「馬鹿ねぇ。ウォーランは死んだぁわ」
焦燥をにじませるクリストファー・ウォーランの深夜の呼び出しは、争うような物音と悲鳴で中断された。永遠とも思える静寂のあと、最後にぽつりと聞こえた呟きは、確かにアレットのものだった。
家族を起こさないよう注意して家を抜け出した僕は、寝静まった街の中、キングスポート郊外のウォーランの屋敷へと自転車を走らせる。
§
初めてアレットと会ったのは、水曜日の午後の図書館。言葉を交わした切っ掛けは、同じ本に手をのばしたこと。
少女向けの恋愛小説にあるようなロマンティックなムードは漂わず、厳しい目つきで睨まれた。もっとも、二人が手をのばしたのはキャポットの『メディエータ』ではなく、キングの『呪われた町』。ロマンスの生まれる気配など、欠片も感じようがなかったのだが。
歳は僕とそう変わらないように見える。青白い肌に真っ黒な髪。黒曜石の瞳で僕の手にするクライブ・バーガーの『ヘルバウンド・ハート』を一瞥し、黒いレースの手袋に包まれた手で棚を指し示した。
「譲ってあげぇる。そういうの好きなんでしょぅ?」
「いいよ。この棚の前にいたのは、君のほうが先だろ?」
どこか馬鹿にされたように感じた僕は、なかば意地になって食い下がる。
「ちょと試してみようと思っただけぇよ。私、レ・ファニュとかホフマンとかの、ゴシックホラーのほうが好みなぁの」
「なら読んでみなよ。僕は借りる本、もう3冊も決めてるから」
譲り合いどころか押し付け合いになったころ、司書のおばさんの咳払いでお互い我に返り、くすくすと笑いが込み上げてきた。再びの咳払いで、彼女は指を立て笑みの形の唇に当ててみせた。
「僕はラフィエル・カータレット。君は?」
「アレット・アンフェール」
「アンフェール?」
フランス系の名前だ。だけど、地獄って――
「ダンフェール、よぅ」
困惑する僕に、彼女は慌てているようにも、拗《す》ねているようにも見える奇妙な表情で訂正した。
アレットはいつも水曜日、薄暗い怪奇幻想小説の棚の前にいた。少し片言《かたこと》。パリから来たというが、フランス訛りでもない。何度目かの面会のあと、僕は思い切って彼女を水族館に誘った。
つばの広い白い帽子に、いつもと同じ質素なパフスリーブのドレスと黒いレースの手袋。アーミッシュのように、衣服を戒律で決められていたりするのだろうか。
普段通りの彼女の姿に、僕は少なからぬ不安と不満を覚えたが、館内に入り水槽を眺める彼女は目を輝かせてくれている。
「すごぉい! 海の底ってこんななぁの?」
「まあね。ニューイングランドの生態系は上手く展示されているかな」
僕だって海の底には潜ったことはない。けれど、水族館が初めてらしいアレット相手には、このくらい先輩ぶってリードしても許されるだろう。
奮発してレストランで昼食にしたが、アレットは食欲がなさそうだった。
「ラフィエルは、魚をおいしそうって思いながら見てたぁの?」
グラスの氷をつつきながら、サーモンサンドを頬張る僕を上目づかいで見るアレット。確かにアトランティックサーモンは展示されていたけど。
「ん……それはそれ、これはこれだよ。そんなふうに考えながら見てる人はいないんじゃない?」
舞い上がっていたその時の僕は、曖昧に頷く彼女が、本当は何を伝えたかったのかを考えもしなかった。
毎週決まって顔を合わせるのに、お互いの家を知らない。そんな微妙な距離感のまま関係は続いた。誘えば一緒に出掛けてくれるが、何か無理をさせているのではないかと、もどかしく感じる場面も多かった。ハーバーフェストの花火に付き合ってくれたアレットの顔色はいっそう蒼白く、具合が悪そうに見えた。
「どこか座れる場所探す? 冷たいもの買ってこようか」
「大丈ぅ夫、へいき――」
ほほ笑む彼女が頼りなく傾くのを、思わず抱きとめる。痩せた、けれども柔らかい身体は、熱っぽく思えた。
「貧血かな。今日はもう帰ったほうがいい」
女の子ならではの不調は僕には良く分からない。おぶった背中に伝わるアレットの体温にどぎまぎしながらも、彼女の家を知るチャンスだと埒《らち》もないことを考える。
「だめ……だぁめ……我慢すぅるの……」
うわ言のように繰り返すアレットの吐息が耳元をくすぐる。そのことにばかり気を取られていた僕は、不意に胸元を襲った激痛に、大声を上げた。
「ッ――!! 何!?」
シャツに血が滲んでいる。後ろから回されたアレットの手元のあたりだが、彼女の爪が食い込んでいる――わけではない。彼女の手袋の留め金でも引っ掛かったかとも考えたが、とてもピンが刺さった程度の痛みではない。
怯えた様子のアレットを、なんとか取り落とさず背中からおろし確認すると、鎖骨の下の肉が、シャツごと抉れていた。
「え……何? なん……で……」
「ごめんなさぁいラフィエルぅ! この手が、この手が悪いぃの!!」
痛みと失血のショックで気が遠くなる。なぜだかアレットは、泣きながら僕にあやまり続けていた。
気付いたのは救急車の中だった。フェストの救護テントに運ばれるも、応急手当では間に合わない程、傷が深かったらしい。
「……アネットは?」
「彼女かい? 救護テントまでは付き添っていたが、同乗は認めなかった」
取り乱していたからね、と付け足す救護員。
「それより、何に襲われた? 野犬にしては小さく、深い」
質問の意図を掴みかねる僕に、救護員は安心させる微笑みを浮かべ頷く。
「すまない、まだショックが大きいようだな。その噛み痕のことだよ」
焦燥をにじませるクリストファー・ウォーランの深夜の呼び出しは、争うような物音と悲鳴で中断された。永遠とも思える静寂のあと、最後にぽつりと聞こえた呟きは、確かにアレットのものだった。
家族を起こさないよう注意して家を抜け出した僕は、寝静まった街の中、キングスポート郊外のウォーランの屋敷へと自転車を走らせる。
§
初めてアレットと会ったのは、水曜日の午後の図書館。言葉を交わした切っ掛けは、同じ本に手をのばしたこと。
少女向けの恋愛小説にあるようなロマンティックなムードは漂わず、厳しい目つきで睨まれた。もっとも、二人が手をのばしたのはキャポットの『メディエータ』ではなく、キングの『呪われた町』。ロマンスの生まれる気配など、欠片も感じようがなかったのだが。
歳は僕とそう変わらないように見える。青白い肌に真っ黒な髪。黒曜石の瞳で僕の手にするクライブ・バーガーの『ヘルバウンド・ハート』を一瞥し、黒いレースの手袋に包まれた手で棚を指し示した。
「譲ってあげぇる。そういうの好きなんでしょぅ?」
「いいよ。この棚の前にいたのは、君のほうが先だろ?」
どこか馬鹿にされたように感じた僕は、なかば意地になって食い下がる。
「ちょと試してみようと思っただけぇよ。私、レ・ファニュとかホフマンとかの、ゴシックホラーのほうが好みなぁの」
「なら読んでみなよ。僕は借りる本、もう3冊も決めてるから」
譲り合いどころか押し付け合いになったころ、司書のおばさんの咳払いでお互い我に返り、くすくすと笑いが込み上げてきた。再びの咳払いで、彼女は指を立て笑みの形の唇に当ててみせた。
「僕はラフィエル・カータレット。君は?」
「アレット・アンフェール」
「アンフェール?」
フランス系の名前だ。だけど、地獄って――
「ダンフェール、よぅ」
困惑する僕に、彼女は慌てているようにも、拗《す》ねているようにも見える奇妙な表情で訂正した。
アレットはいつも水曜日、薄暗い怪奇幻想小説の棚の前にいた。少し片言《かたこと》。パリから来たというが、フランス訛りでもない。何度目かの面会のあと、僕は思い切って彼女を水族館に誘った。
つばの広い白い帽子に、いつもと同じ質素なパフスリーブのドレスと黒いレースの手袋。アーミッシュのように、衣服を戒律で決められていたりするのだろうか。
普段通りの彼女の姿に、僕は少なからぬ不安と不満を覚えたが、館内に入り水槽を眺める彼女は目を輝かせてくれている。
「すごぉい! 海の底ってこんななぁの?」
「まあね。ニューイングランドの生態系は上手く展示されているかな」
僕だって海の底には潜ったことはない。けれど、水族館が初めてらしいアレット相手には、このくらい先輩ぶってリードしても許されるだろう。
奮発してレストランで昼食にしたが、アレットは食欲がなさそうだった。
「ラフィエルは、魚をおいしそうって思いながら見てたぁの?」
グラスの氷をつつきながら、サーモンサンドを頬張る僕を上目づかいで見るアレット。確かにアトランティックサーモンは展示されていたけど。
「ん……それはそれ、これはこれだよ。そんなふうに考えながら見てる人はいないんじゃない?」
舞い上がっていたその時の僕は、曖昧に頷く彼女が、本当は何を伝えたかったのかを考えもしなかった。
毎週決まって顔を合わせるのに、お互いの家を知らない。そんな微妙な距離感のまま関係は続いた。誘えば一緒に出掛けてくれるが、何か無理をさせているのではないかと、もどかしく感じる場面も多かった。ハーバーフェストの花火に付き合ってくれたアレットの顔色はいっそう蒼白く、具合が悪そうに見えた。
「どこか座れる場所探す? 冷たいもの買ってこようか」
「大丈ぅ夫、へいき――」
ほほ笑む彼女が頼りなく傾くのを、思わず抱きとめる。痩せた、けれども柔らかい身体は、熱っぽく思えた。
「貧血かな。今日はもう帰ったほうがいい」
女の子ならではの不調は僕には良く分からない。おぶった背中に伝わるアレットの体温にどぎまぎしながらも、彼女の家を知るチャンスだと埒《らち》もないことを考える。
「だめ……だぁめ……我慢すぅるの……」
うわ言のように繰り返すアレットの吐息が耳元をくすぐる。そのことにばかり気を取られていた僕は、不意に胸元を襲った激痛に、大声を上げた。
「ッ――!! 何!?」
シャツに血が滲んでいる。後ろから回されたアレットの手元のあたりだが、彼女の爪が食い込んでいる――わけではない。彼女の手袋の留め金でも引っ掛かったかとも考えたが、とてもピンが刺さった程度の痛みではない。
怯えた様子のアレットを、なんとか取り落とさず背中からおろし確認すると、鎖骨の下の肉が、シャツごと抉れていた。
「え……何? なん……で……」
「ごめんなさぁいラフィエルぅ! この手が、この手が悪いぃの!!」
痛みと失血のショックで気が遠くなる。なぜだかアレットは、泣きながら僕にあやまり続けていた。
気付いたのは救急車の中だった。フェストの救護テントに運ばれるも、応急手当では間に合わない程、傷が深かったらしい。
「……アネットは?」
「彼女かい? 救護テントまでは付き添っていたが、同乗は認めなかった」
取り乱していたからね、と付け足す救護員。
「それより、何に襲われた? 野犬にしては小さく、深い」
質問の意図を掴みかねる僕に、救護員は安心させる微笑みを浮かべ頷く。
「すまない、まだショックが大きいようだな。その噛み痕のことだよ」