ーー光の中で目を覚ました。
辺り一面限りなく続く雪原のような白。まるで夢を見ているようだった。
でもすぐにわかった。これは夢じゃない。
薄緑色の病衣から覗く深い皺が刻まれた手、白い体毛、衰えた脚の筋肉、全てが永遠の眠りにつく前と同じだった。
さて、どこへ行けばいいものなのか。
とりあえず目線の先に進むことにした。
体はうまく動かない。脚が重い。すぐに息が切れる。
でもゆっくり進めばいい。不思議と焦りは感じなかった。大丈夫。時間はたくさんある。
「トウ君!」
後ろから懐かしい声がする。七十年年ぶりに聞いた透き通るような声。
すぐさま振り返る。さっきまで感じていた体の不自由さは何も感じなかった。
目の前に景色と同化するような純白のワンピースを着たセツが立っていた。
最期の日から何も変わっていない。僕の記憶の中のセツをそのまま映写機で映し出したような姿だった。
瞬き一つもしたくなかった。
一瞬でも目を閉じた瞬間、セツが消えてしまうのが怖かった。
「セツ……セツ……」
震える声が唇から漏れると同時に開いた目から堰を切ったように涙が溢れた。皺苦茶な顔がさらに歪み視界が滲んだ。
セツが走りながら近づいてくる。
そしてその勢いに任せて僕を抱きしめた。
セツの柔らかい髪の毛が僕の鼻先をくすぐる。
鼻腔に入り込む匂いまでもあの日のままだった。
「久しぶりだね! トウ君、随分渋いおじいちゃんになっちゃって! もう泣き過ぎだよ!」
セツは一度顔を離すと僕を見て笑いながら言った。
セツとの再会の時間をしばらく噛み締めていると、ようやく涙が止まった。
「セツ、久しぶりだね。これじゃまるでじいさんと孫だ」
「そうだねぇ……これじゃちょっと歳の差があり過ぎるかも」
セツは抱きしめていた両腕を解くと、ぴょんと弾みながら一歩後ろに下がった。
そして右手の人差し指を立てながら僕に言う。
「トウ君。目を瞑って。そして自分は十七歳の頃の佐伯灯一郎だ! って思い込むの。いい? 本気で思い込まないとダメだよ! はいどうぞ!」
僕はセツに言われるがまま目を瞑ると、十七歳の頃の自分の姿をイメージした。
セツと過ごしたあの日の僕。忘れられない思い出の中の僕。
その瞬間、体の細胞に枯れ木に花が咲くように生命力が宿り、力が漲り若返っていくのを感じた。
「もう大丈夫だよ。目を開けて」
目を開ける。僕は制服姿の高校二年生の頃の僕に戻っていた。
「うん! おじいちゃんのトウ君もかっこよかったけど、やっぱりこの頃のトウ君が一番だね!」
セツはそう言うと、再び僕を抱きしめた。
「……トウ君、会いたかったよ。もう私待ちくたびれちゃった」
「待たせてごめんな。セツにちゃんと話せる人生にしたくて寿命までしっかり生きちゃったよ」
「……うぅん。えらいよ。さすが私が惚れた男。早死になんてしたら口聞いてあげないつもりだったよ。楽しい人生でしたか?」
「うん、僕なりに頑張ってみたよ」
「トウ君大人っぽくなったね」
「そりゃ中身は八十七年生きた大人だからね。嫌かい?」
「うぅん。落ち着いてるトウ君も大好きだよ。……結婚した?」
「……うん」
「げ、じゃあこれって不倫になっちゃうかな?」
「うーん多分許してくれるんじゃないかな。奥さんもセツのこと知ってるし」
「え? そうなの?」
「うん。大昔中華料理屋でセツのことを初めて話した時、ビービー泣いてさ。仕事の時は冷静なくせに、『私、セツさんの分まで頑張ります〜』って叫んでた。一緒にセツの墓参りにも行ったよ」
「奥さん面白い人だね! トウ君に良い人が見つかってよかったよ。ではそれならお言葉に甘えて……」
セツは僕を抱きしめていた両腕にさらに力を入れ、僕の胸にぐりぐりと顔を埋める。その両腕には七十年分の思いが込められているようだった。
「ねぇセツ聞いてよ。僕、医者になったんだ」
「え? ホント! さすがトウ君だ! 頭良いとは思っていたけど、お医者さんになるなんてびっくり!」
「うん、それで緩和ケア医になったんだ。セツのような人を少しでも救いたくて……」
「うん! うん! 良い心がけ! 褒めてつかわす〜」
「それで……たくさんの人を看取って……たくさん死に触れて……たくさん……迷った……」
「……うん」
「自分が死ぬ時まで……僕は正しかったのかって……本当は迷いっぱなしだったんだよ……セツのような人の心と体を救いたい……ずっと……そう思って医者をやってきた……でも……そのためには延命をできるだけして……そしたら明日には……画期的な治療法が見つかるかもしれない……救われる命があったかもしれない……セツ……僕は……これでよかったのかな……?」
瞳に涙が溜まりまた視界が滲む。僕が医者として生きて、初めて吐露した思いだった。家族にも打ち明けていなかった思いはセツを前にして自然と溢れ出ていた。
「トウ君……」
セツは体を離すと、僕の手を取り歩き出した。
「ねぇこのずっと先に海があるの。そこで一緒に釣りしよ?」
「え? 釣り?」
僕は裏返った声と共に思わずセツに訊き返した。
「うん。魚がいるかもわからない海。でさ、そこで一緒にたくさん話しながら釣りをしようよ。釣れても楽しいし、釣れなくても楽しいよ。あとね、そのまた先には遊園地もあるよ。ダンスホールもあるよ。釣りに飽きたら一緒に遊んで、一緒に踊ろ! 時間はたくさんあるもん。トウ君が正しかったかどうかなんて私はわかんないけどさ、そんなことしてればいつかわかる時が来ると思うよ! きっと! 多分!」
セツのなんとも適当な答えに僕は呆気に取られる。そしてそれと同時に腹の底から笑いが込み上げてきて思わず噴き出してしまった。
「……それもそうだな!」
今更悩んでいてもしょうがない。だって僕は寿命を全うしてしまったのだから。だったら今はセツとの久しぶりの再開を満喫した方が良いに決まってる。
釣りに遊園地にダンス……。
どうやらセツとやらなくちゃならないことはたくさんあるようだ。どれもこれもが楽しみで仕方がない。
セツは僕のそんな様子に気付いたのか、振り返ると満面の笑みをこちらに向ける。そして、無邪気に声を弾ませながら僕に言った。
「ねぇもっと聞かせて! トウ君が歩んだ人生の話! 君が生きた話をもっともっと!」
辺り一面限りなく続く雪原のような白。まるで夢を見ているようだった。
でもすぐにわかった。これは夢じゃない。
薄緑色の病衣から覗く深い皺が刻まれた手、白い体毛、衰えた脚の筋肉、全てが永遠の眠りにつく前と同じだった。
さて、どこへ行けばいいものなのか。
とりあえず目線の先に進むことにした。
体はうまく動かない。脚が重い。すぐに息が切れる。
でもゆっくり進めばいい。不思議と焦りは感じなかった。大丈夫。時間はたくさんある。
「トウ君!」
後ろから懐かしい声がする。七十年年ぶりに聞いた透き通るような声。
すぐさま振り返る。さっきまで感じていた体の不自由さは何も感じなかった。
目の前に景色と同化するような純白のワンピースを着たセツが立っていた。
最期の日から何も変わっていない。僕の記憶の中のセツをそのまま映写機で映し出したような姿だった。
瞬き一つもしたくなかった。
一瞬でも目を閉じた瞬間、セツが消えてしまうのが怖かった。
「セツ……セツ……」
震える声が唇から漏れると同時に開いた目から堰を切ったように涙が溢れた。皺苦茶な顔がさらに歪み視界が滲んだ。
セツが走りながら近づいてくる。
そしてその勢いに任せて僕を抱きしめた。
セツの柔らかい髪の毛が僕の鼻先をくすぐる。
鼻腔に入り込む匂いまでもあの日のままだった。
「久しぶりだね! トウ君、随分渋いおじいちゃんになっちゃって! もう泣き過ぎだよ!」
セツは一度顔を離すと僕を見て笑いながら言った。
セツとの再会の時間をしばらく噛み締めていると、ようやく涙が止まった。
「セツ、久しぶりだね。これじゃまるでじいさんと孫だ」
「そうだねぇ……これじゃちょっと歳の差があり過ぎるかも」
セツは抱きしめていた両腕を解くと、ぴょんと弾みながら一歩後ろに下がった。
そして右手の人差し指を立てながら僕に言う。
「トウ君。目を瞑って。そして自分は十七歳の頃の佐伯灯一郎だ! って思い込むの。いい? 本気で思い込まないとダメだよ! はいどうぞ!」
僕はセツに言われるがまま目を瞑ると、十七歳の頃の自分の姿をイメージした。
セツと過ごしたあの日の僕。忘れられない思い出の中の僕。
その瞬間、体の細胞に枯れ木に花が咲くように生命力が宿り、力が漲り若返っていくのを感じた。
「もう大丈夫だよ。目を開けて」
目を開ける。僕は制服姿の高校二年生の頃の僕に戻っていた。
「うん! おじいちゃんのトウ君もかっこよかったけど、やっぱりこの頃のトウ君が一番だね!」
セツはそう言うと、再び僕を抱きしめた。
「……トウ君、会いたかったよ。もう私待ちくたびれちゃった」
「待たせてごめんな。セツにちゃんと話せる人生にしたくて寿命までしっかり生きちゃったよ」
「……うぅん。えらいよ。さすが私が惚れた男。早死になんてしたら口聞いてあげないつもりだったよ。楽しい人生でしたか?」
「うん、僕なりに頑張ってみたよ」
「トウ君大人っぽくなったね」
「そりゃ中身は八十七年生きた大人だからね。嫌かい?」
「うぅん。落ち着いてるトウ君も大好きだよ。……結婚した?」
「……うん」
「げ、じゃあこれって不倫になっちゃうかな?」
「うーん多分許してくれるんじゃないかな。奥さんもセツのこと知ってるし」
「え? そうなの?」
「うん。大昔中華料理屋でセツのことを初めて話した時、ビービー泣いてさ。仕事の時は冷静なくせに、『私、セツさんの分まで頑張ります〜』って叫んでた。一緒にセツの墓参りにも行ったよ」
「奥さん面白い人だね! トウ君に良い人が見つかってよかったよ。ではそれならお言葉に甘えて……」
セツは僕を抱きしめていた両腕にさらに力を入れ、僕の胸にぐりぐりと顔を埋める。その両腕には七十年分の思いが込められているようだった。
「ねぇセツ聞いてよ。僕、医者になったんだ」
「え? ホント! さすがトウ君だ! 頭良いとは思っていたけど、お医者さんになるなんてびっくり!」
「うん、それで緩和ケア医になったんだ。セツのような人を少しでも救いたくて……」
「うん! うん! 良い心がけ! 褒めてつかわす〜」
「それで……たくさんの人を看取って……たくさん死に触れて……たくさん……迷った……」
「……うん」
「自分が死ぬ時まで……僕は正しかったのかって……本当は迷いっぱなしだったんだよ……セツのような人の心と体を救いたい……ずっと……そう思って医者をやってきた……でも……そのためには延命をできるだけして……そしたら明日には……画期的な治療法が見つかるかもしれない……救われる命があったかもしれない……セツ……僕は……これでよかったのかな……?」
瞳に涙が溜まりまた視界が滲む。僕が医者として生きて、初めて吐露した思いだった。家族にも打ち明けていなかった思いはセツを前にして自然と溢れ出ていた。
「トウ君……」
セツは体を離すと、僕の手を取り歩き出した。
「ねぇこのずっと先に海があるの。そこで一緒に釣りしよ?」
「え? 釣り?」
僕は裏返った声と共に思わずセツに訊き返した。
「うん。魚がいるかもわからない海。でさ、そこで一緒にたくさん話しながら釣りをしようよ。釣れても楽しいし、釣れなくても楽しいよ。あとね、そのまた先には遊園地もあるよ。ダンスホールもあるよ。釣りに飽きたら一緒に遊んで、一緒に踊ろ! 時間はたくさんあるもん。トウ君が正しかったかどうかなんて私はわかんないけどさ、そんなことしてればいつかわかる時が来ると思うよ! きっと! 多分!」
セツのなんとも適当な答えに僕は呆気に取られる。そしてそれと同時に腹の底から笑いが込み上げてきて思わず噴き出してしまった。
「……それもそうだな!」
今更悩んでいてもしょうがない。だって僕は寿命を全うしてしまったのだから。だったら今はセツとの久しぶりの再開を満喫した方が良いに決まってる。
釣りに遊園地にダンス……。
どうやらセツとやらなくちゃならないことはたくさんあるようだ。どれもこれもが楽しみで仕方がない。
セツは僕のそんな様子に気付いたのか、振り返ると満面の笑みをこちらに向ける。そして、無邪気に声を弾ませながら僕に言った。
「ねぇもっと聞かせて! トウ君が歩んだ人生の話! 君が生きた話をもっともっと!」