携帯端末の呼び出し音で目がさめた。帰って夕食も食べずにベッドに突っ伏し、いつの間にか眠っていたらしい。
時刻は午前2時を過ぎたばかり。知らない番号だ。
「アレット? アレットなの?」
『……本を置いて行ったガキだな』
彼女からの連絡かと勢い込んで通話ボタンを押した僕は、男の声に鼻白んだ。ねっとりと、どこか人を小馬鹿にしたような話しぶり。クリストファー・ウォーランか?
「何の用です? そこにアレットはいるんですか?」
『そのアレットがお前に会う気になったって言ってるんだよ。今すぐ出れるか? どうなんだ!?』
薬でもやって切れかかっているのか、奇妙に焦燥した語り口だった。
「アレットがいるんですか? いるなら代わって下さい!」
『ダメだ! 直接会わせてやると言ってるんだ! 来ないならこのまま――』
端末の向こうで、ウォーランに誰かが話しかける声がする。くぐもっているが、少女の声のように聞こえる。
『――会いたくない? 俺が呼んでやるって言ってるんだぞ! お前は黙って、大人しく用意されたものを――』
「アレット!? アレット!!」
争うような音のあと、男の悲鳴が伝わる。
「ウォーラン! 彼女に何をした!? ウォーラン!!」
永遠とも思える静寂のあと、端末はぽつりと漏らされた少女の呟きを伝えた。
「馬鹿ねぇ。ウォーランは死んだぁわ」
§
寝静まった街の中、ウォーランの邸も例外なく闇に包まれていた。玄関に鍵は掛かっていない。音を立てないよう注意しながら邸内に足を踏み入れる。耳を澄ませてみても、物音は聞こえてこない。
携帯端末の通話から推すと、逆上したアレットがウォーランに怪我を負わせたように聞えた。確認してレスキューを呼んでやってもいいが、出来るならアレットを連れ出す手はずを整えるのが先じゃないか? 屋敷は広いが、ウォーランが彼女にまともな部屋を与えているとは思えない。屋根裏部屋か、あるいは――ライトを手に廊下を進むと、地下室への階段に行き当たった。
地下室に籠る空気はほこりっぽく、やけに生臭い。半ば物置きとして使われているようだったが、片隅に粗末なベッドと小さな机が置かれていた。どうやら想像は当たっていたようだ。アレットはいないようだが、彼女の机が気になった僕はライトを走らせた。
机の上に開いたまま置かれているのは、日記帳のようだ。
『8月12日
お腹が減っておかしくなりそう。 でも、やっぱり普通の食事じゃちっとも満足できない。無理に口にしてみたけど、全部もどしてしまう。』
『8月13日
悪いのは左手。ウォーランの隙を見て罰を与えた。すごく痛かったけど、解放されたきぶん。あいかわらずおなかは空くけど、これできっと普通の食事が食べたくなるはず。』
『8月14日
朝起きて気付いた。右手にも歯が見えている。ウソだ。まだ開いてないけど、きっとまた食べたくなる。こんなのいやだ。いやだいやだいやだ!』
『8月15日
彼が来てくれた。でも、会っちゃダメ。ウォーランは招いてやるというけど、どういうつもりかは聞かなくても分かる。
あいたい。食べたい食べたい食べたくない食べたい食べたい食べたい食べたくないたべたいたべたいたべたいたべたいたべたくない!! いや! いや!! いや!!!』
最後は殴り書きで、傍らには噛み砕いたような鉛筆が転がっている。
気付きたくなかった真相に辿り着きそうになり、思考停止していた僕は、階段の上で微かに響く廊下がきしむ音に気付き、ライトを消してクローゼットに隠れた。
「ラフィエル? ラフィエルなぁの?」
階段を降りてくる足音。アレットの声だ。返事をしようとしたが、のどがカラカラで、声を出すことは出来なかった。
灯りが点される。室内を歩き回る気配を感じたが、クローゼットに気付かれた様子はない。しばらくして足音が階段を上ると、地下室は再び闇に包まれた。
どうして返事をしなかった?
彼女を助けに来たんじゃなかったのか?
自分でももう、どうすればいいのか分からない。
こわばった身体を無理矢理動かしクローゼットを出る。
地下室を去り際、生臭さの正体が血の匂いだと、いまさらながらに思い至った。
玄関ホールに立ちすくみ、長い間迷った。おそらく、僕の短い人生の中で一番の長考だったろう。
「でも、このまま逃げたら、きっと一生後悔する」
ライトを点け玄関に背を向けると、僕は再び廊下を歩き出した。僕の携帯端末に掛けてきたのは、置き電話からじゃないか。そう見当を付け、リビングを探す。ウォーレンがいた部屋は、乱された調度品で、すぐにそれと知れた。
ソファが倒され、ガラステーブルの割れた破片が散らばっている。それに、濃い血の匂い。
奥の壁にもたれるように倒れる人影を認め、部屋の灯りを点けようとしたが、地下室で目にした日記帳の文面が頭をよぎる。そのまま灯りは点けず、足元をライトで照らしながら、僕は人影へと近づいた。
ウォーランだ。目を見開き、開いた口から舌がはみ出している。獣の牙のようなもので首筋が大きく抉られ、敷物に血の跡が広がっている。確かめるまでもなく絶命している。警察か、レスキューか。動揺しつつポケットの携帯端末を探っていると、部屋の灯りが点けられた。
時刻は午前2時を過ぎたばかり。知らない番号だ。
「アレット? アレットなの?」
『……本を置いて行ったガキだな』
彼女からの連絡かと勢い込んで通話ボタンを押した僕は、男の声に鼻白んだ。ねっとりと、どこか人を小馬鹿にしたような話しぶり。クリストファー・ウォーランか?
「何の用です? そこにアレットはいるんですか?」
『そのアレットがお前に会う気になったって言ってるんだよ。今すぐ出れるか? どうなんだ!?』
薬でもやって切れかかっているのか、奇妙に焦燥した語り口だった。
「アレットがいるんですか? いるなら代わって下さい!」
『ダメだ! 直接会わせてやると言ってるんだ! 来ないならこのまま――』
端末の向こうで、ウォーランに誰かが話しかける声がする。くぐもっているが、少女の声のように聞こえる。
『――会いたくない? 俺が呼んでやるって言ってるんだぞ! お前は黙って、大人しく用意されたものを――』
「アレット!? アレット!!」
争うような音のあと、男の悲鳴が伝わる。
「ウォーラン! 彼女に何をした!? ウォーラン!!」
永遠とも思える静寂のあと、端末はぽつりと漏らされた少女の呟きを伝えた。
「馬鹿ねぇ。ウォーランは死んだぁわ」
§
寝静まった街の中、ウォーランの邸も例外なく闇に包まれていた。玄関に鍵は掛かっていない。音を立てないよう注意しながら邸内に足を踏み入れる。耳を澄ませてみても、物音は聞こえてこない。
携帯端末の通話から推すと、逆上したアレットがウォーランに怪我を負わせたように聞えた。確認してレスキューを呼んでやってもいいが、出来るならアレットを連れ出す手はずを整えるのが先じゃないか? 屋敷は広いが、ウォーランが彼女にまともな部屋を与えているとは思えない。屋根裏部屋か、あるいは――ライトを手に廊下を進むと、地下室への階段に行き当たった。
地下室に籠る空気はほこりっぽく、やけに生臭い。半ば物置きとして使われているようだったが、片隅に粗末なベッドと小さな机が置かれていた。どうやら想像は当たっていたようだ。アレットはいないようだが、彼女の机が気になった僕はライトを走らせた。
机の上に開いたまま置かれているのは、日記帳のようだ。
『8月12日
お腹が減っておかしくなりそう。 でも、やっぱり普通の食事じゃちっとも満足できない。無理に口にしてみたけど、全部もどしてしまう。』
『8月13日
悪いのは左手。ウォーランの隙を見て罰を与えた。すごく痛かったけど、解放されたきぶん。あいかわらずおなかは空くけど、これできっと普通の食事が食べたくなるはず。』
『8月14日
朝起きて気付いた。右手にも歯が見えている。ウソだ。まだ開いてないけど、きっとまた食べたくなる。こんなのいやだ。いやだいやだいやだ!』
『8月15日
彼が来てくれた。でも、会っちゃダメ。ウォーランは招いてやるというけど、どういうつもりかは聞かなくても分かる。
あいたい。食べたい食べたい食べたくない食べたい食べたい食べたい食べたくないたべたいたべたいたべたいたべたいたべたくない!! いや! いや!! いや!!!』
最後は殴り書きで、傍らには噛み砕いたような鉛筆が転がっている。
気付きたくなかった真相に辿り着きそうになり、思考停止していた僕は、階段の上で微かに響く廊下がきしむ音に気付き、ライトを消してクローゼットに隠れた。
「ラフィエル? ラフィエルなぁの?」
階段を降りてくる足音。アレットの声だ。返事をしようとしたが、のどがカラカラで、声を出すことは出来なかった。
灯りが点される。室内を歩き回る気配を感じたが、クローゼットに気付かれた様子はない。しばらくして足音が階段を上ると、地下室は再び闇に包まれた。
どうして返事をしなかった?
彼女を助けに来たんじゃなかったのか?
自分でももう、どうすればいいのか分からない。
こわばった身体を無理矢理動かしクローゼットを出る。
地下室を去り際、生臭さの正体が血の匂いだと、いまさらながらに思い至った。
玄関ホールに立ちすくみ、長い間迷った。おそらく、僕の短い人生の中で一番の長考だったろう。
「でも、このまま逃げたら、きっと一生後悔する」
ライトを点け玄関に背を向けると、僕は再び廊下を歩き出した。僕の携帯端末に掛けてきたのは、置き電話からじゃないか。そう見当を付け、リビングを探す。ウォーレンがいた部屋は、乱された調度品で、すぐにそれと知れた。
ソファが倒され、ガラステーブルの割れた破片が散らばっている。それに、濃い血の匂い。
奥の壁にもたれるように倒れる人影を認め、部屋の灯りを点けようとしたが、地下室で目にした日記帳の文面が頭をよぎる。そのまま灯りは点けず、足元をライトで照らしながら、僕は人影へと近づいた。
ウォーランだ。目を見開き、開いた口から舌がはみ出している。獣の牙のようなもので首筋が大きく抉られ、敷物に血の跡が広がっている。確かめるまでもなく絶命している。警察か、レスキューか。動揺しつつポケットの携帯端末を探っていると、部屋の灯りが点けられた。