冷たい空気がしっかりと着込んだ冬物のコートの隙間から、忍び込んできた。
あまりの寒さに思わず、身震いをする。
はたと目に入った女性と目が合って、しばらくの間、見つめ合った。
なんだか見覚えのある女性だった。
彼女で間違いないと、あのころの面影と重ね、錆びた古い小さなベンチを立った。
すう、と息を吸い込んで、声をかけた。
「久しぶり――」

耳障りなアラームの音が鳴ると同時に私は規則的に目を覚ました。
欠伸をしてから、ぎしぎしと音をたてるベッドから起き上がる。
学校の制服に着替えるためにクローゼットを開けた。
さっさと着替えて、りぼんを結ぶ。
初めて制服を着たときは、毎回、手こずっていたけれどさすがにもう慣れた。
すぐに乾燥してしまうので、唇にリップクリームをぬって、一階にあるリビングまで通学鞄を持って行く。
お父さんは無関心というような表情でソファに座ってブラックコーヒーを飲みながら険しい表情で新聞を読んでいた。
お母さんは私のことを一瞥してから気まずそうに視線を逸らし、自分の分のトーストだけ机に置いてテレビニュースを見ながら私なんていないかのように無言で食べはじめた。
私はリビングを出て、玄関で靴を履いて、静かに家を出た。
今日こそはせめて、挨拶でもしてもらえると思ったのだけれど、やはりだめだった。
きゅるるる、と小動物の鳴き声のようなお腹が鳴って、私は近くのコンビニに入った。
レジのすぐ横の棚から、塩むすびを二つ手に取る。
会計を済ませてから、コンビニの外に出て無理やり、胃に詰め込むようにおにぎりを口に入れた。
一分ほどで食べ終え、最寄りの駅に向かう。
学校なんて本当は行きたくない。
でも、行かないといけないのだ。
もうお母さんとお父さんに迷惑はかけられない。
お金だって、払ってもらっているんだ、休めるはずなどなかった。
もう誰にも嫌われたくない。
だから、学校に行ってみんなに好かれていないと私はこの世を生きていけない。
誰か、私を必要としてくれる人がいないと苦しくてたまらない。
はああ、とお腹の底に溜まっていた、ため息を吐き出しても、全く気持ちは晴れなかった。



がらり、と音をたてて教室の扉を開いて自分の席に座る。
「おはよー」
友達の恵理が笑顔で挨拶をしにきてくれた。
「恵理、おはよう」
私もにこりと笑顔で挨拶を返すと、恵理は「実は、あたし、彼氏できたんだ」と恥ずかしそうに微かに頬を紅潮させて、言った。
「え、彼氏っ⁉」
思わず大声を上げると、恵理は、しっ、と口に人差し指をあてて、周りをきょろきょろと見回した。
ごめん、と私は謝った。
恵理は「もう大声で言わないでよー」と少しだけ怒ったように膨れっ面になって言う。
怒ったような表情はしていても、顔が緩んでいて嬉しそうなのは隠せていない。
「で、彼氏って誰なの?」
私が訊くと、恵理は俯いて「琉唯(るい)くん」とぼそりと小さい声で言った。
琉唯くんとは、同じクラスのやんちゃなスポーツ系男子だ。
私にしてみれば、授業中もうるっさくて集中できない害悪だけれど。
へえ、と私が目を細めて相槌を打つと、私の思っていることを見透かしたのかのように恵理が「まさか琉唯のこと、害悪、とか思ってないよね?」と睨むようにじとりとした目で見てきた。
思ってない、と言いかけたところで、「なに話してんのー?」と笑顔の琉唯くんが私たちの元にやってきた。
噂をすれば、というやつだ。
恵理はその瞬間、ぱっと顔を輝かせて「琉唯くんっ!」と弾んだ声で、言った。
「もう恵理、僕のことは、呼び捨てで呼んでって言ったでしょ」
ぷくっと頬を膨らませて琉唯くんが言うと、恵理は「る、琉唯!」と言い、ふたりで楽しそうに笑い合っている。
いいな、と思う。
私にはこんなに大切にしてもらえたことがない。
お母さんとお父さんにだって数えるほどしか名前を呼ばれたことがない。
「ちょっとー、私もいるんですけど」
私は平然とした顔を作って言った。
ふたりは、そうだったー、と笑いながら言って仲睦まじく去っていった。
私はこっそり胸を撫で下ろして、読書でもすることにした。
全くもって興味もないのだけれど、暇つぶしにはちょうどよかった。
だから特に読む必要もなく、適当にぱらぱらとページをめくる。
ひっきりなしに文字がぎゅうぎゅうに並んでいて、読む気なんて起こってこない。
こんな本を読んでいる人の気が知れない、と思いながら飽き飽きしたような気持ちに襲われる。
毎日毎日同じことの繰り返し。
けれど、私はいつか恵理と琉唯くんのように誰かに必要とされたいから、すごく苦しくても我慢してきた。
誰も、美波、って愛情を込めて呼んでくれない。
鳥浦(とりうら)美波、なんて名前、大っ嫌いだ。
鳥浦っていう名字だったら、いつでもお母さんとお父さんと繋がっているということだから、私はこの「鳥浦」が嫌い。
はやくあの家を出て行きたい。
でも、お金がまだ足りないから、あの家を出て行ったとしても住むところがない。
今までにあの家のことで何度泣いただろうか。
毎年、誕生日だって祝ってもらったことなんてない。
お父さんとお母さんには幽霊扱いしかされていないのだ。
おまけに邪魔者だって思われている。
こんな日常、楽しくない。
ただ息苦しくて、喉にロープがぐるぐる巻きついたように感じるだけ。
「全員、席つけー」
どすどすと足音をたてて、偉そうに担任の佐藤先生が教室に入ってきて大声で言った。
はーい、と立っていた人たちがぞろぞろと自身の席に座る。
佐藤先生は怒ると怖いと評判で誰でも佐藤先生の言うことをきくのだ。
「よし、全員座ったな。今日は、このクラスに仲間が増えるぞー」
いつもむすっとした顔をしている佐藤先生にしては珍しく笑顔で言った。
「えっ、誰だろー」
「俺、転校生とか教室にくんの初めてだわ」
静かだった教室が一気に騒がしくなった。
先生は「静かに!」と大声で言うと同時に、ひとりの男の子が教室に入ってきた。
真っ黒の漆黒の髪と鋭い目が印象的だ。
「はじめまして。浅海悠里(あさみゆうり)です。よろしく」
先生の隣に立って、素っ気なく挨拶をした転校生になんだか私はデジャブを感じた。
この声、なんかどこかで聞いたことのあるような気がする。
まあ、どうせ勘違いだとは思うけれど。
先生が何かを言う前に浅海悠里くんはすたすたと私の元まで歩いてきた。
席の前に立つと、軽く首を傾げて「ミリ……?」と驚いたような不思議な声音で恐る恐るというように落ち着いた声でそう言った。
え、だれ、私に言ってる、よね?
でも、名前が違う。
「すみません。浅海悠里くん、だよね。前に会ったことありましたっけ? 人間違いじゃないですか?」
謝りながらいちおう敬語でそう言うと、浅海くんは頷いて、「まあ、僕のことはわからないだろうね」とにこっと微笑んで淡々と言った。
意味がわからない。
いつ会ったことがあるのだろうか。
私の頭の中が疑問で埋め尽くされる前に先生から訊かれた。
「鳥浦、浅海とは知り合いなのか? なら、浅海は鳥浦にいろいろ教えてもらえ。じゃ、鳥浦よろしくな」
納得、というような顔をして先生は言うけれど、私には全く心当たりがない。
けれど、先生に言い返すなんてできるはずもなく、はい、と私は頷いた。
私の隣に座っている坂本紗理奈(さかもとさりな)ちゃんという子が一番後ろの浅海くんの席になる予定であっただろう席に移動してしまい、私の隣には浅海くんが平然とした顔で座っている。
先生はにこにこと浅海くんに教科書などを渡している。
あ、そうだそうだ、と佐藤先生が声を上げた。
次は何を言い出すつもりなんだ、と見構えていると、絶対に頷きたくないことをさらりと言った。
「浅海に校舎を案内してやってくれ。知り合いなら浅海も喜ぶだろ」
ため息を吐きたくなるのを必死に堪え、先生が案内したらいいのに、と内心で毒づきながら頷いた。
なんで他人に任せるのだろうか。
私は知り合いでもないし、絶対に浅海くんの人間違いなのに。
だからって断れるはずもなく、私は潔ぎよく、はい、と頷いた。
「うんうん、ありがとな」
嬉しそうにしている先生から視線をはずし、窓の外を見つめた。
こういうときは本当に窓際の席でよかったと思う。
いつでも、現実逃避ができるから。
四角く切り取られた窓から見えるのは、大きな木々、グランドに入道雲と青空、そして青空を横切る鳥たち。
鳥は、自由でいいな。
ふとそう思った。
なにも気にしないで気軽に空を飛んでいればいいのだ、人間よりも楽しいに決まってる。
じりじりと学校を焦がそうとする勢いの暑さに参りながらも、私の口元は緩んでいる。
私は夏が好きだ。
こんな私でも太陽は暖かく照らしてくれるから。
夏は、私を必要としてくれている気がする。
まあ、ただの自惚れだとは思うけれど。
本当は夏も私なんて必要としていないかもしれない。
ずぶずぶとネガティブ思考に埋もれていくのを、止めたのは、浅海くんの一言だった。
「ねえ、本当は僕の存在に思い当たるものがあるんじゃないの」
がばっと浅海くんの方を向くと、意外にも真剣な表情をしていた。
別に、と素っ気なく返すと、はあ、と嫌な感じのため息を吐かれた。
私からも大きなため息を返してやりたかったけれど、ここは学校なので、黙っておく。
「へえ。こんなやつが本当に、あれを持ってんのか。意外だな。もっとしゃっきりしたやつかと思った。まあ、僕には関係ないけど」
残念そうな声と表情で息を吐きながら言う浅海くんから顔を逸らして、再び窓に目を向けた。
なにか言われるかと思ったけれど、意外になにも言われなかった。
ははっと自嘲気味に小さく笑う浅海くんの声が聞こえたけれど、私は聞こえていないふりをして外を自由に飛び回る鳥たちをぼんやりと眺めた。
先生がいろいろと話している声が右から左へと流れていく。
私は無になってただただ外ばかりを見つめる。
そうすれば、いつか心が安らいでくるのだ。
なにも考えなければ、ネガティブなことを考えなくてもすむし、なによりぼーっとしているだけなのだから、周りの声を聞かなくてもいい。
笑い声を聞くと、私のことを笑っているように聞こえてしまう。
ひそひそ話をしているのも、内容は聞こえてなくても私の悪口を言っているんじゃ、と不安になってしょうがない。
なんなら、人と話すのも苦手だ。
けれども、友達はほしい。
私のことをちゃんとわかってくれて、受け入れてくる友達。
ならこのことを恵理に言えばいいのだけれど、それは言えないのだ。
もし友達を辞められたら、私はもうやっていられない。
従姉妹(いとこ)にだって見下されるし、叔父さんにも叔母さんにも面倒がられている。
親族にさえも、必要としてもらえない。
ご近所さんだって遠くから私の噂話をするばかりで、気味が悪がられている。
これは違うの、誤解なの、と言いたくなる。
でもそんなこと言ったってどうせ信じてもらえない。
お母さんとお父さんのように、見放されるだけ。
私はある日、突然なぜだか一軍のリーダーの女の子のお金を盗ったといわれたのだ。
ただ床に落ちてたから、忘れものだと思って先生に届けるために手に持ったとき、たまたま女の子が通りかかって「それ、私の財布!」と叫ばれたのだ。
それから、大事になって先生に言われてしまい、もちろんお母さんとお父さんにも連絡が入った。
なんとか退学は免れたものの、殺されるんじゃないか、と思うほどにすごくすごく怒られた。
一時間くらいずっと説教をされて、へとへとで帰ったら次はお父さんとお母さんにもさらに怒られて本当に殺される覚悟を決めたくらいだった。
その挙句、その女の子の家まで菓子折り持っていって必死に頭を下げて下げまくって謝ったのだ。
女の子のお母さんは「いいのよ。怪我をさせたとかじゃないんだし。財布を落としたこの子にも責任がありますよ」と親切に優しく言ってくれたけれど、お母さんは昔から頭の固い人で「いえいえ! 人様のお金を盗るだなんて本当にどうお詫びしたらいいものか……」と泣きそうに言うのだ。
女の子はくすっとこっそり笑っていて、お母さんたちの前では「こちらこそ、ごめんなさい……」と泣いて見せていた。
その女の子よりも泣きたいのは私だったし、盗んでもないのに盗んだだなんて勝手に言われて自殺しようかと本当に病んだこともあったほどだ。
あのときの恐怖と怒りは私をきつく縛り付けた。
だからなにかが落ちていても絶対に拾わないことにしている。
またあのときのことのようなことがあるかも知れないから。
今でもあのときのことを考えると息が詰まり、とても苦しくなる。
ふうー、はあ、ふうー、はあ、と少し乱れた呼吸を静かに落ち着かせた。
苦しい。
なにもかもが息苦しくて、友達だってひとりしかいないし、誰にも必要とされていないし、私の生き甲斐は……あれ、私の生き甲斐って、なんだっけ?
夢なんてないし、生きていればいつかその苦労が報われる、とかあるけれどそんなことないし、いいことなんてひとつもない。
友達はひとりだけいるけれど、恵理にも最近は鬱陶しく思われているんじゃないか、思ってしまうことがたまにある。
「一限目をはじめます」
気付けば学級委員の一限目をはじめる声が聞こえてきた。
私は我に返り、次は数学だったなと思い出して教科書とノートと筆記用具を机に出した。
かりかりと板書を書きながらも、内容は全く頭に入ってこない。
またあのことを思い出してしまったからか、息が苦しくて授業に集中できない。
息が苦しくて苦しくて、ついに私は席を立った。
「先生。体調が悪いので保健室に行ってきてもいいですか」
そう訊ねると、先生は少しだけ心配そうな顔で「鳥浦が体調が悪いなんて珍しいな。熱でもあるのか?」と私の所まで歩いてきた。
「熱はないです。でも頭が痛くて」
こめかみの辺りを抑えながら言うと、先生は頷いて、ならいいぞ、と許してくれた。
私はささっと教室を出て保健室に向かった。
保健室に入ると、保健室の加藤美恵子(かとうみえこ)先生がちょうどいて「おう、美波じゃん。授業中に来るなんて、どしたの」と同級生のように、にっとはにかんで迎えてくれた。
「ちょっと体調が悪くて、寝かせてください」
加藤先生は「そこのベッドなら空いてるぞ。とりあえずなんか飲むか? コーヒーならあるけど。あ、体調悪いときのカフェインはやめた方がいいか。まあでもどうする?」と頭のてっぺんのお団子をゆらゆらさせながら悩むように言った。
「コーヒー、もらってもいいですか」
遠慮がちに言うと、加藤先生は親指でグットマークをつくって下手なウインクをして、もう出来上がってたのかコーヒーを出してくれた。
私は加藤先生の前に置いてある椅子に座って、コーヒーをひとくち(すす)った。
「で、なにがあったの。美波がここに来るなんて珍しいから、あたしは、あのことを思い出したんじゃないかって思ってるけど」
なんでもお見通し、とでも言いそうな大きな瞳に吸い込まれるように私は加藤先生に話し出した。
「そうなんです。あの子の顔が忘れられないんです。それで、苦しくて……」
自然とぽろぽろ涙が出てくる。
悲しくて、苦しくて、いろんな感情が私の中を(うごめ)いて、どうしても、あのときの女の子、斎藤莉愛(さいとうりあ)ちゃんの嘲笑うような表情が忘れられない。
どんなことを言っても加藤先生は苦しかったね、などとも言わずにただ真剣に頷いてくれるだけ。
その扱いがとても心地良い。
変に気遣われるよりも、ただ黙って隣にいて私の話を聞いてくれているという方が私には嬉しかった。
なにか、苦しいね、悲しいね、大丈夫だよ、などと憐憫の目と言葉をかけられると、心から聞いてくれてないんだな、と感じてしまう。
だから加藤先生のただ黙って聞いてくれているという本当の優しさは泣きそうなほどに嬉しかった。
「少しすっきりしたので、寝てもいいですか」
しばらく泣いて、加藤先生に赤くなった目を向けてそう言うと、こくりと頷いて加藤先生は仕事があるから、と職員室に一旦戻っていった。
私はさっき加藤先生に言われたベッドにごろんと仰向けに寝っ転がった。
すうっ、と保健室の空気を吸い込むと少し楽になった。
私は保健委員で、加藤先生とは結構話したことがあるのだ。
ある日、苦しくなって休み時間にここに来たら、優しく背中をさすってくれて、自然とあのときの話が口をついて出た。
そのときも、加藤先生はなにも言わずにただ黙っていてくれた。
唯一、私が心の許せる先生だ。
今まで何度も先生に私の話を聞いてもらった。
本当に感謝している。
ぼーっと白い天井を見つめているとだんだんと睡魔(すいま)に襲われてきて、私は重たい瞼を閉じた。



「おっ、起きた?」
ぱちっと目を開けると、目の前に加藤先生の綺麗な顔が飛び込んできた。
「は、はい」
起き上がって頷くと、加藤先生は「もう七時だから、帰った方がいいんじゃない? それか、親御さんが心配しないんなら、あたしん家に泊まってく?」といつものように子供のように無邪気な笑顔で言った。
「でも、先生の迷惑になるんじゃ……」
「迷惑なんかじゃないよ。まあでも、美波は帰った方がいいかもな。うちは三人も男がいるからうるさいし」
手をひらひらさせて言う加藤先生はもうお団子をとっていて、さらさらの髪をおろしていた。
「じゃあ、もう帰ります。ありがとうございました」
上履きを履いて、ぺこりと頭を下げると、加藤先生から私の鞄を渡された。
鞄を受け取ってもう一度お礼を言ってから、私は学校を出た。
家に着くと、やっぱりお母さんとお父さんの幽霊扱いは相変わらずで、今日もひとりで晩ご飯の具なしの味噌汁と真っ白の白米を部屋で食べた。
味はしないけれど、食べないとお腹がすくのでもぐもぐと咀嚼する。
食べ終わったら、台所まで持って行って、自分で洗う。
そしたら、お風呂を沸かして、歯を磨いて、お風呂に入ったら、寝る。
毎日毎日その繰り返しだ。
ぽちゃん、と湯船に浸かると溜まっていた疲れが少しだけ癒されたような気がした。
十分ほどで出ると、すぐに紺色のパジャマに着替えて、部屋に戻った。
ごろんとベッドに寝っ転がってみたものの、保健室で存分に寝たからか眠くならなくて、私は数学と英語の課題があるということを思い出して、課題をやることにした。
うーん、と伸びをして課題に目を通すと私のやる気が消えていくのがはっきりとわかった。
あまりにも夜にやるには多すぎる量なのだ。
まあ一応できるだけやってみよう、と自分を奮い立たせてぴんととんがった鉛筆を手に取った。
なかなか進まないので、水出し紅茶でも一旦飲んで落ち着こうと思い、台所の冷蔵庫からダージリンティーを出してきて、いつも紅茶を飲むときに愛用しているおしゃれなカップを持って部屋に戻る。
ダージリンティーをカップに注いで、こくりと飲んだ。
ほんのりと入れておいたメープルシロップの甘みが口いっぱいに広がった。
このまま寝たい衝動に駆られるけれど、せっかくやる気を出すために飲んだ紅茶はどうなるのだ、と思い課題にとりかかった。
かりかり、と鉛筆で数字を書く音が部屋に響いた。
この音が意外に好きだったりするのだ。
もう一口ダージリンティーを飲んでまた課題に戻る。
眠くなってきたところで、辞めて、残っているダージリンティーだけ飲み干して、ベッドに突っ伏した。
すぐに私は電気を消すのも忘れ、寝息を立てはじめた。



はっと目を開けると、頭が痛んだ。
起き上がると、ぐわんぐわんと揺れるたびに頭がずきずきと痛く感じる。
思わずベッドにもう一度寝っ転がる。
頭があまりにも痛すぎて動けそうになかったのだ。
なんとか学校に頭が痛くて学校を休むと連絡を入れ、毛布に包まって瞼を閉じた。
こめかみをぎゅうっと爪を立てて抑えて少しでも痛みが引いてほしくて、いろいろと試みる。
頭をがんがんと拳で殴ってみるけれど、ずきずきと痛いのは変わらない。
「誰か――」
そう小さく呟いてみても、誰も助けてくれないのは、わかっている。
でも、今は誰かに助けてほしくて何度も何度も呟くけれど、お母さんもお父さんも誰も助けに来てくれなかった。
そうだった、私は誰にも必要とされてないんだから、助けを求めてどうするんだ。
私は強く強く目を閉じる。
けれども、痛すぎて眠れそうにもなかった。
何分そうしていただろうか。
気付けば夢の中にいた。
ぱたぱた、と綺麗な青色のふくろうのような鳥が目の前を飛んでいて、五才のころの私はその鳥を笑顔で追いかけている。
どこかのひまわり畑で走るたびにさわさわと音がした。
夢にしては鮮明で、昔の記憶のようだった。
その鳥に五才の私が触れようとしたとき、はたと目が覚めた。
時計を見てみると、もう十一時で三時間ほど眠っていたようだ。
頭も先程と比べるとずいぶんと良くなって、歩けるくらいには回復していた。
私はお腹の空きを覚え、一階に下りてリビングに入った。
お父さんとお母さんは共働きだから、いなかった。
台所から昨日の夜食べた白米の残りをレンジで温めて食べた。
お腹が満足したら、部屋に戻ってしゃっとカーテンを開けると日の光の眩さが目に染みた。
ごろんと窓に背中を向けてベッドに再度横になると、どっと疲れが押し寄せてきた。
はあ、とため息を吐いて窓の方を向いた。
窓から見えるのは、雲一つない真っ青な空と緑の木々と立ち並ぶ同じような家々。
特にすることもなく、かといって学校には休むといったから家にいるしかない。
暇だ。
そうだ、と思い立って通学鞄から本を出してきた。
こういうときは読書が暇つぶしになってちょうどいい。
ぱらとページをめくって一ページ目からちゃんと読んでいく。
読み進めれば結構面白くて夢中になってしまい、私は次から次へとページをめくっていった。



本が読み終わったころにはもう夕方の四時だった。
本を通学鞄にしまい、着替えてから家を出た。
ただひたすら歩みを進め、やっと足を止めたのはある小さな公園だった。
疲れたり苦しかったことがあったときは必ずこの公園にくるのだ。
もう誰にも管理されていない放置状態で、草が私の膝のところらへんまで伸びていた。
ベンチが一つあるだけで遊具もなにもないので、誰もおらず私ひとりだけだった。
低くてほとんど草に埋もれているベンチに腰掛けて、空に目を向けた。
先程とは打って変わって、厚い雲が真っ青の空全体を覆っていて今にも雨が降り出しそうな空だ。
雨が降ってくる前に帰らないと傘もなにも持ってないので濡れてしまう。
ほんの微かに雨の匂いがしてきたところで私は家に帰ることにして、立ち上がった。
家に向かう道のりを歩いていると、通りすがりの家からカレーの香りがしてきた。
「ふふ。今日は(たく)ちゃんの好きなカレーよ」
「ほんと⁉ ぼくママのごはんのなかでカレーがいちばんすき!」
ふと楽しそうに話す家族の声が聞こえてきて、耳を塞ぎたくなった。
楽しそうで、いいな。
私もお母さんにこんなこと言ってみたい。
まあ、叶わない無謀な願いだけれど。
またため息が口から洩れた。
腕に水が落ちるような感覚があり、腕を見てみると、雨が降ってきたようだった。
ぽつぽつ、と勢いが強くなってくる。
私は小走りでもうすぐそこまで見えていた私の家に駆けこんだ。
少ししか濡れていないけれど、冷えたのでシャワーを浴びようと思い鍵を開けて家に入ったら、まずはお風呂に向かった。
じゃーっと温かいお湯を頭から浴びると、身体の芯からぽおっと温まってきた。
頭はシャンプーとリンスをしてから、お風呂を出ると一気に寒くなった。
すぐにタオルで全身を拭いて、すぐに部屋に行きもうパジャマを着てしまう。
暖房を入れて毛布に包まりながら、もう四年くらい使っている黒いドライヤーで髪を乾かしていると、そのうち暖まってきた。
窓を見てみると、外はもう雨が本降りになっていた。
髪が乾いたのを確認してから、台所に行って、ご飯を用意する。
今日はラーメンが食べたくて、ラーメンの具材を昨日のうちに買っておいたのだ。
作り方を見ながら、ラーメンを作って完成したら、どんぶりに入れた。
結構いい感じにできたと思う。
お箸で麺をつまんでふーふーと息を吹きかけて冷まして口に入れる。
美味しいけれど、あまり味はしなかった。
ああ、あと少し。
あと少しで百五十万貯まる。
そうしたら、この家を出て行くんだ。
出て行って東京とかでひとりで暮らすんだ。
アルバイトをしたりして必死に貯めた百万。
あと五十万で百五十万貯まるのだ。
そう思えば頑張れたけれど、この日々は本当に苦しくて唯一私の心を支えてくれるのは、加藤先生だった。
お母さんとお父さんにとってはどうでもいいことだろうから、私はこの家を出て行くときは、何も言わないつもりだ。
こっそり私の大きなリュックの中にお金を入れてバレないようになんとか今まで百五十万も貯めたのだ。
ずるる、とラーメンを機械的に啜りながらこの家を出て行くときのことを考えるけれど、それまであと一年はかかるだろうから、この家を出て行けるのはきっとまだ先なんだろうな。
ああ、もう苦しい。
辛い。
喉が締め付けられるように痛んだ。
でも、ラーメンを啜る手は止めない。
もう少しだよ、と自分で自分を励ます。
この世界から消え去りたい。
この世にいる人たちから私の存在が消えてほしい。
もう、何もかも嫌だ。

がたんごとん、と電車に揺られながら背もたれに背中を預けて、横に流れていく風景を見つめた。
今日はなんとなくはやく起きてしまい、六時二十五分発の電車に乗ったのだ。
眩しい日差しで照らされる車内にはこの車両には私以外誰もいなくて、世界が私だけになったような気分になった。
とても静かな時間が流れる。
さああ、と葉が木々を撫でるような音が聞こえてくる。
ふいに昔のことを思い出した。
あれは……
ぷー、がしゃん。
ドアが開いて、私は今停まっている駅を確認して、電車を降りた。
駅も静かで人は数えられるくらいしかいなかった。
けれど、駅を出ると一気に騒がしくなる。
近くで有名人が撮影かなにかをしているらしい。
私は人の合間を縫うように学校へ向かう。
学校に近づいてくるとやっと人は引いてきて、ふう、と私は安堵の息を吐いた。
あのまま人の波に押し潰されるんじゃないかと思うくらいにたくさんの人がいて息が詰まるようだった。
放課後にあの森秋(もりあき)公園に行こうと決め、私は校門を入って、教室に向かう。
学校の中には人が全くといっていいほどにいなくて、教室に入っても私しかいなかった。
すうっと朝の学校の空気を存分に吸って席に着くとひとりの生徒が入ってきた。
一昨日の転校生、浅海くんだ。
「お、おはよ」
にこっと微笑んで挨拶をすると、眠そうに目をこすって私の隣にある席に座り、おはよ、と挨拶を返してくれた。
「思い出したんじゃない? あのときのこと」
ぽつりと呟くように言った浅海くんの言葉に私は、息を呑んだ。
「なんのこと?」
確かに私は思い出したけれど、浅海くんとは関係のないことなはずだ。
ガラッ。
何人かの生徒が教室に入ってくる。
そろそろ普通に人が来る時間だ。
「あーあ」
浅海くんはぼそっと言ってもうさっきのことは忘れたかのように前を向いた。



学校が終わる時間までは特になにもなくて、あっという間だった。
私は荷物をまとめて一緒に帰ろうと言ってくれる恵理に、用事があって、と言ってすぐにあの公園に向かった。
公園に入ろうとしたときだった。
ふと、透き通るように綺麗な深い青色が目を引いた。
足元を見れば、見覚えのある鳥の羽根が落ちていた。
「鳥さん――」
ひょいと拾い上げると、その羽根はどこかに向かって動き出した。
私の足は反射的に羽根を追いかける。
細い路地に出て、そのまま真っ直ぐ行ったところで羽根は、ぱっと止まって、思わず広げた私の両手の上に落ちた。
目の前にあるクスノキの枝に綺麗なこの羽根の持ち主である鳥さんが、いた。
はっと私は目を見張る。
そこには、いつの日か一緒に遊んだ、大好きな空の主の青い鳥さんだったのだ。
「なんで、鳥さんが、いるの?」
ほろり、と涙が零れて、羽根の上に落ちる。
鳥さんは少し口角を上げて「久しぶりだね、美波。会いたかったよ」と鳥さんの瞳からもきらきらと光る涙が流れた。
うん、と私は頷いて、鳥さんのふわふわの頭を優しく撫でた。
気持ちよさそうに目を瞑り首を伸ばす鳥さんの表情は幸せそのものだった。
「ねえ、鳥さんはなんでここにいるの? あのときは遠くに行くって言ってたのに。もしかして、私に会いたくなっちゃった?」
私と鳥さんは原っぱにごろんと寝っ転がって、空を見つめながら話す。
「美波の言う通り」
鳥さんと私は見つめ合う。
まさかこんなにすらっと言われるとは思わなかった。
ふふ、と鳥さんが笑みを浮かべた。
「私ね、ずっと苦しかったの。女の子の財布が落ちてたから、拾ったらその子のお金を盗ったって言われちゃって。お母さんにもお父さんにも、その日から無視されるようになって、ずっとひとりだった。だから、これからも昔みたいに、遊んでくれる?」
鳥さんの顔から笑みが消えた。
苦しそうに顔を歪めて「それは、できない」と言った。
目の前がぐらりと揺れた。
「なん、で?」
「僕には『想いの硝子』というものがないんだ。空の主になった僕には必ずこの『想いの硝子』がないといけない。だからそれを探す旅に出ないといけない」
寂しそうに言う鳥さんをぎゅうっと抱きしめた。
「嫌だ。私も行く」
我儘だ、ということはわかっているけれど、鳥さんと一緒にいたかったのだ。
「それはだめだ。美波が行くには壮絶すぎる旅になると思うんだ。美波を危険な目に合わせるわけにはいかない。でも、大丈夫だ。その羽根を持っていれば、いつでも、僕のことを呼んでくれたら、すぐに飛んでくる」
一旦、抱きしめていた手を離すと鳥さんは安心させるように優しく微笑んだ。



あの後、すぐに鳥さんは旅に行ってしまった。
私はあれから部屋でたくさん泣いたけれど、立ち直って普通に学校へ向かった。
学校について席に座ると、まだ浅海くんしか来ていなくて、誰もいなかった。
「おはよう」
浅海くんににこっと微笑まれて、おはよう、と私も返した。
次の瞬間、目の前に黒い羽根が舞った。
ばさっと長いスーツのふわりとしている部分を広げる音が聞こえて、気付けば浅海くんが真っ黒の紳士なスーツに身を纏っていた。
ふっと怪しく笑って右手を胸にあて、お辞儀をするような体勢になって言う。
「美波様。お迎えに上がりましてございます」
なにが起きたのかわからなかった。
無言で黙っていると、浅海くんは私の思っていることを見透かしたかのように言った。
「わたくし、エリナ・ソラソン様に仕える、チョガ・リヘナと申します。浅海悠里、という偽名でこちらの学園に入り、美波様から『想いの硝子』を頂戴しろ、とエリナ様からのご命令をお受けいたしまして、空の彼方よりやってまいりました。どうぞ、わたくしのことは、チョガ、とお呼びください」
私はわけがわからなくて、混乱した頭を必死に整理して、「ちょ、チョガさん。『想いの硝子』って……」と訊ねる。
チョガさんは「『想いの硝子』とは、空の主になったものには必要不可欠な心臓の一部のことでございます。それをあなたはどうしてか、お持ちなのです。それをわたくしに渡してくださいませんか」と頭を深く下げてくる。
私はどうすればいいのか迷い、鳥さんを呼ぶことにする。
ポケットに大事に大事にしまっていた鳥さんの羽根をぎゅっと握りしめて、小さい声で「鳥さんっ、お願い、来て――」と話しかけるように言った。
ぱあっと目の前で光が弾けた。
「美波、どうした?」
光の中から現れたのは、鳥さんだった。
「チョガさんが、『想いの硝子』を渡してって」
言うと、鳥さんは「チョガ?」と目を見開いて、はっと後ろを振り返った。
「おや、これはこれは、兄さん。久しぶりですね」
にこにことした笑顔を崩さずに言ったチョガさんの一言に、え、と私の頭はかちんと固まった。
「チョガ、まだ『想いの硝子』を狙ってたのか。で、『想いの硝子』は美波が持ってるのか?」
ふたりは兄弟なのだろうか。
けれども、あまり仲が良くなさそうだ。
「ははっ。そうだよ。じゃあ、美波様、渡しくださいますか。『想いの硝子』を」
急にチョガさんは私の方を向いて言った。
「わ、渡さない! 私は、鳥さんに、渡したい」
私は自分の想いを伝える。
チョガさんは「ほう。ならば、奪わせてもらう」と構えた。
鳥さんが「両手を合わせて、胸にあてて、『想いの硝子』を渡したい相手を思い浮かべるんだ」と早口で言って、私の前に立った。
ふたりが言い合っているのを耳に入れながら、鳥さんに言われた通りにする。
私の胸から光輝いたものがひゅうと抜け出して、鳥さんの胸にすうっと入っていった。
ぱっと鳥さんが輝いて、「想いの硝子」が鳥さんに馴染んだら、輝きが消える。
チョガさんは絶望したような顔でチッと舌打ちをして、ばさっと紳士服の袖を広げて、黒い鳥になって空へと飛んでいった。
「僕は、レイラ・リヘナ。レイラとでも呼んで。まだ、『想いの硝子』は僕に馴染んでいない。だから、馴染むまで、一緒にいてくれないか?」
少し恥ずかしそうに言って、鳥の姿のときと同じく美しい顔立ちの人間の姿になった。
人間になることもできるんだ、と思いながら「レイラさん! うん、ずっと一緒にいよう」と笑顔で言った。



おはよう、と耳元で声が聞こえた。
すぐそこには鳥の姿をしたレイラさんがベッドのふちのところにとまっていた。
「レイラさん、おはよう。ここは、どこ?」
見覚えのない葉っぱで作られたような小さな空間を見回して訊く。
あの後、私は「想いの硝子」をレイラさんに渡したことにより、気絶してしまったらしい。
「僕の家だ。これからここで暮らそう。あの家には帰りたくないだろう」
控えめな笑顔でそう言ったレイラさんをぱちぱちと瞬きをしながら見つめて「うん。ありがとう」と満面の笑みでレイラさんの頭をなでなでと撫でた。
嬉しそうに笑ってレイラさんはいつものように首を伸ばした。
私は起き上がって、葉っぱでできた丈夫な葉っぱの椅子に座って、レイラさんに、食べていい、と言われた美味しそうなシチューを頬張った。
中には、にんじんやお肉など美味しそうな具材ばかりが入っていて、下には、お米が入っていた。
誰かに作ってもらったご飯を食べるのは本当に久しぶりで、とても美味しく感じられた。
「美味しいか?」
と不安そうに訊いてくるレイラさんに頷いて、めっちゃ美味しい、と返すとやけに嬉しそうに、そうか、と返ってきた。
「これ、レイラさんが作ったんだよね?」
葉っぱの小さな台所を指差してレイラさんに訊くと、「ああ。具材は買ってきた」と頷いた。
こんな美味しいシチューが作れるなんて凄いね、というとレイラさんは「そんなことはない。ひとりだったから今まで簡単なシチューをたくさん作ってきただけだ」となんてことないような顔で言う。
「謙遜しないでよー!」
頬を膨らませて言うと、レイラさんは目を丸めたあと、表情をふわりと和ませて、ふふっとふたりで笑い合った。
「美波、今日はどうする? 買い物に行くか? 欲しいものがあればなんでも買ってやるし。あと服も買った方がいいかもな。それとも、公園に遊びに行く?」
突然お世話好きのレイラさんが顔を覗かせた。
「ううん。私はレイラさんと森までピクニックに行きたい! パンとかサンドイッチ持って。どう?」
今日は外でゆったりしたい気分だった。
レイラさんは少し拍子抜けしたような表情をして「美波が行きたいなら。でも、そんなのでいいのか?」と不安そうに訊いてきた。
「いいの!」
そう言うと、レイラさんは人間の姿になって張り切ったように言って準備をはじめた。
「じゃあハムとたまごとレタスとハムのサンドイッチふたつとあんぱんとフランスパンを持って行こう。このバスケットに入れてくか」
意外におしゃべりなのだろうか。
なんか、こういう人と出会ったことがあったような、ないような?
ま、いっか。
「私も手伝うよ」
「いや、いいよ。美波はシャワーでも浴びてきて」
真剣にサンドイッチの食パンの間にハムとレタスを詰めながら、言った。
わかった、と私は返してシャワーであろう場所に入った。
しゃっと厚めの葉っぱで出来たカーテンを閉めて、シャワーを浴びる。
髪も洗おうかと思ったけれど、ここにドライヤーがあるかわからないので、やめといた。
しかも、腰くらいまであるロングヘアーなので、洗っても自然に乾くことはない。
服の背中のところが濡れてしまう。
私は髪をたまたま持っていた髪ゴムでポニーテールに結んだ。
全身を洗い終わったら、出て、そこに置いてあったタオルで拭いて、さっき着ていた制服をもう一度着て、レイラさんのところまでいった。
「ポニーテール、似合う。その髪の方が似合うよ」
とても恥ずかしいことを平然と言ってのけたレイラさんから視線を逸らして、でも、髪をほどくことはせずにそのままでレイラさんの手元を眺めていた。
「出来た。じゃあ、行くか」
にこっと笑ってバスケットを持ったレイラさんに並んで「うんっ」と返して、ローファーだけれど靴を履いた。
「あ、そうそう。ここってドライヤー、あるの?」
シャワーを浴びたときから気になっていたことを訊いてみる。
レイラさんは「ないな。僕の髪は自然に乾くから。あと、風呂に入らないこともしばしば」と思い出しながら言った。
「そうか。美波は髪が長いからな。じゃあ、明日にでも買いに行くか」
頷きながらそう言うレイラさんはずっとにっこにこ笑顔で嬉しそうだ。
「うん、ありがとう。お金は……」
ポケットを探ってみるけれど、財布もお金もない。
入っているのは、スマートフォンだけだ。
さーっと血の気が引いていくのがわかった。
これじゃ、なにも買えない。
「いいんだよ。僕が出すから」
ぺっぺとお金を払う仕草をしながら親切にそう言ってくれたレイラさんにぺこりと頭を下げて「……その、すみません。お願いします。ありがとうございます。本当にありがとう」とお礼を言った。
「そんなに改まらなくてもいいんだよ」
苦笑して言うレイラさんは本当に良さそうだ。
私はもう一度、ありがとう、とお礼を言って、レイラさんについて行く。
「そういえば、森って適当に言っちゃったけど、どこの森に行くの?」
自分で言っておきながら、相手に道案内をしてもらうのも悪いな、と思いつつも自分から言い出していない風にそう訊いてしまう私を内心、睨んだ。
レイラさんは歩調を緩めてくれていたのをさらに緩めて、私と並んで言った。
「綺麗できらきらな美波にぴったりの森」
迷いなくにっとかっこよく笑ってそう言ったレイラさんになぜだか懐かしさを感じた。
気付けばあたりは様々な木々ばかりになっていた。
「美波、着いたよ」
私の前を隠すようにして歩いていたレイラさんが横によけた。
目の前は、きらきらに太陽が木々の隙間から差し込んでいて、その下には、美しい小さな湖があった。
見惚れてしまうほどに綺麗な空間に息を呑んだ。
今までこんなにっ綺麗な景色には出会ったことがなかった。
湖の水の色は、真っ青と緑を混ぜたような色でまさに幻想的という言葉がぴったりな世界だった。
ここだけどこか異国の地にあるような、そんな思いを抱かせてしまうほどに強い力を秘めた場所のようだ。
「きれい……」
やっとの思いで口にした言葉は、たったの一言だった。
それでも、レイラさんは笑顔になって「でしょ。美しい波って書いて美波だから、そんな名前にぴったりだし、美波自体にもすごく合ってる」と言ってくれた。
レイラさんのとても温もりに溢れた優しすぎる言葉にこくりと頷いて、湖に近づいた。
太陽の光で、私の影が湖にぼんやりと浮かんだ。
「じゃあ、食べようか」
レイラさんの言葉で、はっと我に返る。
「う、うん」
頷いて、レジャーシートを引いて、バスケットに入っている美味しそうなサンドイッチとパンを広げた。
「いただきます!」
ふたりで手を合わせて、ハムとたまごの美味しそうなサンドイッチにがぶっとかぶりついた。
「おいしっ!」
今までこんなに美味しいサンドイッチは食べたことがない。
ていうか、サンドイッチなんて生まれて初めて食べた。
大袈裟だなあ、とおどけたように笑うレイラさんに私にとっては本当に今までにないほどに幸せな時間なのに、と思う。
私にはこんな時間、今までなかった。
学校に行って、寝る。
毎日その繰り返し。
なのに、こんなに贅沢な時間を送ってもいいのだろうか、と思うほどに素敵できらきらで輝いた日々。
ぽろ、と嬉し涙が頬を伝った。
最近は泣いてばかりだな。
「ど、どうした? まずかったか?」
突然泣き出した私に戸惑いながらそう心配してくれたレイラさんに「ありがとう。本当に嬉しくて」とぽろぽろと涙を流しながら言うとほっと安心したように笑顔になった。
「よかった」
と私の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。
ふふ、と笑うと湖の水面がぬるい風で少し揺れた。



そろそろ帰るか、と立ち上がったレイラさんに続いて私もバスケットにゴミとかをしまい立ち上がり、湖をあとにする。
「楽しかったね」
心から微笑んで言うと、レイラさんは「ああ。今まで生きてきた中でいちばん楽しかった」と鳥さんの姿になって言った。
家が見えてきて、少し歩けば家に着いた。
見た目さえも葉っぱで出来た家に入って靴を脱ぐと、心は楽だけれど一日中外にいた疲れがたまっていた。
ふうー、とレイラさんとソファに座る。
ふっかふかの葉っぱで出来た、ソファに寝っ転がりたくなってしまう。
ぱち、とレイラさんが動いて長いまつげが上下にゆっくりと動いた。
「もう寝るか?」
うん、と頷いてレイラさんが言った。
今日の朝に、私が寝ていたベッドに寝ていいことになった。
制服だけどどうしたらいいか訊いたら、ぶかぶかだけれど、服を貸してくれた。
寒いので毛布に包まって目を瞑ると、すぐに眠りについた。
耳にレイラさんがソファに横になる音が聞こえた。



「レイラさん、おはよう! 今日は、私が朝ごはん作ったよ」
昨日、寝るのが早かったからか、朝早くに目覚めてしまって、先に朝ごはんを作ろうと思ってレイラさんも好きそうな餃子を作ったのだ。
ポケットに入れていたスマートフォンで近くにあるスーパーを調べて、昨日あらかじめレイラさんに渡されていたお金で具材を買って、作った。
レイラさんのためにご飯を作っているときは、楽しかった。
まだ寝ぼけ眼のレイラさんは洗面所で顔を洗ってきてから、いつものようにしゃっきりとした表情で「美波、おはよう。餃子のいい匂いがするな。もしかして美波が作ってくれたのか?」くんっと鼻を効かせてそう言った。
私は気付いてくれたことに嬉しくなって「うんっ! 餃子レイラさん好きそうだから」と言うとレイラさんは顔を輝かせて「餃子は好物だ。よくわかったな」と大人っぽい余裕そうな笑顔で微笑んでくれた。
私は、ふんふんと鼻歌を歌いながら餃子の乗せられたお皿をテーブルに置くと、レイラさんは待ちきれないというように、お箸で餃子をひとつ口に入れた。
「美味しい! 今まで食べてきた餃子の中でいちばん美味しいぞ!」
ばくばくとハイエナのような速さであっという間にお皿に入っている半分くらい食べてしまった。
私は自分用に餃子の乗せられたもう一皿を持って来て食べた。
口の中いっぱいに餃子を詰め込んで、「そうだ。今日は買い物に行くんだよな」と思い出したように言った。
「うん。いい? パジャマと普段着と室内着と靴下と万が一のために折り畳み傘とぬいぐるみ、ぐらいかな」
買っておかなきゃいけないものを羅列してみたけれど、はっと思い出した。
レイラさんに買ってもらうんだから、ぬいぐるみと靴下と室内着はやめないと。
「ご、ごめん。レイラさんに買ってもらうの忘れちゃってて、ぬいぐるみとくつし――」
やめるものを言おうとしたら、レイラさんに言葉を遮られた。
「いいよ。そんなに気遣わなくて。僕のことは自分の親のように思ってくれればいいから。だからほしいもの全部買ってあげるよ!」
優しいけれど、有無を言わさぬ雰囲気でそう言うレイラさんに「ごめん。じゃあ、ぬいぐるみも買ってください」と少し上目遣いでお願いした。
「うんうん、全然いいよ。ていうか、ぬいぐるみがないと寂しいの?」
はは、と笑いながら言ったレイラさんに「ま、まあ」と視線を逸らして私の分の餃子を食べながら曖昧に返した。
「ぷっ、あはは、ぶふっ。あ、ごめん。で、ぬいぐるみも欲しいのは全部買ってあげるから言って」
失礼なほどに噴き出してから、笑いを我慢している真剣な表情で言った。
「ちょっと、笑わないでよ」
頬を膨らませて怒って見せてから、ふたりで笑った。
じゃ、行こっか、と餃子を食べ終わらせてから言って、靴を履いて家を出た。
ぴろん、とスマートフォンに連絡が入った。
見ると恵理からだった。
『美波、最近ずっと学校来ないけど、なにかあったの?』
ときていたので、『なにもないよ。そのうち行くかも』と返してからスマートフォンの電源を切った。
「じゃあ、行こう」
そう言ってふたりで歩き出した。
電車に乗って、三駅目のところで降りたところのすぐそこに大きなショッピングセンターがあった。
映画館までついているでっかい建物だ。
ショッピングセンターなんて小学一年生のころにお母さんとお父さんと一緒に初めて行って以来だ。
だから、ほとんど覚えてなくて、来たのもこのショッピングセンターではなくもう少し小さいショッピングセンターだった。
「まずは何から買いに行く?」
私の方を向いて言ったレイラさんに私は「ぬいぐるみ」と顔を前に向けながら早口で言った。
「ぬいぐるみね、おっけーおっけー。ゲームセンター行って、とる?」
先にすたすたと歩き出したレイラさんを引き留めて訊く。
「待って、ゲームセンターってなに?」
振り向いたレイラさんのまつげが不思議そうにぱちぱちとはやく動いた。
「そうか。ユーフォ―キャッチャーは? 知ってる?」
「ユーフォ―キャッチャーは知ってるよ。学校で恵理が言ってたから」
「そのユーフォ―キャッチャーでぬいぐるみがとれるんだが、それでとるか?」
小さい子供に言うようにゆっくりと言うレイラさんに少しかちんときたけれど、うん、と頷くだけにしておいた。
恵理が誰かを訊かないでくれるのが、レイラさんの隠れた優しさだと思った。
私たちはゲームセンターに向かって歩き出す。
中に入ると、ぎっしりと色々なお店が立ち並んでいて、目が回りそうだった。
どこを行っても、お店ばかりだ。
まずは、大きく入り口に「ゲームセンター」と書かれた看板が掲げられているところに入った。
ざわざわと騒がしい。
なにがゲームをする音や、太鼓で遊ぶものなどいちばん前にはユーフォ―キャッチャーがたくさんあった。
透明の箱の中にぬいぐるみもたくさん入っている。
とれるやつを動かしてとるらしい。
私は一回お手本でレイラさんにやってもらった。
私の半分くらいの大きさはあるめっちゃ大きいクマくんの可愛いぬいぐるみだ。
うぃーん、とアームを動かしてぬいぐるみの上に来たら、下にいく矢印のボタンを押して、アームががしっとクマくんを掴んだ。
そのまま出口まで行き、落ちる、と思ったときにぎりぎりのところでクマくんは、落ちなかった。
「ああーあ」
と声を上げると、嬉しそうにレイラさんが振り向いて「やってごらん。次やれば、取れそう!」と言った。
私は三百円をもらって入れた。
レイラさんのようにアームを動かしてぴたっとクマくんの上で止めて、下におろす。
がしりとまたアームがクマくんを掴み、次こそは落ちた。
出てくるところからクマくんを出すと鳥さんの姿のレイラさんと同じくらいもふもふのぬいぐるみだった。
お腹とか頭とかいろんなところを撫でていると、クマくんはすっぽりと入りそうな大きな袋を持ってゲームセンターの店員の人が来てくれた。
「よかったらどうぞー。凄かったですね」
にっこりと笑顔で言いながら、袋を差し出してくれる店員さんに、ありがとうございます、とお礼を言って次はエビフライを持った猫ちゃんが四匹くらい並んだ枕を取ることにした。
この枕は五回でやっと取れた。
次は、猫ちゃんのぬいぐるみを三回、サメさんのぬいぐるみを七回、レイラさんのような鳥さんのぬいぐるみを三回で取って、洋服の売っているところに向かった。
手には五匹もぬいぐるみの入った袋がある。
でっかくて、持って帰るのが大変そうだけれど、なんとか持って帰ることはできそうだ。
こんなに買い物が楽しいなんてと驚きながらあっちだこっちだといろんなところに行って、気付けば外は真っ暗でお腹もぐるると音をたて始め、レイラさんと私の手は袋でいっぱいだった。
私は首にもう少しで秋だからと買ったマフラーを荷物を減らすために暑いけれど巻き、レイラさんにはコートを着てもらい、大きな袋をふたりで持って、切符を改札に入れるのでも一苦労だった。
そんなわけで、家に着いた頃にはふたりともへとへとで汗だくだった。
先に私がシャワーを浴びて、レイラさんのシャワーが終わるのを待ちながらぬいぐるみを袋から出して並べた。
服は、お風呂に入る前に洗濯機に入れてある。
どのぬいぐるみも枕以外は大きめのサイズで、ベッドを埋め尽くしてしまうほどだった。
私はベッドに今日買ったばかりのパジャマでぬいぐるみたちと横になり、クマくんに抱き着いた。
そのまま、うつらうつらとしていると、レイラさんがシャワーから出てきてご飯を作ってくれた。
私は眠すぎるけれど、お腹はすいていたのでなんとかクマくんを引きずってベッドから降りてテーブルの椅子に座り、その隣にクマくんを座らせた。
椅子は四つあったから、レイラさんも座れた。
美味しそうな炒飯(チャーハン)を見つめながら、ふたりは手を合わせ、「いただきまーす!」と口々に炒飯を食べた。
そのあとは、すぐにベッドで寝てしまった。

とんとん、と軽快に包丁で何かを切る音で目を開けると、視界は真っ暗で何も見えなかった。
私の顔の上に乗っかっているものをどけると、それは、昨日ゲームセンターで取ったクマくんだった。
どうりで息が苦しかったわけだ、と考えながら起き上がってこぢんまりとした台所に行くとレイラさんがご機嫌そうに料理をしていた。
私たちのために朝ごはんを作ってくれているのだろう。
「おはよう。なに作ってるの?」
「ん? ああ、美波。おはよう。はちみつとブルーチーズのトーストとレタスとレモンのサラダ」
得意そうに胸を張って言うレイラさんに「美味しそう!」と言いながら鼻にはちみつと心地いいブルーチーズの香りが広がった。
すう、と息を吸い込んでいると、チン、とレンジの音がした。
ななめ後ろを振り返ると、途端に、ふわあ、とレモンの少し酸っぱい香りが鼻腔を(くすぶ)った。
「着替えてくるから、サラダとトーストが出来たら絶対に絶対に呼んでね」
そう言い残して私は着替えるために洗面所に行った。
昨日レイラさんに買ってもらった、白いTシャツにちょっと寒いのでふんわりと袖の膨らんだ青いカーディガンを着て、ジーンズという無難な服装に着替えたところで、「美波、できたよ」とレイラさんの呼ぶ声が聞こえてきて急いで食卓に向かう。
「わあ~! どれも美味しそう」
さっと瞬間移動のような速さで椅子に座り、いただきます、とまずはサラダを口に運んだ。
レモンが想像していたよりも酸っぱくて、ぴぎょっ、と変な声が出てしまう。
大盛りのサラダを五分ほどで食べ終えて、ついにメインのトーストをがぶりと食べた。
じゅわあ、とはちみつとブルーチーズの程よいくちどけが癖になり、あっという間にお皿に盛られたトースト二枚を平らげてしまった。
もちろんお腹はぱつぱつで、もっと食べたかったけれど、もう一口も入りそうになかった。
「ごひほうさまでひた」
軽く吐き気を感じながらソファに座ってもたれかかった。
ピンポン、ピンポーン。
二回連続でチャイムが鳴った。
レイラさんは台所にお皿を洗いに行ってくれていて、私が出ようかと思ったけれど、その前にレイラさんが台所から出てきて、玄関に向かってくれた。
「はい」
人間の姿になってガチャッと玄関のドアをレイラさんが開けると、チョガさんが立っていた。
私は驚きながらもソファに座ったままこっそりと覗く。
「やあ、兄さん」
にこっと威圧感のある笑顔で穏やかにチョガさんは言う。
「チョガ、何の用だ? なるべく早急に帰ってほしいんだが」
怒ったように眉を寄せているのが、レイラさんの横顔でわかった。
「ははっ、兄さんはこれで終わりだ。」
後ろに髪をかきあげて嬉しそうに眉を歪めて言ったチョガさんに向けてレイラさんはもっと眉を限界まで寄せる。
「どういうことだ? また何かくだらないことでも企んでいるなら、やめろ。もうどうにもならない」
「プラリツソントクキュウトリルートヨロイクロイシアジャ」
チョガさんが目をばちっと開き、謎の呪文のようなものを小さめの声で呟いた瞬間、レイラさんは苦しそうに胸を抑えてがくっと崩れ落ちた。
目を見開き「チョガ……、ねらって、たのか。いつか、とりかえして、やる」と苦しそうにレイラさんは途切れ途切れに言って、ぎゅっと胸を強く抑えた。
チョガさんはレイラさんを見下ろしながら、ふっと満足そうに微笑んだ。
私は怖くてチョガさんの前に出られなかったけれど、苦しむレイラさんを見つめるたびに胸が痛んで、我慢できずにレイラさんの元に行って、レイラさんに寄り添った。
私は「レイラさん、助けられなくてごめんね」と言ってチョガさんを、きっと強く強く睨みつけた。
チョガさんは理不尽そうにレイラさんによく似た綺麗な形の眉を寄せた。
「なんだ?」
冷たい凍り付いた鋭い瞳で睨み返されて、ひっと身体が(すく)む。
怖くないと自分に言い聞かせ、精一杯の一言をチョガさんになるべく怒りが伝わるように言った。
「今すぐ出て行って。あなたなんて怖くない」
「嘘つきのくせに偉そうに。『怖い』って顔に書いてあるんだよ。じゃあね」
興味もなさそうに踵を返してチョガさんは出て行った。
私はドアから目を逸らして、レイラさんを見た。
ベッドに運びたかったけれど、私にはそんな力はなくて、鳥さんの姿になって目を瞑っているレイラさんをぎゅっと抱きしめた。
あれ、と思う。
いつものような温もりはなくて、レイラさんはひんやりと冷たくなっていた。
レイラさんは息もしていなくて、ただ目を瞑っているだけだった。
「ねえ? レイラさん? レイラさんっ! 起きてよ……」
いくら呼んでもレイラさんはピクリともせずに冷たいままじっと動かない。
涙が次々と頬を伝って床に私の手の上で動かないままのレイラさんの頬に落ちる。
ふと後ろに温もりを感じた。
「美波、安心して。泣かないで。僕のせいで美波を泣かせたくない。『想いの硝子』をチョガにとられた。それを取り返してきて僕に授けてくれたら生き返るよ」
優しくて暖かいレイラさんの声が聞こえて振り返るけれど、後ろには誰もいなかった。
私は今の一言を反芻して、早速、出かける準備をした。
チョガさんを追いかけるのだ。
さっきチョガさんが、よしこれからあのスーパーに寄ってから行こう、と小さく呟いているのが聞こえたのだ。
だから、私はたぶん近くのスーパーにいると見て、スーパーに行くのだ。
レイラさんをそっとハンカチに包んでリュックに入れて、食料と水を入れ、背負った。
顔を隠すために黒いキャップを目深に被った。
走ってスーパーへ向かう。
スーパーに着いたら、ちょうどチョガさんがレジにいるところだった。
炭酸飲料を買ったようだ。
私はこっそり警戒心の全くないチョガさんから少し距離を置いて尾行する。
十分ほど歩いてから、人のいない道に出た。
チョガさんが周りをきょろきょろと見回し始めたので、私はすぐそこにある電柱にさっと隠れた。
なんとか気づかれずにすんだ。
ここからは聞こえないけれど、チョガさんは何やら呟くと、チョガさんの目の前に虹色の階段が現れた。
なんだこれ、とびっくりして声を出しそうになったけれど、なんとか口を抑えて間一髪。
足音を立てないように気を付けながら、そっと歩く。
かつかつ、と靴音を立てながらスキップに近い歩き方でずんずん歩いて行くチョガさんの後ろを歩きながら、どうなってるんだ、と戸惑っていた。
三メートルほど先には、ファンタジー小説にでも出てきそうな大きな王国が立ちはだかっている。
近づけば近づくほど王国は迫力を増す。
圧倒されるほどの大きさの「空孫国(そらそんこく)」と書かれた門をくぐり抜けると、地面は薄く水が張り巡らされていて、ぴちゃぴちゃと音がならないように本当にそっとそっと歩いた。
しばらく歩いたら、お城のような建物が現れた。
「空孫国」の門よりも大きいお城だ。
私は太い木に身を隠した。
お城の入り口だと思われるところに美しい若い女性が立っていたからだ。
女性は余裕の笑みで目を細めてから、すぐに普通の顔に戻った。
次の瞬間、目の前がぐらあと歪んで、目を閉じる。
少し目を瞑ってから、目を開けると見覚えのないさっき立っていたところとは違うきちんと整理整頓されたシンプルで豪華な部屋に、私はいた。
どういうことだ、と部屋を見回してみると、部屋のドアが開いてさっきお城の入り口の前に立っていた女性が入って来た。
「美波ちゃん、こんにちは。私はエリナ・ソラソンよ。チョガから私が頼んだ『想いの硝子』をいま受け取ったわ。強引な方法でごめんなさいね」
申し訳なさそうに眉を下げ、苦笑する。
急にいろいろなことが起きて、頭が混乱する。
なんとか物事を整理し、「エリナさん、その『想いの硝子』を返してくれませんか」とどうしてここに来たのか、わからないことはたくさんあるけれど、一秒でもはやくレイラさんを生き返らせたくて単刀直入に言った。
エリナさんは少し驚いたような顔をしてから「ええ、美波ちゃんと会いたくてチョガに頼んだだけだから」にこりと優しく笑って「想いの硝子」を潔く渡してくれた。
私はすぐにリュックからレイラさんを出して、ハンカチをめくる。
やっぱり冷たくて息をしていないレイラさんが眠っている。
私は「想いの硝子」をレイラさんに渡すことを思い浮かべながらレイラさんを両手で包み込んだ。
すると、ふわと「想いの硝子」が浮いて、あのときのようにレイラさんの胸に吸い込まれるように入っていった。
「ひとつ、いいかしら。この子は明日まで生き返らないわよ」
注意するようにそう教えてくれたエリナさんにお礼を言って帰ろうとすると、「また来てね」とエリナさんが言ってから、また目の前が歪んだ。
気付けば、レイラさんの家の前まで来ていた。
エリナさんの能力なのかな、と思いながら家に入ってレイラさん手に持ったままベッドに横になった。
すぐに眠気が襲ってくる。
起き上がる気力も起きずに、そのまま私は目を瞑って深い眠りについた。



「ねえねえ、起きてよー。ねーえー!」
お腹の上に重みを感じて目を開けると、目の前に小さくなったレイラさんが私のお腹に乗っかっていた。
え、なんでレイラさんが縮んでるの?
ていうか、幼い子供に戻ったみたい……
「レイラさん、ど、どうしたの?」
とりあえず軽いレイラさんを持ち上げて、起き上がる。
レイラさんはベッドにちょこんと座ると「れーくんね、おねえちゃんよりもずうっとはやくおきてたんだよ! すごいでしょ!」といつものレイラさんとは違う雰囲気で、にっと無邪気に笑って言った。
「う、うん。すごいね」
戸惑いながらも、少しぎこちないけれど笑顔で褒めるとレイラさんは「えへへ」と頬をわずかに紅潮させた。
「おねえちゃん、おなかすいたー」
レイラくんは自分のお腹を撫でながら言う。
「何が食べたいの?」
「えっとね、えっとね、オムライス!」
「じゃあ、スーパーに買い物に行こうか」
なんとか、これはレイラさんが小さくなっただけでそのうち戻るだろう、と冷静に受け止めて、オムライスを作るために買い物に行くことにする。
レイラくんお家で待ってられる、と訊いたらレイラさんは一緒に行くと言って靴を履きはじめる。
手こずりながらもすぽっといつものレイラさんの靴が、なぜか小さいレイラさんの足にぴったりに縮んだ靴を履いて、「はーやーくー!」と叫ぶように大きい声で言った。
私は慌てて昨日の着たままだった服は着替えずに、かばんと財布だけ持って靴を履いてレイラさんと迷子にならないように手を繋いで外に出た。
レイラさんは「わあ~。おねえちゃんみて! きらきらおひさま!」目を輝かせてにこっと笑い、太陽を指差した。
綺麗だね、と微笑み返すとレイラさんは「うんっ」と弾んだ声で答えた。
スーパーまでの道のりをレイラさんとゆっくり歩く。
小さい子供のレイラさんはいろんなものに目を輝かせては笑って、あれなあに、とか、あれしってる、などと言いながらはしゃいでいた。
スーパーについたら、まずオムライスのための卵とケチャップと玉ねぎと鶏肉を買い物かごに入れて、レイラさんが「あれ食べたい!」と言った星の形をしたチョコレート味で、国民的大人気のアニメキャラのシールが入っているというビスケットを入れて、買った。
家に着いたことにはもう十一時になっていて、一時間も経っていた。
スーパーから帰ってくるときに、レイラさんと帰り道にある公園で少し遊んだのだ。
すぐにオムライスを作る。
小さい子供の世話をするというのはどれほどに大変なのだろうか、とため息を堪えながら思う。
オムライスができあがったらテーブルに二人分を並べて、食べた。
結構美味しくできた。
レイラさんはオムライスが食べ終わると、さっき買ったビスケットを食べながらテレビを見ていた。
特に子供が見るような番組がやっているとは思わなくて、見てみると、驚いたことにグルメ番組を見ていた。
意味わかるのかな、と思いながら私は皿洗いをすることにした。
少ししか面倒を見ていないのに、疲労に襲われる。
「美波、ただいま」
最後のお皿を洗い終えたところで、後ろから穏やかなレイラさんの声が聞こえてきた。
お皿を置いて、すぐに振り返ると元に戻った人間の姿のレイラさんが微笑んでいた。
「おかえり! レイラさん」
私は手をタオルで拭いて、ぎゅっとレイラさんの手を握る。
ちゃんと暖かい温もりを感じて、安心する。
本当にレイラさんは帰ってきてくれた。
嬉しくて涙が出てきてしまう。
「本当に、よかった……」
微笑みながら窓から差し込む光を帯びて、きらきらと輝く宝石のような涙を流しながらレイラさんの手をもっと強く握った。
「そんなに言ってくれて、ありがとう」
レイラさんも涙を流しながら私の手を握り返して言う。
ふたりで手を握り合いながら、私たちは生きているという実感を得ながら、とても暖かい涙を流した。



「美波、家に帰れるか?」
さっき焼いたシフォンケーキを食べながら、レイラさんが想像もしていなかったことを言った。
どういうことか、と言葉を理解するのにずいぶんと時間を要した。
「突然、どうしたの? もしかして、私のことが、邪魔、なの?」
恐れていたことを口にすると、とても苦しくて息が詰まりそうな感覚を久しぶりに感じる。
「邪魔なんかじゃない。でも、僕はもう旅にいかなくちゃいけないときになってしまったんだ」
悲しそうにフォークを音もなく置いて、辛そうに言うレイラさんを信じられない目で見つめる。
「旅って?」
「僕は、空の主だ。空の主は、神だ。だから、『空孫国』のように空に『空主』という大きな僕の国を作らないといけないんだ。だから、そのために旅に出て、世界のことを知らないといけないんだ」
消え入りそうなほどに小さい声で教えてくれたレイラさんは、本当に泣きそうだった。
そうなんだ、となんとか返すけれど、どうしても信じたくなかった。
「じゃあ、帰るね」
必死に笑顔を作って、荷物をまとめたりと帰る準備をしはじめる。
リュックに入るものは全部詰めて、あとは他のかばんや袋にたくさん入れて、なんとか両手で全部持つ。
レイラさんは俯いたまま何も言わなかった。
私が靴を履いて出て行こうとしたときに、やっとレイラさんは一言、言ってくれた。
「いつか、また絶対に僕たちが再会したあのクスノキの前で会おう」
玄関までやってきて、レイラさんはそう言い、無理やりだとわかる笑顔を浮かべた。
「……うん。また、会おうね。絶対に約束だよ」
私は歯を食いしばりながら涙を堪えて、前を向いてレイラさんの家を出た。
家に帰ったら、お母さんとお父さんは私のことを心配してくれているだろうか。
なんてことを考えながら寂しさで心臓にナイフを突き刺されたようなずきずきとした痛みを感じた。
ねえ、レイラさん、私たちはきっと運命の糸で繋がってるよね。
空を悠々と飛んでいく自由そうなレイラさんを見つけて見つめながら、心の中でそう問いかけた。
私はスマートフォンの電源を入れて、マップアプリを開いた。
家の場所を確認してから、家に向かって苦しさを感じながら歩き出す。



ガチャ、と家のドアを開いて中に入るとやっぱり家は耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
リビングに行くと、お父さんもお母さんもいなくて、仕事に行っているようだった。
私は部屋に行ってレイラさんに買ってもらった大切な荷物を片付けた。
三十分で片付けてしまえば、あとはすることがなくてぎゅうっとクマくんに抱きついて息が詰まるほどの苦しさに堪えた。
レイラさんに会いたいな。
クマくんを手に抱えたまま、私は靴を履いて外に出た。
会えないことはわかっているけれど、レイラさんと再会したクスノキの前に行ってみる。
誰もいなくて、ひっそりとした空気が心地いい。
クスノキを囲むように設置されたベンチに、クマくんと座ってレイラさんと再会してからの記憶を辿ってみる。
どの記憶も色鮮やかで、楽しい記憶だった。
「まだ再会してからちょっとしか一緒にいれなかったじゃん」と泣きそうになりながら呟いてみた。
私の隣にぽつんと座っているクマくんの真っ黒のぴかぴかの瞳が哀れな私を繊細に映し出しているようだ。
ああ、本当に束の間の幸せだったな。
堪えきれずに涙が青いワンピースの膝の部分に落ちる。
生ぬるい風が吹いて、クマくんが私の方に倒れてきた。
私はクマくんのお腹に顔をうずめて、声を押し殺して泣いた。
泣きたいだけ、泣いた。
そのとき、鳥が飛んでいくような音が聞こえた、気がして顔を上げる。
きょろきょろと辺りを見回してみても鳥も何もいなくて、空耳だったようだ。
レイラさんかと思ったのだけれど、違かった。
肩を落として、そろそろ帰ろうと泣きはらした目をごしごしとこすって、立ち上がった。
家までクマくんを連れて歩いていると、すれ違う人たちにじろじろと訝しげな目で見られたけれど、気にはならない。
今の私はただ、レイラさんに会いたい、という願望しか頭の中になかった。
でも、いつかまた会える。
絶対に、って約束したのだから。
私はレイラさんとの約束だけを心の支えに日々を過ごすことだろう。



朝起きたら、涙を流している。
という現象がレイラさんの家を出たあの日からもう十二日も経っているけれど、毎日のように続いた。
きっとレイラさんに会えない寂しさでだろう。
毎日毎日、レイラさんとの記憶が夢で出てくるのだ。
それほどに私にとってはレイラさんが真っ暗闇にいた私の前に光を灯してしてくれた。
でも、その光にあと少しで手が届く、というときに灯火は風が吹いて消えてしまったのだった。
のそりと起き上がって勉強机に置いていたコップ一杯分の水を一気に飲み干した。
汗と涙で水分を使い切ったのか、喉がからからだった。
あの日から二日後に、私はお父さんとお母さんに高校を辞めることを伝えた。
また幽霊扱いされるかと思ったけれど、高校に払うお金がなくなるのは嬉しいのか「わかった」と頷いてくれた。
それ以来、私は恵理とは連絡をたまに取り合ったりはしているものの、他の連絡を取り合ったりしていた子たちの連絡先は削除した。
それほど仲が良いというわけではなかったし、もう友達はいなくてもよくなった。
私は、毎日レイラさんと約束したあのクスノキの前に通っているが、まだ一度もレイラさんには会えていない。
一日中あのクスノキのところで読書をしていることもある。
まだ朝の六時だというのに、ぴろん、と恵理からスマートフォンにメールがきた。
確認すると、『美波、おはよー! 今日、顧問の先生が風邪で休んでて部活も休みだから、定番のファストフード店で会わない?』と相変わらず活気に溢れた文面に、ふっと笑みが零れる。
定番のファストフード店とは、私たちがお互いの状況を話すためによく一緒に行くお店のことだ。
『恵理、おはよう。いいよー。何時?』
私が返信をすると、一分ほどで返信が返ってきた。
『午後三時でいい?? 財布は置いてきてよ! 私が奢るからさ』
『OK! 自分の分は自分で払うから、いいよ』
『だめなの! あたしが奢るから! ねっ』
お願い、と手を合わせたうさぎのスタンプが送られてきて、圧を感じた。
『じゃあ、次に会うときは私が奢るね』
と返した。
よっしゃあ、と書かれて嬉しそうに両腕を上にあげているポーズをしているうさぎのスタンプが五個ほど連続で送られてきて、既読をつけてから、私はスマートフォンを閉じた。
着替えてから一階に降りて顔を洗うと、靴を履いて私は家を出た。
いつものようにクスノキの前に行ってみる。
今日もレイラさんはいなかった。
もしかしたら、レイラさんは今頃はまだ眠っていて、来ていないという可能性もゼロじゃない、と私は微かに希望を抱いて三〇分ほど空を見つめながら待ったけれど、なかなか来なくて、次はワイヤレスイヤホンを耳につけてスマートフォンで音楽を聴きながら一時間待った。
それでも、来なくて私はとうとう断念して、家に帰ることにする。
今日は恵理と会う予定もあるので、一応はやめに帰っておいた方がいいだろう。
もうすぐそこが家だというときに、ふと空を見たら、青いレイラさんのような鳥が身軽そうに飛んでいた。
絶対にレイラさんだ、と思い、追いかけようとしたけれど、すぐに大きな雲に隠れて見えなくなってしまった。
私は肩を落として家に入る。
手洗いうがいを済ませてから、部屋に行って、窓の前に立った。
レイラさんが見えるかと思ったのだけれど、雲からレイラさんが出てくることはなかった。
「空主」というらしい国を作っているのだろうか。
横に流れていく雲から、とんかんとんかん、と釘を金槌で打つ音が聞こえた気がした。
レイラさん、もう私のことなんか忘れちゃったかな。
ふいに頭をよぎった不安を急いで首を振ってかき消す。
スマートフォンの着信音がなって、見てみると、恵理から電話だった。
「もしもし。恵理?」
とすぐに出ると、『あっ、久しぶり! 元気してたー? 今日さあ、点検か何かで学校が午前中だけだったの忘れてて、会うの一時にしない?』と相変わらず陽気で少し抜けた声音で返事が返ってくる。
「久しぶりー。私は元気だよ。点検ってなんの?」
『わっかんない。スマホいじっててちゃんと聞いてなかったから』
へへ、と笑いながら言った恵理に私は呆れ声で「恵理は変わらないね」と言った。
『まあね。こんな状況で、もし変わろうと思ったとしても変われないっしょ。変わるひまもないし。まあそれ以前に、変わりたいとは思ってないし?』
突然かしこまったような雰囲気で言った恵理の言ったことに私は疑問を持った。
「こんな状況って?」
何か学校で起きているのだろうか。
『えっ、美波知らないの? ヘリが飛んでたときにたまたま雲の上になんか街みたいのがあるの見たっていうの今、テレビでめっちゃ話題になってんじゃん。ほとんどのニュースがそのことやってんだよ。でさあ、明々後日に取り壊すらしいよ。雲に街ができるなんて前代未聞だし。まあ、そんなことはどうでも――』
「ごめん。急用ができたから今日は会えない」
私は恵理の言葉を遮って言った。
絶対にレイラさんの「空主国」だと確信した。
私はレイラさんにこのことを伝えなければいけない。
レイラさんの苦労が台無しになってしまうのを想像すると、ずきずきと胸が痛んだ。
恵理の返事も聞かずに通話を切って、レイラさんの家に向かった。
スマートフォンと財布と洋服類をいちおう持って慌ただしく家を出た。
走って走って、信号のとき以外は一度も足を止めずにひたすら前に前にと地面を蹴った。
時折、すれ違う人にあたってしまうけれど、謝っているひまはなくて構わずに走り続けた。
けれど、レイラさんの家があったところはたくさんの葉っぱが散っているだけで、家はどこにもなかった。
きっとあの国にいるんだ。
私はチョガさんが「空孫国」に行ったときの階段が現れた場所に行ってみる。
階段はあり階段を上ってまっすぐな道になったとき、ちょうど五メートルほど先をチョガさんが歩いていた。
私は走ってチョガさんの元に行く。
「チョガさんっ!」
不機嫌そうに振り返ったチョガさんの瞳に一瞬怯みそうになったけれど、足を踏ん張って言った。
「お願いがあるんです! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「はあ? なんであんたがここにいるの。兄さんが今いるとこなんて何も知らないし」
あの学校でのときとは全く態度が違うチョガさんに私は眉をひそめそうになったけれどなんとかひそめずに「じゃあ、いいです。エリナさんに頼むので」と早口で言ってから、「エリナ様に? 会ったことでもあんのか」と思いっきり顔を顰めて言うチョガさんを無視してこの間の王国に向かう。
エリナさんは前のように入り口のところに立っていた。
チョガさんを待っているのだろう。
「エリナさん! レイラさんのところに連れて行ってください!」
「あら、美波ちゃん? レイラのところに……。いいわよ」
目を丸めたエリナさんに言うと、レイラさんを知っているかのように頷いてくれた。
エリナさんに訊きたいことは色々とあったけれど、今はレイラさんのことが優先なので、「ありがとうございます」と言って頭を下げる。
「じゃあ行くわよ。迷子になりたくなければ、くれぐれも異空間でむやみに動かないでね」
さっそくエリナさんは子供に諭すようにゆっくりと注意を述べて、実行に移してくれる。
もう一度、お礼を伝えるとぐにゃりと視界が歪みすぐに深い青色の羽根に包まれた地面に立っていた。
「レイラさん、いる? 美波だけど……」
少し声を潜めて呼んでみると、「み、美波? なんでここにいるんだ?」と驚いたように目を大きく見開いた鳥さんの姿のレイラさんが奥の方から歩いてやってきた。
「エリナさんに連れてきてもらったんだけど、ねえ、レイラさん。この国はもうすぐ取り壊されちゃうんだよ! どうするのっ?」
落ち着いてきていたけれど、話しているうちにだんだん興奮してくる。
レイラさんは「待ってくれ。状況が理解できない」と頭をおさえて目を瞑って、頭を整理しているような仕草をした。
数分ほど静かな沈黙がこの異世界のような空間を支配した。
「美波、久しぶりだね。で、ここが取り壊される? どうしてそのようなことを言うのか、どうしてそのようなことになったのか、経緯を教えてもらえるか?」
鳥さんの青い羽根に埋め尽くされたふかふかそうな椅子を勧められて座ると、深刻な顔でそう問われる。
「うん。電話で友達の恵理と話しててね、ヘリコプターが飛んでてたまたま雲の上に街みたいなものがあるのが目撃されて、雲の上に街ができるなんて前代未聞だから明々後日に取り壊すってテレビのニュースでやってるんだって」
あまりにも気まずくてレイラさんから視線を逸らしたくなるけれど、強いこの国を愛する瞳に見つめられて、逸らそうにも逸らせない。
レイラさんはあり得ないという顔をしてから、真剣な表情になって「そうなのか。この国には僕以外は誰にも見えない魔術をかけたのだけれど。これは、なんとかしないといけないな。美波、魔術を使えるようにならないか? そうしたら、いつでも会いたいときに僕に会えるし、自分だけの空間を作ることもできる。そして、自分で自分を守ることも容易いことになる」と懇願するように少し上目遣いで言った。
私は少し考えてから「いいよ。じゃあ、魔術を教えて」とレイラさんに安心させるように笑いかけた。

「まずは、僕の魔術を少し分けるから、とりあえず魔術の基本を覚えるんだ。そしたら、それを自分流にアレンジしたり、すごい魔術にしたり、強くしたり、とかしたいように加工とかもできるようになる」
レイラさんは手にのっている小さい青い火の玉のようなものを私に渡してきた。
私は戸惑いながら受け取ってレイラさんに言われた通り胸にすっと入れた。
そのままフィットするような感覚があって、念じると手から炎が出た。
「うわっ! ちょ、もえてる! 熱い!」
ひいひい、言いながら手をぶんぶんと振って火を消そうとするけれど、消えない。
でも、熱くないことにしばらくして気付いた。
パニックになって熱いと感じただけだったようだ。
これは私が出した炎だから、熱くないのか。
「あはは、美波は面白いなあ」
笑いながらも、レイラさんはきちんと丁寧に教えてくれる。
基本の魔術ができるようになったら、さっきレイラさんが言っていたこと実践してみる。
自分流にアレンジ、とは?
まあとにかくやってみよう。
私は氷を手から出して、びゅんっと横に振ってみると、氷の(つるぎ)ができた。
こういうことか、と私は感覚を掴んできていろいろと試してみる。
自分の行きたいところに行く、というのもやってみる。
「行きたいところに行くときのコツは、その行きたいところをよーく思い浮かべること」
レイラさんはゆったりと椅子に座りながら、言った。
私は「はいっ」と答えて、レイラさんの後ろを思い浮かべた。
ぱっと気付けば、レイラさんの後ろに立っていた。
レイラさんは気付いていないようで、きょろきょろと辺りを見回している。
「わっ」
と驚かそうと思い、言うと、レイラさんの肩が飛び跳ねて「うわわわっ!」と変な言葉を話した。
笑い合いながら、楽しく魔術を覚えたあとは、お菓子と紅茶で休憩をした。
甘い砂糖が入った紅茶をそそりながら、ふう、と息を吐いた。
決して嫌な時間ではなかったのだけれど、あまりにもたくさんの体力を消耗し、疲れ果ててしまった。
今日はよく眠れそうだ。
最近はレイラさんに会えない寂しさで睡眠が疎かになっていたけれど、今日のことがあっておかげでぐっすりと眠ることができると考えると嬉しい気持ちになった。
「美波、ありがとう。今日はもうやめるか。美波も疲れてるだろうし」
私に労いの言葉をかけてくれるレイラさんの表情は穏やかでもあり、焦っているようでもあった。



「おやすみ」
ベッドでクマくんにしか聞こえないように言って、私は目を瞑った。
すぐに私は毛布に包まって眠気に襲われてきて、眠りについた。



静かな朝だった。
鳥も小さい声で鳴いているだけで、下からもなにも聞こえてこない。
今日はお父さんもお母さんも仕事は休みで家にいるはずだ。
私は疑問に思いながらも、一階におりて、リビングに行ってみた。
「美波、私たち離婚することになったから、どっちについてくるのか決めてちょうだい」
がちゃ、とリビングのドアを開けると同時に、お母さんがなんてことのないことのように言った。
私は驚きながら、頭の中を整理する。
「聞いてんのっ?」
お母さんが眉を極限まで寄せて急かしてきて、私は「ご、ごめん。私は、家を出て行くよ」と苦笑いをして言った。
お母さんは不服そうに、ふん、と鼻を鳴らして、「なに言ってんのよ。あんたなんかが自立なんてできるわけないでしょ。あんたはお母さんの方に来るわよね。ほら、はやく準備しなさい」と強引に決める。
「嫌だ! 私は出てくの」
初めてお母さんに我儘を言ったかもしれない。
お母さんは叫びに近い金切り声で否定する。
「だめって言ってるじゃない! なんで私の言うことを聞いてくんないの? あんたなんかがひとりで暮らせるはずないわ! お母さんに引っ越すお金だって払わせるんでしょ! この親不孝者! お母さんの子供なんだからお母さんについてくるのは当たり前でしょっ!」
顔を真っ赤にしてクッションを投げつけてきた。
さっきまで小さい声で鳴いていた鳥の声ももう聞こえない。
『親不孝者』
という一言だけが私の頭を支配して、私の同時に脳からぶちっと音がした。
ついに私の堪忍袋の緒が切れたのだ。
そうだ、今まで私は寂しかったんじゃなくて、この理不尽なことに怒っていたんだ。
なんでもっと早く気づけなかったのだろう。
「私は自立できる! 親不孝者にしたのは誰なのよ! あんな事件を信じて、娘を信じてくれないの? あんなの嘘だし、私はお金なんて盗んでない。私はただ落ちてたあの子の財布をたまたま拾っただけ! なのになんで私の言うことを信じてくれないの? こういう都合のいいときだけ、親なんだからとか、私の親ぶらないでよ! 全部全部、あの子がでっち上げた嘘なのに、私の言うことよりも他人の言うことしか信じてくれないなんて、私の親じゃない!」
私はそれだけ叫んで、リビングを飛び出して荷物をまとめはじめた。
こんな家、出て行くのだ。
前から貯めておいた、この家を出て行くためのお金を持って、必要な荷物だけ手にいっぱい持って、「空主国」に行くことを、目を閉じて強く念じた。
ただただ、「空主国」だけを必死に頭に思い浮かべた。
どすどすどす、と怒ったように「美波! 親に向かってなんてこというのよ! あれはお金を盗んだあんたが悪いのよ」と言いながら音をたてて、階段を上ってくるお母さんの足音を聞きながら私はさらに焦る。
そして、やっと目を開けたらもうそこは「空主国」だった。
ふう、と私は安堵の息を吐いて、レイラさんがいないかと周りを見回した。
「美波、おはよう。そんな大荷物でどうしたんだ?」
本当に平和な笑顔を浮かべたレイラさんが目の前に現れて、涙が出てきそうになった。
なんとか涙を必死に堪えて「離婚して、お母さんに親不孝者って言われた。私、ここでレイラさんと暮らしたい。あんな人、私のお母さんじゃない」と泣かないように目をごしごしこすりながら言って、荷物を青い羽根でふかふかの地面に置いた。
ふわりと風で宙に舞った青い羽根が踊るように私の握りしめた拳に、ぽす、と当たって、落ちた。
レイラさんは「ここで暮らすのは構わないが、まだこの国は未完成だから不便なこともいろいろとある。この国ができるまで空孫国に暮らしたらどうだ? エリナもいるし、安心だろう。チョガもいざというときは頼りになることもあるしな」とリュックサックに入りきらずにクマくんの飛び出している頭を優しく撫でながら言う。
「この国が完成したら、この国で暮らしていい?」
少し上目遣いで訊くと、レイラさんは頷いて、もちろんだ、と眉を穏やかに下げて人懐っこく微笑んだ。
私は「じゃあ、それまで空孫国で暮らす」ともう一度、荷物を手に持った。
レイラさんは申し訳なさそうに「ごめん。この国が完成したら、ちゃんと迎えに行く」と言ってくれた。
私は、うん、と弾むように頷いてレイラさんに空孫国まで送ってもらうことになった。
突然行ってもいいのだろうか、と疑問に思いレイラさんに訊いてみたところ、大丈夫だ、ということだった。
エリナさんはきっと住まわせてくれる、とレイラさんは安心させるように優しく言ってくれて、私はとても心強くなれた。
やっぱりレイラさんはすごいな、と感心しながら他愛もない話をしながら歩く透明の道。
下は、もちろん透明という言葉通り透けていて、街が見えた。
ぞっと鳥肌が立つほどの高さにある道なため、背筋が凍るような恐怖を感じるけれど、レイラさんは気にせずにゆったりと私に合わせてくれて歩いてくれて、慣れているのだとは思うが余裕そうだ。
高所恐怖症ではないものの、この高さは足が竦みそうになるほどに怖い。
でもレイラさんにそんなことは恥ずかしくて知られたくないので澄ましたような顔で余裕そうに歩くけれど、足はどうしてもぶるぶると震えてしまう。
「ははっ。美波、怖いの?」
意地悪そうに笑って私の足を見ながら言ったレイラさんを私は余裕な笑みを浮かべて見せて「こ、怖くなんか、ないし」と意地を張る。
素直にはなれない。
どうも私はレイラさんに惚れているようだ。
意識しはじめたころからどうしても、私の弱いところを見られたくない、知られたくない、ということを考えるようになった。
「もう、強がらなくていいんだよ。バレバレなんだから。ほら、ついたぞ」
呆れたように笑ってレイラさんは門を指差した。
「ここからはひとりで行けるか?」
レイラさんはそう訊いてきて、私は、行けるよ、と頷いてレイラさんにぶんぶんと思い切り手を振りながら王国へと歩き出した。
「またねー! 絶対に絶対に迎えに来てね」
そう約束をして私は王国に入った。
今日は入り口のところにエリナさんはいなくて、王国の中に入ってみる。
中は外から見るよりももっと広くて、きらきらでぴかぴかだった。
「え、エリナさん。いますかー?」
声を少しだけ張り上げて言うと、たったった、とエリナさんが青いドレスすそを持ち上げながら小走りでやって来た。
「美波ちゃん、待ってたわよ! レイラから事情は聞いたわ、どうぞ私の隣の部屋が空いているから、そこの部屋を使ってちょうだい。なにか欲しいものとか行きたいところとかなにかあればすぐに言ってね。なんでもしてあげるわよ。私だってぴっちぴちの三十代なんだから」
エリナさんは張り切ったように美しいウインクをして三十代とは思えない頬の肌を撫でた。
「お、お美しい……」
と思わず私が呟くとエリナさんは、ふふ、と得意そうに優雅で落ち着いた笑顔で「さあ、お部屋はこっちよ。好きなようにくつろいでちょうだいね」と私の背中を押して部屋に案内してくれた。
本当に親切で優しい人だな、と感謝の気持ちを噛み締めながらエリナさんの言われる通りの部屋に入った。
ベッドに座ってみると、ふっかふかで机にはおしゃれなアンティークっぽいランプが置かれていて、本棚にはたくさんの面白そうな本が立ち並んでいた。
「うっわあ~! すごいですね! 本当にどれも自由に使っていいんですか?」
エリナさんの方を向いて訊くと、エリナさんはもちろん、というように頷いて「あったりまえじゃない」と言った。
とても居心地のいい空間でリラックスできた。
でも、いちばん居心地のよかったのは、エリナさんが家のことを何も訊いてこないことだった。
きっと私が「親不孝者」と言われたことも知っているとは思うけれど、理由もその話すらもしてこない。
気を遣ってくれているのだ、とこんな私でもさすがにわかるほどその話が出てくることがない。
本当にありがとうございます、と深々と頭を下げるとエリナさんはなんのことだかわからないようだった。
この気遣いもきっと無意識なのだろう。
とても心優しい方だ、と初対面のときの怒りはもうすっかり忘れてしまっていた。
荷物をまとめ終わると、このお城を探検してみることにした。
エリナさんによると、このお城の名前は「エリソン城」というらしい。
「エリソン城」の名前の由来は、エリナさんのご先祖様のエリソン・ソラソンという人が建てたお城だからだそうだ。
どこにも電気はなくて、その代わりに蠟燭(ろうそく)のついたシャンデリアが至るところの天井についていた。
なんと豪華なのだろう。
私は圧倒されながらも、ずんずんと足を進めた。
黒猫やサビ猫がいたりして、にゃあ、と鳴きながら足にすり寄ってきてくれることもあった。
撫でてあげると、黒猫のほうは人懐っこく、ごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らしてくれた。
あとでエリナさんに名前を訊くと、黒猫はオスのミモザで、サビ猫はメスのちょこだそうだ。
「ちょこちゃんもミモザくんも可愛いですね」
私についてきてくれるミモザくんを撫でながら笑顔でエリナさんに言うと、「ふふ、美波ちゃん、ありがとう。ちょこの名前はチョガがつけてくれたのよ。ミモザは人懐っこい性格なのだけれど、ちょこはチョガに似て、ツンデレなのよね。だからあまり寄ってこなかったでしょう」エリナさんは苦笑いしながらミモザくんを一度だけ撫でた。
ミモザくんはエリナさんの方にすり寄っていって、「にゃあー」とごろごろ言いながら鳴いた。
エリナさんのことが好きなのだろう。
ミモザくんにとってエリナさんはお母さん的な存在なのだろう。
「なんでお前がここにいる。エリナ様、なぜこいつがここにいるのですか?」
声が聞こえて、振り返ると、チョガさんが立っていた。
「あ、チョガさん! これからお世話になります。今日からレイラさんの国ができるまでここで暮らさせてもらうんです」
私はにこっと愛想よく笑いかけて、言うとチョガさんは顔を顰めて、「帰れ。ここは馬鹿庶民がいるとこじゃない。エリナ様に失礼じゃないか? よくもそんな服でこれたもんだ」となんとも失礼なことを言ってきた。
なにか言い返そうとしたとき、エリナさんが代わりに言ってくれた。
「こら。チョガ、馬鹿庶民はないでしょう? 美波ちゃん、着替えましょう。チョガをあっと言わせてやろうじゃないの」
可愛らしい瞳でチョガさんを睨んで、エリナさんは私を服や靴にメイク道具などしかない部屋に連れて来てくれた。
「さあ、これを着ましょう。こういう服はチョガの好みなのよね。で、メイクは青色をベースにして、靴も青」
突然しゃきっとしたエリナさんに戸惑いながらも「はい」と着替える。
服は青色のドレスで、ふんわりとしていて柔らかい生地だ。
靴を履いて、エリナさんにメイクをしてもらう。
鏡で自分の姿を見ると、私じゃないみたいに綺麗だった。
「さっ、一瞬でしょう。チョガに見せに行きましょう」
自信満々のエリナさんについていってさっきの場所に戻った。
チョガさんがちょこちゃんを撫でていて、そのときのチョガさんはとても柔らかい物腰だった。
チョガさんは足音でこちらを向いて目を丸くした。
「ミリ! 大きくなったなあ。またあのときみたいに、一緒に遊ぶか?」
私の手をとって、見たこともないほど穏やかで温もりに溢れた笑顔で言ったチョガさんを私は凝視する。
「ちょ、ちょっと待ってください。あの、私ですよ? 美波、ですけど? どうしたんですか?」
人間違いかと思って言うと、「み、美波? ミリじゃないのかよ。せっかく会えたと思ったのに。エリナ様もやめてくださいよ。本当に悲しいんですから」と本当に悲しそうに、残念そうに、頭に手をやりながらどこかにちょこちゃんと一緒に去っていった。
「まだ気にしてたのね。まあでも弱気になったでしょう。ミリはね、私が昔に産んだ子供なの。お父さんはもういなくなってしまったのだけれど、その子をチョガはとても可愛がっていたの。でも私がここに国を作ることになったから、人間の姿にして人間の両親に親になってもらうことにしたの。その両親には元から子供がいたと思いこませる魔術をかけてね」
エリナさんは懐かしそうに微笑んで教えてくれた。
なんだか悲しい話だな。
それにしてもまさか、チョガさんがこんなふうになるなんて。
よっぽど大切な存在だったんだな。
羨ましい、と思う。
私はお父さんにもお母さんにも大切にされたことはほんの数年だけしかない。
だめだめ、せっかく家を出てきたんだから、もうネガティブなことは考えないの。
私は首を振って、ネガティブ思考を撃退しようとする。
「ごめんなさい、急にこんなこと言われたって返答に困るわよね。さあ、なにする?」
エリナさんは気を取り直したように言った。
「部屋の本を読んでもいいですか? 面白そうな本がたくさんあって」
と言うと、エリナさんは「もちろん! 欲しい本があれば買うし、持って行ってくれていいわよ。もう私もチョガも読まなくて放置状態だから。読みたい人に読んでもらった方が本も喜ぶと思うわ」と頷いてくれた。
ありがとうございます、とエリナさんにお礼を言って部屋に入って「世界の守り神」というフィクション小説を手にとった。
あらすじを読んでみると、私と少し似ている子が主人公で親近感がわいた。
一から読んでみると、面白くて次々とページをめくってしまう。
ふう、と一息吐いたころにはもう本は読了済みだった。
本を少しだけ名残惜しさを感じながらも、本棚に本をしまい、部屋についている壁掛け時計で時間を確認する。
一時五十八分。
まだ意外に平気そうだな、と思い私はもう一冊気になっていた本を本棚から抜きとった。
「霧が晴れるまで」
というこの本もまた、フィクション小説だ。
霧に包まれている街はなぜ霧に覆われいるのか名探偵が真相を探る、というあらすじが書かれていた。
ぺら、と一ページめくってみると、この感覚が妙にヒットし、内容を頭に入れながらどんどん読み進めた。
きゅううう、とお腹が鳴って、やっと五百二十八ページもある長編小説を三百五十ページで紐のしおりを挟んで、一旦閉じた。
リビングのようなところに行くと、エリナさんがお裁縫をしていた。
「あ、あの」
となんといえばいいか迷いながら声をかけると、「美波ちゃん、お腹すいたんじゃない? なにか食べる? もしお腹がすいたら、あっちの部屋にシェフがいるから食べたいものを言ってね」と言ってくれた。
「ありがとうございます!」
私はエリナさんの差した先にある部屋に入って、「シェフさんいますか? ホットケーキをお願いしたいのですが……」と声を張り上げて言うと、「あはは、きみは礼儀正しいなあ。シェフは僕たちだよ。ホットケーキだね、何枚作る?」と気さくに話してくれた。
私は笑われたことが恥ずかしくて、頬を紅潮させながら「三枚で……」と言ってすぐに部屋を出た。
「ふふ、美波ちゃんはいい子ね。もっと自分の家のようにくつろいでちょうだいね。本当に何かあればすぐに言ってね」
はい、ありがとうございます、とお礼を言ってエリナさんの向かいの席を勧められて座った。
ここが食べる机だと教えてくれて私は姿勢がぴしっとのびた。
「はい、どうぞ。シロップとバターもかけてあるよ。嫌だったら作り直すけど」
にこっとさっきの人とは違うほうの人がホットケーキを持ってきて、丁寧に机に置いてくれた。
「わあ、ありがとうございます! 大丈夫です! 美味しそう。いただきます」
ナイフとフォークを両手に持って、こういうときってかちゃかちゃとか音を立てちゃだめなんだよね、と思い出して丁寧に丁寧に口に運んだ。
ホットケーキを歯で噛んだ瞬間、じゅわああ、と口の中でシロップとバターが同時に溶けて味が広がる。
感激した。
こんなに美味しいホットケーキを食べたのは初めてだ。
ホットケーキを食べたのは何年ぶりだろう。
しみじみとした気持ちになって、涙が出そうになる。
あまりにも美味しくて、言葉も出てこない。
なんとか言葉を絞り出してシェフさんに感想を伝える。
「すごく美味しいです。初めて食べるホットケーキです!」
語彙力のなさに自分で言ったのだけれど、驚愕する。
でも、そんな私でもシェフさんは「ははは! ありがとう。そんなに言われたことないから嬉しいなあ。シェフをやっててよかった」と少し涙ぐんで言った。
こんな私でも、相手をこれほどまでに喜ばせることが出来るだなんて。
「こちらこそっ! 私も『よかった』だなんて言われたことないです。ずっと両親に蔑まれてて、生きててよかった」
涙が出てきそうで歯を食いしばって我慢する。
今まで向けられてきた視線、表情、罵声。
全部が蘇ってきて、苦しさに苛まれるけれど、もう私は弱くないのだ。
もう、強くなった。
だから泣かない。
このとき、私はもう二度と泣かないと心に決めた。
「ありがとうございます」
私はシェフさんにしっかりとお礼を言って、マナーも気にせずに一気にホットケーキを口に運んだ。



スマホの電源を久しぶりに入れてみると、一件のメールがきていた。
誰かというと、お母さんから。
いちおう家族なんだから連絡先は入れておいたけれど、まさか連絡がくるとは思ってもいなかった。
まだなにもやり取りの後なんてなくて、まっさらの背景に一言、文章が表示されていた。
『帰ってきなさい』
たったの一言なのに、途轍(とてつ)もない吐き気がした。
嫌だ、やめて、もう私は帰らない。
私は連絡先からお父さんとお母さんを消した。
残っているのは、恵理だけ。
恵理からは気遣ってくれているのか、何もきていなかった。
とりあえず持ってきたノートに挟まっていたお手紙セットのようなものに誰に渡すでもないけれど、思ったことを書き綴る。
『レイラさん。私はどうすればいいんだろう? いつまでもこのままお母さんに自立できないって言われ続けないといけないの? もう嫌だ。レイラさん以外、もう何もいらないから、お願いだから幸せになりたい。もうひとりは嫌だ。なんで、世界はこんなにも残酷なんだろう。なんで、私の味方をしてくれないんだろう。苦しいよ。なにを失ったっていい。だから、一度だけ幸せにさせて。心から幸せを感じてみたい。私だって、もう少し頑張ってね、じゃなくて、よくできたね、って言ってほしい。褒めてほしい。優しくしてほしい。愛してほしい。許してほしい。認めてほしい。もう苦しくてどうにかなりそうだよ……』
がりがりと私の書き殴った文字が並んだぐしゃぐしゃの便箋。
こんな便箋を読んだら、誰もが「そんなに世界は甘くない」とでも言うだろう。
「もう世界に邪魔だから、見捨てられたんだ」とでも言ってくれたらいい。
むしろ言ってくれた方がせいせいする。
もう自分は、だめなんだ、って自分を認められる。
私はもうだめだからこの世界に飽きられちゃったから、この世界にいなくてよくて、消えた方がよくて、なにも願っちゃだめで、生きていくことさえ許されない。
生きていても、軽蔑されるだけ。
なにもいいことなんて起こりやしない。
生きてればいつかはいいことがある、努力はいつか報われる、だなんて嘘だ。
そんなことない。
だから、今の私に残された選択肢はただひとつだけ。
死ぬ。
ただこれだけ。
死ねば、もうこんな苦しい思いはしなくていいのだ。
なら、死んじゃえば、天国という名の楽園で自由気ままに走り回って、いつまでも気軽で身軽で誰にも軽蔑されない。
ひとり死ぬのはここまでしてくれた、エリナさんたちに申し訳ないから、遺書でも書いておこう。
私はもう一枚、便箋を取り出した。
『遺書。誰かが気付いてくれることはあるかな。エリナさん、勝手にひとりで死んでごめんなさい。今までありがとう。レイラさん、大好きでした。死んでごめんね。私はもうこの世界に必要ないから、天国に先に行ってるね。私はどこで間違ったんだろう。あのときに間違ったんだ。私、幸せになりたかった。私のことを大切にしてくれてた、エリナさんとレイラさんが大好きだったよ。私は天国で自由に生きます。先に天国で待ってるね。恵理も、ごめんね。天国からずっとずっと見守ってます。またね。鳥浦美波より』
短い文章だけれど、遺書にこってる暇はなかった。
はやく死にたい。
楽になれる。
気付けばそんな思いに支配されていた。
私は部屋の窓を開け放った。
風が意外に強く吹いていて、窓を開けるのは大変だったけれど、なんとか開けられた。
下はびゅうびゅうと風が吹いていて、これから飛び降りるのかと思うとぞくりと肌が一瞬だけ粟立ったけれどすぐに平気になった。
そこで、ふと思う。
天国のある上に行きたいのに、下に行くなんて、と。
だからってどうってことはないのだけれど、不思議と疑問を持っただけだ。
私は窓のふちに立って、「エリナさん、レイラさん、今までありがとう。またね」と言い残して、ぴょんと身軽に飛び降りた。
けれど、びゅんと風に煽られる感覚とともに、私は浮いていた。
強い風で浮いているのだ。
なんで、私は下に落ちたいのに。
私は下に行こうとするが、行けない。
「チョガ! 美波ちゃんを今すぐ助けなさい。なにやってるの、はやく!」
大声が聞こえて見ると、エリナさんが窓のところにいた。
しまった、見つかってしまった。
私はびゅんびゅんと風に振り回されながら、必死に目を開けると目の前に黒い翼が見えた。
気付いたときは、チョガさんに抱きかかえられていた。
「ちょ、助けないでっ」
叫ぶとチョガさんに、ぎろりと睨まれる。
「は? エリナ様の命令に断れってのか? ふざけんなよ、悲劇のヒロインぶってんなよ。お前にはちゃんと温もりがあるだろ、贅沢してんじゃねえ」
なんてことない言葉のように言って私をエリナさんに物のように投げ渡した。
「美波ちゃん、何しようとしてたのっ? 自殺なんて考えてたの? 何があったのか話しなさい!」
はじめて怒ったような表情と声音でエリナさんは叫ぶように言った。
「ごめんなさい。お母さんからスマホに『帰ってきなさい』ってメールがきてて、苦しくなって自殺しようって思って……」
と正直に俯きながら私が話すと、エリナさんは思い切り顔を顰めた。
「だめでしょう!」
涙を流しながらまで言うエリナさんにぎゅうっと抱きしめられる。
「なんで泣いてくれるんですか? 私なんかいらな――」
「泣くに決まってるでしょう! 大切な大切な相手なのに!」
ぽろり、とずっと我慢していた涙が零れ落ちた。
「なんでっ、こんな私なんかを……」
「私なんか、なんて絶対に言わないで! あなたは私にとって世界でいちばん大切な存在なの!」
そう言われて私の両目からさらに大粒の涙が零れ落ちる。
「世界でいちばん、たいせつ……?」
「ええ。もちろんでしょう。もう、私は美波ちゃんの家族、ママなの。だから、絶対にこんなこと、二度としないで!」
最後の方は、穏やかになって微笑んで言ったエリナさんをぎゅっと私も抱きしめ返した。
「わかった。もうこんなこと、絶対にしないよ。ママ」

「おはよう、美波ちゃん。少し話があるのだけれど、いいかしら?」
豪華で大きな洗面所のようなところで顔を洗ってから、ママの部屋に行くと、そう言われた。
「おはよう! いいよ。なんの話?」
私が笑顔で頷いて訊くと、申し訳なさそうに「レイラと美波ちゃんで、おじいさまを説得させる旅に行ってきてほしいの」と頼んできて、私は目を丸くする。
どういうことだろうか。
「おじいさまを説得させる旅?」
私が首を傾げて言う。
ママは深刻そうな表情で「ええ。私のおじいさまは閻魔大王なのだけれど、おじいさまは見た目で人を判断して、地獄に行かせるか、天国に行かせるか、決めているのよ。おじいさまには向いていないから、閻魔大王をやめた方がいいと思っているの。私も何度か説得に行っているのだけれど、首を横に振るばかり。チョガにも三回ほど頼んだことがあるの。けれど、それもだめだったわ」と潤んだ瞳で自身の頬を撫でながら言う姿を見ていると断れるはずもなかった。
私は「え、閻魔大王っているんだ。私とレイラさんで、おじいさまを絶対に頷かせて帰ってくるね!」と勇気を出して頷きながら言った。
ママは安心したように涙を流して、「美波ちゃん、本当にありがとう。じゃあ、これから準備しなくちゃいけないわ!」と張り切ったように、にこっと微笑んだ。
「じ、準備?」
「そうよ、おじいさまのいる場所に行くのに、片道で一週間以上かかるもの。おじいさまを説得させるには大体で五日は必要なのよね。ここに帰ってこれるのは一ヵ月後くらいかしら。ごめんなさいね、もう頼りはレイラと美波ちゃんしかいないのよ」
眉を下げて穏やかに言うママを唖然と見つめながら、「そ、そうなんだ。じゃあ、準備、してくるー」と一息でそう言ってから私は自分の部屋に逃げるように駆け込んだ。
一ヵ月も旅をするなんて、私には体力がなさすぎるから、きっとレイラさんに迷惑をかけてしまう。
だからって、あんなママの困ったような顔を見たら、断れるはずはないのだけれど。
私は絶望したような落ち込んだような思いで荷物を準備しはじめた。



「レイラさん、久しぶり!」
私は荷物の詰め込まれたぎゅうぎゅうのリュックサックを背負って、レイラさんの元に駆け寄って微笑む。
「美波、久しぶり。それじゃあ、行こうか」
そっと私の頭を撫でて先を歩き出したレイラさんの私より全然大きい背中を見つめていると、あることに気付いた。
レイラさんの背負っているリュックサックのチャックが開いていたのだ。
私は静かにチャックを閉めて、レイラさんの隣に並んだ。
不思議そうな顔をしたレイラさんに私は、話題を振る。
「国はできたの?」
「ああ、あと少しだ。できたら、美波専用の家を作るよ。そこに住むといい」
優しくふわりと微笑んで言ったレイラさんに私は笑顔になって「ありがとう! 楽しみだなあ」と返した。
レイラさんの美しい横顔を眺めていると、ふいにレイラさんの後ろに大きな大きな私とレイラさんの何倍もある黒い鳥が歩いているのが目に入った。
「と、とりっ⁉」
思わず叫ぶとレイラさんは落ち着いた様子で横を向いて「ああ。こいつに乗って閻魔大王の家に行くんだ」と説明してくれた。
気付けば、私の隣にも黒い鳥が歩いている。
へえ、と頷いて私は鳥のふわふわの背中を撫でた。
私はレイラさんの合図で鳥に乗っかる。
ばさっと大きな翼を広げて、鳥は空高く飛んだ。
少しだけぐらぐらと揺れて怖かったけれど、すぐに安定してまっすぐ鳥は行き先をわかっているかのように飛び始めた。
レイラさんも遅れて私と並んだ。
一瞬、視界が真っ白になったと思ったらすぐに真っ青な空と雲が広がった。
「きれい……」
と声を上げるとレイラさんは嬉しそうに私の方を向いて「綺麗な景色だろう」とはにかんだ。
頷いて私は太陽に手を伸ばしてみた。
私の手は透けるようで、透けなかった。
ぎゅうっと鳥にしがみついて、黒い艶やかな羽根に顔をうずめて泣きそうなのを必死に隠した。
そういえば、とあることを思い出して私は顔を上げた。
「レイラさん、そういえばさ、あの国が壊されるやつ、どうなったの?」
そう訊くと、レイラさんは思い出すように顎に手を当てて、「ああ、あれな。なにもこなかったんだ。たぶん、雲で動くからもう見つけられなかったんだろう」と平然と言った。
「なんだ、ならもう安心だね」
「いや、まだ完全に安心なわけじゃない。いつか見つけられるかもしれない」
覚悟をするような言い方で言ったレイラさんに私は、ああそっか、と頷いた。




「ここで一旦、休憩するか」
三時間ほど経ったころに、レイラさんはそう言った。
「えっ、このまま行かないの?」
驚いて訊くと、レイラさんは頷いて「行くのに、長くて二週間はかかるらしいからな。休憩しながら行かないと鳥も倒れるだろう」と鳥を撫でた。
私はママの言っていたことを思い出して、「そうだった! お菓子でも食べながら、休憩しよう」と笑顔でレイラさんの方を向いて言うとレイラさんも笑顔で頷いてくれた。
鳥は会話を聞いていたのか、すごい勢いで着陸しようと下に向かう。
ジェットコースターに乗ったらこんな勢いなのかな、と想像しながら私は鳥にもたれかかる。
すたっと優雅に地面に着地した鳥は得意そうに、ふんっと鼻を鳴らして身震いをするように身体を左右に振った。
私は鳥の背中から降りて、リュックサックからお菓子を出した。
レモン味とグレープ味のグミとシャインマスカット味といちご味とグレープ味の飴玉とクッキーとチョコレートとポテトチップスのうすしお味。
レイラさんに驚いたような表情で「す、すごい量だな」と言われて私は「でしょ。選べなくてたくさん買ったの」と言いながらポテチを開ける。
私がポテチを口に入れると、レイラさんも私にならって、ポテチを食べた。
クッキーとチョコレートとグミも開けて、私はチョコレートを一粒、口に入れて食べる。
レイラさんがグミを真剣な顔をして必死に噛んでいて、私は思わず噴き出した。
「ちょ、噛めないの? もしかして、グミ食べるのって、はじめて?」
笑いを堪えながら訊くと、当然だ、というふうに頷かれた。
今までグミを食べたことがない人と出会うのは生まれて初めてで、私は「へ、へええ」と苦笑いで適当に相槌を打つことしかできない。
レイラさんはなんとかグミを飲み込んだのか、次はクッキーを食べている。
「クッキーは食べたことあるの?」
私がグミを食べながら訊くと、レイラさんは、ああ、と頷いた。
「へえ。グミが食べたことないなんて。あとまだひとつあるから、あげようか? 美味しいでしょ」
レイラさんは嬉しそうに顔をぱあっと輝かせて子犬のように「くれ。噛むのは難しくても、美味いからな」と恥ずかしそうに両手を差し出してきた。
はい、と渡すとレイラさんは大切そうに服のポケットにしまった。
そういえば、と「想いの硝子」を奪われたときにレイラさんが子供になっていたことを思い出した。
「ねえ、レイラさん。もしかしてだけど、『想いの硝子』を奪われたときに、子供になったときのこと、本当は自分でも覚えてるんじゃない? テレビの操作とか普通にできてたし、なんか子供にはできなそうなこととかしてたし」
思い当ったので、そう言ってから、後悔した。
記憶になかったら一から説明しないといけないし、そもそも、自分が子供になってたなんて知ったら、レイラさんが恥ずかしい思いをするかもしれない。
ぐるぐる、とネガティブ思考が渦巻く思考を遮ったのは、レイラさんの一言だった。
「実は、な。まあでも、少し子供心に戻ってたから、あまり自分で動いたって感じではないな」
少し意味がわからなくて、頭にクエスチョンマークが浮かんだけれど、すぐに意味を理解する。
子供になっていたときは、子供心に戻っていて、自分で自分を操作していたというよりかは、子供心の自分が動いていた、という意味だろう。
「なるほどね! いやあ、あのときはちょっと大変だったな。疲れちゃった。お母さんとお父さんもこんな思いで私に疲れちゃったのかな……」
面倒くさそうなお母さんとお父さんの顔を思い出しながら、独り言のように言う。
泣きそうになって、チョコレートを食べる。
「いや、そんなことない。もう美波の親は、エリナなんだろう?」
眉尻を下げて、寂しそうに言うレイラさんを私は、ぱちくりぱちくり、と瞬きをして見つめる。
数秒の沈黙の後、「うんっ!」と笑顔で私は頷いた。



さああ、と強い風が吹いて、私は目を覚ました。
お菓子を食べたあとにあのまま寝てしまったようだ。
「ふ、ふぁああ。れ、レイラ、さん……?」
目を擦りながら起き上がると、レイラさんも隣で眠っていた。
レイラさんも寝ちゃってたのか、と思いながら、ぼーっと空を見つめてレイラさんが起きるのを待ってみるけれど、なかなか起きてこない。
もう十分ほどは経っただろうか。
ゆっさゆっさ、と揺らしてみるけれど、びくともしない。
「レイラさんっ? 起きてよ、ねえ!」
大声を張り上げて言ってみるけれど、レイラさんは動かない。
「ねえ……っ」
か細い声を出しても、レイラさんは目を開けなかった。
ぶわり、と咲き遅れた不幸を呼ぶ花が咲くように、涙が溢れ出てきた。
嫌だ、嫌だ、認めたくない。
この苦しくて残酷すぎる現実を、受け入れたくない。
「ねえっ、レイラさん! 起きて、起きてよ! お願いだからっ」
ぎゅっと力強くレイラさんにしがみついて、縋るように言うけれど、やっぱりレイラさんは起きない。
「美波……?」
後ろから聞き覚えのある声がして、ばっと振り返ると、レイラさんが大きな袋を抱えて立っていた。
なにが起きたのかわからずに、涙も引っ込んでしまう。
レイラさんは、ここで息をしてないのに、なんで生きてるレイラさんが目の前にいるの?
なにも言うことができずにいると、苦笑いをして生きているレイラさんが話し出した。
「美波、それ、人形なんだ。朝食の食料を調達するために近くにあったスーパーで買い物に行っていたんだが、美波が起きて僕がいないと大変だから、人形を置いておいたんだ」
袋をレイラさんの人形の隣に置きながら、レイラさんは平然と言った。
「な、なんだ。人形か。もう、泣いちゃったじゃん! 置き手紙とかにしてくれたらいいのに!」
私は驚いたまま、レイラさんの背中を拳で軽く叩いて言うと、レイラさんは「思い付かなかった。ごめんね」としゅんと肩を落とした。
「でも、生きててよかった。で、朝ごはんあるんでしょ? なあに?」
袋を指差してレイラさんに訊くと、レイラさんは微笑んで教えてくれた。
「トマトとチーズのトーストでも作ろうかと思ってるが、嫌いか? なら、変えるが……」
「嫌いじゃないよ! チーズは大好物! モッツァレラチーズが特に好き!」
笑顔で言うと、レイラさんは安心したように「トマトはミニトマトで、チーズは、モッツァレラだ」とモッツァレラチーズとミニトマトを袋から出して見せてくれた。
私は「じゃあ、はやく作って食べよう!」と袋から一斤の食パンを出してミニトマトとモッツァレラチーズを乗せて、食パンで挟む。
「あれ、焼けなくない? トーストじゃないよね?」
私はあることに気が付いてそう言う。
レイラさんは頷いて、そのままで食べればいいだろう、と当たり前のように言った。
「え、じゃあ、トーストじゃないよ。え、待って。このモッツァレラチーズ、加熱しないで食べれるやつ?」
私がモッツァレラチーズの入っていた袋の裏を見ると、加熱はしなくていいやつだった。
「それくらい僕でも見てるよ」
少し怒ったように言ったレイラさんに私は謝って、トーストじゃない、トーストにかぶりついた。
チーズが伸びる、ということはなく、普通にミニトマトとチーズがパンに挟まれて口に入ってくるだけだった。
意外に焼いていなくても、美味しい。
レイラさんも私のようにかぶりついて、美味しい、と声を出していた。
食べ終わったら、片付けをして、出発することになった。
荷物を持って鳥に乗ると、またすごい勢いで雲の上に行って安定した調子でびゅおおと弱い風の吹くなか、鳥は余裕そうに飛ぶ。
優雅に飛ぶ鳥の頭を撫でながら、レイラさんの真っ直ぐに前を見つめる横顔を眺める。
私は、レイラさんが好きだ。
横顔も、意外に子供っぽいところも、優しいところも、強いところも、幸せそうな表情をよくするところも、私と飽きずにずっと一緒にいてくれるところも、なにもかも、大好き。
家族とか友達とかとして、とかじゃなく、きっと今のレイラさんと私は、友達以上、恋人未満だ。
友達よりは上だけれど、恋人とは違う、みたいな。
この間、ママのおすすめで読んだ本に「友達以上、恋人未満」という言葉がでてきて、それからよく使うようになった。
私は、少し謎めいたような言葉が好きだ。
謎めいた言葉について、詳しく考察するのとか、そういうことをするのが結構好きなのだ。
「レイラさん、ずっと一緒にいてね」
ぼそっと小さく呟いて、レイラさんの綺麗な横顔を脳裏に焼き付けた。



「ねえ、休憩しないの? 眠いよ」
欠伸をしながら言うと、レイラさんは頷いた。
もう、大きな三日月が出ていて、夜中だ。
「眠かったら、寝ててもいい。今日は朝までこのまま飛んで、明日の昼にどこかで休憩する予定だからな」
レイラさんは全く眠くなさそうに淡々と言った。
私は「じゃあ、おやすみ!」と大声で言って、鳥にもたれかかって目を瞑った。



ぴち、ぴちち。
穏やかな鳥の鳴き声で夢の世界から現実世界に引き戻されて、重たい瞼をこじ開けた。
目を開けると、真ん前には赤く染まっている空と雲と、鳥の黒い頭。
すぐには状況が理解できずに、しばらく目をぱちぱちと瞬かせた。
ああ、まだ早朝なのか。
横を見ると、レイラさんが優しい眼差しで赤い空を見つめていて、レイラさんの瞳の中に赤い朝焼けがきらきらと輝いて映っていた。
「レイラさん、おはよう」
静かに声をかけると、レイラさんは微笑んでこちらを向いた。
「美波、おはよう。よく眠れたか?」
太陽がじりじりと空の中心に向かっていくのを肌で感じながら、私は頷く。
「今ここで、ご飯、食べてもいい?」
リュックサックを漁りながら訊くと、レイラさんは頷いて前を向いた。
私は塩むすびのラップをめくって、口に運ぶ。
四口食べたところで、ふと視線を感じて横を向くと、レイラさんが羨ましそうにこちらを見ていた。
食べたいのかと思い、私がもうひとつの塩むすびを見せると、レイラさんは「くれるのか?」と目を輝かせて手を出した。
「食べたいんでしょ? あと六個あるから、いいよ」
笑って言うと、レイラさんは恥ずかしそうに「ま、まあな。ふたつでいいから」と私から顔を逸らした。
「あはは! もう照れちゃって、かーわいー」
塩むすびを渡しながら、にやにやして言う。
レイラさんは「いや、別に照れてない。可愛いのは美波の方だろう」とそっぽを向いて塩むすびにかぶりついていた。
え、可愛い?
可愛いなんて言葉、幻だと思ってた。
今まで一度も言われたことがなかった。
初めて、言われた。
しかも、異性に。
好きな人に。
こんな私でも脈ありなんじゃないかって思ってしまう。
絶対に叶わない恋だと思っていた。
きっとレイラさんは恋愛に興味がないんじゃないかって思っていたけれど、今のは希望を抱いてしまってもいいということだろうか。
「ふふ。レイラさんも、可愛いね」
にこっと微笑んで言ってレイラさんの鳥に飛び乗った。
ぐらぐらとぐらついたけれど、すぐに安定した。
レイラさんは驚いたように、目を見開いてがしっと私を抱きかかえてくれた。
「ありがとう。一緒に乗ってもいい?」
笑顔で言うと、レイラさんは頬を赤らめて「それはいいが、急に来たら危ないだろう」と言いながら私を前に座らせてくれた。
思っていたよりも距離が近くて、どくどくと心臓が早鐘を打つ。
「や、優しいね。レイラさんってどうして、そんなに私とずっと一緒にいてくれるの?」
ぎゅうっと鳥にしがみついて顔が赤いのを隠しながら訊くと、レイラさんが静かに暖かい声音で答えてくれた。
「美波が、なによりも大切だからだよ」
「なによりも?」
「ああ。誰よりも、なによりも美波が世界でいちばん大切だ」
涙が頬を伝って、鳥の首筋を濡らす。
「好き。私ね、レイラさんと過ごしてたら、苦しいって思うことが少なくなった。全部全部、レイラさんが好きだから。いつの間にか、レイラさんのことが大好きになってた。最初は友達みたいな存在だったけど、気付けば、レイラさんの隣に並ぶのは私じゃないと嫌だ、なんて我儘になっちゃった。レイラさんの、優しいところも、気遣ってくれるところも、少しポンコツなところも、全部、大好き。誰よりも、私がいちばんレイラさんを好きだって胸を張って言える。だから、私の隣にずっといてほしい……」
思わず零れ落ちた私の長い一言にレイラさんが目を見開くのが、容易に想像できた。
何か言い訳をしようと、口を開いたときだった。
レイラさんの口から最も聞きたかった言葉が耳に飛び込んだ。
「僕も、美波が大好きだよ。誰よりも愛してる。どんなに美波が辛くて苦しくても、僕がずっと隣にいて、慰めてあげる。もし、僕たちが死んで天国に行ったら、ずっとお花畑で遊ぼう。地獄でも、一緒に行くから」
ぽうっと私の胸に眩しい眩しい灯りが灯った。
ありがとう、と言いたいのに、嬉しすぎて声が出てこない。
そのとき、あることが頭に蘇ってきた。
そうだ。
私の小さい頃の夢は、鳥さんのお嫁さんになることだった。
鳥さんのことが、いや、レイラさんのことが、昔から私は好きだったんだ。
絞り出すようにして呟いた、小さな一言は私でも驚きの本音だった。
「私ね、レイラさんのお嫁さんになりたい」