隅で、血に汚れた蒼白いものが跳《は》ねるのが見える。
混乱し、喉の奥で悲鳴を上げた僕の頬を、アレットの喉元から迸る血が汚した。
「アレット!!」
萎びた蒼白いそれは、失われた彼女自身の左腕だった。
掌のまん中に開いた細かい牙の並ぶ口が、アレットの喉に食らい付いている。
「放せ! はなれろ!!」
引き剥がし、椅子で叩き付けても、それはまだ動き続けている。ソファやテーブルの残骸を積み上げ動けなくすると、僕はアレットを抱き起した。
「……ラフィ……エぇル?」
ハンカチで押さえてみても、血が止まらない。必死に僕に何か伝えようとするアレットをなだめ、レスキューに助けを求める。
「大丈夫。すぐに来てくれるから。大丈夫」
「……あの、……あのねぇ……」
アレットが残った右手で差し出したのは、地下室で見た彼女の日記帳。
「ごめん……ごめんねぇ……」
「いいよ。何も怒ってないから」
いまさらだ。アレットがどんな存在であるにせよ、気が狂うほどの飢餓感に襲われながら、それでも耐えていたんだ。胸の肉ひと口分くらい、なんてことない。
ゆるゆると首を振り、アレットは血に汚れた手でページをめくる。
『2がつ10にち
いっぱいかべをのぼる。たべたあとのがいこつのかべをのぼる。はじめていきたにんげんにあう。
うおーらんわにくをよういしてかってやるという。だけど、わたしわちがう。わたしはおかあさんのようにわならない』
『3がつ24にち
ちゃんとほかのものも食べられた。でもやっぱりおなかがすく。でもがまんできる』
『5月6日
ウォーランの用意した肉を食べておちつく。羊の肉だとばかり思ってたのに、彼は笑いながら人の肉だという。ちがう。もうあんな人の言うこと信じない。』
アレットの、ページをめくる手が止まった。
『6月6日
図書館の日。じろじろ見てる子がいて、恥ずかしくて本が取れない。ゴシックホラーが好きなんて、背伸びして言わなきゃよかった。』
「……私、ほんとはぁ……『トワイライト』のほうが好ぅき……」
苦しい息の下で、アレットは悪戯っぽく笑顔を作って見せる。
「ごめん、僕も嘘ついてた。『呪われた町』に手をのばしたのは、君に話し掛けたかったからで、本当は『ハリー・ポッター』のほうが好みだ」
笑おうとしたのか。アレットは大きく咳き込み、血を吐いた。
「……アレット? ……アレット……」
ごとごと動き続けていた、調度品の山が静かになっている。
サイレンの音が近づき、救急隊員が踏み込んでくるまで、僕は彼女を抱え動けずにいた。
§
クリストファー・ウォーランの死は、一時ニュースとして取り沙汰されたが、父親であるウォーラン市議の力か、すぐに忘れ去られた。ささやかながらちゃんとした葬儀のあと墓地に葬られ、今でも立派な墓石を見ることが出来る。
だけど、アレット・アンフェールには墓がない。不法移民だったとか、性的虐待を受けていたとか。不名誉なレッテルの数々は、彼女が人間でなかったかもしれないという事実を隠すためには、むしろ好都合だったのかもしれない。埋葬されなかった遺体は、ミスカトニック大学あたりで標本保存されているのかもしれないが、それがアレットの存在した証明だというのなら、僕はそんなの絶対に認めない。
僕の恋した本好きの少女の生きた証は、胸の傷と一冊の手記として、いまも僕とともにあるのだから。
The Diary of Alette Enfer. END