「おはようございます!今日は早起きしたんですね、先輩」
僕は『後輩くん』と呼ぶ彼の影響で『先輩』と呼ぶようになっていた。
「ん?いつも通りに起きたよ?」
「え、でも、歩いて……」
先輩は少し考えるように目をキョロキョロ動かすと、何かに気づいたように顔をパッとさせた。
「ああ!そういうこと!実はね、ジャンケンのためなんだ」
僕の全く想像していない返答だった。
「ジャ、ジャンケン?」
「毎朝7時30分に『おはようチャンネル』でジャンケンやってるの知ってる?後輩くんだったら、家出てる時間か」
「知ってますよ。夏休みとかに見たことあります」
「るいがそのジャンケン大好きなんだ。正確にはあのジャンケンの音楽が好きなんだ」
「ああ、あのリズミカルな音楽!癖になりますよね」
僕は毎日聴いているわけでもないけれど、それでもリズムに乗れるほどチャーミングで耳に残る音楽だ。
「そう!その音楽に乗ってジャンケンするんだけど、テレビの中の人とはしないんだよ。必ず俺と勝負するんだよね。『兄ちゃんグー出してよね!』ってズルしながら!」
「ハハッ可愛いですね」
「だから遅刻ギリギリになって毎朝走ってるわけ」
「そういうことだったんですね!今日はるいくん起きてなかったとかですか?」
「あー、いや……」
僕の何気なくした質問に、先輩はバツの悪そうな顔をしながら頭を掻いた。つい踏み込みすぎた、と思い
「あっ、すみません、余計なこと聞いて」
咄嗟に一歩引き下がり謝った。
「いや、いいんだ。……実はるい、産まれた時から体が弱くて。通院の日とか調子悪い日はジャンケンもおやすみ、っていうか……ごめん朝からこんな話」
「そんなっ、謝らないでください」
「ありがと。今日は通院の日で朝からぐずってたんだよ。行きたくない〜!つって」
先輩は明らかに僕に気を遣って一気に声のトーンを上げた。無理に口角を操っているのがわかる。そんな優しさを向けられても僕は返し方が分からず
「僕でよかったらなんでも聞きますから。いや、聞かせてください!」
なんて突拍子もない言葉をぶつけてしまった。
「……」
案の定先輩は目をまん丸にして固まっていた。
やってしまった……
知り合って間もないただの歳下に、何でも話してくださいなんて言われても困るに決まってる。
僕はまた踏み込んでしまったことに後悔し、今度は頭を下げた。
「すっすみません!でしゃばったことを」
「ううん、違うよ。すげえ嬉しくて。驚いちゃった」
「う、嬉しかったですか?」
「うん。あーほら、俺一応受験生じゃん?だから周りもどことなくピリついててさ。弟が病気で、なんて話できるわけないし。それに俺ってそんなキャラじゃないし?」
「キャラ……?」
「はちゃめちゃに明るくて悩みなんてなさそうに見えるでしょ?」
「そんな」
「いいんだよ。それが俺だから。だからさ、後輩くんが聞いてくれるのはすげえ嬉しい」
そんなまっすぐな言葉を向けられたのは初めての経験だった。透き通る水のように美しく色素の薄い瞳。これ以上見ていたら飲み込まれそうで、僕は先輩の瞳に誓うように頷いた。
「なんでも、話してください!気が済むまで」
「ありがとっ、じゃあ後輩くんもだよ?」
「僕は別に……」
「何か話したいこと考えててよ!あっやばい、そろそろ行かないと。またな!」
「えっ、は、はい!また!」
僕たちの会話はいつもこんなふうに突然終わる。数分しか話せないことが惜しく、先輩がクラスメイトだったらどれだけ楽しい学校生活だろうかと考えてしまうほど。
「話したいこと、か……」
次の日の朝も先輩は歩いていた。
ここ数日、先輩が歩いている日が続き、言葉を交わせることに密かに喜びを感じていた。
しかし先輩が歩いている日は、るいくんの通院日か調子が良くない日。そう知ってしまった今は喜んでいいはずがなかった。
「話したいこと見つかった?」
「強いていうなら、進路?全然決まってなくて〜」
僕はありきたりな悩みを吐露した。
「進路か……好きなものは?ほら、趣味とか!」
「好きなもの……あ、本が好きです」
「本?小説とか?」
「そうですね。小さい頃からあまり外で遊ぶようなタイプじゃなかったんで」
「へーインドアなんだ。小説かぁ」
先輩は少し悩むように頭を掻き
「んー」
と、小さく唸った。
「無理して考えださなくていいですよ。僕の進路なんて」
「書いたらいいじゃん」
先輩の口から飛び出したのは僕の頭に一ミリもなかった道だった。
「書く……?小説を?」
「そ。俺は後輩くんが書く文章読みたいけどなぁ」
「僕が小説を書くなんて、そんなの需要ないですよ。っていうか書けませんし!」
「君は俺が出会ったきた人の中で一番優しい心の持ち主だと思うんだけど。そんな君が書く物語を読んでみたい……本心だよ?」
「……それは」
「ん?」
その言葉をそっくりそのまま先輩に返したい。先輩ほど優しくて周りに気配りができる人はそういないと思う。受験期のピリつきや自分の求められたキャラクターを考慮しながら生活しているあなたに言われたくない。その優しさが自分を苦しめているんじゃないかと心配になるほど。優しい、なんて僕よりよっぽど似合うのは先輩だ。
「……じゃあ、書いてみます」
先輩の期待の眼差しに頷くことしかできなかった。
「まじ?楽しみにしてる!じゃあ今日も頑張るか〜」
そう言いながら駅に向かって歩き出した先輩の背中に
「あっ、でも期待しないでくださいね!完成するかもわかりませんし!」
と、保険の言葉を投げかけた。
「お〜、いつまでも待ってる!」
振り返った先輩はニカっと笑い、僕の心配をよそに、それでも待つと言い張った。