詩桜は、日ノ本のとある村で生まれ育った。
 そこは、瓦屋根が多く並ぶ帝都から東に外れた街のさらに離れに存在する星翔村という場所。

 都心へ向かう主な交通手段は、一日二本のバスしかないけれど、土地は寛大で店や娯楽施設も充実している。活気がありとても住みやすい歴史ある村……というのが表向きの顔である。

 人間と吸血鬼が種族を隠すことなく互いに探りあいながらも均等を保ち暮らしているということは、一部の者たちだけに公然の秘密だった。





「うぅ……んっ?」
 襖の隙間から朝の日差しを浴び、遠くの方で聞こえる雀の囀りと虎の唸るような音で詩桜は薄っすらと瞳を開く。

 ――虎の唸り声?

 まだぼんやりとする思考のなか、視界に飛び込んできた光景を見て、詩桜は冷や水でも浴びせられたようにまどろみから目を覚ました。

「わぁ!?」
 詩桜の声を聞き、隣で寝ていた存在も薄らと目を開く。
「な、なんで、灯真がわたしと同じ布団で寝ているの!?」
「ん……ああ、夜中にお前が抜け出してないか寝顔を確認しに部屋に忍び込んで……そのまま一緒に寝た」
 寝ぼけ眼であくびをしながら起き上る灯真は、悪びれもしない態度でそんなことを言ってくる。

「おはよう、詩桜」
 そして言い返す間も与えられぬまま、灯真は指で詩桜の小さな顎を摘み上げ。
「っ!」
 避ける間もなく、ちゅっと頬におはようのキスをされてしまった。

「腹が減った。今日も、朝からお前は美味そうだな」

 端正な顔が近付いてくる。今度は唇を奪われそうになり、詩桜が身を竦めたところで廊下から足音が近付いてくる。
 こんなところ誰かに見られたら居た堪れないと、慌てた詩桜が力ずくで灯真を押し離したのと同時に、足音の主が襖を開けて顔を出す。

「詩桜、朝っぱらからなにを騒いでるんだ?」
「辰秋さん、灯真がまた勝手に部屋にっ」
「なんだ、灯真殿と一緒にいたのか。朝から仲が良いな。ハッハッハ」
「~~~~っ」

 仲が良いんじゃなくて、襲われかけたんです! と心の中で訴えかけたが、実際には言葉にできず呑み込んだ。

 訴えてもどうせ意味がない。白波瀬家に逆らえる者はいないのだと最近になって詩桜は知った。
 村では絶対的な権力を持つ存在だった前の村長義雄が、一夜にしてその地位から転落させられたのを目の当たりにして。

 自分が粛清されるはずだったあの夜からすぐに義雄は日向家を追われ隠居し、退魔師として勢いがあったはずの高瀬家は没落。
 それだけでは終わらず、詩桜を殺そうとした主犯の陽菜や義雄たちは、次期に裁かれ相応の罰を受けることになるという。

 こうまで事が運ぶのが早かったのは、白波瀬家の力が動いたからだと辰秋に聞いた。
 灯真の言動には度々困惑するが、そんな強い家の吸血鬼に逆らうのは怖いし、新しい村長に就任して間もない辰秋に迷惑や心配を掛けたくない。

 だから思う所はあるが、こんな同居生活を送り始め早二週間が過ぎていた。






「はぁ……」
 泉で禊を行いながら、詩桜は溜息を零した。

 喰いたかったぞと、いきなり現れたあの夜から灯真は詩桜もお世話になっているここ日向家に居候している。

 毎日お腹を空かせている彼は、ことあるごとに詩桜を食べたがるから困りものだ。純血種の吸血鬼とは皆こんなものなのか……。
 現代に生きる吸血鬼たちは、大抵人と変わらぬ生活を送っているものだが、純血種に近い程、野生の本能とでもいうのか人の血を欲する者も多いと聞く。

 都会で暮らす吸血鬼は、人の血も混ざった半鬼が殆どで今ではすっかり人間界に馴染んで生活しているが、灯真の家のように、純血種だけの一族もあるにはある。だが今時は純血種といえ、人間の世界にある一般常識ぐらい身につけ生活を送っているのが普通なのに。

 灯真はなぜなのか詩桜の血を困惑するぐらい求めてくるし常識がない。

(本来なら、係わりたくない。けど……そういうわけにもいかないし……)

「気が乱れてるぞ」
 肌襦袢姿で禊を行いながらもんもんと頭を悩ませていた詩桜は、灯真の声で現実に引き戻された。

 日向家近くの裏山の麓にひっそりある泉で身を清めるのは、詩桜の日課だ。
 少し前までここは、詩桜が一人で過ごせるお気に入りの場所だったのに……最近は一人にさせるのは心配だと灯真もついてくるから気が休まらない。

「灯真がずっと見てくるから集中できないんです……」
「俺に見られると気が乱れるのか。なんで?」
「なんでって言われても……困るけど」

 灯真は、いつだって気だるそうに詩桜を見下す。背が高いので仕方ないのかもしれないが、威圧感があるから怖い。
 あと、獲物を狙うような目で見られている気がして、いつ吸血されるか分からない感じも怖い。

「お前はすぐ、俺から目を逸らす」
「っ!」
 両腕を掴まれそのまま泉から引き上げられる。なにをするんだと顔を上げれば、綺麗すぎる顔が間近にあった。

 このまま食べられるんじゃないかと怖くて硬く目を瞑ったが、そんな詩桜の緊張を和らげるように、灯真は詩桜の瞼にキスをして囁く。

「どんな表情をしていても、お前は美味そうだな。なんでこんなに美味そうなんだ?」
「っ!!」
 そのまま食べられてしまうのかと身が竦んだが、詩桜の髪を愛おしげに撫でまわしてくる灯真が噛み付いてくることはなかった。

(どうしてそんな目でわたしを見るの?)

 大事そうに愛おしそうに……今までそんな目で誰かに見つめられた経験がない詩桜は、やはりどうしていいのか分からず俯いてしまう。

(この吸血鬼が、なにを考えているのか分からない……)

 けれど、先日耳にした灯真がずっと星巫女に焦がれていたという噂がもし本当なら、星巫女を守るために首座になったというのなら……自分は彼に守られる資格などない。

 そんな罪悪感が詩桜の胸の奥に黒いしみを広げる。

「いい加減に、俺の花嫁になるって言えよ」
 アノ夜と同じ、なにを考えているのか読めない黄金色の瞳に、戸惑う詩桜の顔が映っている。
 その台詞だけを聞けば、まるで口説かれているような気持ちにもなるけど、そんな甘いものじゃないと詩桜は知っている。

「……言えません。そんなこと」
 吸血鬼の言う花嫁には二通りの意味がある。
 文字通り妻になるという意味の他、その昔は生贄として捧げられる人間の娘も吸血鬼の花嫁と呼ばれていたのだ。
 生贄の花嫁は、儀式により吸血鬼に所有の刻印を刻まれると、所有物として全てを握られるのだと聞いたことがある。自分の生死さえもだ。

(生贄の花嫁なんて、そんな重くて恐ろしい契約結びたくない……)

 顔を会わせれば詩桜を美味そうだという灯真が言っている花嫁の意味は、後者に決まっている。

「なぜ拒む」
「だって、わたしを花嫁にして食べちゃいたいって意味でしょ?」
 恐る恐る見上げれば、灯真は優しげな笑みを浮かべ頷いた。

「ああ、早く可愛いお前を食べてしまいたい」
「っ!!」
 詩桜の血肉は、吸血鬼を惹きつけてしまうほど美味そうな匂いがするらしい。そのせいで、昔から理性のない吸血鬼には狙われ、周りの人間には疎まれてきた。
 灯真も、そんな吸血鬼の一人に過ぎないに違いない。

「俺は、ずっとお前に飢えていたんだ」
 言いながら、雑草の生い茂る泉のほとりに押し倒される。
 指で顎のラインをなぞられ、詩桜は言いようのない感覚に身を震わせた。

「今すぐにでも、お前が欲しい……詩桜」
 耳元で囁かれる。人を魅了するその瞳で見つめられると思考が鈍ってしまうから……そのまま抵抗できずにいるうちに、尖った犬歯が首筋に触れそうになっていた。しかし、受け入れるわけにはいかないのだ。

「呪符退魔急急如律令!」
「っ!?」

 こんなこともあろうかと、灯真と出会ってからの詩桜は、つねに退魔の札を潜ませている。

 おかげで今日も灯真が術で跳ね飛ばされた隙に、詩桜は彼から逃げ出したのだった。