——そんな日常に変化があったのは10月の頭だった。
 その日もいつも通り家を出て、いつもと同じ道を歩いていた。そして彼とすれ違った。家を出て30秒。
 いつもなら5分ほど歩いた時にやっとすれ違う彼が、そこに、歩いていた。僕は普段と違う光景に一瞬思考が止まり
「えっ」
 無意識に驚いた声を発していた。さらにジッと見てしまったことにより運悪く目が合い、彼も少し驚いた表情で僕を見た。
「……なにか?」
「い、いえ……走ってない、と思って」
 ハッと口元を抑えた。すぐに誤魔化せばよかったはずの会話を、なぜか勢いのままに続けてしまった。
「す、すみません!気にしないでください」
 僕はすかさず彼から目を逸らし、そそくさとその場から立ち去ろうとした。
「あの!じゃあ俺からも」
「へ?」
 呼び止められると思わず僕は間抜けた声を出してしまった。
「今日は寝癖付いてないですね」
 僕の頭を指差し、何故だか嬉しそうにそう笑った。
「えっ、あ、寝癖……」
 毎日すれ違うことに気がついているのは僕の方だけではなかった。ほとんど毎日寝癖のついた頭で登校していた自分のだらしなさを自覚し恥ずかしくなる。
「歩いてる姿を見るのがなんだか新鮮で……ってすみません」
 恥ずかしさで少し顔が赤くなった気がした僕は話を逸らした。毎日走っている姿を見ていたから、こんなにもまじまじと彼の容姿を見たのは初めてだった。
 整った綺麗な顔だとは思っていたが、改めてうっとりするほどの美男だと思った。ナチュラルなヘアスタイリングはサラサラな髪と、その綺麗な顔立ちを一層引き立たせる。
「今日は走らなくても間に合いそうだったので。なんだか不思議ですね、多分毎日すれ違ってるのに……はじめまして!」
「ハハッ、そうですね。はじめまして!」
「そのネクタイの色、白垣高校の2年生ですか?」
「えっ、よく分かりましたね!」
 彼は僕のネクタイを指差し、見事に学年まで当ててみせた。
「中学の友達で通ってる子が多いから。あと文化祭行ったことあるしね」
「そうだったんですね。えっと……」
 僕は彼の名前が分からず質問を返そうにもうまく言葉が出てこない。
「俺は三年です」
 そんな僕を見かねて彼は僕の聞きたい答えを返してくれたが、さらに名前を聞くタイミングを見失った。
「じゃあ先輩ですね」
 なんて当たり前のことを改めて言葉にしてしまうほど動揺していた。
「そうだね」 
 少しの沈黙が気まずくて何か言おうと考えていると、彼の肩に何かがキラッと光って見えた。
「あの、肩についてるのは……シールですか?」
「えっ!……ああ、るいの仕業か」
「るい?」
「弟がいるんだ。5歳の」
 彼は肩についたシールを丁寧に取りながら
「捨てたら怒るから」
 とスマホの裏に貼り付けた。
「そうだったんですね。5歳かぁ、可愛いですよねきっと」
「ああ、可愛いけどやんちゃだよ?もう手に負えなくなってきた」
 彼は冗談まじりに困ったように、嬉しそうに笑った。
「あっそろそろ行かないと。早く出てきた意味無くなっちゃうな」
「そうですね、僕も行かないと」
「じゃあ、また」
「はい、また」
 軽く別れの挨拶をすると背を向けて互いの方向に歩き始めた。
「あ!また今度るいの写真見てよ!」
「はっ、はい!ぜひ!」
 初めて彼と言葉を交わした日。
 この日を境に僕たちの関係は大きく変わった。僕は毎朝、十字路の右側から走りながら出てくる彼に
「おはようございます!」
 と投げかけ、彼は
「おはよ!後輩くん!」
 と爽やかな笑顔とハリのある声で返しながら走り抜けていった。
 そして週に1回ほど、彼が歩いている日があった。おそらく早起きした日だろう。そんな日は他愛もない話で盛り上がったり、弟のるい君の写真を見せてくれたり、とにかく日常だった。ケラケラと笑いながらくだらない話をする時間。新しい日常となった。
 そして僕はまだ知らなかった。先輩が歩く日、急いで走る日、何が違ったのか。