「心配して損した気分」
 詩桜が懐に忍ばせていたイチゴ飴をあげると、灯真はいくらか落ち着いた。腹の虫は深夜に近所迷惑なほど騒いでいるけど。

「仕方ないだろ。動くと腹が減るし、傷を負えば身体はそれを治そうと力を余計に使うんだ」
 二人で土手に座り飴を舐めながら月を眺めた。風が着物の袖を揺らすように吹く。詩桜はそのたび妖し風かと不安になったが、重く淀む気配はしなかった。

「……助けてくれて、ありがとう」
 散々心配させといて腹が減ったと言い出した灯真に対し文句が先に出てしまったけど、灯真がいてくれなければどうなっていたか分からない。

「なにをしにここへ来たんだ? 武器も持たず、いつも以上に無防備で」
 言い淀んでしまう。巫女の誓い刀を奪われてしまったなんて大事だ、言いづらい。

「どうして口籠る……まさか、お前」
「な、なに!?」
 刀を奪われたことがばれてしまったのかと、詩桜の心臓がバクバク騒いだのだけれど。

「またあの男と逢引か」
「はい?」
「はいって……随分と潔く認めるんだな」
「ま、待って。落ち着いて。灯真は、なにかとてつもない勘違いをしていると思うの」

「ふん、せいぜい喰い捨てられないよう気をつけるんだな。お前の血がどんなに極上だろうと、そのうち飽きられ……ダメだ、飽きるわけがない。俺は一生お前の血しかいらない……」
 怒りだしたかと思えば、今度はへこんだ声でなにやらブツブツ言っている。

 なんのことやら。会話が噛み合ってないと思いながら、灯真がこれ以上暴走しないよう詩桜は仕方なく重い口を開いた。

「ぬ、盗まれてしまったの」
「お前の心がとかいうオチなら聞きたくない」
「そんなモノより重要な、誓い刀が! ……盗まれてしまったの。アカツキという人に」
 ヤケクソになりながら事情を説明した。
 自分は刀を盗んだ犯人を追って、こんな場所まで来たのだと。

「なんだ、そんな理由か」
「そんな理由って……そういう灯真は? どうして、突然現れて助けてくれたの?」
「それは、屋敷に帰ったらお前がいなかったから、お前の美味そうな匂いを辿って」
「そっか……」
 暫しの沈黙が続く中、灯真の腹の虫はいまだ鳴り止まない。

「……ずっと、思っていたことなのだけど」
「なんだ?」
「灯真は、その……モテるでしょ。灯真のために、自分の血を差し出してくれる女の子だって、たくさんいるのに……」
 学校の生徒にも、詩桜が知っているだけでたくさんだ。

「なのに、どうして、いつもお腹を空かせているの?」
 どうして、わたし以外の血で空腹を満たそうとはしないのだろう。
 灯真は少しの沈黙の後、静かに答えてくれた。

「……お前以外、喰うわけないだろ。俺は、言うならば偏食のおちこぼれ吸血鬼なんだから」
 突然、自分がおちこぼれだなんて。灯真には似合わない言葉だと思った。
 ちょっぴり型破りな性格を除けば詩桜にとって灯真は、すべてにおいて完璧だから。

「おちこぼれっていうのは、わたしみたいなのを言うんだよ。誰にも認められず、挙句の果てに誓い刀を敵に奪われてしまって」
「じゃあ、おそろいだ」
「おちこぼれが、おそろい?」
 首を傾げる詩桜に、灯真は苦笑いを浮かべる。

「前に、お前が言ったんだぞ」
「わたしが?」
 どこかでそんなセリフを言った気がしないでもない。けれど過去の記憶を辿っても昔に灯真と出会った記憶はない。

 だから、おそらく灯真が言っているその言葉を言った少女は本物の……

「まだ思い出せないのか? 昔、お前は俺を助けてくれた」
 優しく目を細める灯真を見れば、それが彼にとってどれほど大切な思い出なのかが伝わってくる。
 だから余計に詩桜の胸は苦しくなった。

「俺は一族の落ちこぼれだから……何度もやさぐれそうになったけど、お前の隣に立つのにふさわしい男になりたくて、守護者になったんだ。そのためなら、血を吐くような努力も苦じゃなかった」

 だから、再会できた日、気持ちが押えくれなくなったのだと灯真は言う。

「けど、お前は本気で……俺との記憶を自分の中から消したくて、俺のことを忘れてしまったのかもしれないな。それほど吸血鬼を憎んでいるなら」
「あ……」
 だとしたら、お前の前に再び現れるべきではなかったと言われそうで、それは違うと伝えたいのに。やっぱり言えない……自分一人の問題じゃないからと言うのは言い訳なのかもしれないけれど、詩桜は口を噤んだ。

(ごめんなさい、灯真……わたしは偽物だから、覚えていないんじゃなくって、知らないだけなんだよ。あなたと本物の星巫女との思い出を……)

 灯真は、複雑な表情を浮かべた詩桜には気付かずに話を続ける。

「俺は人の血が飲めない偏食のおちこぼれだった。そんな俺が唯一美味いと思ったのが、お前なんだ。だから、他の女から血を貰うなんて、無理に決まってるだろ」
「わたしの血しか……」
「他の奴の血は、血生臭くて飲めたものじゃない。口に含むだけで吐き気がする。お前だけだった。後にも先にも、甘美で俺を酔わす味の持ち主は」

 それは吸血鬼にとって致命的なことだと詩桜にも分かる。特に純血種に近い吸血鬼ほど、血とは自らの魔力を維持し、強靭な肉体と寿命を保つのに必要なもの。

 本当は今、左腕や頬に負っている傷だって、純血種ならば治癒能力により、とっくに治っている程度のものだ。

「俺は、ここ数年、人間と同じ食事しかとっていないからな。この肉体は、すでに魔力の殆どを失い、人間と対して変わらないんだ」
 通常の食事により灯真は普通に成長してきたように見えるが、魔力の宿っていない肉体は、吸血鬼にとっての普通ではない。

 吸血鬼は、人間のいう成人の頃になると、身体の成長速度が急激に緩やかになる。そのことで、人間の何倍もの年月を生きるし若さを保つのだ。
 けれど、今の話を聞く限り灯真は成人を迎えても、他の吸血鬼より早く老いていくのだろう。

「だから、いつもお腹を空かせていたの?」
 灯真の腹の音は、普通の空腹で鳴るものとは違う。魔力を失いかけた身体が、からっぽになってゆくのに悲鳴をあげる警告音のようなものだったのだ。

「ごめんね……」
 詩桜は灯真に頭を下げると、自ら近付き目の前で正座した。
「なんだ、突然」
「ごめんなさい。血、わたしのでいいなら飲んで? そうしたら、その怪我も治るでしょう?」

 灯真が求めているのは本物の星巫女の血だけなのかもしれない。
 けれど詩桜のことも、いつも美味しそうだと言ってくるから、本物ほどじゃなくとも灯真が受けつけられる血である可能性はあるのではないかと思った。

「震えているぞ」
「だ、だって、痛いのは怖いもの。それに吸血されるのは……苦手なの。昔のトラウマが蘇るから。でも、我慢する」
「……俺が怖いのにか?」
 そう問われ詩桜は、改めて灯真を見つめ考えてみた。

 金の瞳はとても綺麗で魅惑的で……頬に滲む血は、先程自分を捨て身で守ってくれた証。自分と同じ、赤い血が流れている。

「怖くない……とは言えないけれど、灯真のことは、嫌いじゃないよ」
「ふーん」
「だから……吸血されてもいい」
「じゃあ、少しだけ」
「ひゃっ!?」

 いきなり右手を掴まれ、掌を舐められたので悲鳴をあげてしまった。その瞬間じりじりと痛みを感じ、自分も怪我をしていたのだと思い出す。

 先程、吸血鬼の者たちとの戦いで、手や肘やあちこちにできた擦り傷を、灯真はまるで癒すように丁寧に舐めとる。肌を這う舌がくすぐったくて、緊張したけど怖くはなかった。

 すると詩桜の出血なんて微々たるものだったのに、それを舐めただけで灯真の頬の傷は癒え、腕の傷も随分と浅いものへと塞がれてゆく。

「やっぱり、美味い。お前は最高の果実だ」
「本当?」
「俺はお前に嘘なんて吐かない。どんなに拒まれても……俺には、お前だけだ」
 肌にかかる熱い吐息と眼差しで、詩桜の頬はいっきに朱色へ染まった。

(よかった……偽物のわたしでも、灯真の役に立てるんだ……)
 俺にはお前だけだなんて。血の事を言われているだけなのに、勘違いしてしまいそうになる。

 けれどその勘違いだけはしてはいけないと詩桜は自分を戒めた。
 自分はどんなにがんばっても偽物でしかないのだから。

「……いや、だったか? 泣きそうな顔してる」
「っ……」
 不安そうな顔をしている灯真へ首を横に振って答える。

「今日は、ごめんなさい……ひどいことを言って。吸血鬼なんか、いなくなってしまえばいいなんて、横暴にも程があることを」
 いまさら、言い訳がましいかもしれないけれど、詩桜は今自分が伝えられる限りの正直な気持ちを全部伝えたくなった。

「確かにわたしは、吸血鬼たちのせいでひどい目に遭ったことも一度や二度じゃないから。正直に言うと、吸血鬼が怖いの……。自分から清めに向かっているくせに、狂鬼は身が竦む程に恐ろしい。でもね、だから吸血鬼が消えてしまえばいいなんて、本気で思ったりはしていない。平和に共存できる世界を願っているから、微力だけれどわたしは舞う道を選んだの」
 そうだ。最近、焦ることばかりで忘れていた。初心の時、心に誓った想いを。

「昼間は、言い過ぎました、ごめんなさい。反省してます。だから、お願い。一緒に帰ろう。灯真がいない夕食……とっても、寂しかった」
 口に出して初めて気がつく。灯真に半日会えなかっただけで、自分はこんなにも寂しかったのだと。

「ごめんなさい、嫌いなんて言って」
 詩桜は、たどたどしく顔を上げ灯真の表情を窺った。すると灯真は笑っていた。優しげな笑みだった。

「そうだ。あんなおぞましい台詞、二度と俺に吐くな」
「ふふ、おぞましいって」
「笑いごとじゃない。言って良い言葉と悪い言葉がある。お前に嫌いって言われるのは……俺に、鉄バットで後頭部を殴られるより衝撃的で、後を引く痛みを与えるんだぞ」

「えぇっ!?」
「言われた瞬間、眩暈でおかしくなるかと思った」
「そ、そんなに?」
「お前の言葉は、俺の心に触れるものなんだ」
 そう言って、灯真の手は詩桜の頬に触れた。親指の腹で唇を撫でられる。

「とう、ま……?」
 人を惑わす吸血鬼の優艶な眼差しは、娘一人虜にするなど容易いこと。分かっていても魅入ってしまう。

「そんな女、他にはいない。だから……無性にお前が欲しくなる」
「それは、お腹が空いているからじゃなくて?」
「どっちでも同じだろ? 俺が執着するのは、この世でお前だけだ……詩桜」

 かなり分かりづらいけど、でも灯真なりに詩桜の価値を認めてくれているのかもしれない。そんな不器用さは、どこか愛おしかった。

「灯真……」
 自然に、引き寄せられるように互いの顔が近付いて……けれど触れる前に我に返る。

「なんだか顔が近すぎですがっ」
「当たり前だろ。口づけしようとしてたんだから」
「な、なんてことしようとするの!?」
「今のは明らかに、お前だって乗り気だっただろ」
「そ、そんなわけないですっ。灯真が顔を近付けてくるから、うっかり目を閉じかけてしまっただけでっ」

 そう、まるで催眠術にでも掛かってしまったかのように。

「つまり乗り気だったんだろ? 続きをしよう」
「し、しません!?」
「じゃあ、味見だけ」
「灯真の味見は、結局キスってことでしょ。しませんってばー!」

 静かな河川敷には、詩桜の悲鳴と灯真の腹の虫が、いつものように響き渡っていたのだった。