その日、夜になっても灯真はなかなか家に帰ってこなかった。
 人間にも吸血鬼にも平等でいなければいけない立場の星巫女なのに、今日の自分の言動は最低だったと思う……灯真にも謝りたい。ちゃんと、自分の気持ちを改めて。

 久々の灯真がいない夕飯は、そんなことばかり考えてしまい、まったく美味しく感じなかった。
 もう愛想つかされて出て行ってしまったのだろうか。他の人から血を貰えばいいと突き放したりしたから……今頃、他の誰かのもとへ。

「……灯真のご飯が、食べたいな」
 ぽつり、自分で作ったしょっぱい煮付けを食べながら、つぶやいていた。ひどく寂しい。
 なんだかんだ言いつつ、いつのまにか灯真と一緒にいる時間が、当たり前になっていたのだ。今頃気付いて、泣きたくなった。





 カタンッと、小物が倒れたような音で詩桜は目を覚ました。
 今日も狂鬼たちを清めるための見回りに行こうと思っていたのに。巫女の正装に着替えたものの、机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。

 物音で最初、灯真が戻ってきたのかと思った。けれど、寝ぼけ眼のまま身体を起こしたそこに……。

「んんっ!?」
 突如、黒い影が襲ってきたかと思うと、すぐに口元を手で覆われてしまう。
 恐怖が湧き上がる。視界に飛び込んできたのは、先日と同じく目元以外布で隠したアカツキだ。

 アカツキの視線は詩桜が握りしめていた巫女の誓い刀へ向けられた。

「それ、本当は、君のモノじゃないでしょ?」
「っ!」
 押さえつけられた身体は思うように動かせず、いとも簡単に刀はアカツキの手の中へ。

 だが、一瞬の隙を付いて詩桜はアカツキに蹴りを入れる。

「グッ」
 彼は低い声をあげ腹を押さえながら蹲った。
 ようやく束縛から解放された詩桜は、呼吸もままならなかったため大きく息を吸い込む。ふと甘い香りが鼻を掠めた。

 男はよろめきながらも、すぐに立ち上がると奪った刀を懐に入れ部屋の外へ飛び出す。
 詩桜もその後をすぐさま追跡した。

 屋敷から東に向かい走ると道はやがて住宅街を抜け、開けた道路にでる。時間は深夜だ。車一台通っていない。

 街灯がじりじりとたてる音のほか、聞こえてくるのは微かな水音。
 道路を渡ってみるとそこは河川敷だった。この先には、村で一番大きな星翔川がある。
 橋を渡りこの川を越えれば、吸血鬼たちが多く暮す地区だ。

「見つけた! 誓い刀を返してくださっ……」
 詩桜が息を切らして追いつくと、アカツキはただ静かにそこに立っていた。

 アカツキの足元には、蹲る若者が三人もいた。口元には牙、吸血鬼だろう。
 彼らの周辺には、ビールの空き缶が散乱している。おおかた、花見と称して川辺で酒盛りでもしていたのだろうが。

「グルルルルルル」

 一人が呻き出すと、もう一人もそれに共鳴するように唸り声をあげる。
 吸血鬼たちの瞳が、紅蓮に光る瞬間を詩桜は目の当たりにしてしまった。
 でも、それ以上に驚いたのは、アカツキが纏う黒い風だった。まるで、彼を守るように吹き荒れるそれは……邪悪な妖し風のようだったから。

「アカツキさん……あなたはいったい」
 何者なの? 聞く間さえ与えられず、狂鬼が襲ってきた。
「グルルルルッ、チヲ、チヲヨコセ」
 詩桜がその相手をしている隙にアカツキは、逃げてゆく。

「待って!」
 追い掛けたいが狂鬼に邪魔され出来ない。
 武器一つ手に持たず飛び出した自分が悪いのだ。今日に限って退魔の札も持っていないのに、敵は三体。

(なんとかしなくちゃ、お願い正気に戻って)

 詩桜は飢えた形相で襲ってくる狂鬼たちを軽やかに交わし舞いを始めた。

「きゃっ!?」
 けれど三体の攻撃を避けながら舞うのは、容易ではない。
 吹っ飛ばざれ背中を地面に打ち付ける。そこで覆いかぶされ恐怖で身が竦んでしまう。

(もう、ここまでか……)

 その時だった――

 ドカッと鈍い音とともに、詩桜に馬乗りになっていた狂鬼が意識を無くし倒れたのは。

「俺に喰われるのは、いつも抵抗するくせに。こんなのに吸血を許すな」
 なにが起きたのか目を開き、確認すると。

「……助けてほしい時は、俺を呼べ」
 灯真が狂鬼を蹴りあげ詩桜の上からどかす。
 すぐに残りの狂鬼が鋭い爪を向け詩桜に飛び掛るが、迷いもみせず彼は詩桜を抱き寄せ庇った。

 二人、抱き合うような形で、ゴロゴロと川べりまで転がり落ちる。
 おかげで詩桜は軽傷だったけれど、灯真の頬に一筋の傷が浮かび上がり、左腕からはじわりと滲む鮮血が制服を染めている。

「灯真っ」
「なにしてる。舞い続けろ!」
 彼は叫ぶといつものように常備している誓い刀を抜くことはしなかった。ただ、狂鬼たちの気を引き詩桜から遠ざけようとする。

 灯真は純血種だ。本来なら刀などなくても、どうにでもできるのかもしれない。
 けれど腹を空かせる今の灯真では、素手での攻防が不利なことぐらい詩桜にも分かる。
 なんとか敵をあしらっているけれど、その表情にいつもの余裕は感じられない。

(早く、早く……狂鬼を元に戻さなくちゃ)

 詩桜は、灯真が狂鬼の攻撃を掠めるたびに小さな悲鳴を上げそうになりながら、それを堪えて舞い続けた。

 そして一体が灯真を襲おうと背後から飛び掛った瞬間……その身体を光の粒子が包む。
 すでに意識を失っている狂鬼を含め、昂ぶる心と魂から妖し風が浄化されてゆく。
 身体から閃光を放ち舞う詩桜の姿を、灯真は眩しそうに目を細めながら見つめ、逸らすことはしなかった。



「よかった……」
 舞いきると、詩桜は全身の力が抜け落ちる程の脱力感に襲われ、その場に崩れ膝をついた。
 灯真はさらに大きな音をたて、土手に倒れこむ。

「灯真!? しっかりして」
 怪我が原因だろうか。頬から血が出ている。でも致命傷は左腕の方に違いない。
 鋭い爪でぱっくりと裂かれた制服から、深く切られた腕が確認できる。

「ぅっく……」
 灯真が、なにかうわ言のようにつぶやいた。
「灯真、ごめんね、ごめんなさいっ」
 自分を、庇ってくれたばかりに……。

 いつもそうだ。狂鬼を呼び寄せるこの身は、存在するだけで誰かを傷つけてしまう。
 なのに灯真が声を絞るようにして呻いた言葉は、詩桜を責めるものではなくて。

「――った」
「何、もう一度言って?」
「腹、減った」
「え……」

 グルルルルッ。川のせせらぎを掻き消すような、腹の音が、あたりにこだました。