「その方がセツさんですか……」
長野さんは口に入れたかに玉をゴクンと飲み込むと、言葉を確かめるようにしながら言う。
中華料理屋の店内はいつの間にかカウンター以外が満席となっていた。皆が友人と共に酒を酌み交わし、酔いが回ったのか大きな声で仕事や家庭の愚痴、今後の展望について話し合っている。
今日が花金というのも大きいのだろう。
そんな声を囃すように厨房からはカンカンと大将がお玉を中華鍋に当てる音が響く。
「そ。その子がセツ。変な子だったなー。オシャレな制服なのにヘルメットと皮の手袋しててさ、だけど人懐っこくって僕に話しかけてきた。それからはしばらくセツが釣りに来るようになって、すぐ仲良くなったよ」
「確かにちょっと変わった子ですね。工事現場の現場監督の娘さんだったとか」
「そんなことだったらいいんだけどね」
僕は笑いながら残りわずかになったビールを一気に飲み干す。既に炭酸が抜けてしまった上に温くなってあまり美味しくなかった。
やっぱりビールは一口目がピークだ。
「先生。何か飲みます?」
すかさず長野さんがメニューを差し出しながら訊いてくる。接待とは違うとわかる嬉しい心遣いだった。きっとこの心遣いの究極系がキャバクラなのだろうが、キャバクラは昔先輩医師に誘われて行ったきりなのでよくはわからない。
僕にはこれぐらいの店の方が居心地がいい。
メニューを受け取ると飲み物の欄をザッと見回す。
ビールにハイボールに紹興酒、日本酒、なんだかよくわからない酒、ソフトドリンクが文字だけ書き連なっていた。
「ありがとう。じゃあハイボール中ジョッキでもらおうかな」
「わかりました。私も同じの飲もうかな」
そう言うと長野さんは大きな声を上げて女将さんに中ジョッキのハイボールを二つ注文をした。長野さんは僕の倍ほどは既に飲んでいるはずなのに顔色は何一つ変わっていない。
きっとお酒には相当強いし、その自負もあるのだろう。
一方僕はフワフワと心地よい浮遊感を感じ始めていた。酩酊とまでは行かない。でも酔いは確実に感じていた。アルコールで体温がほんのりと上がっていて指の先まで温かい。舌もよく回る。
この店の空気感とお酒の力があれば、僕は中学二年生の忘れたい黒歴史も恥ずかしい性癖でも話してしまうかもしれない。
「それで、そのセツさんが先生が緩和ケア科に進んだきっかけになるんですか?」
長野さんは大皿に残った油淋鶏とかに玉を小皿に取り分ける。彼女が料理を取り分けたことで、大皿の上の料理は全て無くなった。
「あ、ありがとう。うん。緩和ケアはもちろんだけど医者になったきっかけでもあるんだ」
「へー。どういう方なのか聞くのが楽しみです。それはそうと、先生、高校生の頃は結構尖っていたんですね」
長野さんはテーブルに頬杖をつき、含み笑いをしながらこちらを見る。その目はまるで年下の社会の仕組みもわかっていない不良を見ているようで、自分から話したのになんだか恥ずかしさを感じた。
「高校生なんてそんなもんだよ。むしろ今は一応それなりにしっかり働いているんだから成長幅を見てほしい」
「それもそうですね。あと、先生が伊豆出身なのは聞いたことありましたけど、イカ漁師の息子さんだったとはとても驚きました。先生の雰囲気からすると、代々医者の家系の方がそれっぽいです」
これは学生時代に言われ慣れていた。僕は大学入学直後を思い出す。
医学部に漁師の息子なんているはずもなく、周りは医者や官僚、社長の子供ばかりでとんでもないところに来てしまったと思った。それでも一緒に勉強をして話してみると変にスレている奴は一部を除いてほとんどいなく、学生時代の友人とは今でも連絡を取り合う仲となっている。
結果として医学部に進学をして医者にはなったが、きっと僕はセツに出会わなかったら家業を継いでイカ釣り漁船の上でせっせと漁をしていたに違いない。
まぁそれはそれで悪くはないんだけど。
「お待たせしましたー」
威勢の良い声と共に女将さんがハイボールを二つ持ってきた。
女将さんがハイボールをテーブルに置くと、その衝撃でハイボールに浮かぶ氷が揺れてカランと甲高い音が鳴る。ジョッキの中では無数の小さい泡が舞っており、氷の音に負けじとシュワシュワと気持ち良く炭酸が弾ける音を立てていた。
「それにしても……先生の名前の由来……くく……」
長野さんは顔を伏せ、曲げた人差し指を口元に当てた。体は小刻みに震えている。患者だったらすかさず診察をするレベルだ。しかしその心配はいらない。彼女からは必死で堪えているのであろう笑い声が漏れていた。
「まぁみんなそんな反応だよね」
「いえいえ……そんなつもりは……。でも……オシャレな漢字と名前なのに……由来がイカ釣り漁船……フガッ!」
ついに堪え切れなかったのか長野さんは噴き出して笑い始めた。どうやらこの名前の由来は人間的に成長し成熟するほど、ギャップが増して破壊力を強めるようだ。
「……すいません。大変失礼しました」
「いやいや大丈夫……気にしてないから」
長野さんがこんなに笑うのを初めて見た。それだけで名前のエピソードを話しただけの価値はある気がした。
「先生の話、面白いですね。早く続きが聞きたいです」
「……うん。じゃあ……」
「あ、その前に先生まだ何か食べます?」
長野さんに促されてメニューを見た後、壁中に貼られた手書きのメニューを見回した。お腹にはまだ余裕があるし何か食べたいのだが、何が食べたいのかが決まらない。
「食べたいけど決まらないから何かおすすめがあれば」
長野さんに訊く。きっと僕が決めるより常連である彼女が決めた方がハズレはないだろう。
「そうですね……。先生。豚足好きですか?」
長野さんは珍しく遠慮がちに訊いてきた。
「豚足? うん。普通に好きだけど」
「ここの豚足美味しくておすすめなんですけど、頼んでもいいですか?」
「僕がおすすめ訊いたんだしそれはもちろん」
そう言うと長野さんは安心したように女将さんに「豚足二人前酢味噌多め」と注文をした。
活気あふれる店内の中、再び注文を厨房に伝える女将さんの通りの良い声が響く。
僕は先に到着をしていたハイボールを一口飲む。ウイスキーの香りが鼻に抜けた後、口の中には舌触りの良い炭酸の刺激が残る。味もウイスキーが濃いめで好きなバランスだった。これだけで自信を持って紹介ができる店だとわかる。
「そんななんでわざわざ僕に訊いたの?」
僕はハイボールを飲みながら長野さんに訊いた。長野さんのことだから僕がおすすめを訊いたらいの一番に注文をしそうなのに。
長野さんは少し頬を赤らませながら俯く。これは酔いではなくただ照れているだけのようだ。そして上目遣いでこちらを見ながら言った。
「だって、初飲みでいきなり豚足頼んだら引かれるかなと思いまして……」
それを聞いて僕は思わずハイボールを吹きこぼしそうになった。なんとか吹きこぼしまいと慌ててハイボールを飲んだものだから、気管支にハイボールが入り込みゴホゴホとむせ込む。
「だ、大丈夫ですか……!」
長野さんは慌ててこちらに駆け寄ろうとするのを僕は手で制した。
「ごめんごめん。大丈夫……!」
どうやら彼女の中で遠慮のボーダーラインは豚足らしい。一方的に店に誘い、先に飯を注文し、相手が注文をした品も先に食べる。でも豚足を注文するのは躊躇する。正直意味がわからなかったがそれが知れたのが無性に面白かった。
「今更そんなことじゃ引かないよ」
「ならよかったです。ここの豚足美味しいですよ」
長野さんは既に真顔に戻り、先ほどの顔を赤らめた少女のような表情は消えていた。
クソッ、もっとよく見ておけばよかった。あんな表情、病院で見ることはまずない。
「では料理も注文しましたし、続きを聞いてもいいですか?」
長野さんは改まった様子で話す。
そうだ。まだまだ僕は話さなくてはならない。僕が緩和ケアを選んだ理由。医者になった理由。
セツが死んだ日までのことを。
長野さんは口に入れたかに玉をゴクンと飲み込むと、言葉を確かめるようにしながら言う。
中華料理屋の店内はいつの間にかカウンター以外が満席となっていた。皆が友人と共に酒を酌み交わし、酔いが回ったのか大きな声で仕事や家庭の愚痴、今後の展望について話し合っている。
今日が花金というのも大きいのだろう。
そんな声を囃すように厨房からはカンカンと大将がお玉を中華鍋に当てる音が響く。
「そ。その子がセツ。変な子だったなー。オシャレな制服なのにヘルメットと皮の手袋しててさ、だけど人懐っこくって僕に話しかけてきた。それからはしばらくセツが釣りに来るようになって、すぐ仲良くなったよ」
「確かにちょっと変わった子ですね。工事現場の現場監督の娘さんだったとか」
「そんなことだったらいいんだけどね」
僕は笑いながら残りわずかになったビールを一気に飲み干す。既に炭酸が抜けてしまった上に温くなってあまり美味しくなかった。
やっぱりビールは一口目がピークだ。
「先生。何か飲みます?」
すかさず長野さんがメニューを差し出しながら訊いてくる。接待とは違うとわかる嬉しい心遣いだった。きっとこの心遣いの究極系がキャバクラなのだろうが、キャバクラは昔先輩医師に誘われて行ったきりなのでよくはわからない。
僕にはこれぐらいの店の方が居心地がいい。
メニューを受け取ると飲み物の欄をザッと見回す。
ビールにハイボールに紹興酒、日本酒、なんだかよくわからない酒、ソフトドリンクが文字だけ書き連なっていた。
「ありがとう。じゃあハイボール中ジョッキでもらおうかな」
「わかりました。私も同じの飲もうかな」
そう言うと長野さんは大きな声を上げて女将さんに中ジョッキのハイボールを二つ注文をした。長野さんは僕の倍ほどは既に飲んでいるはずなのに顔色は何一つ変わっていない。
きっとお酒には相当強いし、その自負もあるのだろう。
一方僕はフワフワと心地よい浮遊感を感じ始めていた。酩酊とまでは行かない。でも酔いは確実に感じていた。アルコールで体温がほんのりと上がっていて指の先まで温かい。舌もよく回る。
この店の空気感とお酒の力があれば、僕は中学二年生の忘れたい黒歴史も恥ずかしい性癖でも話してしまうかもしれない。
「それで、そのセツさんが先生が緩和ケア科に進んだきっかけになるんですか?」
長野さんは大皿に残った油淋鶏とかに玉を小皿に取り分ける。彼女が料理を取り分けたことで、大皿の上の料理は全て無くなった。
「あ、ありがとう。うん。緩和ケアはもちろんだけど医者になったきっかけでもあるんだ」
「へー。どういう方なのか聞くのが楽しみです。それはそうと、先生、高校生の頃は結構尖っていたんですね」
長野さんはテーブルに頬杖をつき、含み笑いをしながらこちらを見る。その目はまるで年下の社会の仕組みもわかっていない不良を見ているようで、自分から話したのになんだか恥ずかしさを感じた。
「高校生なんてそんなもんだよ。むしろ今は一応それなりにしっかり働いているんだから成長幅を見てほしい」
「それもそうですね。あと、先生が伊豆出身なのは聞いたことありましたけど、イカ漁師の息子さんだったとはとても驚きました。先生の雰囲気からすると、代々医者の家系の方がそれっぽいです」
これは学生時代に言われ慣れていた。僕は大学入学直後を思い出す。
医学部に漁師の息子なんているはずもなく、周りは医者や官僚、社長の子供ばかりでとんでもないところに来てしまったと思った。それでも一緒に勉強をして話してみると変にスレている奴は一部を除いてほとんどいなく、学生時代の友人とは今でも連絡を取り合う仲となっている。
結果として医学部に進学をして医者にはなったが、きっと僕はセツに出会わなかったら家業を継いでイカ釣り漁船の上でせっせと漁をしていたに違いない。
まぁそれはそれで悪くはないんだけど。
「お待たせしましたー」
威勢の良い声と共に女将さんがハイボールを二つ持ってきた。
女将さんがハイボールをテーブルに置くと、その衝撃でハイボールに浮かぶ氷が揺れてカランと甲高い音が鳴る。ジョッキの中では無数の小さい泡が舞っており、氷の音に負けじとシュワシュワと気持ち良く炭酸が弾ける音を立てていた。
「それにしても……先生の名前の由来……くく……」
長野さんは顔を伏せ、曲げた人差し指を口元に当てた。体は小刻みに震えている。患者だったらすかさず診察をするレベルだ。しかしその心配はいらない。彼女からは必死で堪えているのであろう笑い声が漏れていた。
「まぁみんなそんな反応だよね」
「いえいえ……そんなつもりは……。でも……オシャレな漢字と名前なのに……由来がイカ釣り漁船……フガッ!」
ついに堪え切れなかったのか長野さんは噴き出して笑い始めた。どうやらこの名前の由来は人間的に成長し成熟するほど、ギャップが増して破壊力を強めるようだ。
「……すいません。大変失礼しました」
「いやいや大丈夫……気にしてないから」
長野さんがこんなに笑うのを初めて見た。それだけで名前のエピソードを話しただけの価値はある気がした。
「先生の話、面白いですね。早く続きが聞きたいです」
「……うん。じゃあ……」
「あ、その前に先生まだ何か食べます?」
長野さんに促されてメニューを見た後、壁中に貼られた手書きのメニューを見回した。お腹にはまだ余裕があるし何か食べたいのだが、何が食べたいのかが決まらない。
「食べたいけど決まらないから何かおすすめがあれば」
長野さんに訊く。きっと僕が決めるより常連である彼女が決めた方がハズレはないだろう。
「そうですね……。先生。豚足好きですか?」
長野さんは珍しく遠慮がちに訊いてきた。
「豚足? うん。普通に好きだけど」
「ここの豚足美味しくておすすめなんですけど、頼んでもいいですか?」
「僕がおすすめ訊いたんだしそれはもちろん」
そう言うと長野さんは安心したように女将さんに「豚足二人前酢味噌多め」と注文をした。
活気あふれる店内の中、再び注文を厨房に伝える女将さんの通りの良い声が響く。
僕は先に到着をしていたハイボールを一口飲む。ウイスキーの香りが鼻に抜けた後、口の中には舌触りの良い炭酸の刺激が残る。味もウイスキーが濃いめで好きなバランスだった。これだけで自信を持って紹介ができる店だとわかる。
「そんななんでわざわざ僕に訊いたの?」
僕はハイボールを飲みながら長野さんに訊いた。長野さんのことだから僕がおすすめを訊いたらいの一番に注文をしそうなのに。
長野さんは少し頬を赤らませながら俯く。これは酔いではなくただ照れているだけのようだ。そして上目遣いでこちらを見ながら言った。
「だって、初飲みでいきなり豚足頼んだら引かれるかなと思いまして……」
それを聞いて僕は思わずハイボールを吹きこぼしそうになった。なんとか吹きこぼしまいと慌ててハイボールを飲んだものだから、気管支にハイボールが入り込みゴホゴホとむせ込む。
「だ、大丈夫ですか……!」
長野さんは慌ててこちらに駆け寄ろうとするのを僕は手で制した。
「ごめんごめん。大丈夫……!」
どうやら彼女の中で遠慮のボーダーラインは豚足らしい。一方的に店に誘い、先に飯を注文し、相手が注文をした品も先に食べる。でも豚足を注文するのは躊躇する。正直意味がわからなかったがそれが知れたのが無性に面白かった。
「今更そんなことじゃ引かないよ」
「ならよかったです。ここの豚足美味しいですよ」
長野さんは既に真顔に戻り、先ほどの顔を赤らめた少女のような表情は消えていた。
クソッ、もっとよく見ておけばよかった。あんな表情、病院で見ることはまずない。
「では料理も注文しましたし、続きを聞いてもいいですか?」
長野さんは改まった様子で話す。
そうだ。まだまだ僕は話さなくてはならない。僕が緩和ケアを選んだ理由。医者になった理由。
セツが死んだ日までのことを。