詩桜がよく行くのは、あまり生徒の寄り付かない東棟の屋上。
 中央棟の屋上は、四季折々の花々が花壇に咲き誇り、ベンチなども用意されているので、屋上へ向かう生徒は大抵中央棟の方に足を伸ばし、ここの屋上は静かなのだ。

 けれど詩桜にとっては、ここが校内で一番のお気に入りの場所だったりする。ベンチも花も用意されていないけれど、星翔村を見渡す景色は少しも中央棟に引けを取らない。

 瓦屋根の家が並ぶ景色。近所に高層ビルなどはないが、南西にあたる地区では開発が進み、遠くの方にチラホラ高い建物も頭を出している。南東の方では山々が連なり自然豊かな星翔村を一望できる。

 最近気付いた。自分が思っていたより、この村はずっと美しく広かったのだと。だからこの先に違う町があり、海を越えれば異国の土地が存在するなど、まだ想像ができない。

 ちっぽけな自分になにができるか分からないけど、改めてこの村を守りたいと思えた。そうしたら、心が少しずつ晴れてゆく。

「屋上に来て、正解だったな」
 あとで遥にお礼を言おうと思っていると、詩桜の後ろになにか気配が降りてきた。せっかくの気分転換が台無しだと思いながら警戒する。

「人気のない場所で無防備だな……甘美な娘」
「っ、あなたは」
 振り向けば昨日噛み付いてきたあの謎の吸血鬼が、嫌な笑みを浮かべ立っている。
 校内は関係者以外立ち入り禁止のはずなのに、男はいとも簡単に進入できるようだ。まるで誰かの手引きでもあるみたいに……

「なんの用でっ」
 言い終るまでもなく、男は目的を行動に移す。
 詩桜は肩を掴まれ、身体をフェンスに押し付けられた。カシャンと、フェンスが軋む無機質な音が二人だけの屋上に響く。

「分かるだろう。貴様の味が忘れられない……昨日の続きをしに来たのだ」
「っ!!」
 咄嗟の出来事ではあったが、そう何度も易々と吸血されるつもりはない。

 詩桜は噛まれる前に思いっきり男の腕に噛み付いた。
 驚きと痛みから僅かに男の力が緩んだのを見計らい、脛を蹴ってその腕の中から逃げ出す。

「くっ、小癪な」
 だが、武器となる刀もないこの状況では圧倒的に詩桜の方が不利だった。

「呪符退魔! きゃっ」
 退魔の札を使いなんとか逃げ切ろうと駆け出すが、すぐに昨日の冷たいツタが足に絡み付き男のもとへと引き寄せられてしまう。

「覚醒もしていない星巫女擬きが、余に敵うわけがない。無駄な抵抗はやめろ」
 男はうっとりとした目付きで詩桜の首筋を見てくる。そしてまた噛み付くために口を開いた。

 悔しい、怖い、もう逃げられないと詩桜は悟る。

 そして……首筋に走った痛みに表情が引き攣った。

「いた、いっ」
「すぐに良くなる……さあ、邪魔者が来るまで……どれ程貴様を味わえるか」
 がんばってもがこうとも力の差がありすぎ上手くいかない。

 なんだろう、この感覚は。身体がふわふわと自分のモノじゃなくなるような高揚感。
 狂鬼に噛まれるのとは格段に違う。気持ちいい。そう思った自分が、気持ち悪い。
 気持ちよくて、気持ち悪くて、せめぎ合う感覚に詩桜は身を捩り抵抗した。

 その突如、男が首筋から顔を離したので、詩桜は夢から一気に覚めたような気分になった。

 そして、凍てつくような気配に気付く。
 そこには誓い刀を手にした灯真が……その刃を男の首筋スレスレに当て、いつものように腹を鳴らしていた。

「思っていたより早い登場か」
「二度も俺の果実に……手を出すなと言ったはずだ」
「貴様の果実、か? 隙だらけの女を自分の匂いも付けず放し飼いする主が悪いのだ。奪われたくないならば、契約で縛り付ければいいものを」
 灯真が表情を変えぬまま構え直したその刃を、詩桜は反射的に止める。

「灯真、だめ」
 こんな場所で、殺しなんてさせるわけにはいかない。するなら生け捕りだ。そう思ったのだが。

「ククッ、甘美な娘よ。次に会う時には、その血を飲み干してしまいたいものだな」
 口元を歪め笑う男は、詩桜の鼓膜に纏わりつくような言の葉を残し昨日同様、煙に紛れて姿を消した。

「一体、なんだったの……」
 目的も正体も分からない男に困惑の表情を浮かべ、詩桜は緊張の糸が途切れたように、へなへなとその場にへたり込んだ。

「また……殺し損ねた」
 灯真がピリついた殺気を放ち呟く。
「軽々しくそんな言の葉を口にしないで。それに……灯真は、簡単に刀を使いすぎだよ」

 灯真が狂鬼をたくさん斬り捨てるのを、詩桜は目の当たりにしてきた。でもそれは自分を守るためにしてくれることだから、守護者としての仕事でもあるからと思い目を瞑ってきたけれど。

 あの吸血鬼は、たとえ詩桜に手を出したとしても、狂ってはいない普通の吸血鬼。厄介だが無暗に斬り捨てるのは罪になる。

「なんであんなのを庇う。まさか、お前……あの男と裏で通じて……」
「え?」
 手首を掴まれ引き寄せられる。
 驚いて見上げると、間近にある金の瞳が狂鬼化もしていないのに嫉妬の炎でギラついて見えた。