詩桜が消えた。
 保健室から戻ってこないと思えば、鞄も教室に置きっぱなしでどこへ行ってしまったのか。

 あんな張り紙騒動があった後だ。精神的にやられてしまったのかもしれない。
 灯真は、詩桜のカバンを持って日向家の屋敷へ戻ってみたが、そこにも彼女の姿はなかった。

 詩桜を探すため、すぐに屋敷を飛び出す。

 当てもなく虚ろな顔で歩く詩桜の姿が灯真の脳裏を過る。
 詩桜と初めて会った時も、彼女はそんな表情をしていた。迷子のような目を……

 あれは今から何年も前の幼い日の事……詩桜は忘れてしまっているようだが、灯真は今でも昨日のことのように覚えている。


◇◇◇◇◇


 その夜も、灯真は飢えていた。だから偶然目の前を通りかかった女の首筋に噛み付いた。

 後継者争いに巻き込まれ、腹違いの兄たちにいたぶられ呪いをかけられ、無力な吸血コウモリの姿にされてしまった灯真は、元に戻る術を探し真夜中の星翔村を彷徨っていた。

 灯真の住んでいた里からは離れていたが、吸血鬼と人間が共存しているこの村が、身を隠すには好都合だと考えたのだ。
 力を蓄え元の姿に戻るまで、目立たないよう姿を暗ます必要があったから……

 そうしてボロボロの身体に鞭打ってなんとか村に辿り着いた夜。
 吐き気を堪え血生臭い味と臭いに堪えながら、灯真はさっそく見知らぬ女の首筋に噛み付き吸血した。

 早く力を取り戻さなくては。こんな姿で兄たちに見つかれば、殺されてしまう。
 だがやはり、今日の女の血も最悪な味がした。

「……不味い、喰えたものじゃない」
 すぐに吸血をやめたが、女は恐怖から気を失ったようだ。

「はぁ……全然足りない」
 いつになったら元の姿に戻れるのだろう。
 純血種の吸血鬼である自分が、眷属とも言われる吸血コウモリの姿にさせられるなど屈辱的だ。

 もっと他に、少しでも飲めそうな血の匂いを求め彷徨おうと灯真が羽を広げた時だった。

「なにしてるの?」
 意識を無くした女と吸血コウモリの灯真を交互に見て、少女は青ざめた顔をしていた。
 それは、自分とそう年の変わらぬ人間の子供だった。

「見て分かるだろ。飯を喰ってただけだ」
「……どうして、あなたたちは、人を襲うの?」
 小さく身体を震わせながらも、少女は吸血コウモリを睨んだ。
 それは紛れもなく敵を見る目付きだった。

 好きで人を襲っているわけじゃない。なにも知らないくせにと、灯真の中に小さな苛立ちが過る。

「そんなの……生きるために決まってるだろ。俺は血の吸えない落ちこぼれ。それでも、不味い血を吐きながらでも吸って魔力を蓄えなければ、後継者争いで兄上に殺されるか、気がおかしくなる。このままじゃ、俺はそのうち自我を失いきっと狂鬼化するんだ」

「……あなたは、狂鬼化するのが怖いの?」
「自ら狂鬼化を望む者なんて、きっといない。俺たちにだって、心もあれば誇りもある。敵味方関係なく襲い暴れるあんな化け物に、なりたいわけないだろ」
 少女は少し驚いた表情を見せた後、そっと灯真を掌に乗せてきた。

「怪我、してるの?」
「……たいしたことない」
「たいしたことあると思う。誰かに、意地悪されたの?」
 先程までの敵意が込められた目付きから一変、少女は少し心配そうに傷の具合を確認してくる。

 灯真の小さな羽や身体は、兄たちにやられて傷だらけだった。そのうえこの村まで飛んで逃げてきたのだ。すっかりその体は衰弱していた。
 それでも人間の娘の施しなんていらないと、強気に少女の掌から飛びのく。

「気安く俺に触るなっ」
 しかし、威嚇したはいいが、すでに飛び立つ体力はなく、情けないことに灯真はその場にぺしゃりと落下した。

 少女は無理やり灯真を触ろうとはせず、なにか考え込んだ様子の後、今度はしゃがみ込み話し掛けてきた。

「……居場所がないなら、わたしの所で一緒に暮らす?」
「は?」
「あなた、さっき自分を落ちこぼれって言ったでしょ。わたしも、おんなじ。お揃いね」
「…………」
「だからこそ、わたしたちは対等な関係になれると思うの」
 なぜかその時、寂しげに微笑んだ少女から、灯真は目が離せなくなっていた。



 それから少女は、傷だらけの灯真をこっそり自分の部屋に連れ帰って手当をし匿ってくれた。
 彼女は詩桜と言う名前らしい。灯真の住む屋敷程ではないが、立派な庭園付きの屋敷の……離れにある古びた蔵の中で彼女は幽閉生活を送っていた。

 今夜はお世話になっている屋敷の者たちが出払う大きな会合があったらしく、その隙を見計らって彼女は家出を試みたものの、行く当てもなく結局灯真を拾って戻る事にしたとのことだった。

「あなた、お名前は?」
「名前……」
 灯真はその名を口にすることを躊躇した。

 白波瀬灯真と名乗れば、素性がバレてしまう。それで兄たちに情報が行くことも懸念したのだが、それより兄たちに虐められ呪いをかけられこんな姿にされたうえ、自力で元に戻れないなんて……カッコ悪くて、詩桜に知られたくないと変なプライドが芽生えてのことだった。

「……吸血コウモリに名前なんてない」
「そうなの? じゃあ……今日からあなたは、キュウちゃんね!」
「はぁ!?」
「よろしくね、キュウちゃん」

 そんな名前嫌だと不満を言いたかったのだが、詩桜が嬉しそうに何度も「キュウちゃん」と呼んでくるので、今さら嫌だとも言えないまま、灯真は詩桜の付けた名前を受け入れたのだった。



 落ちこぼれと兄たちに虐められていた灯真と、偽りの星巫女として虐げられてきた詩桜が心を通わせるのに時間はかからなかった。

 夜通し色んなことを話し、互いの気持ちに共感しあった。
 詩桜が置かれている環境は、自分なんかよりずっと劣悪に思え灯真は衝撃を受けた。
 それでも耐え続けている詩桜が涙を流す姿を見るたび、自分のことのように胸が痛むようになり、灯真はそんな彼女に寄り添い不器用ながら励まし続けた。

 種族は違えど、詩桜は灯真を初めて出来た小さな友達と言い心を許してくれていた。

 けれどある日、こっそり吸血コウモリを飼っていたことが日向家の当主だった義雄にばれてしまう。
 義雄は吸血コウモリの正体が白波瀬家から姿を消した灯真だとは思いもせずに斬り捨てた。

 魔力が殆ど残っていない身体にそれは致命傷となり、灯真はそこで自分の死を覚悟したのだが、最後のとどめを刺される前に、捨て身で飛び出してきた詩桜が、義雄から灯真を守り屋敷の外へと逃げ出し助けてくれたようだった。



「ごめ、なさい……わたしの、せいで。あの夜、わたしがこっそりキュウちゃんを連れ帰ったりしたから」
 ここは自分たちが初めてあった人気のない河川敷のようだ。血まみれの自分を手に乗せ、泣きじゃくる詩桜を、なんとか泣き止ませようと灯真は声を絞り出す。

「……大丈夫、だ。これぐらい……」
 だが、ひゅうひゅうと苦しげな息をする姿は少しも大丈夫そうには見えないだろうなと我ながら思う。

「そ、そうだっ、わたしの血をあげる! 不味いかもしれないけど、飲んで!」
「そんなのいらない……だって、お前ずっと怖がってただろ。吸血されること」
「キュウちゃんにならいい。全部飲まれてもいい、だからわたしを置いて死なないで……これからも、わたしと一緒にいてっ、ずっと、ずっと一緒にいてよ。わたしを一人にしないでっ」
「っ!」
 泣きじゃくりながらそう訴えてくる詩桜の言葉に、灯真はハッと目を見開いた。

 詩桜とずっと一緒に……自分もいたいと思った。離れたくないと。
 そこで自覚した……自分はこの心優しい少女のことを、種族を越え好きになってしまったのだと。
 なにも悪い事などしていないのに、不当な扱いを受け幽閉されているこの少女を救ってやりたいと。

 そしてそのためには、こんな所で死んでられない。そう強く強く思った。

「……本当に、いいのか? お前の血を貰っても」
「うん、それでキュウちゃんが助かるなら」
 詩桜は覚悟を決めたように目を瞑る。灯真は力を振り絞りよろよろ詩桜の肩にとまって……ガブリと首筋に噛み付いた。

「っ!」
 なんだこの血は……。灯真は衝撃を受けた。
 体中の細胞が覚醒するような感覚。そしてどんな美女の生き血を飲んでも吐き気しか感じなかったというのに、詩桜の血は飲み干したいという欲望が出る程に甘美な味がしたのだ。

 血に飢え、枯渇していた灯真は、夢中で詩桜の血を吸血した。
 しかし、大量の血を吸われ詩桜の意識が朦朧としていることに気が付き、慌てて止める。
 その瞬間身体が閃光し、魔力を取り戻した灯真の身体は、元の姿へと戻っていた。

「あ、れ……だれ?」
 少年の姿になった灯真を見て、詩桜が首を傾げている。
「ありがとう、詩桜」
 灯真はそんな詩桜の頬を優しく撫でた。

「お前のおかげで魔力が回復した。兄上たちにかけられてた呪いも解けたみたいだ」
「きゅう、ちゃん?」
「ああ、でも……俺の本当の名は、灯真」
 詩桜の声で本当の名を呼んでほしいと思った。
 先程想いを自覚したからだろうか。詩桜への愛しさが込み上げてくる。

 だが二人きりの時間は、あっという間に終わりを迎えた。

「どこだ、逃げ出した星巫女候補は見つかったか!!」
 遠くの方から、大人たちの声が聞こえて来る。詩桜を探す声だ。

「はや、く……逃げて……」
 詩桜は力を振り絞るようにそう呟いた。
 灯真は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 本当は、今すぐにでもこの環境から詩桜を救い出してやりたいのに。

「ごめん……今の俺じゃ、お前を守ってやれない。傍にもいてやれない、けど……」
 灯真は決意するように詩桜へ告げた。

「必ず迎えに行く。だから待ってて……絶対に、お前に相応しい男になって戻って来るから。約束」

 誓うように、そっと灯真は詩桜の唇に口付けた。
 詩桜は抵抗することなく、それを受け入れ目を閉じて……そのまま意識を失ったようだった。


◇◇◇◇◇


 もうなにも出来ない子供じゃない。
 血を吐くような日々を過ごし、兄たちを退け白波瀬家の後継者まで上り詰めた。
 守護者のトップとなるために、刀の腕も磨いた。

 今の自分ならば詩桜を守れる。そう思うのは、自惚れでしかないのだろうか。
 詩桜を自分の花嫁として迎え、同じ時を生き幸せにしたい。

 それだけを願い、灯真は詩桜と離ればなれだった数年を乗り越えてきたのだ。

(どこにいたって、お前のことなら必ず見つけ出す自信がある。誰よりも早く)

 愛しい甘美な香りを辿れば、いつも禊を行っている泉の近くで無防備に寝ている詩桜を見つけた。
 ポツポツと降り出した雨から庇うように、灯真は詩桜に覆いかぶさり声を掛ける。

「もう決して一人にはしない。詩桜、愛してる」