その日の夜は空気が重く淀み、嫌な雰囲気を肌で感じた。

「煮物、とっても美味しい」
「……ああ」
 ただいまの日向家は、新しい家政婦さんを募集中のため、家事全般、詩桜と灯真が分担している。
 意外だが料理に関しては灯真のほうが手際も良く美味しい。

「灯真って、本当にお料理が上手だね」
「……ああ」
 保健室の一件から、灯真の様子がどこかおかしい。いくら詩桜が話し掛けても上の空。
 夕飯の時間となり食卓を囲うものの、会話が弾まない。いつもだって賑やかなわけではないのだけど、なんとなく沈黙が詩桜に重たく圧し掛かる。

「どうしたの? 具合でも悪いの?」
 食も進まぬ灯真が心配になり、詩桜は隣に腰を落とすと彼の額に手を伸ばした。
「熱は、ないようだけど……っ!?」
 だが、手首を掴まれたかと思えば、あっという間に引き寄せられる。灯真に覇気がなかったせいで油断していた。

「熱なんてない。ただ……あいつを、殺し損ねたことが気掛かりだと考えていただけだ」
 あいつとは、今日突然現れた謎の吸血鬼のことだろうか。
 不穏な言葉と不機嫌な眼差しに戸惑いつつ、詩桜も昼間のことは気に掛かっていた。しかし。

「……なんでお前は、俺を拒むんだ」
「ど、どうしたの、急に」
 灯真が気に掛けているのは、詩桜の思うところとは違うようだ。

「急じゃない。答えろ」
「そんなこと言われても……普通拒むでしょ。血を飲まれるのは、痛いし怖いもの……普通、拒むものだと」

「なんだよ、その連呼する普通って」
「普通は、普通だよ。灯真がするのは、普通じゃないことばかり……普通は、好きでもない人と、き、キスしたりも、しないものだし」

「好きじゃないなんて誰も言ってない。食い尽くしてしまいたいほどに、お前の血に焦がれてる。お前は俺の果実だっていつも言ってるだろ」
「っ……そんなの普通の好きじゃない」
「これが俺の普通だ」

 あっさりと灯真に押し倒され、いつものように詩桜の視界に入るのは灯真と居間の天井だけになる。

「……早く俺のものにしないと、また得体のしれない男たちにお前が狙われるかもしれない。契りを交わせば、そんな心配なくなる」
 頬を撫でられ詩桜は肩を竦めた。

「花嫁の刻印が、他の吸血鬼からお前を守る。俺は、他の誰にもお前に触れさせたくない……なのに、なんで拒むんだ」
 見つめてくる切なげな金の瞳は、吸い込まれそうなほど魅惑的だけれど、吸血鬼に備わる魅了の力に流されてはいけない。

「じ……呪符退魔!」
「グッ」
 隙を突いて術を発動させた詩桜に灯真は弾き飛ばされ、詩桜は今の内だと逃げ出す。

(危ない。ダメ、受け入れちゃダメ!!)

 そんな詩桜を、いつもとは違い灯真が追い掛けて来ることはなかった。





 だが、次の日になっても灯真の機嫌は戻っていないようだった。

 今朝は、詩桜が目を覚ますと朝食とお弁当だけ用意されており、灯真の姿がない。こんなことは初めてで、なんとなく落ち着かないまま登校すると、教室に灯真の姿はないものの席に彼の鞄だけ置いてあった。

「おはよう、詩桜。白波瀬くんの席なんかじっと見て、どうしたの?」
「遥ちゃん、おはよう。あの……灯真は、もう登校してるのかなって」
「さあ、見かけてないけど……なんで?」
「ちょっと、気になって……」

「ふーん……喧嘩でもしたの?」
「そういうわけでもないと思うんだけど……」
 押し倒されて灯真を弾き飛ばすことは日常茶飯事なので、あれは喧嘩じゃないはずだ。
 でも、灯真の態度がどこかよそよそしいのは確かで……朝からモヤモヤと気持ちの晴れない詩桜は、ふぅっと小さく溜息を吐いた。

「大丈夫? 朝から冴えない顔してる……気分転換に屋上へ外の空気でも吸いに行ってみれば?」
「屋上?」
「うん。白波瀬くんが教室に来たら、詩桜が探してたって伝えてあげるよ」

 詩桜は落ち込んだ時など、いつも屋上で一人気分転換をしている。そのことを遥も知っていて、提案してくれたのだろうと思った。

 遥のそんな優しさを受け詩桜は頷き屋上へ向かう事にしたのだった。