「…………っ」
 頬に、ポツリ、ポツリと、水滴があたる感触。
 雨……?

「……そうしたら、なんの迷いも無く、殺せたのに」
 ゆっくりと瞳を開いた。綺麗な青年の泣き顔が目の前にあった。

「君はいつも、自分を責めていたから」
 遥の声は震えている。温かな雫がまた一つ、上から詩桜の頬に滑り落ちてゆく。

「過去の事件も、今の僕にも、自分は悪くないって、被害者面してればいいのに。そうやって……全てを背負おうとするから、僕の味方だとか言うから。どんどん、君が嫌いになった。大嫌いで、堪らないんだ……っ」
 遥は眉を顰め自分の左手を庇うように押さえ、よろめきながら立ち上がる。

「ぐぁっ……」
「どうしたの? 左手が痛むの?」
 うずくまる遥の左手首には、グルグルと包帯が巻かれているけれど、隠している痣はすでに指先にまで侵食している。
 赤黒く禍々しい痣。ひどく痛むのか心配で伸ばした詩桜の手は、彼に弾かれてしまう。

「触るなっ」
「だって、どうしたの、その痣。日に日に、ひどくなってる」
 自分から距離を取ろうとする遥へ歩み寄ろうとした時。

「詩桜!」
 灯真の声が聞こえたのと同時に、遥と詩桜を遮るように灯真が姿を現した。
 灯真は怒りを滲ませ遥を一瞥すると、何の迷いもなく白波瀬家の誓い刀を鞘から抜き取った。
 痛みに耐えている遥では分が悪すぎる。

「待って、灯真!」
 咄嗟に灯真に後ろからしがみ付き、その動きを止めてしまった。灯真は戸惑いながらも、詩桜に気を取られ遥から視線を外す……その隙を遥は見逃さなかった。

「君、邪魔なんだよ!」
 今まで聞いたことのないような遥の怒鳴り声。
 その刹那。赤黒い痣の蠢く彼の左手から、漆黒の疾風が放たれ灯真の身体を抉るように命中した。

「ぐっ」
 灯真に庇われた詩桜も一緒に飛ばされ彼と共に倒れた。
「灯真っ、灯真!」
 何度も名前を呼んで揺するけれど、灯真は顔を歪めうなされる。

「だめ、だ……詩桜、俺から……はな、れろ」
 搾り出すようにか細い声。心配で覗き込んだ灯真の瞳が……紅蓮にぎらついていた。
「な、んで……」
 これではまるで、灯真が狂鬼化してしまったみたいだ。

 戸惑う詩桜を尻目に、遥はふらふらと左手を押さえながら近付いてきた。
 詩桜は灯真を守る様に抱きしめ遥を警戒する。

「純血種しかいない白波瀬家の吸血鬼とはいえ、おちこぼれじゃあっという間に狂鬼化しちゃったね。仕方ないか、もう何年もまともに血を飲んでなかったんでしょ? それじゃあ、自我を保って君を襲っていなかっただけですごい事だよ。まさに愛の力、だね。あはは、彼はそうとう君が大切だったようだ」

 バカにするように遥は笑っている。狂鬼と化しても、自我を保とうともがいている灯真を見て笑っている。
 わざと詩桜を挑発するように、いやな言い方をしてくる。詩桜は怒りよりそれをとても悲しく思った。

「あなたは、なにを望んでいるの?」
「僕の望み? ……大切な子の仇だった。最初はね」
「遥ちゃんの、大切な人?」
「そう、誰よりも大切で生まれた時から一緒だった……僕の妹」

「妹……まさかっ」
「僕に蓮美の面影を見た君は、いい線いってたよ。蓮美は僕の双子の妹だから」
 詩桜は、言葉を無くした。

「僕の本当の名は、相楽遥斗。でも……蓮美が死んだと知らされた後、とある理由で本家から追い出されたも同然だったから、男の姿では戻ってこれなかったんだ。あんな風に、女装でもして偽らなくちゃね。こんなところで、大嫌いな自分の女顔が役立つとは思わなかった」

「それで……わたしを、憎んでいたんだね」
 憎まれても仕方がない理由があった。
「そうだね、君が憎いし大嫌いだよ。だから、傷つけて根こそぎ奪ってやろうと思ってたけど……意地悪するの、もう飽きちゃった。だからさ……僕を殺してよ」

「なっ、なんでそんなこと言うの? 出来るわけないよ」
「僕たちは……そのために生まれてきたんだよ、きっと。憎み合い殺し合うために」
 遥は問答無用と詩桜へ刀を向ける。その瞬間、灯真が詩桜を庇うように遥へと襲い掛かった。

「クソッ、邪魔だ! 大人しく、眠っていろよ!」
 遥はなんのためらいも見せず灯真を切り捨てる。鮮血が月光の下で飛び散った。

「灯真っ!」
 詩桜の叫び声と同時に、灯真は遥の一撃で飛ばされたけれど、血をだくだくと流しながらも痛みを感じないのか紅蓮の瞳を滾らせ遥に襲い掛かる。
 死闘のようだった。それは、どちらかが力尽きるまで続くのかもしれない。
 詩桜は足を震わせながらも、その中へ飛び込む。

「お願い、もうやめて」
「チッ……君以外に殺されては、意味が無い。ここは引こう」
 遥は疎ましそうに灯真を睨むと、漆黒の風で再び灯真をふっ飛ばし距離をとった。

「どうか狂鬼の白波瀬に殺されないで、僕を倒しにおいで」
 どうして、そんな悲しいことを言うの?
 追いかけなくちゃそう思う自分と、灯真の傍にいなくちゃ、そう思う自分の気持ちがぶつかり合って身動きがとれない。

 一番大切にしていたものが、音をたてて壊れていった。そんな気がした。

「ぐあぁあぁぁあぁっ」
 紅蓮の瞳を持つ灯真が、苦しそうにもがき叫ぶ。

「灯真、動かないで、そんな大怪我で暴れたら……いっ」
 応急手当をしようとした詩桜に、灯真は勢いよく襲い掛かってきた。
 乱暴に押し倒されるとそのまま首筋に噛み付かれ、痛みから詩桜の目の前が真っ赤に染まる。

 自我を無くした狂鬼の者は、娘一人の血ぐらい簡単に飲み干してしまうだろう。