後遺症は残らないだろうと診断されたが、右腕を動かすのはしばらく不自由することになる。うやむやのままに話を合わせ、野犬の仕業ということに落ち着いたが、泣き叫んだり怒ったり心配したりで忙しいママの言い付けで、退院後もしばらく外出禁止を言い付けられた。
動けるようになると、水曜日を待たずに図書館へと足を運んだが、あれからアレットは姿を見せていないらしい。個人情報だということで住所を知ることは出来なかったが、がっかり顔で貸出カウンターを去る僕の後で、司書のおばさんはぼそりと呟いた。
「そういえばあの娘、あのクリストファー・ウォーランと同じ住所ね。貸出期限過ぎてるんだから、催促が必要かしら?」
「ありがとう、おばさん!」
「あら、何のこと? それに、お姉さんでしょ!」
不器用にウィンクして見せる司書のおばさんに手を振り、僕は図書館から駆けだした。
グレッグ・ウォーラン。僕でも聞き覚えがある市議の名前だ。クリストファーが彼の次男だということまでは、簡単に調べることが出来たが、私人であるクリストファーの住まいまではwebで公開されていない。ふと、司書のおばさんの言葉を思い出す。あのと表現していたからには、彼自身も名を知られている人物のはず。
辿り当てたのは4年前の小さな新聞記事。カルトまがいのニューエイジ崩れが、麻薬を用いた儀式だかパーティーだかを開き、警察に踏み込まれたという事件のもの。主催の名がクリストファー・ウォーランで、キングスポート郊外の通りの名前までが出ていた。
そのまま家を飛び出しかけたが、部屋に戻って本を数冊選んで鞄に詰め込む。話の糸口は用意しておいた方が心強い。さほど時間を掛けずに、それらしい邸を見付けることが出来た。
大きい。高級住宅街の外れにあり、確かに怪しい集まりがあってもバレにくいだろう。それとも、公人である父親に睨まれて、蟄居の身なのか。
玄関のベルを鳴らすと、ずいぶん待たされたあと、若い男が顔を覗かせた。仕立てのいい高そうなシャツを、だらしなく着崩している。指には髑髏のシルバーリング。
「クリストファー・ウォーランさん?」
「誰だ?」
「ラフィエル。ラフィエル・カータレット。アレットの友達で――」
言いかけた所で、目の前で乱暴に扉を閉められた。それっきり、何度ベルを鳴らしても扉が開くことはなかった。
アレットとウォーランがどんな関係なのかは分からない。けれど、彼女がここにいるのは間違いないように思う。僕は、連絡先を記したメモを本に挟むと、鞄ごと玄関先に置いてその場を後にした。
あとは彼女からの連絡を待つだけだ。それとも、準備を整えて張り込んでみようか。そんなストーカーじみたことを思いめぐらせていると、後ろから近付いてきた黒塗りのワゴン車にクラクションを鳴らされた。
自転車を道の端に寄せ停める。窓を開け声を掛けてきたのは、大統領のボディーガードかスモウレスラーかと思うほどの、黒人の巨漢だった。
「坊主、あの家に何の用だ?」
「……友達を訪ねに」
ウォーランの回し者かと警戒したが、正直に答えた。ただし、いつでも逃げ出せるよう、足はペダルに置いたままで。
男は芋虫のような太い指で顎をさすり、濃いサングラスの奥から訝しげに僕を眺めていたが、
「忠告だ。あの家には近づかないほうがいい」
「おじさん誰?」
警告じゃないのか。少し安心した僕が逆に問い掛けると、男は窓から腕を出し、車体のペイントを指さした。
「ウィッチクラフト・ウェルマーズ。ハロウィンの衣装から貴重なハーブまで揃えてる。ニューヨークから魔女が仕入れに来るほどの品揃えだ」
「ハーブ? 薬を売ってるの?」
「まさか! 俺はヤクもハッパもやったことがねえ。見ての通りの善良な市民だぜ?」
冗談なのか。腕にびっしり彫られた刺青を見せられては、笑っていいのか悪いのか分からない。僕は曖昧な笑顔で頷いてみせた。
「クリスは金払いのいい上客だったが、警察沙汰を起こしたとき、巻き添えでこっちにも取り調べが入ってな。まともな客がごっそり離れちまった。今じゃ腐れ縁ってとこだな」
ウェルマーさんは肩をすくめて苦笑して見せる。悪い人ではなさそうだ。
「品を買ってくれるだけじゃなく、奴のほうが持ち込むこともあってな。エジプトの護符だの中国の彫刻だの。どうやって手に入れたのかは怪しいもんだが、品は確かなものばかりだった」
ちらりとウォーラン邸のほうに目を走らせ、ウェルマーさんはサングラスを外し僕の目をのぞき込む。
「去年、クリスはフランスから一人の娘っ子を連れ帰った。カタコンブド・パリで拾ってきた本物だとか吹いてたな。何の本物だか――」
「カタコンブ?」
「地下納骨堂だよ。アンフェール門とか聞いたことないか?」
地獄。訂正する前、彼女が名乗った最初の姓だ。
「あの娘が来てから、クリスは何度か夜中にホームレスを屋敷の中に招き入れる姿を見られている」
「……何を言って――」
「懲りもせず、趣味の悪い儀式でも開いてるのなら、サツにタレこんでやろうかとも思ったが、入るやつはいても、出てきたのは一人もいないそうだ」
ほのめかされたアレットの扱いを理解し、沸騰しかけた頭が、急激に冷えた。
何だ? これは一体、どういった種類の話なんだ?
「噂だよ。あの娘だって監禁されている訳じゃない。外出は許されている。ただあの邸は、子供は近寄らないほうがいい場所だってことさ」
熱くもなく冷たくもない、生暖かなぐしゃぐしゃの気持ちのまま、僕はウェルマーさんの黒いワゴンを見送った。
動けるようになると、水曜日を待たずに図書館へと足を運んだが、あれからアレットは姿を見せていないらしい。個人情報だということで住所を知ることは出来なかったが、がっかり顔で貸出カウンターを去る僕の後で、司書のおばさんはぼそりと呟いた。
「そういえばあの娘、あのクリストファー・ウォーランと同じ住所ね。貸出期限過ぎてるんだから、催促が必要かしら?」
「ありがとう、おばさん!」
「あら、何のこと? それに、お姉さんでしょ!」
不器用にウィンクして見せる司書のおばさんに手を振り、僕は図書館から駆けだした。
グレッグ・ウォーラン。僕でも聞き覚えがある市議の名前だ。クリストファーが彼の次男だということまでは、簡単に調べることが出来たが、私人であるクリストファーの住まいまではwebで公開されていない。ふと、司書のおばさんの言葉を思い出す。あのと表現していたからには、彼自身も名を知られている人物のはず。
辿り当てたのは4年前の小さな新聞記事。カルトまがいのニューエイジ崩れが、麻薬を用いた儀式だかパーティーだかを開き、警察に踏み込まれたという事件のもの。主催の名がクリストファー・ウォーランで、キングスポート郊外の通りの名前までが出ていた。
そのまま家を飛び出しかけたが、部屋に戻って本を数冊選んで鞄に詰め込む。話の糸口は用意しておいた方が心強い。さほど時間を掛けずに、それらしい邸を見付けることが出来た。
大きい。高級住宅街の外れにあり、確かに怪しい集まりがあってもバレにくいだろう。それとも、公人である父親に睨まれて、蟄居の身なのか。
玄関のベルを鳴らすと、ずいぶん待たされたあと、若い男が顔を覗かせた。仕立てのいい高そうなシャツを、だらしなく着崩している。指には髑髏のシルバーリング。
「クリストファー・ウォーランさん?」
「誰だ?」
「ラフィエル。ラフィエル・カータレット。アレットの友達で――」
言いかけた所で、目の前で乱暴に扉を閉められた。それっきり、何度ベルを鳴らしても扉が開くことはなかった。
アレットとウォーランがどんな関係なのかは分からない。けれど、彼女がここにいるのは間違いないように思う。僕は、連絡先を記したメモを本に挟むと、鞄ごと玄関先に置いてその場を後にした。
あとは彼女からの連絡を待つだけだ。それとも、準備を整えて張り込んでみようか。そんなストーカーじみたことを思いめぐらせていると、後ろから近付いてきた黒塗りのワゴン車にクラクションを鳴らされた。
自転車を道の端に寄せ停める。窓を開け声を掛けてきたのは、大統領のボディーガードかスモウレスラーかと思うほどの、黒人の巨漢だった。
「坊主、あの家に何の用だ?」
「……友達を訪ねに」
ウォーランの回し者かと警戒したが、正直に答えた。ただし、いつでも逃げ出せるよう、足はペダルに置いたままで。
男は芋虫のような太い指で顎をさすり、濃いサングラスの奥から訝しげに僕を眺めていたが、
「忠告だ。あの家には近づかないほうがいい」
「おじさん誰?」
警告じゃないのか。少し安心した僕が逆に問い掛けると、男は窓から腕を出し、車体のペイントを指さした。
「ウィッチクラフト・ウェルマーズ。ハロウィンの衣装から貴重なハーブまで揃えてる。ニューヨークから魔女が仕入れに来るほどの品揃えだ」
「ハーブ? 薬を売ってるの?」
「まさか! 俺はヤクもハッパもやったことがねえ。見ての通りの善良な市民だぜ?」
冗談なのか。腕にびっしり彫られた刺青を見せられては、笑っていいのか悪いのか分からない。僕は曖昧な笑顔で頷いてみせた。
「クリスは金払いのいい上客だったが、警察沙汰を起こしたとき、巻き添えでこっちにも取り調べが入ってな。まともな客がごっそり離れちまった。今じゃ腐れ縁ってとこだな」
ウェルマーさんは肩をすくめて苦笑して見せる。悪い人ではなさそうだ。
「品を買ってくれるだけじゃなく、奴のほうが持ち込むこともあってな。エジプトの護符だの中国の彫刻だの。どうやって手に入れたのかは怪しいもんだが、品は確かなものばかりだった」
ちらりとウォーラン邸のほうに目を走らせ、ウェルマーさんはサングラスを外し僕の目をのぞき込む。
「去年、クリスはフランスから一人の娘っ子を連れ帰った。カタコンブド・パリで拾ってきた本物だとか吹いてたな。何の本物だか――」
「カタコンブ?」
「地下納骨堂だよ。アンフェール門とか聞いたことないか?」
地獄。訂正する前、彼女が名乗った最初の姓だ。
「あの娘が来てから、クリスは何度か夜中にホームレスを屋敷の中に招き入れる姿を見られている」
「……何を言って――」
「懲りもせず、趣味の悪い儀式でも開いてるのなら、サツにタレこんでやろうかとも思ったが、入るやつはいても、出てきたのは一人もいないそうだ」
ほのめかされたアレットの扱いを理解し、沸騰しかけた頭が、急激に冷えた。
何だ? これは一体、どういった種類の話なんだ?
「噂だよ。あの娘だって監禁されている訳じゃない。外出は許されている。ただあの邸は、子供は近寄らないほうがいい場所だってことさ」
熱くもなく冷たくもない、生暖かなぐしゃぐしゃの気持ちのまま、僕はウェルマーさんの黒いワゴンを見送った。