保健室に入ると独特の消毒液の匂いが鼻腔をツンと刺激した。

「あれ、保健室の先生いないみたいだな」
 月嶋に続いて詩桜も初めて入った保健室をざっと見渡す。
 窓際には書類の重ねられた机があり、奥のほうには空いた白いベッドが三つ並んでいるが人の気配はない。

「月嶋くん、わたしなら大丈夫。寝たらよくなると思うから教室に戻って」
「でも、具合が悪いときに一人じゃ心細いだろ。先生が来るまで付き添うよ」
「いえいえ、お気を遣わず」
「ほら、いいから。遠慮しないで寝てる」
 そんな風に優しくされても仮病なので居た堪れない。詩桜は、罪悪感を覚えながら具合も悪くないのにベッドに腰を下ろした。

「ごめんなさい、色々と」
 嘘ついて……とまでは白状できないが。
「具合が悪い時は、お互い様だろ」
 なんて、いい人なんだろう。そういえば月嶋は、灯真と一緒にいるのをたまにみかける。あんな困った人と一緒にいれることからも、その心の広さが窺えると詩桜は思った。

「月嶋くんって、いい人ですね」
「うん、よく言われるけど……男としては、喜ぶべきか微妙なとこだよ」
「悪い意味なんてないと思うんですけど」
「だってさ、女の子ってなんだかんだ言って、白波瀬みたいなのがいいんだろ? おれって、いつもいい人止まりなんだよな……」
 女子はみんな灯真みたいなのがいいだなんて、とんだ偏りのある考えだ。

「白波瀬はいいよな。顔はいいし、背は高いし、声は良いし、クールでそのうえ文武両道の御曹司って」
 月嶋だって別にスタイルは悪くないし、清潔感があって爽やかじゃないかと詩桜は思う。なにより優しげな笑顔は魅力的だ。

「灯真は、クールっていうか狂っているというか」
「はははっ、春宮って意外と真顔で毒吐くんだな。おれは、白波瀬嫌いじゃないよ。分かりづらいけど、あいつって結構いい奴だし」
「ま、まさか……いい人というのは、遥ちゃんのような人に使う言葉ですよ」
 あとは辰秋と月嶋。この三人ぐらいにしか優しくされた記憶がないのも、寂しいことだが。

「いやいや、白波瀬が可哀相だって……でも、そうだな、河合さんはとっても素敵だよね。それには深く同意するよ……あ、あのさ! それで、こんな時に悪いんだけど、春宮に聞いてもいいかな」
「なに……っ!?」

 わたしに答えられることなら、と言うつもりだったのに、月嶋の背後、二階の窓硝子の外から見えるモノに、詩桜は硬直した。

「河合さんってさ、どんな男が好きなのかな、なんて。聞いた事とかある? おれでも気薄な望みはあるかな……って、春宮、聞いてる?」
「全然聞いてないです」
「聞いてよ!」

 正確には、聞いてあげられる余裕がない。
 なぜなら月嶋の背後、窓の外に見知らぬ男が浮いているから……ちなみにここは二階なのに。

 そして、それは一瞬の出来事だった。

「春宮、危ないっ!」
 突然足元から詩桜に絡み付こうと氷のツタが出現する。それは咄嗟に庇ってくれた月嶋の身体を拘束した。そのまま彼はグルグルと絡まる氷のツタに全身の自由を奪われ吊るし上げられる。

「月嶋君!?」
「チッ、なんだ。かかったのは不味そうな男か」
 舌打ちをして見知らぬ男が二階の窓から現れた。

「うわぁあぁあぁあぁっ!?」
 メキメキと音を立てる氷のツタに締め付けられる月嶋は、眉を顰め悲痛な声を上げる。
 先ほどまで平穏だった保健室は、氷漬けの世界となった。床もベッドも椅子もすべてが、氷に侵食される。

 そのまま振り回され地面に叩きつけられた月嶋は、意識を無くしぐったりとしたまま半身を氷漬けにされ氷柱に吊るし上げられた。

 使い手の圧倒的な魔力に詩桜は警戒の色を強める。

「あなたはいったい」
「クク、隙だらけだな」
「っ!?」
 後ろから出現した氷のツタに両足を捕られた詩桜は、そのまま逆さ吊りにされた。天井まで上げられた姿を、男がニヤニヤと見上げてくる。

「今すぐに星巫女候補の座を降りろ。星巫女の存在など、我々は望んでいないのだ」
「っ、だれなの?」

 知らぬ青年は、五高制服は着ておらず浮世離れした雰囲気を醸し出している。
 美しいけれど陰険そう。そんな容姿と、口元に見えるのは犬歯。着物をゆるりと着こなす姿から吸血鬼なのだと察する。

「ああ……貴様、美味そうだな。絶対美味い。誘惑するようなこの香り、甘美な果実に違いない」
 舐めるような視線が、詩桜の身体に纏わりつく。

「星巫女候補が開花する前に潰してしまうのが目的だったが……他の吸血鬼に摘まれる前に、余が収穫して喰ってやろうか?」

(なにこの吸血鬼。灯真並に言葉が通じなさそう……)

 人間を食おうとする吸血鬼の本能を持ち合わせる男に詩桜は恐怖を覚えた。

「ほう、近くで見れば愛い顔をしてる」
「っ!?」
 謎の吸血鬼が詩桜をまじまじと至近距離で観察してくる。
「純血種にとって、光の時間とは力を乾されるようなもの」

 男が囁くように言う。確かに、灯真もよく気だるそうにしている。先程も詩桜が教室を出て行ったのにも気付かず寝ていたし。彼の場合、お腹の空きすぎで夜だって気だるそうだけど。

「だが、そんな時、甘美な果実で喉を潤せば、乾された力も蘇るのだ」
 吸血鬼は、皆同じようなことを言って詩桜を襲ってくる。昔からそんなことばかりだった。特に男の吸血鬼は。

 狂鬼の存在ならば舞で清めてしまうこともできるが、正気なのに理性にかける吸血鬼というのが、一番たちが悪いかもしれない。
 この状態じゃ逃げることも戦うこともできないというのに。

「怯えているのか? 余は、恐怖に冷えた女の血が、なによりの好物なのだ」
「はな、して……」
 情けないけれど声が震えた。
 吸血鬼に血を吸われるのは、何度されても怖い。たくさんのトラウマが蘇るから。

「クククッ。なあ、娘。巫女候補を辞めるならば、そこの男を解放してやってもいいのだぞ」
「っ、それは……できません」
「ほお……」
 氷漬けにされている月嶋にを見ると、このままじゃよくないことは分かるのだけれど。

(……わたしから、星巫女を取ったら、なんの価値も残らない)

 この期に及んで自分の中に浮かんできた言葉は、なんて身勝手なものだろう。
 星巫女候補の地位に縋っている。それだけが、唯一の自分が生かされる意味だったから。

「そこの男を見捨ててでも、自分のために星巫女になりたいとは、見かけによらず強欲な娘だな。だが、嫌いじゃないぞ。そういう考えは」

 月嶋がどうなってもいいなんて、本気で思っているわけじゃない。でも、このまま自分が星巫女候補ですらなくなってしまったなら……きっとすべてを失ってしまう。辰秋からも見捨てられてしまう。

 詩桜が迷っているうちに、氷が足を伝い、徐々に侵食するように身体を凍らせてゆく。寒い。

「そろそろ食べごろのようだ」
 男は冷徹な微笑みを浮かべ、牙を剥きだすように口を開く。

「っ、ぃ――」

 言葉にならない小さな悲鳴が、詩桜の口から零れた。
 男は逆さ吊りのままの詩桜に容赦なく牙を突き刺す。

 痛みと共に甘い痺れが詩桜の全身に広がった。