第一章 あなたに愛される幸せ
   
 今から二千年前、ルエリッド王国は他の国には存在しない者が人間と平和に共存していた。天だけの世界で地上の世界をただ遠くから見守って触れられない大切で美しいその存在・・・。
 それは天使。天から舞い降りた二人の大天使はルエリッド王国を大きく気に入り、当時の国王にこの国で暮らすことを一年かけて説得し、人間に危害を加えないことを約束した。それから九百年天使と人間は争うことなく、お互い幸せに暮らしていた。お互い手を取り合い、人間は天使を尊敬し、天使は人間を愛していた。ところがある日、一人の天使が巨大な魔力でルエリッド王国で暮らす全ての人間に翼を与えてしまい、その王国に暮らす全ての人間は普段以上の豊かな自由を持ってしまった。それに怒りを覚えた二人の大天使が人間に申し訳なく思い、その日全ての天使は天に帰り、それからルエリッド王国はその翼を見られないように、他の国からの来訪者を一人も入れないようにした。そのせいか、他の国から信頼を失い、いつしかルエリッド王国は「閉ざされた国」として、その名を口にする者がいなくなってしまっていた。巨大な魔力で人間に翼を与えたその天使は「人間となって十回の生まれ変わりと人間を好きになるように」と二人の大天使から罰を与えられた。
 その天使の名はクリス。罰を受けている彼は現在十回目の生まれ変わりとして、ウォルト家の双子に生まれ、「ロル」と名前を与えられて双子の姉、リルと一緒に家族に愛されながら元気に育ち十八歳になった。
「母さん、姉さん。おはよう」
「おはよう、ロル」
「おはよう」
 彼は毎日幸せな日々を送り、平民としてなにも恥じることなく自由に生きている。
「今日はなにをすればいい?」
「うーん、そうね。あっ、今日はお父さんと一緒に畑仕事をやってもらおうかしら」
「分かった、任せて」
 元気でやる気に満ちた明るい笑顔が溢れる弟の体を心配する姉のリルが隣に立ち、ロルの肩を撫でる。
「アタシも手伝おうか?」
「いいよ。姉さんは家でゆっくりしてて」
 その心配を打ち消すようにロルは満面の笑みで断り、リルも本人の気持ちを優先して同じ笑みを見せた。
「ロルがそう言うなら、甘えさせてもらうよ」
「うん」
 毎日大切な家族と朝食を食べて父親の仕事を手伝い、笑い合う。これほど幸せなことはクリスにとって、今までの生まれ変わりの中で一番の宝物になっていた。
「おーい、ロル。そろそろ行くぞ」
 畑仕事に使う道具をたくさん両手で抱えて自分を呼びに来た父親の姿を見て、ロルは頷く。
「うん、分かった」
 父親が持っている道具を半分持って家を出るロルを見送ろうと、母親とリルが後ろで満面の笑みでロルに笑いかける。
「ロル、気をつけてね」
「お仕事頑張って」
「うん! 行ってきます!」
 母親とリルに大きく手を振り家を出て、父親と一緒に家の近くの畑で育てた野菜を収穫する。
「今年はたくさん獲れるね」
「ああ、ロルが頑張ってくれたおかげだ」
「そんな、オレはただ父さんの仕事を手伝っただけだから、大したことはしてないよ」
 自分が役に立てていないことを昔から知っているクリスは暗く俯くが、それを気にせず父親が笑って背中をそっと叩く。
「お前がそう言っても、父さんは助かってるんだ。自分をもっと褒めなさい」
 偽りを演じている「ロル」を気遣っているのはクリスは十分分かっているつもりだ。天使だった頃もあまり褒められることはしてこなかったため、その褒め言葉が強く胸に響き、嬉しさで満たされていく。
「父さん・・・うん、そうだね」
「今夜は母さんにごちそうを作ってもらわないとな。ロルが頑張ったごほうびに」
「いいの?」
「ああ、もちろんいいさ」
「ありがとう、父さん」
「そろそろ帰るか」
「うん」
 一日の流れは早い。幸せを感じるほど時の流れは早くなり、歳を取るのも早く感じてしまう。だが、それも今まで生まれ変わってきたクリスからすれば、そんなことを考えるのは人生の無駄だと思うようになっていた。
「ただいま」
「おかえり」
「おかえりなさい」
「母さん、今日の夜ご飯はこの野菜を使って欲しいんだけど」
 満面の笑みでロルは母親に獲れたての野菜を渡す。
「まあ、なんて立派な野菜なの。ロル、ありがとう」
「うん。この野菜、早く食べたいな」
「分かったわ。ちょっと待ってて、すぐ作るから」
 心から嬉しそうに笑っている母親に続いて後ろから来たリルが思い切りロルの頭を撫でて、歯を見せて豪快に笑う。
「ロル、あんたすごいじゃん」
「あっはは、そんなことないよ。姉さん、その手に持ってる物はなに?」
 背中に大切そうになにかを隠すリルに、ロルは首を傾げて問いかける。
「ああ、これ。今日街の方に買い物に行った時、あんたに似合いそうな物があったから買って来たんだけど・・・」
 ゆっくり背中から出してきたのは星型の銀のネックレスだった。
「これをオレに・・・」
「うん、どうかな?」
「つけてもいい?」
「いいよ」
 リルからそっと丁寧に受け取ったネックレスを大切に首につけると、ロルにぴったり合っていて美しく輝いている。
「ありがとう、姉さん。嬉しい、宝物にするよ」
「よかった、喜んでくれて」
「あっはは」
「お待たせ、できたわよ」
「わああ」
 食卓のテーブルに並べられたごちそうにリルとロルは感動する。一つはクリームシチュー、もう一つは採れたての野菜を使ったハンバーグ。二つ共母親の得意料理でウォルト家の代表料理。こんなにおいしそうなごちそうを食べられることにロルは不安を感じることはあるが、これは自分へのごほうびとして満足し、リルと一緒に隣同士で椅子に座って、母親と父親も揃って向かい側に座って目を合わせる。
「いただきます!」
「召し上がれ」
「あんむ。うーん、おいしい!」
「母さんの作る料理は世界一うまいな」
「もう、褒めてもなにも出ないわよ。うっふふ」
 そうは言いつつも、家族の笑顔に弱い母親が手作りのパンを持って来た一瞬で、ロルが完食して食べ終わった皿を母親に渡す。
「母さん、おかわり」
「はいはい。いっぱい食べるのよ」
「うん!」
 隣でおいしそうに食べていたロルの様子を見ていたリルが手を挙げて、寂しそうに皿を前に出す。
「アタシもおかわり」
「あら、珍しいわね。リルがおかわりするなんて」
「これで最後だからね。家族とこうして幸せでいられるのは」
 その寂しそうに苦しんでいるリルの姿に、母親もつられて涙を見せないように笑顔で隠してその皿を受け取り、おかわりのたくさん入ったクリームシチューの皿を渡す。
「そうだったわね。好きなだけ食べなさい」
「ありがとう」
 二人の謎の会話に違和感を覚えたロルが不思議と何度も瞬きを繰り返して、その話を本当の自分も合わせて聞くことにする。
「姉さん、今の話、どういうこと?」
「あっ」
 話していいのか悩む母親に代わって、リルが体をロルに向けて嘘の笑みをした。
「ロルには言ってなかったね。アタシ、明日国王陛下の妃として城に嫁ぐの」
「・・・・・・」
 その話が嘘であって欲しいというクリスの心が騒めき、とっさにリルの手を強く掴むが、それを初めて断られて戸惑う。
「えっ、嫌だ」
 大切な家族が一人いなくなる寂しさがあるのは当然だと、母親はロルの肩に触れて落ち着くように、理解できるように話し始める。
「ロル、これは嬉しいことなのよ。平民の人間が国王陛下の妃に選ばれるなんてめったにないことなのよ。本当は喜ぶことだけど、大切なリルと離れるのは母さんでも寂し」
「だったら断ればいい!」
「できないよ。もう決まったことだから」
「ロル、分かって」
 母親の悲しみの笑顔に、ロルはこれ以上なにも言ってはいけないのだと、悔しく思いながらもそう感じて、最後に四人で食べた料理の味を勝手に残して立ち上がった。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「うん、もうお腹いっぱい」
 暗く落ち込み、ロルは自分の部屋に戻った瞬間、涙が溢れ出す。
「うわあああ! うっ嫌だ、姉さんと離れるなんて、そんなこと・・・」
 やっと大切な家族の温かさを知れたのに、もうそれが失われることがクリスにとって嫌であり、寂しさどころではなくなっていた。
「ロル、入るよ」
 ロルの泣き叫ぶ声を聞いたリルがそっと部屋に入って、その涙で包まれた体を抱きしめる。
「姉さん」
「ロル、ごめんね。アタシ、城に行ってもロルのことは絶対に忘れないから、だから、泣かないで」
 本当に泣きたいのはリルのはずだが、ロルはそんな大切な家族と離すことができるこの国の王について質問してみる。
「ねえ、姉さん。国王ってどんな人?」
「仕事熱心で思いやりのある人って聞いてるけど、それがどうしたの?」
 大した人間ではないと思ったクリスが大切な家族と離れることに強く反対するロルが、あることを決心する。
「オレが代わりに行ったらダメ?」
「えっ! なに言ってるの、無理だよ」
「無理じゃないよ。オレと姉さんは見た目はそっくりだし、言葉遣いと礼儀さえ気をつければ大丈夫だよ」
 ロルとリルの容姿は他人から見れば全く見分けがつかない。水色の背中まで長い直線の髪と身長は全く同じで違うのは瞳の色。ロルは青色でリルは紫色。瞳の色が違うだけで他は全く同じ。ロルの言うとおり、言葉遣いと礼儀を間違えなければなんとかなるかもしれないが、もしロルがリルではなく、さらに天使クリスと気づかれてしまってはどうなるかは分からない・・・。
 だが、それを覚悟でロルは本気で大切な家族を守りたいと決めたのだ。
「姉さんが城に行けばいつ帰って来るか分からないし、なにをされるかも分からない。そんなことになるくらいなら、オレが姉さんの代わりに城に行って、姉さんを、家族を守って見せる!」
 生まれて初めて偽りの家族のために本気を出すクリスの真剣な眼差しに、リルはこれ以上はなにもないと感じた。
「ロル・・・嬉しいけど、本当にいいの?」
「うん!」
 もう手に入れないだろう宝物を大切にするために大きな決心と思いやりで、ロルはリルの腕の中でまだ流れる涙と共にリルを安心させ、顔を上げて可愛く微笑むと、リルは頭を撫でて、そのくれた安心を胸に刻み、柔らかく笑い、天使の翼についての約束を求める。
「分かった。一つだけ約束して、絶対に人前では天使の翼は出さないで」
「分かってるよ。ワタシは人間ではない、でも姉さんの弟だ。これだけは変わらない」
「そう、それはアタシも同じ。なにかあったらすぐに帰って来てね。その時はアタシがロルを守ってあげるから!」
「うん、ありがとう、姉さん」
 涙を手で拭い、リルに抱きしめられた腕をロルはしばらく離さなかった。これが家族の温かさ、愛された喜び。その気持ちを裏切らないために、クリスは見たことのない国王を恨み、天使クリスとして、国王という一人の人間に愛されないことを願った。


 翌日の朝、ロルは本来着るはずだった母親手作りの青色の星型の刺繍が入った黄色のドレスを、母親と父親に気づかれないように、リルと服を入れ替えて着替える。
「ロル、大丈夫? きつくない?」
「うん、ぴったりだよ。うふふっ」
「あっ、これを忘れないで」
 昨日リルがロルのために買った銀のネックレスをリルがロルの首にそっとつけて、再会を願うように抱きしめた。
「ロル、きっとまた会えるって信じてるからね」
「うん、絶対また姉さんと家族に会いに帰るから、待ってて」
 その感動の再会をお互い願っている途中に母親と父親が呼びに来て、皆外に出る。
「リル、時間よ」
「うん」
「ほら、ロルもそろそろ離してあげて」
「うん、またね」
「リル、気をつけてな」
「うん、お母さんもお父さんも、いつか帰って来るから待ってて」
「ああ、結婚式まで会えないのが寂しいな」
 いつ帰って来るか分からない寂しさを抱えて涙を流す父親の肩をロルがそっと撫でて、美しく微笑む。
「お父さん、ワタシ、頑張るから」
 リルにはないロルだけの力強くも可愛らしい言葉の音に、父親は流れた涙を自分の手で拭って満面の笑みを見せて「ああ」と言い、母親も安心してロルの頭を撫でる。
「リル、成長した姿を楽しみにしているわ」
 母親の温かく愛のこもった笑顔に、ロルは涙を精一杯瞳の中でグッと堪えて可愛らしく笑う。
「うん! 行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
「立派になるんだぞ」
「必ずまた帰って来るから」
 笑顔で大きく家族に手を振り、魔法で作った真っ白な迎えの馬車に乗ったロルはリルがくれたネックレスをそっと手で握りしめてまた涙を堪える。
「大丈夫、オレは家族のためならなんだってやって見せる」
 リルとの約束を胸にロルは丘の上にあるお城に着き、誰もいない部屋で国王を待つ。
(ここがルエリッド王国の城か。美しい場所だな)
「待たせたな」
「あっ」
 そこに現れたのは黄緑色の足まで美しく整えられた髪を右肩で一つ結びにし、水色の透き通った瞳。そして緑色のロングジャケットに茶色のブーツはまさしく国王という雰囲気を纏っている。彼は九歳という若さで国王になり、ルエリッド王国を強く守り続け、二十二歳になった今でも民を守るために必死にお城で働き続けていて、クリスは天使だった頃の自分と同じような美しさに、自然と魅了された。
(この人間が国王? すごくいい・・・)
 自分の姿をいつまでも見ているロルを、国王は美しく向かい合って、美しい微笑みをしてみた。
「ふふっ。そんなにオレの姿がいいみたいだな、リル・ウォルト」
 リルの名前を聞いた一瞬で、ロルは姿勢を美しく正して真剣な眼差しで返事をする。
「はい、そうです。あなたは?」
 自分の存在を全く知らないというようなロルの不思議で首を傾げている姿に、国王は怪しく笑う。
「ふっ。オレを知らないのか。まあいい、オレはルエリッド王国国王マカリナ・ルエリッドだ。これからよろしく頼む」
 その怪しく美しい笑顔が、クリスをもう一度魅了させて瞳が自然と輝き出す。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 リルに教えられたとおりの美しいお辞儀をマカリナに披露する。
「君の部屋を案内しよう」
「あっ、はい」
 ロルに気遣うことなく、マカリナは自分のペースで広い廊下を歩き続ける。その壁には一流の芸術家が描いた花の絵や王国の街の風景画が飾られているようだ。
「あの、国王様は普段なにをしているのですか、仕事ですか?」
「オレの仕事は特になにもない。ただ玉座に座っているに過ぎない」
 面白くもない普通の答えに、ロルは少しつまらない顔をする。
「そう、ですか」
「君はこの城でやりたいことやなにか興味はあるのか?」
「いえ、特にありません」
「そうか」
 無表情でなにもなさそうなマカリナに、ロルはいつ家に帰れるのか気になってきたものの、お城に行く前に父親に言われた「結婚式までは会えない」という言葉が頭をよぎり、念のためマカリナ自身にそれを聞いてみる。
「あの、国王様。ワタシはいつ家に帰れるのでしょうか」
「それは分からない。だが結婚するまではここにいてもらう」
「分かりました。くっ」
 予想していた言葉をそのまま聞かされたことに、ロルは怒りながらもその感情をなるべくマカリナに知られないように抑える。
「着いたぞ」
「え」
 案内された部屋はウォルト家よりも何倍も広く、一人部屋とは思えないほどの豪華な部屋となっている。
「ここが、ワタシの部屋、ですか」
「そうだ。この部屋は君の部屋であり、オレの部屋でもある」
「は? どういうことですか。ワタシ一人の部屋ではないのですか」
「今更なにを言う。オレと君は将来結婚するのだ、同じ部屋で過ごすのは当然のことだ」
「そんな・・・」
(同じ部屋だなんて聞いてない。これじゃ男だってすぐに気づかれてしまうじゃないか)
 全てが一瞬で気づかれてしまいそうで怖くなったロルの顔は怯えているが、マカリナにはそれが分からず、不思議な表情でロルに近づく。
「どうした? 嫌か?」
「いえ、なんでもありません」
「・・・荷物はすでにこの部屋に運ばれている。ゆっくりしていろ」
「はい」
 扉が閉まり、一人の空間になったロルは窓から見える街の風景をなぜか懐かしく感じてしまう。
「はあっ、今日からこの城で暮らして国王と結婚するまでは家に帰れないなんてふざけてる! どうして家に帰ることが許されないんだ、あの国王はおかし」
「オレのどこがおかしいと言うのだ?」
「えっ」
 声が聞こえた後ろを振り返ると、なんと部屋を出たはずのマカリナが腕を組んで怒りを表している。
「うっ、国王様、今の話、聞いていたのですか」
「ああ、独り言はなるべく控えたほうがいいぞ。常にオレが君を見張っているからな」
「うっ」
 自信に満ちたその表情はロルにとって、嫌だとしか思えなかった。
「そろそろ昼になるな。君もお腹が空いただろう、食事にしよう」
「はい」
「ついて来い」
 そう言って、マカリナはロルを大広間に案内し、椅子に座らせる。するとマカリナは豪華な料理をロルの目の前に置いていく。
「あの、これは誰が作ったのですか?」
「オレだ」
「え! 国王様が作ったのですか?」
「そうだ」
「ここには使用人はいないのですか」
 その問いかけに、マカリナの瞳は一瞬揺らいだが、それをかき消すように輝く。
「はあ、王になって幼かった頃、オレの美しさに負けて仕事にならずに皆出て行ってしまった。だからこの城に仕えている人間は一人もいない。この城にいるのはオレと君と弟だけだ」
「へえー、国王様に弟がいたなんて、知りませんでした。呼ばなくていいのですか」
 輝いたはずの瞳が暗くなり、ロルはそれがまずいことではないのかと焦る。
「別にこれはその・・・気になっただけで答える必要はあり」
「弟はあることがきっかけで一年部屋に引きこもっている。食事は後でオレが持って行く。君が気にすることではない」
「そうですか」
「さっ、冷めないうちに食べよう」
「はい、いただきます」
 ナイフとフォークを手に取り、メインのお肉を食べやすい大きさに切って、マカリナが作った料理を一口食べる。
「どうだ?」
「おいしいです。この料理は今まで食べたことがありません」
「よかった。君の口に合って安心した」
 無表情でロルの食べる姿をじっと見つめるマカリナを放っておいて、ロルは豪華な料理を食べ進めていく。
「あの、おかわりはありますか」
「足りなかったのか。いいだろう、すぐに用意する」
「ありがとうございます。はっ」
(そういえば姉さんはオレと違ってあまりおかわりをしていなかった。国王の料理がおいしすぎてすっかり忘れてた。気をつけないとダメだな)
「持って来たぞ」
「はい・・・」
「どうした?」
「あっ、いえ。なんでもありません」
「そうか」
 マカリナの手作り料理はおいしいが、昨日まで食べていた母親の料理をもう一度食べたいと願うのはわがままなのかもしれないと、ロルは仕方なく心で納得するのだった。
「ごちそうさまでした」
「もういいのか? まだ残っているが」
「すみません、少し気分が悪いので部屋に戻ります」
「分かった。ゆっくり休んで、またオレの元に来てくれ。そうしたらごほうびを考えておこう」
「ん? はい」
 軽くお辞儀をし、部屋に戻ったロルは寝台に寝転がり、リルがくれた銀のネックレスを手に取り見つめる。結婚するのに何年かかるかはまだ誰にも分からない。ただ一つ願うのは、もう一度家族に会って温かい料理を食べて幸せになりたい。それを叶えるためならなんだってする。そう決めても、なにをすればいいのかが分からない。なにをしたらマカリナが喜ぶのかさえも分からない。その全てが分からない状態でお城に来てしまったロルは不安になりながらも、家族のために頑張ろうとまた決意する。


 昼から夜に変わり、特になにもすることがなかったロルは昼寝をしていた。
「リル、夜になった。そろそろ起きてくれ」
「うーん、まだ眠い」
 あくびをしながら目を擦り起き上がると、マカリナがいつのまにか顔を近づけていた。
「わあっ! なにをしているのですか」
「君がなかなか起きないから心配でずっと見ていたのだ」
「そんなことをしなくても、自分でちゃんと起きれるので、顔を近づけないでください」
「そうか。それならいい」
「ふうー」
 少し乱れた髪を適当に手で解していた時、またマカリナが顔を近づけて、そのままおでこを引っつけて笑う。
「食事はもうできているが、先に体を洗った方がいいだろう」
 意外に恥ずかしがらなかったロルはすっと立ち上がって、扉を開けた。
「分かりました。そうさせていただきます」
「寂しいなら、オレも一緒に入ってもいいがどうする?」
「け、結構です! 一人で入れます」
「ふっ、そうか。浴室はこの部屋を出て右に行けばある」
「はい」
 丁寧にお辞儀をし、ロルは言われたとおりの場所に行き、ドレスを脱いで銀のネックレスを外す。
「はあ・・・」
(国王の考えてることが分からなくて腹が立つ。あれのどこが思いやりがあると姉さんは言うんだ?)
 自分に甘えてくるマカリナの気持ちに素直に喜べないロルはその期待に答えることはできない。そんな自分を今までの生まれ変わりで愛してくれた人間に、ただ申し訳なく感じていた。
 マカリナに美しく掃除された浴槽に体を洗い流してから浸かっていると、甘い匂いがしてきた。
「この匂いはなんだ? お菓子か?」
 匂いにつられて一分もしないうちに上がったロルは用意された黄色のバラの飾りがついた紫色のドレスに着替えて、匂いがする大広間に足を運ぶと、大きな食卓のテーブルに置かれていたのは、ロルの好物チョコレートケーキだった。
「これは嬉しい。でも誰が作ったんだ?」
「オレだが」
「え」
 お皿と紅茶をテーブルに運ぶマカリナがロルに近づいて微笑む。
「国王様が作ったのですか?」
「そうだ」
「お菓子も作れるのですね。意外です」
「仕事がない時はいつも弟のために作っていたが、今日は君が来てくれたお祝いに特別に作った物だ。気に入ってくれたようでよかった」
 満面の笑みでロルの喜ぶ顔が可愛いのか、マカリナは自分でも不思議なくらいに驚いて微笑む。
「でもどうして、ワタシの好物を知っていたのですか。一度も言ったことはないのに」
「・・・それは君を愛しているからだ」
「なっ! そんな、愛しているだなんて。嘘を言わないでください」
「嘘ではない。君が信じないなら今ここで君に口づけをしてもいいが」
 ロルの唇をそっと指で撫でて微笑むマカリナが美しすぎてまともに顔を見られない。
「やめてください。ワタシはそんなつもりで聞いたわけではありません」
 抵抗するロルをマカリナは気に入り、唇から指を離して距離を取る。
「ふっ。それでこそオレの妃にふさわしい。冗談を言って悪かった。許してくれ」
 少し目を逸らして気まずそうに自分を見つめるマカリナの頭を、ロルがそっと撫でる。
「はい、今回は許してあげます。うっふふ」
 国王のマカリナも冗談を言うことを知ったロルは自然と笑みが溢れる。
「君は笑っている方が可愛い」
 一瞬で全てを切り替えて怪しく美しく笑うマカリナに、ロルは顔が真っ赤になる。
「きゅ、急になんですか! 恥ずかしいことを言わないでください」
「恥ずかしい? なぜだ?」
「人間にそう言われても嬉しくありません」
「そうなのか?」
「はい」
 恨んでいた人間に「愛している」や「可愛い」と言われるとは思っていなかった。昨日願った気持ちが簡単に壊されたロルは腹が立ち、できるだけなにも感じることのないようにしばらくマカリナを見ないようにする。そして、人間嫌いの天使クリスにはマカリナが言ったことは全て嘘だと思い込んでしまう。
「少し話し過ぎたな。ケーキは食事の後で構わないか?」
「はい、構いません」
「では、持って来る」
 厨房へ入って行き、マカリナは昼と同じように豪華な料理をロルに振る舞う。
「どうだ? おいしいか?」
「はい! とてもおいしいです」
「ふふっ。それならいい」
 さっきまで腹が立っていたはずが、マカリナの作った料理でそれを一瞬で忘れていき、ただこの料理を食べることに集中していく。
「むうー」
「どうした?」
「いえ」
 マカリナが作った料理がここまでおいしく思えるのはなぜか。ロルは疑問を抱きながら頬を膨らませて納得できずに、黙々と食べ進め、今度はリルと同じようにおかわりをせずに完食する。
「ごちそうさまでした」
「どこか気分でも悪いのか?」
「は?」
「昼はおかわりをしていたのに、夜はおかわりをしていないから、体でも悪いのかと心配になったのだが」
 簡単な問いかけにロルは時が止まったように固まったが、リルの気持ちになって、その答えを話す。
「毎食おかわりをしていたら太ってしまうので遠慮しただけです。心配をする必要はありません」
「そうか。それなら安心する」
「はあ」
(さっきからずっと気になってた。この人間は心配性なのか? オレのことをずっと気にして自分のことは後回しにして・・・。一体なんなんだ)
 今までの生まれ変わりで何度も人間と結婚をしてきたが、一度もクリスは人間を好きにはなれなかった。「人間を嫌っている」という素直ではない理由で、その度に二人の大天使から怒られては反省をし、一生懸命人間を好きになろうとすればするほど人間の気持ちが分からなくなり、毎回思い苦しんでいた。だが、自分を心配するマカリナの気持ちにはなぜか胸が苦しくなって、その正体が分からないまま、ただその苦しさを心にしまっているしかないのかもしれない。今はまだ分からなくても、いつか知ればきっと・・・。
「あの、ケーキを食べてもいいですか。ずっと我慢をしていたので」
「ああ、もう切り分けてある。遠慮せずにたくさん食べてくれ」
「あ、ありがとうございます」
 嫌味のように聞こえたロルは怒りを抑えて遠慮なくチョコレートケーキを好きなだけ食べ続けると、もう一瞬でなくなった。
「おかわりをください」
 予想外の言葉に、マカリナは驚きで瞳が大きく揺らいだ。
「えっ。すまない、ケーキのおかわりは用意していなかった。今すぐ作ろう」
 すぐに椅子から立ち上がって、厨房へ重い足取りで行こうとするマカリナの手をロルが握って、首を横に振る。
「いえ、ワタシの方がすみません。無理を言いました、今のは忘れてください」
「いや、たくさん食べろと言ったオレが悪いのだ。君はゆっくり待っていてくれ」
「・・・はい」
 自分のわがままを素直に受け止めるマカリナは次第にロルの寂しさを紛らわせていき、二人の距離が大きく縮まった気がした。
(ケーキのおかわりをすぐに用意しようと思うなんてすごいとしか言いようがない。オレのためになぜそこまでするんだ?)
 平民の自分のためになんでもすることに、ロルは意味が分からなかった。もしマカリナに自分の正体を知られてしまったら、きっと彼は自分を見捨てるだろうに。
「できたぞ」
「ありがとうございます。えっ、これは」
 短時間で作られたそのケーキは、ロルが予想していた物よりもはるかに三段作りで大きく、それも全く違うイチゴのケーキに変わっていた。
「あの、どうしたらこの短時間でこの大きさに作れるのですか?」
「ふふっ。君の喜ぶ顔を想像して作っていたらこの大きさになってしまっただけだ。それにこの大きさなら、いくらでも食べられるだろう」
「そう、ですね」
 こんなに大きい物を一人で食べられると信じているマカリナに、ロルは言葉を失ったまま巨大なケーキに圧倒されるだけだった。
「どうした? 食べないのか?」
「い、いえ。いただきます。ん、これは」
(この味は、重い。さすがに好きなケーキでも、これを全部食べるのは無理だ)
「残さず全て食べて欲しい」
「え」
 マカリナの美しい微笑みがロルに圧をかける。
「うっ、はい。もちろん全て食べます」
 それから自分のお腹の限界を超えても、ロルはマカリナの圧に負けないように、数時間かけてケーキを完食した。
「はあ・・・」
「よく食べてくれた。また作ろう」
「はい、ごちそうさまでした。もう寝ます」
「あっ、待て」
「はい?」
「オレも一緒に行く」
「なぜですか」
「君と一緒に寝るからだ」
「いえ、一人で寝られるので大丈夫です」
「君がよくてもオレはよくない。少し待っていろ、片づけてくる」
「あっ、ワタシも手伝います」
「構わない。これはオレの仕事だ。君がすることではない」
「でも」
「オレがいいと言っているのだ。妃になる君にさせたくはない」
 大切な妃になるロルにはなにも苦労して欲しくないマカリナの気持ちを、まだロルは知らない。だからできることは自分がなんだってする、そうマカリナは険しい顔でロルに願う。
「分かりました。ここで待っています」
 食べ終わった皿を持ってマカリナは厨房に行き、三十分もしないうちに片付けを終わらせ、ロルに顔を近づけて横に抱えようとするが、一瞬でロルが距離を離れて拒まれた。
「なにをするのですか。ワタシは一人でも歩けます」
「そうではない。オレがしたいだけだ」
「国王様にそのようなことをさせるなど、失礼でしかありません」
「そうは言っても、君の顔は真っ赤になっているではないか。本当は嬉しいのだろう?」
「な!」
 恐る恐る自分の顔を触ってみると、体温が上がり、顔が今まで以上に赤くなっていた。
「これは違います。ただの勘違いです」
「ふふっ。今日はそうしておこう。だが明日はそうはさせないからな」
「うっ」
(今日はやめておくけど明日はこれ以上のことをさせられるのか。はあ、早く家に帰りたい)
「そろそろ行こう」
「はい」
 マカリナの隣を歩き、大広間から出た後はなにも話さず部屋に戻ると、マカリナがロングジャケットとブーツを脱いで髪を下ろす。黄緑色のシャツと黒のシュッとしたかっこいいズボンでそれを見たロルは胸の鼓動が激しくなり、また顔が赤くならないように見ないふりをする。
「どうした? 君も早くこっちに来い」
「あっ、でも」
「大丈夫だ。今日はなにもしないから安心して眠ればいい」
「はい」
 靴を脱ぎ、寝台に横になったすぐ隣にはマカリナがいる。初めて人間と寝ることに少し抵抗はあるが、なにもされないのなら気にせず寝られれば不安はなくなる。そうロルは考えて美しいマカリナの顔を見ずに今日は疲れたのか、すぐに眠りについた。それを見たマカリナが微笑みながらロルの頭を撫でる。
「ロル、オレは一生かけて君を愛すると約束しよう。君が来てくれてオレは嬉しい。君がオレにしてくれたことは今からじっくり返していくから、覚悟してくれよ。ふっ」
「・・・・・・」
「この寝顔は誰よりも可愛い。何年も待ち続けたことがやはり正しかったようだな。本当に、オレの初恋はこの王国を大きく揺らがす価値がある」
 マカリナにとってこれは再会であり、結ばれた運命でもある。ロルがそれを覚えているのかは別として、マカリナの気持ちはこれからも一生続くだろう。今はまだなにも知らなくても、どちらか片方が大切にしていれば、その結ばれた気持ちは一生消えることはないのだから。


 いつもの賑やかなウォルト家とは違う三人だけが暮らす静けさが漂うお城での初めての朝を迎えたロルはマカリナよりも早く目を覚まし、窓から見える景色を眺めている。
(本当になにもしてこなかった。心配性の国王はオレに嫌われるのが怖くて、なにもしなかったんだろうな)
「まあ、その方が助かるんだけど」
「また独り言を言っているのか」
「え」
 声が聞こえた寝台の方を見ると、髪を手でそっと解きながらマカリナがロルに微笑んでいた。
「お、おはようございます」
「おはよう。今朝は早いのだな」
「はい。昨日は昼寝をしたので、すぐに起きられました」
「はああ、それはいい。だができればもう少し眠っていて欲しかった」
「なぜです?」
 不思議に首を傾げるロルの問いかけに、マカリナはお得意の怪しく美しい笑顔をする。
「そうしていたら、オレが君に甘い口づけができていたはずだからだ」
「えっ、それは困ります。結婚もしていないのに、そのようなことをされたくはありません」
「では今すぐ結婚しよう」
「は? なにを言っているのですか。ワタシとあなたは昨日会ったばかりなのに、一年もしないうちに結婚をするのはおかしいです」
「ではどうしろと言うのだ?」
「まずは仲を深めるのが先だと思います」
「そうか。分かった」
 短い言葉を残して、マカリナは一瞬で着替えて髪を結び、部屋を出て行った。
「なんなんだ。今日は機嫌が悪いのか?」
 マカリナの機嫌を悪くした理由に全く気づいていないロルはなにも思わず、昨日着ていたドレスに着替えて櫛で寝癖を解いていく。
「はあ・・・どうすればいいんだ?」
 マカリナの機嫌を直すにはどうすればいいのか。そんなことを考えるなんて今までの自分にはなかったため、できるだけマカリナの言うことをすればいいのかと、一つの考えとして頭をよぎる。
(考えてもダメだ。あの国王がなにを言っても、そのとおりにすればなんとかなるだろ。少なくとも今は、な)
 身を整えてマカリナがいる大広間にロルは足を運び、その姿を確認すると、厨房から出て来たマカリナの顔は微笑みで、ロルが来てくれたことに嬉しさを感じているように見えた。
「ちょうどいい時に来てくれたな。もうすぐパンが焼き上がる。座って待っていてくれ」
「え、パンも手づくりなのですか?」
「そうだが?」
 朝から自分のために一からパンをこねて焼き上げて・・・一体この人間はクリスに対して本当に愛しているのかが少しずつ見えて、理解が追いつかずにいった。
「毎日このようなことをしているのですか」
「毎日ではない。気が向いた時に作っているだけだ」
「それはワタシのためですか」
「ああ、オレは全てを君に尽くすつもりだ」
「え」
(自分を置いてオレのためだけに尽くすのは違うだろ)
「ん? どうした?」
 なにを言ったらマカリナを止められるのか今のロルには全く分からず、ただその微笑む姿を見ることしかできないのかもしれない。
 ただ一つ分かるのは、自分を大切にできない相手が目の前にいることが腹が立って仕方ない!
「そんな、ワタシのためだけじゃなくて自分のためにもしてあげてください」
「それで君は満足するのか?」
「ワタシじゃなくてあなた自身に聞いているのです!」
 息を切らす前に思っていることを全て言えた気がしたロルだったが、その後にマカリナから衝撃の言葉を聞かされることになるのだった。
「オレのため、か。ではこれから君に甘えることを許して欲しい」
「え?」
「オレのためというのは君に甘えるということだ。それで構わないのならそうさせてもらう」
 甘える? まさか自分のためという言葉がロルに甘えることだと、クリスは予想外でたくさんになり、引いた心を持ちながらマカリナに近づき、その瞳に映る自分の姿を見てため息が出た。
「はああ。分かりました、少しずつなら甘えてもいいですよ」
「そうか。それなら遠慮なく」
 そう言って、マカリナはロルにギュッと近づき、頬に口づけをする。
「な、なにをするのですか!」
「口に直接していないのだから、これくらいならいいだろう」
「そういう問題じゃなくて、その・・・」
「なんだ?」
「いえ」
(やっぱりこの国王はおかしい。甘える最初が頬に口づけとかあり得ない。でも、国王と結婚するまでは家に帰れない。これはしばらく耐えるしかない)
「はあ、あの、朝食を食べたいのですが」
「ああ、すぐに用意する」
 お腹が空いたロルの気持ちをすぐに優先してマカリナは急いで厨房に行き、焼き立てのパンを食卓のテーブルに並べる。
「わああ。おいしそう」
「おかわりの分もあるから、遠慮せずたくさん食べてくれ」
「あ、はい」
 もうすでに自分がおかわりをする予想を立てているマカリナの思いやりという物が、ロルの不満を大きくさせる。
「君は食べるのが好きなのか?」
「え」
「おかわりをするほど食事が気に入っているようだが」
 その言葉は天使だった頃の自分に言っているのか、それとも今までの生まれ変わりの自分の人生に聞いているのか。どちらにしても、それはマカリナには関係のない話だと、ロルはマカリナから目を離して俯き、言葉選びに迷いが出てくる。
「いえ、昔は食べることが嫌いでした。今のワタシは違いますが」
 迷いが出ていることに気づいたマカリナが興味深い真っ直ぐな瞳で、右肘をテーブルに乗せて怪しく笑う。
「ほう。君の昔話か、聞かせてもらおう」
「それはできません。昔のワタシは間違ったことをしてしまったので、人間のあなたに話すことなどなにもありません」
 自分は天使でマカリナは人間。人間のマカリナに話していいことなどないはず・・・。
「なぜそう決めつけるのだ? オレが君を嫌いになるかもしれないと怖がっているのか」
「違います。他の者に話してしまったら、ワタシはどうなるか分かりません。ワタシの人生はワタシが決めます」
 闇に落ちた自分をこれ以上苦しめたくはない、もう罰を受けるのは嫌だ。そんなクリスの気持ちなど当然誰も知るはずもなく、誰も知ろうとはしなかった。誰も自分に興味を抱かないし、自分も人間を好きになれるはずがない。何度生まれ変わっても結果は同じになってしまう。だがせめてこの最後の生まれ変わりでは他とは違うなにかを手に入れたい。自分のために全てを尽くすと言ったマカリナにはまだ人間としてそばにいてもいいかもしれない。
 どんな人生になろうとも、全ては自分で決めて天使に戻る。それがクリスの目標であり、夢でもあるのだ。
「分かった。君の人生は君だけの物だ。ただし、オレも君の人生に関わらせて欲しい」
「なぜです?」
「愛しているからだ。オレは君を一生手放すつもりはない。一生君のそばにいる」
「一生、か」
(この生まれ変わりが終わったらすぐに離れるのに、なぜかその言葉が嬉しいと思えてしまうのはなぜだ?)
「本当にワタシと一生そばにいるのですか」
「ああ、約束する」
 マカリナの一筋の水色の瞳がロルの心を掴み取る。それは嘘偽りのない本気の眼差しだった。しかし、偽りだらけのクリスはそれに惑わされないように、マカリナから目を逸らし、パンのおかわりをせずに椅子から立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
「もういいのか?」
「はい、部屋に戻ります」
 振り向くことなく歩こうとしたところを、マカリナに手を握られて止められてしまう。
「待て。君に任せたい仕事がある」
「仕事? なんですか?」
「見た方が早いだろう。ついて来い」
「はい」
 大広間を出て、ロルは無言でマカリナの妃になる自分に初めて与えられる仕事とはなにか疑問を抱きながらマカリナの後をついて行くと、そこは誰も一切手入れをしていないお城の裏にある美しい花が枯れ、自然と伸びた無限に広がるボワボワの雑草で溢れたこれはなんとも嫌な光景だった。
「これを君に任せたい」
「は? 冗談ですよね?」
「なにを言っている、この顔が冗談に見えるのか?」
「え」
 振り返ったマカリナの顔は本気で困ってロルに助けを求めている。
「うっ、わ、分かりました。でもワタシ一人でするのではないですよね?」
「いいや、この庭の全てを君に頼みたいと言っている」
「なぜワタシ一人なのですか、国王様も少しは手伝ったらどうですか」
「オレは料理と城の掃除で精一杯だ。それに国王のオレがこのような雑用をするなど、かっこ悪いと言われるだけだ」
「むっ」
 国王としてあるべき姿を保つためには、このようなひどく荒れた庭を掃除するわけにはいかないと、マカリナはロルに妃らしくない頼みを美しく腕を組んで断るが、ロルにはそれがケンカを売られているように感じられてしまった。
「ワタシだって、妃になる身として一人でこのようなことをするなど、嫌に決まっています」
「確かに君はオレの妃になる人間だが、元々は平民で父親の畑仕事を手伝っていたはずだから、この庭を元の美しさに戻すのは二日で簡単にやり遂げられるはずだが?」
「は? たった二日でこれを元に戻せというのですか!」
「そうだ。君ならできると期待している」
「むっ」
 期待をされるのは悪くはない。だが、この荒れた広い庭をたった一人で直すのは誰だって嫌になる。それを分かっていてわざとマカリナはロルに任せたのだとしたら、ロルの怒りは限界を超えてしまうだろう。
(昨日城に来たばかりで、それもたった一人で仕事を任せるなんて・・・やっぱりこの国王はおかしい)
「はああっ」
「どうした?」
「いいえ、ワタシ一人でこの庭を美しくして見せます」
「頼んだぞ。作業服はもう用意してあるからまずはそれに着替えて来い」
「はい、ありがとうございます」
 腹立たしいほどにロルはやけになり、マカリナがその場から立ち去ったすぐに、用意された黄色のリボンがついた紺色の作業服に着替えて、青色の細いリボンで後ろに一つ結びにして、まずは無限に広がる雑草を腹が立った思いが過ぎ去るまで二時間かけて半分を抜き取った。
「ふうー。はああ、こんなことをするためにここに来たわけじゃないのに・・・はっ」
 また独り言を言ってしまったロルは誰もいないか周りを見渡すが、そこには誰もいなかった。それにホッとしたロルの後ろに誰かが背中をそっと撫でる。
「え!」
「君は本当に独り言が多いな。それは癖なのか?」
「だ、誰ですか」
「オレに決まっているだろう」
 このお城にいるのは三人だけ。ロルとマカリナとその弟。弟は一年部屋に引きこもっているとなると、残りの一人、マカリナだけが庭に出られるため、ロルに声をかけたのは当然マカリナになるはず・・・。
「国王様、なんですか?」
「食事ができたから呼びに来ただけだ。仕事は順調そうだな」
「はい、おかげさまで」
 二時間前までは雑草だらけで見たくはない光景だったのに、やけになったロルのおかげでそれが美しく見えて、マカリナは嬉しそうに喜びの笑みを見せる。
「ふふっ。たった二時間でこの雑草を抜き終わるとは思っていなかった。この調子でいけば今日中に終わるかもしれないな」
 ロルの仕事の早さを知ったマカリナは調子に乗って軽くその言葉を口にし、ロルの気持ちを考える前に言ってしまい、ロルは二時間前よりも怒りが増えた。
「な、なにを言っているのですか! 明日までに元に戻せと言ったのに、それを今日中に終わらせるなど、体を壊すだけですよ!」
 自分を心がない人形のように扱うなと、ロルの瞳がマカリナに憎しみを与えてようやくそれに気がつく。
「そうなのか? すまない、本当にオレは君のことをなにも知らないな」
「むっ、国王様はワタシのことが好きなのですか」
「ああ、愛している」
「だったら、もうワタシのことは放っておいてください。この仕事はちゃんと成し遂げて見せま」
「それはダメだ! 君を放っておいたらまた君は一人になる」
「なっ」
 その言葉を聞いて、ロルは天使だった頃の記憶を思い出す。
『クリス、また王国で人間にからかわれたのか。本当にお前は情けないな』
『申し訳ありません』
『はあ、大天使のワタシたちに恥をかかせるようなことは絶対にするなよ。闇に落ちたらお前は全てを失うことになるからな』
『はい』
(ワタシはなんて弱い天使なのだろう。ただワタシは人間嫌いを克服しようと思ってルエリッド王国に舞い降りただけなのに、どうして人間はワタシを否定するのだ。このままではワタシは一生一人になってしまう!)
『人間なんて、大嫌いだ!』
 家族も誰もそばにいない自分だけを大切にしてきたクリスは頭を抱えて、その嫌いな気持ちを涙で隠した・・・。
 そして二千年前に誕生してまもないクリスは天で一人存在し続けるしかなかった。
 その記憶がマカリナの言葉で思い出してしまい、ロルはそれに激しく憎しみを感じる。
「くっ! あなたにワタシのなにが分かるのですか、なぜワタシが一人だと勝手に思っているのですか!」
 ロルの憎しみに溢れた悲しみの涙に、マカリナは自分が悪かったのだと、心苦しく自覚する。
「すまない、そういうつもりで言ったわけではないのだ。許してくれ」
「はああ、もういいです。この仕事は必ず明日までに終わらせます。だからもうワタシに構わないでください」 
「だが」
「ワタシはずっと一人でした。それのなにがいけないのですか」
「・・・・・・」
「一人のワタシにできることは精一杯するつもりですが、本当のワタシをもし傷つけるようなことをしたら、あなたの妃にはなりませんからね!」
 リルの代わりに来ただけのはずなのに、ロルはいつのまにか、自分がマカリナの妃になるかのように、まるで一回目から九回目までの家族と同じやり方で、突き放そうとした。
「はっ。それはやめてくれ、オレには君が必要なのだ」
 必死にロルの肩を掴み、自分を失いたくないというマカリナの涙が少しずつ憎しみを解けていく。
「国王様」
「オレは君を愛しているのだ。君がいなければオレはなにもできない。だからそばにいてくれ、頼む」
 その止まらない涙をロルは落ち着いて手で拭い、顔を上げて不器用な笑みを見せる。
「・・・一生そばにいられるかはまだ分かりませんが、できるだけあなたのそばにいることをここで約束します。もう泣かないでください」
 拭った涙を自分の頬につけて、ロルは満面の笑みでマカリナに安心するように願う。
「分かった。その約束は必ず守ってもらうからな」
「はい」
 心からその願いが叶って安心したようにマカリナはロルの肩から手を離し、二人はしばらく沈黙を残したまま今日一日を心苦しく終わらせた。マカリナの一言がロルを、クリスを呼び起こし、その記憶も力も欲するほど偽りの自分を強くしていった。


 翌日、ロルは気持ちを切り替えて雑草を全て抜き取り、二日目の今日は枯れた花と庭に置かれている歴代の国王が気に入っていたであろう変な形をした十個以上の置き物を美しく戻すことにした。
「ふうー」
 だが、一つ問題がある。
 枯れた花を処分した後、その次に飾る花がないことだ。
 花の苗は街に行けばたくさんあるが、お城の外から出られないロルはその苗を買うことができない。国王のマカリナを説得するためにはなにが必要か。ロルは地面に寝転がって何度も考えてみたものの、なにもいい案が思いつかないまま、玉座で足を組んでなにかの書類を真剣に見ているマカリナの前にロルが恐る恐る立つ。
「あ、あの」
「ん? もう仕事は終わったのか?」
「は、はい。頼まれた仕事は全て終わりました」
「そうか。よくやってくれた」
 仕事をやり遂げた自分を満面の笑みで褒めてくれたことに、ロルは少し恥ずかしくなりながらも、やってよかったと嬉しく思う。
「褒めていただき、ありがとうございます」
「ふっ。それでわざわざここに来たのか?」
「あ、いえ。枯れてしまった花の代わりに新し花を植えたいので、街に行って買いに行きたいのですが・・・」
「ダメだ。オレと結婚するまではここにいてもらうと言ったことを覚えていないのか?」
「覚えています。でも花の苗を買いに行くだけで家に帰るわけではありま」
「オレがダメだと言っているのが分からないのか!」
「え」
 一生そばにいる。その約束がある限り、マカリナはロルを誰にも渡したくない、手放したくない。その気持ちが強くなりすぎたのか、ロルがお城に来てたった二日目で自分の寂しさを激しく言葉に表してしまった。
(どうして、そんなことで怒る? オレはただこの城のために美しい花を植えたいだけなのに、それを拒む意味が分からない)
「・・・・・・」
「仕事をやり遂げたことに感謝はするが、君がこの城を出て行ってしまったらオレは不安になるのだ。君が一生オレの元に帰って来なくなるのではないかと心配で」
 頭を抱えて溢れた涙を手で拭うマカリナをロルは怖がらず、ゆっくり階段を十段上がって玉座に近づき、拭っているマカリナの手を自分の頬に触れさせて「可愛い」と言ってくれた温かく愛おしい笑みを見せる。
「はああっ」
「国王様がそんなにワタシを愛してくれるのなら、ワタシもあなたをいつか愛して見せますよ。うっふふふ」
「君はオレを嫌いになったりしないのか?」
「うーん、ワタシは一度も人間を好きになったことがないので今はまだ無理ですが、あなたと長く一緒にいたら、すぐにあなたを愛せるかもしれませんね。うふふ」
「そうか。では結婚は半年後にしよう」
「あの、どうして早くワタシと結婚したいのですか、結婚したらなにかあるのですか?」
「いや、特になにもない。ただ早く結婚すれば、君がオレの物だと皆に証明できるから早くしたいだけだ」
「むうー。結婚したら国王様は変わってしまいますよね?」
「なぜそう思う? オレは今までどおり君のために料理とお菓子を作って一緒に寝るだけだ。まあ、君がそれ以上のことをして欲しいと言うなら、他の物を考えてみよう」
「結構です。今のままで構いません」
 慰めたつもりが、結婚を早めることになるとはロルも予想外で触れさせていた手を振り解き、試しに土だらけの作業着でマカリナの服につかないように膝の上に座ってみる。
「珍しいな。君からオレに甘えてくるのは」
「悪いですか?」
「いいや、むしろ嬉しくて困っている」
「へえ、困るほど嬉しいのなら、これから毎日してあげますよ」
「ほう。それは期待してもいいと受け取っていいのだな?」
「え」
「本当に期待してもいいのだな?」
 自分から言っておいて少しだけ後悔するロルだったが、それは偽りの自分ではなく、本当の自分クリスとして、この時生まれて初めて心から人間を、マカリナを好きになってみたいと、微笑みながら首を傾げるマカリナの期待に答えようと決める。
「いいですよ」
「ではこの仕事が終わったら二人きりでお互いをじっくり味わおう」
「え、それはなにをするのですか?」
「決まっているだろう。君の体に触れて、同じようにオレの体を君に触れてもらう」
「えっ、いやそれはその・・・まだ早いと思いますが」
「これもまた結婚するまではダメなのか?」
「そ、そうですね。まだあなたを好きになっていないのに、そのようなことをされたらおかしくなってしまいます」
 横髪を真っ赤になった顔を見られないように必死で隠すロルに、マカリナはそっと手を伸ばし、その髪を退けて土で汚れた作業着を着ているロルを気にせず抱きしめる。
「あ、汚れてしまいますよ」
「構わない。君を見ていると仕事も自分のこともどうでもよくなってしまう。全て君に尽くして君の願いを叶えてやりたいと思うのはわがままなのかもしれないな」
「いいえ、ワタシはそれでいいと思います。ワタシのために尽くすと言ったあなたの気持ちは、必ずワタシが受け止めてあげますよ」
「ふふふっ。その言葉、しっかり覚えておくぞ」
「は、はい」
「それと、このまま話をしてもいいか?」
「また仕事ですか・・・」
「違う。君のために舞踏会を開こうと思っているのだが」
「舞踏会?」
「そうだ。結婚の前に皆に報告しようと考えていたのだ」
「それはいつですか」
「二週間後だ」
「二週間後! ワタシは一度も踊ったことはありませんよ」
「それなら問題ない。踊りはオレが教える」
「国王様がですか」
「不満か?」
「いえ」
 幼い頃から国王になるための勉強と礼儀を完璧にしてきたマカリナは当然自分の誕生日やその他のお祝いごとに連れてきたたくさんの人間と美しく踊り続けていたため、嫌でも誰とでも踊れるようにと、両親から教えられている。だが、今まで一緒に踊ってきた人間をマカリナは好きにはなれなかった。十歳の時、婚約者に選ばれた四人は自分勝手でマカリナのために料理や掃除を褒められるためにしていたのかもしれないが、それがマカリナにとっては迷惑で余計な仕事を増やされていくだけで、怒りを積もらせるという考えが生まれて、十七歳でその四人をお城から追い出し、二度と婚約者を選ぶことはなかった。しかし、その苦い経験でやっと見つけたロルを大切にしたいと思うのは悪いことではないだろう。
「二週間という短い期間で踊りを完璧にするのは難しいが、精一杯君には頑張ってもらうぞ。ふふっ」
 晴れ渡る空の日差しが愛おしく笑うマカリナを明るく照らし、その姿にロルは心奪われる。
「はい、一生懸命頑張ります」
「ああ、その作業着は今すぐ洗うからここで脱いでくれ」
「は!」
 自分の膝の上に座っているロルをそっと降ろし、上から順にボタンを外そうとする。
「や、やめてください! こんなところで脱ぐのは恥ずかしくてたまりません」
「オレの前で脱ぐのが嫌なのか?」
「そうですよ。いくら国王様でも、命令をされても、ワタシの体は誰にも見せることはできません」
 背中に血の跡が残った体にしまっている天使の翼を見られたくないクリスは必死でそれを拒む。
「なにを言っている? 君の体は誰よりも美しいではないか」
「見たこともないのに、そんな嘘をつかないでください」
「嘘でも見たことにしておきたいのだ。君のことを誰よりも知っていられるためには」
「え・・・」
 静かに玉座から立ち上がり、仕事で汚れたロルの土が服についてもなにも気にせず、マカリナはロルの前にしゃがみ込んで、左手を差し伸べる。
「まあいい。今から練習しよう」
「なにを?」
「リル・ウォルト。将来あなたの夫となるワタシと、踊っていただけますか」
 ロルに差し伸べた左手を握ってもらうのを、マカリナは満面の笑みで待ち続ける。
(これは練習で誘われてるだけだ。他に意味はない)
「はい、喜んで」
 差し伸べられた左手をそっと握り、ロルは全てをマカリナに任せて震える足で踊り始める。
「緊張しているのか?」
「はい、初めてなので」
「そうか。だがこれはすぐ慣れれば震えることはないし、気にする必要もない」
「え、知っていたのですか、ワタシの足が震えているのを」
「ああ、可愛くていいと思うが」
「むっ、可愛いと言うのは本心なのですか」
「そうだが?」
 なぜそのようなことを聞くのかと、マカリナは少し疑問を抱く。
「君はオレが言った言葉が全て嘘だと思っているのか?」
「はい」
「そんなすぐに答えられると悲しいが、オレは一度も君に嘘をついたことはない。それだけは忘れないで欲しい」
 愛するロルに嘘をつくことはできないし、したくもない。本気で恋をする相手には素直にいられればそれでいいはずだから。
「分かりました。でもこれ以上は体が傷ついてしまうので、休んでもいいですか」
「ああ」
 まだまだ慣れないこの踊りを覚えるのは簡単ではないが、自分のために開いてくれる舞踏会で自信を持ってマカリナと踊れるようにしたい。その気持ちを強く燃やし、ロルはマカリナを一人置いて部屋に戻って行った。その気持ちにマカリナはジャケットにロルの作業着で汚れた土を見て嬉しくなる。
「これはロルがオレのために頑張った証だ。洗った後も大切にしよう」
 汚れたロングジャケットを丁寧に脱ぎ、中庭で水と泡で洗い流す。
「ふふっ」
 国王となり王冠を受け取ったあの時はなにも感じなかった。ただやるべきことがそうなっただけで夢や希望が叶ったわけではない。毎日数えきれないほどの仕事を任せられて嫌になった時もあったが、それでも誰かのためになるのなら、これは一生耐えるしかない。そんな日々を何年も重ねてやっと見つけたのが生まれて初めて好きになった一人の少年だった。だが、その少年の名前をマカリナは今も知らずにこのお城で弟と二人で生きていくはずだと思っていた。
「ロル、君の名前がそれで正しいなら、オレのことを思い出して欲しい。オレの全ては君なのだ」
 記憶が曖昧で子供の頃の自分を今ははっきりと思い出せないが、リルの代わりに来てくれたロルを離さないためには、自分ができること全てを尽くしたいという気持ち、これこそがマカリナの本心でもあるのだった。
「国王様」
「はっ」
 そう声をかけられた方を振り返ると、部屋に戻っていたロルが汚れた作業着を持ってマカリナに近づいて行く。
「どうした?」
「あ、いやその、これを洗いたいのですが」
「ん、それならオレが洗う。貸してくれ」
「はい」
 水で軽く洗い流し、泡立てて自分の服と一緒に日に当たるベンチに干す。
「あの」
「君はオレのために頑張って仕事をしてくれた。これほど嬉しいことはない。本当にありがとう」
 何度も感謝の言葉を伝えてくれるマカリナはロルを丁寧に抱きしめて口づけをしようとするも、ロルは首を横に振り、それを断ってしまう。
「やはりまだ嫌みたいだな」
「嫌ではありません。ただ一度もしたことがないので、それに戸惑っているだけです」
「ではそれはいいと言うことなのか?」
「そ、それは・・・二週間後の舞踏会が終わってからだったら考えてもいいですよ」
「分かった。それまでは我慢しよう」
 ゆっくりと抱きしめていた腕を離し、マカリナは厨房に行き、料理の準備をする。
「はああ」
 自分の欲望ばかりがロルに負担をかけてしまい、その度に毎回断られて落ち込む。やっと手に入れたはずの恋がこんなに難しい物だとは思っていなかった。誰かに恋をすることは美しくもあり、切なくもあり、悲しくもある。様々な感情が混ざり合って、それを一つにするなど簡単ではない。誰かに恋をすればいつかはすれ違い、傷つけてお互い離れていく。だが、それが人生の中で必ず起きられるわけではなく、自分の力でも変えられることができる。そのやり方を二人はまだ分かっていないだけで、これからの未来で知っていければ新しい恋で結ばれる。
 この恋を、愛を大切に守るためには嘘をつくことなく、本当の自分を見せる覚悟も必要になるはずだ。
 厨房に行ったマカリナが気になるロルは隠れながら厨房の中を覗き込み、その様子を観察する。厨房は思っていたよりも小さく、道具は古くて今にも壊れそうでロルは心配になり、手伝いたいという気持ちで厨房に足を踏み入れようとしたその時、ドレスの裾を靴で間違えて踏んでしまい、倒れかけたところに気づいたマカリナが急いでロルの手を掴み止める。
「あっ」
「大丈夫か?」
「は、はい」
 けがををしていないか、マカリナは顔から足の先までロルに拒まれないようにそっと体に触れていく。
「あ、あの。どこもけがはしていません」
「そうか。それならいいが、ん?」
 背中を向けたロルのドレスを見ると、母親がリルのために作ってくれたドレスが半分破けて足が透けて見えてしまっている。
「どうかしましたか?」
「・・・・・・」
「国王様?」
「んー」
 なにも言えないマカリナの様子をおかしく感じたロルはマカリナの視線を辿り、背中を見て、ドレスが半分破れていることを知る。
「え! 嘘、これは、母さんが作ってくれた大切なドレスなのに、そんな」
「そのドレスはオレが直そう」
「え」
「オレのせいでこうなったのだ。君は悪くない」
「でも」
「さっ、それを脱いで他のドレスに着替えた方がいい」
「分かりました。部屋で脱い」
「ここで脱げばいいだろう」
「は?」
 この国王には「恥ずかしい」という言葉を知らないのかと、ロルは顔を真っ赤にしてそう思った。
「なぜそうしなければいけないのですか?」
「ん? なにを言っている、わざわざ部屋に戻って脱ぐよりも、ここで脱いだ方が早いはずだ」
「それは、そうですが・・・」
 マカリナの目の前でドレスを脱いでしまったらすぐに男だと気づかれてしまう。いやそれ以上に天使だと知られてしまう。その不安がロルを闇深く包み、黒く染まった幻想らしき自分の片方の翼がクリスの手を引こうとしたが、両手で巻き込まれないように強く振り払う。
「どうした? 何か見えるのか?」
「あ、いえ。後ろを向いてもらってもいいですか。恥ずかしいので」
「分かった」
 ロルの様子に心配するマカリナは言われたとおりに後ろを向くも、ロルが気になって料理のメニューを考えてみようとするが、自分の手でロルを守れない自分が情けなく感じていく。
「脱ぎました」
「あ、ああ」
 ドレスを脱いだロルの姿は裸ではなく、膝より短い真っ白なワンピースだった。さすがにドレスの中が裸ではダメだと、家を出る前にリルからこのワンピースを受け取り、ロルは常にこれを着て自分の体を見られないようにしている。少しでも男だと、天使だと気づかれないはずに違いない。しかしその一方、ロルがワンピースでマカリナは半分よかったと思っているのと同時に、もう半分はロルの体が見られなくて残念に思っている。
「国王様、このドレスはいつ直りますか?」
 ロルの真剣な眼差しで、マカリナは自分の欲望を焦り隠す。
「そ、そうだな。少なくとも三日は待ってもらう」
「三日、ですか」
 涙を青色の瞳の中で溜めて閉じ込めるロルからゆっくりドレスを預かり、マカリナは厨房で三十分引きこもって、ロルが大好きな巨大チョコレートケーキを食卓のテーブルに置いて、それと一緒に疲れを癒す紅茶を用意して優しく微笑む。
「食べてくれ」
「え、急になんですか」
「このドレスは君の母親手作りのドレスなのだろう?」
「はい、そうです」
「その大切なドレスを壊してしまったことは謝る。だが今日の君はよく頑張った、そのごほうびにこのケーキを食べて欲しい」
「でもワタシは・・・」
(このドレスは母さんが姉さんのために作ってくれた大切な物なのに、オレがそれを壊してしまった。こんなことで壊すくらいなら、オレは家族を守ることはできない)
「いらな」
「君が食べてくれるまで、オレは君を離すつもりはない」
「あ」
 気を遣われているのか、意地悪で言っているのか。もしくはどちらでもないのかもしれないが、自分のために作ってくれたこのケーキを喜んで食べてもいいのか、ロルには分からなかった。もし食べたとして、それをマカリナが喜ぶのなら仕方なく食べるしかない。そんな自分が今選択すべき答えさえも分からない状態でいるロルに、マカリナは顔を近づけておでこをすり合わせると、自然と涙が溢れ出す。
「うっ、く。ふっん」
「君が大切にしている物はオレが必ず守って見せる。だから今だけは、このケーキをたくさん食べてくれ。足りなくなったらおかわりをすぐ作ってやるから」
 唇が重なる数センチの距離で囁かれた甘い言葉がロルの心を癒し、本音が溢れていく。
「ほ、本当に、ワタ、シは守りたい物を、大切にしたい物も、簡単に壊してしまう。最低です」
 ダメな自分の本音を聞いても、マカリナは折れることなく、ロルの存在を大きく認めて語り出した。
「そんなことはない。君は皆にとってかけがえのない大切な存在だ。もっと自分を見せた方が皆喜ぶはずだ」
「国王様がそう言っても、ふっん、ワタシはダメなのです。誰の役にも立っていません」
「今日役に立ったではないか」
「え」
「昨日から君はオレのために頑張って仕事をしてくれた。これだけでも立派なことのはずだが?」
 そう。マカリナはロルの仕事振りをちゃんと陰から見ていたのだ。最初から最後までの色々と表情を変えて自分の仕事よりもロルに任せた仕事を見守って・・・微笑んでいた。
「うっ、それだけで、いいのですか」
「ああ、難しいことよりも、簡単なことで誰かの役に立てられればそれでいい」
 その言葉で、ロルは今まで自分のしてきたことや自分の間違いを悪いこととは考えずにいいことへの考えを持ち始める。今までの生まれ変わりや天使だった頃の思い出や記憶を振り返り、その全てを受け止めて、溢れた涙を手でゆっくり拭って椅子に座る。
「食べ、ます」
「ん」
「せっかくワタシのために作ってくれたケーキを食べないのはもったいないので、いただきます」
「ああ」
 やっと食べる気になったロルの素直ではないイタズラな笑顔が、マカリナの心を刺激していいことを思いつく。
「ふっ。食べさせてあげよう」
「自分で食べられるので大丈夫です」
「一度でいいからさせてくれないか?」
 椅子に座ったロルの隣に立ち、マカリナは右手でロルの頬を撫でる。さっきはロルがマカリナに甘えて、今度はマカリナがロルに甘える。この一日で二人はそれぞれの気持ちをお互いを甘やかすことで忘れられる。
 なんとも愛おしい光景だった。
 最後の生まれ変わりでこれほどの幸せを味わってもいいのか。その不安さえもマカリナの美しい微笑みを見てしまったら、簡単に魔法が解けていく気がした。
「食べ、させてください」
「ああ、口を開けてくれ」
「あー」
 ケーキを一口の大きさに切り分けて、ロルの小さい口の中へと運ぶ。
「どうだ?」
「んむ、おいしいです。ありがとうございます」
「よかった。ではもう一口食べさせてあげよう」
「結構です。一度だけって言いましたよね」
「はああ、一度がいいならその次もいいと思っていたのだが、それは間違いなのか?」
 心から残念そうに暗く落ち込むマカリナの頬を、ロルが撫でてあげて可愛く微笑む。
「間違いではありません。でも全て食べさせてもらうのは、国王様の手が疲れてしまうと思って止めただけですよ」
「オレの体などどうでもいい。全ては君のためにあるのだ、自由に使ってくれ」
「またワタシのためですか。自分を大切にできないなんてひどいです」
「ひどい? オレの体を見たこともないのによくそんな言葉が出てくるな」
「えっ」
 もっとこうしたい、させて欲しい。そんな悪のような囁きがマカリナの微笑みを崩し、怒りへと変わってしまう。その顔にロルは可愛く笑い、頭をそっと撫でる。
「国王様・・・」
「あ、いや、すまない。怒るつもりはなかったのだ。忘れてくれ」
 闇に染まった自分とは違う黒。それは天使の自分だけでなく、人間にも静かに襲いかかる。見えない物を信じることはおかしなことかもしれない。でもその瞬間に現れたのだとしたら、誰もがその存在を必ず認めるに違いないだろう。
「ケーキのおかわりは必要か? 必要なら今すぐ作るが」
 お皿に残っているあと半分のケーキを見てロルは首を横に振る。
「まだ残っているのにおかわりはできませんし、今日はいりません」
 当然の言葉に、マカリナは深く頷いた。
「そうか。分かった」
 夕日が月へと夜を照らし始め、残りのケーキをおいしく食べ終わったロルに、マカリナはなにも言わず、厨房で昼食を作るはずが、ケーキでその必要がなくなり、夕食の準備を整えて食卓のテーブルに並べて置いていく。
「リル、先に食事を取ってからでいいか?」
「え?」
「ケーキを食べ終わってすぐにすまないが、仕事がまだ残っているから今日は一緒には寝られないかもしれないのだ」
 すっかり忘れていた残りの仕事を思い出したマカリナの焦る姿に、ロルは申し訳ない気持ちになり、暗く俯く。
「すみません、ワタシのせいで仕事の邪魔をしてしまいましたね」
 その俯いた顔を左手で上げさせて、マカリナは「気にするな」という思いやりで笑う。
「いいや、それは別に構わない。むしろ君が来てくれたおかげでやる気が出た。ありがとう」
 なにも変わらず、マカリナはロルの食べる姿をじっと見つめて食べ終わった皿を持って厨房に戻り、洗い流して玉座に座り、仕事内容が書かれている書類を見て頭を悩ませる。
「はああっ、またあの一日が来るのか。本当にしつこくて腹が立つ」
 マカリナの言う「あの一日」とは月に一度料理に使う道具や食料を持って来る面倒な一人の商人のことである。なぜ面倒なのかと言うと、その商人は国王のマカリナのためと勝手に気を遣って、高級な物ばかりを持って来てはそれが偽物だとマカリナに気づかれてもなにも気にせず、普段の値段二倍以上の額を要求し、しつこくその額を払ってもらうまでは帰らない。それがマカリナにとって一番嫌いな人間である。他の商人に頼めばいい話だが、このお城に来ることができるのはその商人ただ一人。前国王であったマカリナの父親が唯一信頼していた一人の人間だったため、道具や食料を揃えるためにはその商人を呼ぶしか方法がなかった。国王が気軽に街に出かけられたらどんなに楽であったか。何度考えてもそれを行動に移す勇気が自分にはない。外に出てしまったら何をされるか分からないし、その不安をロルに知られないようにマカリナはずっと、いやこれから先も耐えていくしかないのだと思っている。全てはロルのため、弟のためには・・・。
「明日からロルに踊りを教えることはできないな。久しぶりに五十以上の仕事が入ってしまった。ロルには悪いが、舞踏会までは一人で練習してもらうしかない」
 仕事のせいで明日から二週間、ロルのそばにいる時間が想像以上に減ってしまう。久しぶりに入ってきた仕事はなるべく早く終わらせようとしても、全てを終わらせるのには時間と体力が必要になる。ロルが大好きなチョコレートケーキを作れない寂しさはこの二週間で我慢して、ロルに触れることさえも叶わないが、二週間後の舞踏会が終われば自由にロルに触れられる。そう考えればなにも嫌にはならないはず。
「ああ、ロルに触れたくて落ち着かない。もうオレの心はロルで満たされて止まらない」
 玉座で足を組み、ロルの様子が気になって仕事の内容を必死に覚えても、国王としてやるべきことは最後までやり通さなければならない。
 それは最初から決まっていて、もう二度と後戻りはできないのだ。
 

 昨日までの一日は二人でそばにいられて幸せを感じているところに、マカリナに五十以上の仕事が届き、ロルとマカリナはそれから食事の時間だけ顔を合わせて他の時は一言も話さず、沈黙の時間が増えてしまっていた。
「ごちそうさまでした」
「・・・ああ」
「今日も忙しいのですね」
「・・・・・・」
「ワタシにできることがあるなら、なんでもしますので、いつでも教えてく」
「少し黙っていてくれないか! 仕事の内容を忘れたくないのだ」
「あ、はい」
 ロルはマカリナの怒りに少し怯えながらも静かに丁寧にお辞儀をし、作業着を着て庭の手入れを始める。
(国王、昨日までのあの幸せは全て偽りだったのか?)
 久しぶりの仕事の忙しさに負けてばかりでロルにきつく当たってしまうのはただ疲れが出ているだけだ。それ以外のことでマカリナはロルに対して怒ることはほとんどない。怒る時は全部自分の気持ちの問題で、決してロルが悪いわけではない。その時ごとに変わっていく愛が見えないだけである。
 ロルが手入れをしている間に、玉座の前に一人の商人が現れた。
「来たようだな」
「お久しぶりです、陛下」
「挨拶はいらない。さっさと済ませるぞ」
「はい、今月は野菜がたくさん集まりましたので、こちらの金額でいかがでしょうか」
 商人から受け取ったリストの額を見た瞬間、マカリナの怒りがさらに増していく。
「くっ! 野菜だけでこの金額はおかしいだろう、すぐに書き直せ!」
「で、ですが、ワタシは陛下のために高級の野菜を苦労して集めたのですよ!」
「そんなことはどうでもいい。いいから書き直せ」
 力強く睨まれて一歩後ろに下がる商人だったが、深呼吸をして真剣な眼差しでマカリナを見つめる。
「それはちょっと無理があります」
「なぜだ? ワタシは一度も高級の物を要求したことはないはずだが?」
 睨むのをやめて冷静に戻ったマカリナが目を逸らすと、商人は慌てた様子で首を横に振った。
「い、いえ、初めて陛下に品を届けた日、確かに陛下はこう言いました。『高い物が欲しい』と」
「ほう。言ってもない嘘をワタシの前で堂々と言えるのは褒めておこう。だが今のワタシは機嫌が悪いのだ。お前が早く書き直さないなら、もう二度とこの城に入ることを今ここで禁ずる」
「そ、そんな! 分かりました、書き直しますから、お許しください」
「はあ」
 嫌そうな顔をしながらも、商人はマカリナの言うとおりに、書かれている金額を半額に書き直して野菜と肉、魚にケーキの材料を受け取って早く帰るように命じると、商人は足を止めてマカリナに不気味な笑みを見せる。
「なんだ? 早く帰れ、ワタシはお前と違って仕事が忙しい」
「ちょっとした噂を街で聞きました」
「噂?」
「ええ、陛下が平民を妃として迎えたという信じられないことです」
「・・・ほう」
 その噂は確かに事実だが、今のマカリナは怒りでどこの誰が流した事実を噂にさせられても、それを否定するつもりはないし、肯定をしようともしない。逆に言えば、もうこの商人を追い出したくてそれが事実であることを知った顔を見てみたいという面白さを見つけて、マカリナが不気味な笑みを見返す強く美しい怪しげな笑みを浮かべる。
「それで、その噂が本当だとしたらお前はどうする?」
「え、本当ですか?」
「ワタシが質問しているのだ、先にそれを答えろ」
「・・・陛下のお言葉が本当なら、ワタシは信じません。今までの四人のあの妃の方があなたにふさわしいとワタシはそう思います」
 期待外れの面白くもない答えに、マカリナは心から呆れる。
「そうか。もういい、早く帰れ。次の仕事がある」
「分かりました。ではまた一ヶ月後にお会いしましょう」
「もうお前は必要ない。二度と来るな」
「え! それは冗談ではなかったのですか」
「冗談ではない。本当のことだ」
 驚きだけでは表すことのできないグチャグチャに固まっていくようなたくさんの感情に耐えきれなくなった商人が、恐る恐るマカリナに質問する。
「・・・ワタシがここに来なければ、誰が陛下に品を届けに来るのですか?」
「もう誰もここには来させない。材料は全てワタシが取りに行く」
 もうこれ以上は限界だ、昨日までの気持ちは今ここで全て捨てる。その言葉に商人は諦めて深くお辞儀をし、大粒の涙を流す。
「・・・今まで、ありがとうございました」
「早く行け」
 商人の涙を見ても、マカリナはそれに動じないどころか、この商人との無駄な会話で一日を潰されていたことが嫌で仕方なかった。
「はあ、そろそろロルに食事を作ろう。この調子でいってしまえば、舞踏会までに終わらせることはできない。あいつのせいで仕事が進まなくなってしまったではないか!」
 丸一日あの商人に合わせて毎回時間を取ってきた今までの時間はもう戻らない。だが、そのおかげで自分で外に出たいという気持ちが芽生えたことには、あの商人には嫌でも感謝をしておこう。ロルに言われた「自分のためにしてあげて」の意味はこういうことなのかもしれないと、今も続く怪しげな笑みでそう実感した。
 玉座から立ち上がり、厨房で料理を作っている間にも、マカリナの頭は仕事で埋められてロルに構う余裕はほとんどない。朝つい怒ってしまったことをどうするかも、頭の隅ではもちろん考えてはいるものの、いい言葉が見つからず、料理ができあがって食卓のテーブルに並び終わった後も、なにも言葉が思いつかなかった。
「国王様」
 自分の仕事が終わったロルが緊張しながら現れる。
「・・・できたぞ」
「はい」
 庭を手入れした土の汚れが顔にまだ残っているロルの姿をなにも思わず、マカリナは食事を一人で始め、それに続いてロルも食べ始めた。
「い、いただきます」
 大切なドレスを壊したロルは中に着ていた真っ白なワンピースか黄色のバラの飾りがついた紫色のドレスしか着られないため、この服で外には出ることはできないが、作業着があれば庭で仕事はできる。しかし今のマカリナはロルの服装には全く興味は抱かず、仕事をするのに精一杯になっている。それが国王として、全ての民を守るためには色々と我慢しなければならないのだ!
「あ、あの」
「なんだ?」
「踊りを教えて欲しいのですが」
「すまない。踊りは自分で練習してくれ」
「え、でも、国王様が教えてくれるはずでしたよね」
「オレは忙しい。踊りは部屋に置いてある本を見て覚えてくれ」
 そう言って、マカリナは食べ終わった皿を厨房に置き、玉座へ戻って行った。それにロルは少し寂しく思えた。昨日までのマカリナの温かさをもっと触れてみたかったのに、それがもう二度と触れられないのかもしれないと思うと、涙が溢れておいしい料理の味も苦くなってしまっていった。
「うっ、ふっん。寂しい。もう、嫌われたのかもしれない、やっと初めて人間をうっ、好きになりたいと思ったのに、嫌、だよ」
 涙の声が玉座で足を組んで座るマカリナの耳に響き、その寂しさを抱きしめられない悔しさを心にしまう。
「ロル、すまない。今だけなのだ、許してくれ」
「ふん、あっああ。うっく」
 寂しさを募らせたこの二週間は予想以上に長く感じ、お互い寝る時間を削って仕事に励み、舞踏会の踊りの練習で時間を潰して、食事も別々に取ることで、その寂しさをまた感じないようにしていった。お互い顔を見てしまったら、言いたいことも伝えたいことも心の中で抱えることができなくなってしまう。でも早くあなたのそばにいるためには、目の前にある物を片づけなければ、今はもう会う理由がなくなってしまうから・・・。


 舞踏会当日の今夜、マカリナが壊れたドレスをロルに渡したのは二週間後の今日の昼で特に変わった様子はない。二週間前と同じ沈黙が待っていると思っていたロルを思い切りマカリナは抱きしめて、耳元で「寂しかった」と涙が詰まった声でそう伝える。
「え、ワタシのことが嫌いになったのではなかったのですか」
「なにを言う? オレは君を嫌いにはならない。むしろ今まで以上に愛している」
「でもワタシは・・・」
「あの日は仕事が忙しくて疲れていたのだ。君に対して怒ったわけではない」
「そう、だったのですね」
「それよりも、今日は舞踏会だ。踊りを教えることができなくてすまなかった。大丈夫だったか?」
「はい、本のとおりに練習をしたので、問題ありません」
「それならよかった。これで皆の前で堂々と踊れるな」
「はい」
 嫌われていたと思っていた自分を抱きしめてくれるマカリナをロルは、クリスは、その涙が詰まった声を自分と同じ気持ちだったことに嬉しくなり、溢れた涙を隠さずにマカリナの頬にそっと口づけをする。
「あっ」
「ずっと寂しかったです。国王様がワタシを嫌いになったのではないかと毎日不安で、怖くてうっ」
 溢れた涙を久しぶりに見せる愛おしい笑みで今までの寂しさを込めて笑うロルの姿に、マカリナは抱きしめている腕を離し、両手でその頬に触れる。
「なんですか?」
「今すぐ口づけがしたい。させてくれ」
「ダメです。舞踏会が終わるまではこれ以上のことはできません」
 真剣で可愛らしいロルの眼差しを、マカリナは瞳が揺らいで寂しさと悔しさがため息で溢れてしまう。
「はああ、舞踏会か。早く終わらせるためにはどうすればいいのか教えてくれ」
「教えるもなにも、それまで我慢すればいい話だと思いますが」
「我慢ならこの二週間で飽きるほどした。それでも足りないと言うのか?」
 自分よりも長く歳を取った大人が子供の自分にそんなことを言っていいのか、ロルは短くため息を吐いて温かく頭を撫でてあげた。
「はあ、分かりました。舞踏会が終わったらワタシは国王様の言うことを一つだけ聞いてあげます。それだったら、後少し我慢できますよね?」
 満面の笑みで、ロルが幼い自分と重なって見えたマカリナに崖を崩すように圧をかけて笑う。
「・・・そうだな。それなら我慢してもいいだろう。それと、君は皆の前に立つドレスに着替えた方がいい」
「ドレスは直してもらった物があるので、これに着替えます」
「ダメだ。今夜はオレが用意したドレスを着てもらう」
「そのドレスは国王様が作ったのですか?」
「そうだ。部屋に置いてあるから、今のうちに着替えて来てくれ。オレは舞踏会の準備をしてくる」
「はい」
 マカリナの作ったドレスは、どんな素敵な物になっているのか。ロルは期待と不安を抱えて部屋に戻り、寝台の上に置いてあるドレスを見て言葉を失う。
「これを着ろと言うのか、あの国王は」
 手に取ったそのドレスは、ロルの瞳と同じ銀の星型の飾りが斜めについた夜を星空で染めるような青色の美しいドレスだが、大きな問題が一つ。このドレスを着るのは別に構わないが、たくさんの皆の前で着ることを想像すると恥ずかしくて倒れそうになる。なによりも、このドレスは足の先が見えて肩もそのまま見られてしまうセクシーな作りとなっていた。
「嫌、だけど、せっかくワタシのために作ってくれたドレスを着ないわけにはいかないから、諦めて着るしかない」
 この二週間、ワンピースで過ごして母親のドレスを恋しく思っていた。マカリナが直してくれた母親手作りのドレスをアレンジもなしにそのままにしてくれたことを考えると、マカリナは今までの人間とはなにか違っているのかもしれない。
 人間嫌いを好きになりたいと変えたクリスの気持ちを、愛を受けてくれるのなら。
「舞踏会、精一杯頑張ろう!」
 練習の成果をマカリナに見せるために気合を入れてそのドレスを着ると、自分の体ぴったりできつくはない。きっとドレスを直している時に体の大きさを測っていたのだろう。直接測ろうとしたら自分が拒むことを予想して。そう思えば、なにも怖がることはない。たくさんのことに挑戦して、少しでもマカリナを好きになるために、ロルは部屋の奥にある鏡の前に立ち、ドレスの色に合わせて大きな青色のリボンで髪を左右に分けて耳の上で二つ結びにする。この髪型はリルが時々しているのをずっと見てきたため、何度も練習して一度も失敗したことはない。その時は誰にも見られたくなかったが、今日は違う。好きになりたい相手に初めて見せる喜び。これを感じるために、ロルは部屋を出て玉座に座るマカリナにお辞儀をし、その姿を褒めてもらうことを期待する。
「ドレスは完璧でよく似合っている。その髪は自分でしたのか?」
「はい! そうです!」
 満面の笑みで自慢するロルを、マカリナは胸ポケットから小さな箱を取り出し、玉座から降りてロルの目の前に立つ。
「髪ならオレがしてやったのに残念だ」
「えっ、ダメでしたか?」
「いや、可愛い。もっと見せて欲しい」
 そう言って、マカリナは耳元で甘く囁き、ロルの首筋を舐めていく。
「あっ、ん。ちょっと、待ってください」
「ふっん、ああっ」
「国王様、我慢するはずではなかったのですか」
「君の美しいこの姿を見て、我慢できるはずがないだろう」
「あっ、舞踏会の準備はどうするのですか」
「あとはテーブルに料理を並べて皆を待つだけだ」
「そういえば、誰が来るので」
「なにも聞かないで喜んで欲しいのだが?」
 せっかくのいいところに途中途中言葉を挟んでくる自分を見て、なにかに嫉妬したように頬を膨らませるマカリナに、ロルは不思議に首を傾げて無表情で答える。
「え、ここでそうはなりませんよ」
「どういうことだ?」
 予想外の言葉で、マカリナが自分の言葉で驚く何度も瞬きを繰り返す姿に、ロルはドレスを見てこう言う。
「今は舞踏会のことで頭がいっぱいなので、離してください」
 この二週間でたった一人で頑張ってきたロルの努力を無駄にしたくないと、マカリナはそっと離れて深呼吸をし、気持ちを切り替える
「分かった。君がそこまで舞踏会を楽しみにしているなら、料理もケーキもたくさん食べてもらわないとな」
「ケーキ・・・どのケーキですか?」
「君が好きなチョコレートケーキだ」
「チョコレート! 嬉しいです!」
 瞳を輝かせて心から喜ぶロルの顔に、マカリナは安心して笑う。
「ふふっ。そうだ、これを渡しておこう」
「なんですか?」
 手に持っている小さな箱を開けて、ロルの左手の薬指にそっと口づけで強く残した跡を辿るように、小さな輝きを放つサファイアの銀の指輪をはめていく。
「国王様、これは」
「これは婚約指輪だ」
「婚約?」
「ああ、オレと君はまだ結婚していない婚約者だ。だから結婚するまではこれをつけて、結婚する時はもっといい物を君に尽くすつもりだ」
「あ、ありがとうございます」
 今までの生まれ変わりでこの薬指にはめてきた指輪とは違う特別で大切な物。その特別をマカリと味わえるなら、自分ももっとマカリナのそばにいられるようにしたい、離れたくない。この一人の人間で今まで見たことのない景色が広がっていくのは、たぶん、マカリナだけだろうと、クリスは指輪を肌に触れてそう実感する。
「さっ、そろそろ準備の続きをするから君は少し待っていてくれ」
「手伝いましょうか?」
「構わない。皆が、貴族が来たら君は窓の奥で誰に話しかけられても無視をする。これを今日は守って欲しい」
「はい?」
 なぜ無視をする必要があるのか、ロルにはその意味が分からなかった。話しかけられたら挨拶をしてもいいはずなのに、それも含めて無視をして自分のためになるのか。順調にテーブルに今日作った料理とデザートを置いて並べていくマカリナを見て、その意味を考えようとしたところに、遠くから話し声が聞こえて、マカリナが口だけを動かし声を出さずに、「奥に行ってくれ」とロルに指示を出し、言われたとおりに窓の奥に行き、外の景色を眺める。
「ふうー」
 丘の上から見える街の景色は夜でも灯りで明るく、いつまでも見ていたい。一回目から九回目までの生まれ変わりではこんな美しい空を照らす街を見られることは一度もなかったため、ロルは次々とお城の中に入って来る貴族のことなどすっかり忘れてそれを思い出したのは、マカリナが玉座に座ってからだった。
「皆よく来てくれたな」
 マカリナの挨拶に、来ている全ての人間が丁寧にお辞儀をし、ロルもそれに合わせる。
(二人きりとは違う雰囲気で全く慣れない)
「顔を上げて構わない。今日集まってくれた皆には報告がある」
「報告?」
「なんでしょうか?」
「はあ、来てくれ」
「え」
 マカリナが窓の奥にいるロルに手を伸ばして自分の元に来るようにと、瞳でそう伝えてロルはゆっくり緊張で震える足で玉座に繋がる階段を上がり、その手を掴む。
「陛下、その方は?」
「リル・ウォルト。半年後にワタシと結婚するワタシの大切な妃だ」
「あの方が陛下のお妃様?」
「美しい方ではあるが噂の平民なのだろう」
「一体なんの目的で陛下に近づいたのかしらね」
「ううっ」
(まあそうなるよな。平民のオレが国王の妃になるなんて普通はあり得ない話だ。それを分かって国王が姉さんを選んだとするなら、どうしたんだろう・・・)
「反対の声があるのは当然だ。リルは平民で普通なら国王のワタシには合わないが、リルを選んだのはこのワタシだ。それでも反対する者がいれば今すぐ帰れ」
「・・・・・・」
「どうしましょう」
「これ以上はなにも言えないだろう」
「はあ」
 マカリナの言葉に貴族は返す言葉もなく、反対も賛成もせず、ただその場で沈黙するだけだ。国王のマカリナを怒らせる人間はあの商人か自分に対してで、それ以外の人間はそれが怖くて噂を信じてショックを受けたりガッカリしても、マカリナが決めたのならそれを認めるしかない。どんなことがあっても、それは変わらず動き続けていくのだから。
「リル」
「は、はい!」
「ふっ。緊張しているのか?」
「はい、こんなにたくさんの人間に囲まれたら緊張で足が震えてしまいます」
「心配ない。オレが君を支える」
「えっ、どういうこうわっ!」
 震えた足を立たせるわけにはいかないと、マカリナは軽くロルを横に抱えて階段を降りる。
「国王様、恥ずかしいですよ」
「それは嬉しいと受け取っておく」
「は? 嬉しくありません、降ろしてください」
「嫌だ」
「嫌って、そんな」
「皆、今からは自由にしてくれ。ワタシはリルと二人で踊っておく」
 マカリナの美しくかっこいい雰囲気が恐ろしく漂うのを、貴族はただそれに惹かれて嬉しくなる。
「久しぶりに陛下の踊りを見られるなんて、嬉しいわ」
「まずは食事にしよう」
「ワタシは踊りを」
 マカリナの言葉で、貴族は自由に踊ったりマカリナが作った料理を食べたりしている姿に、ロルは信じられないというような驚きの顔をする。
「うわああ、皆本当に自由にしていますね」
「そうだな。そろそろ降ろそう」
「っと。あ」
 さっきまで震えていた足がマカリナとのちょっとした会話で落ち着き、その様子に安心したマカリナが二週間前と同じようにしゃがみ込んで、左手をロルに差し伸べる。
「愛しいリル。あなたを愛するワタシと、踊っていただけますか」
「あっ、喜んで」
 この前とは違う温かい癒しの笑みで、ロルは自然とその手を握り、練習の成果をこの場にいる皆の前で披露する。
「まあ素敵」
「一緒に踊りましょう」
「お二人に負けないように」
(よかった、ちゃんと踊れてる)
「うっふふ」
 ロルの心から楽しそうな笑顔に、マカリナは婚約者として、一人の人間として満面の笑みで褒める。
「一人でよくここまで頑張ったな」
「え?」
「本当はオレがずっとそばにいて教えたかったが、仕事でそれが全て潰れた。次からは君との時間を考えて仕事をしよう。そうすればもっとそばにいられる」
「そう、ですね。ワタシはあなたがいなければずっと一人で寂しくなります。だから今だけは、ワタシのそばにいてください」
 好きになりたい相手、失いたくない恋の気持ち。その二つが重なり合い、マカリナの瞳に映るクリスの表情は愛がこもった陽だまりのような天使の羽ばたきの笑顔がその心をそっと奪い去って、離れない美しさを持っていた。
 それを見たマカリナは。
「・・・ル、君の全てを今すぐもらいたい。触れさせてくれ」
「は? 国王様?」
「皆、今日はもう終わりだ。すぐに帰ってくれ、仕事が入った」
「はい!」
「失礼いたします」
「またお会いできるのを楽しみにしていますわ」
 マカリナの言葉で来ていた全ての貴族は急いでお城から出て行った。こういう時にこそ誰にも邪魔されたくない。いや、絶対にさせない。そのためなら今目の前にいるロルを抱きしめて口づけをたくさんする。そう思い上がった瞬間、マカリナはロルと手を離して熱く微笑みながら部屋に戻り、寝台にロルを押し倒す。
「さあっ、舞踏会は終わった。オレの願いを聞いてくれるか?」
「願い?」
「君が言っただろう。舞踏会が終わったらオレの願いを一つ聞いてくれると」
 心の底から期待して顔を真っ赤にするマカリナの瞳と目が合ったロルは、クリスは、自分も顔を真っ赤にして照れる。
「・・・確かに言いましたが、あれで終わったとは言えないと思いますよ」
「オレが終わったと言ったらそれでいい。オレはこの国の王だ。オレの言うことは皆聞いてくれる。もちろん君もそのはずだが?」
 自分の体の上に乗ってくるマカリナの鼓動はとても早く、本当に自分に触れたくてたまらなかったことを改めて知り、ロルは両手で覚悟を決めてマカリナの顔に触れて笑う。
「分かりました。あなたの願いを聞きます」
「では、まず口づけがしたい。いいか?」
「はい」
 お互い目を閉じて、マカリナはロルの唇に指で触れていき、初めて口づけをする。
「んっ、ああ」
「はああ。ん」
 その口づけは何度も繰り返され、忘れないように必死にその跡をつける。
「はっ」
「どうだ? 嬉しいか?」
「はあ、はい」
「では次はなにをしようか」
 首を傾げて次の道へ進もうとするマカリナの手をロルが止めて、首を横に振る。
「ちょっと待ってください。願いは一つだけと言いましたよね?」
「ああ、だがこの口づけは別のはずではないのか?」
「同じです。はい、ワタシは体を洗ってもう寝ます」
 マカリナに押し倒された体をゆっくり起こしてロルは寝台から立ち上がって扉の前に立つが、マカリナに抱きしめられる。
「待ってくれ。次の願いはいつ聞いてくれるのだ?」
 必死に自分を失いたくない気持ちがよくマカリナの熱で心まで深く伝わってきたことをロルは、クリスは、嬉しく思いながら振り向いて今度は自分からマカリナの唇に口づけをした。
「分かりません。でも、これからはたくさん甘えてもいいですよ。ワタシはあなたをいつかは好きになるのですから。うっふふ」
 初めての口づけはとても甘く、ずっと触れていたかったが、これ以上のことはまだできない。生まれて初めて好きになりたい人間のマカリナを大切にするには、まだまだ我慢することが増えていくはず。だから、今は、その愛おしい笑顔をもっと見せて欲しい。
 あなたがいれば、これからの未来を怖がらずに進めていけるはずだから。




   第二章 思い出作りとそれぞれの選択

 ロルがお城に来てから三ヶ月が経ち、二人は前よりも距離が近づいた。隙があればマカリナは遠慮せずにロルに口づけをする日々が続いている。あれほど家に帰りたいと思っていたロルの気持ちが、マカリナのそばにいるだけでその気持ちが薄くなり、結婚をするまでは家族には会えなくてもいいと考えていった。自分の成長はまだまだ走ってその先へと歩んでいる。 
 大切な家族と再会できる日は、自分がマカリナを好きになった瞬間で決まる。だから後少しはこの生活を楽しみたいと、毎朝そう感じていた。
「んー、あっ」
 夢から覚めたロルが目を擦り起き上がろうとしたその時、隣で一緒に寝ていたマカリナが目を瞑ったままロルの手を握り、寂しさを紛らわすようにギュッと抱きしめる。
「ああ、まだ眠い」
「国王様、おはようございます」
 満面の笑みで朝の挨拶を口にするロルに、マカリナは半分だけ開いた瞳で返事をする。
「おはよう。もう起きるのか?」
「はい、仕事があるので」
 やる気満々に仕事への気持ちが強くあるロルの輝かしく、なんとも全てを許してしまう気持ちにさせられたマカリナの顔は、頬を真っ赤になるまで膨らませて、やきもちを焼いている。
「それはオレが任せた仕事ではないぞ」
 国王らしくない素直で純粋な姿を見せるマカリナを、ロルが少しだけ短いため息を吐きながら頭を撫でた。
「・・・ワタシがあの庭の手入れをしなかったら、誰が代わりにするのですか」
「また汚れたらすればいいだろう」
「そうならないために、ワタシは毎日しているのですよ」
「そうか。んっ」
「えっ! あ、んっ、うう」
 どうしてもロルに仕事をして欲しくない機嫌が少し悪くなったマカリナは、ロルの首筋に一生消えることはないのであろう、口づけの跡を真っ赤になるまで強くつけて、外に出ることを許そうとしない。
「なっ、なにをするのですか!」
「これなら仕事をせずに済むだろう」
 堂々と美しく笑い見せるマカリナが、ロルには、いや、クリスにはただただ嫌としか思えずにいる。そして、じっと見られていた瞳からすぐに目を逸らし、ため息が自然と吐かれる。
「はああっ、どうしてそんなにワタシの邪魔をしようとするのですか」
「オレが君を離したくないからに決まっているだろう」
 恋人の甘い声の囁きがすうっと耳の中で響き渡り、恥ずかしさと共に焦りを感じる。
「むうっ、こんなところを誰かに見られたらどうするのです?」
「その時はオレが君をケーキのように甘くしたと言えば済むはずだ」
 なんの保証もなく堂々と言うマカリナの姿に、ロルは少し呆れた。
「そんな簡単に誰かを惑わせるはずはないと思いますが・・・」
「そうか? これなら誰でも信じると思っていたのだが」
「国王様の考えは仕事以外では甘いです。もっと慎重に考えた方がいいですよ。ふふっ」
 自分の腕の中で楽しく笑うロルの顔を、マカリナはそっと手で撫で、ロルの体を支えながら一緒に起き上がり、ある提案を持ちかける。
「いい機会だ。今日はお互い仕事を休んで街に行かないか? そこで花の苗を買ったらいい」
 夢のような言葉を言われたロルは一瞬それが嘘ではないかと疑うが、マカリナの表情は嬉しそうに笑っている。
「いいのですか? 本当に?」
 瞳を精一杯輝かせて期待するロルを、マカリナが温かく笑って抱きしめる。
「ああ、今日はお互いの願いを叶える日にしよう」
 舞踏会ぶりに叶えるマカリナの願いと自分の願いを叶える日・・・これはとても素晴らしいことだった。
「はい! 嬉しいです、ありがとうございます!」
 久しぶりの外にワクワクするロルの愛らしい姿に、マカリナは口を抑えて笑顔になる。
「ふふっ。そんなに嬉しいのか。オレと出かけるのが」
「え、そうですけど?」
 初めて人間を好きになりたいと思わせたマカリナが、クリスには不思議に思えた。なぜなら、もう好きになっているはずだと感じられている物だったから。
「オレも外に出るのは久しぶりだ。五年ぶりくらいだろうか? いや、もう忘れてしまっているな」
「あ、五年も外に出ていないのですか?」
「ああ、仕事が忙しくて余裕がなかったからな」
「じゃあ、今日は精一杯楽しみましょうね」
 仕事で外に出られない日々を過ごしていたのなら、自分がマカリナを思い切り楽しませてその願いを聞いて叶えてあげる。どんな願いでも自分にできることなら喜んで受ける。
 それがあなたのためになるなら、ワタシはこの命が尽きるまであなたを守って見せるから・・・。
 ロルの愛情がこもった温かい微笑みが、マカリナの体を刺激し、その愛おしい体を寝台に押し倒す。
「え? 国王様?」
「全ては君が悪いのだ。責任を取ってもらうからな」
「なんのこと、ですか?」
 不思議に首を傾げて理解が追いつかないロルを、マカリナは怪しげに笑ってロルの横髪を撫でる。
「ふっ。今から君の体をめちゃくちゃにして溶かす」
「それはどういう意味ですか」
 また同じく首を傾げているロルに、マカリナは遠慮なく、次は頬を撫でる。
「意味などない。ただオレがしたいだけだ」
「ワタシは嫌です。離してください」
「朝からこういうことをするのが恥ずかしいのか?」
 押し倒したロルの体の上に乗って、唇を近づけて、マカリナはロルの顎を持つが、ロルに手で強く振り解かれて拒まれてしまう。
「そうですよ。朝からこんなことはしたくありません。やめてください」
 別に嫌いというわけではない。ただロルは本気で好きになるまではそんな愛し合っている二人の仲のようなことをしたくない。
 それをマカリナが気づいてくれれば助かるはずだが・・・。
「分かった。遊びはここまでにして、食事の準備をしてくる。君も早く来てくれると助かる。一瞬でも寂しくならないようにしたいのだ」
 真剣に自分の気持ちを心から寂しそうに暗く俯くマカリナに、ロルは頷いて満面の笑みで返事をする。
「分かりました、すぐに行きます。はあっ」
 マカリナが身を整えて部屋を出て行ってから、ロルは自分の首筋を鏡で見て、顔が真っ赤になる。まさかこんなに口づけの跡をつけられるとは一度も思っていなかったため、この体で外に出ることを想像しただけで恥ずかしくなり、それから十五分は鏡の前で顔を隠してしゃがみ続けた。
「はああ、恥ずかしくて自分が壊れる」
 いつもの黄色のドレスに着替えて、青色の細いリボンで軽く一つ結びにしていく。マカリナがいる大広間に行き、少しの間一人にさせてしまっていたマカリナが、ロルの手を強く引いて怒りを美しい笑みで表す。
「す、すみません。遅れました」
 急いで頭を下げて謝るロルを、マカリナが一瞬怪しく笑って睨みつけた。
「遅かったぞ。なにをしていた?」
 マカリナの今の表情が怖くて、ロルは顔を上げることなく、理由を素直に偽ることなく話す。
「考えごとを長くしていました。次からは気をつけます」
「そうしてくれ。オレは君がいないと寂しいのだ。その気持ちを君に知って欲しい」
 水の流れのように自然とマカリナはロルに口づけをし、拗ねた横目でロルを見つめる。だが、ロルはその気持ちをずっと前から知っている。マカリナの頭を撫でながらそっと包み込むように微笑む。
「その気持ちは十分知っています。それにワタシは絶対にあなたから離れるつもりはありません。国王様こそ、ワタシの気持ちをよく知っていてくださいね。うっふふふ」
「ああ、覚えておく」
 嬉しそうに笑うと、背中から天使とは違う大きな翼がマカリナをそっと包んでいく。
「ええっ、国王様、その翼は・・・」
 その翼を見ただけで、クリスは心の奥底から恐怖と申し訳なさが強く体中の体温がグッと一気に炎が燃え上がるように暑くなる。そして、それを見られないようにクリスはすぐにマカリナから目を逸らすも、マカリナは不思議に首を傾げた。
「これはオレの翼だが? それがどうしたのだ?」
 当たり前のことを堂々と口にするマカリナを、クリスは一度心を落ち着かせるために目を閉じて、また開いて、目を合わさずに答える。
「い、いえ。あなたの翼を初めて見たので驚きました」
 曖昧で怪しいクリスのオドオドとした焦ったように表情がとても暗く、マカリナは自分の翼を見せたことが悪かったのではないかと反省した様子で髪をかき乱す。それでも、なにも迷わずに、はっきりとロルの瞳に自分の姿を映し出した。
「オレだけではなく、他の人間も同じ翼を持っているはずだが?」
 その「人間」という言葉で、クリスは今はなにもない平民のロルだということを思い出し、嫌でも後悔しても、マカリナを好きになりたい。
 マカリナと同じ人間ではなくても、いつか必ず好きになるマカリナのためならと、ロルはゆっくりとマカリナの瞳に自分の姿を申し訳なく感じても映すことを決める。
「そう、でした。変なことを聞いてしまって申し訳ありません」
 深く頭を下げて謝るクリスを、マカリナは不思議に思い、首を横に振りながらそっと陽だまりの中で包み込むように抱きしめた。
「なぜ謝る? この翼は天使クリスがオレたち人間に与えた翼だ。君が謝る必要はない」
「でもそれは」
(違う。ワタシがこの国の人間に翼を与えたのはただ人間が嫌いで憎んでいたからだ。それを知らない国王にどう言われても、ワタシはなにも嬉しくない)
 自分の間違いを認めたことはない。ただ誰かがそれを正しいと言えばそうなって、逆にそれが間違いであったらそうとなる。生まれた場所が違うだけで、こんなにも変わるとは思っていなかったし、想像をしたこともなかった。
 全ては大天使の二人の言うことが正しい。それ以外の物を信じてしまったら闇に落ちていく。そしてクリスはその全てを裏切り、今は二人から与えられた罰を受けている途中。今目の前で翼を広げているマカリナには本当に申し訳なく、謝っても決して許されることはないだろう。もし自分が天使クリスと気づかれてしまったら、やっと手に入れた恋を、好きな気持ちがそこで全て失われる。だから今は魔力で与えた翼をクリスは見なかったことにし、マカリナから少し距離を置く。そうすれば、本当の自分をまだ隠せるはずだと信じられるから・・・。
 ロルがマカリナから距離を置いて暗く俯いてどこか遠くを見つめている姿に、マカリナは厨房から匂いに気づいてあることを感じて美しくロルに笑いかける。
「ん? お腹が空いたのか、もうパンが焼き上がるから座って待っていてくれ」
「はい」
 ロルの体を気にして、マカリナは厨房で焼き上がったパンを皿に乗せて、甘い紅茶と一緒に食卓のテーブルに並べていく。
「おいしそう」
「好きなだけ食べてくれ」
「はい、ありがとうございます」
 マカリナの翼が背中にしまっていったのを安心して確認した後、ロルはパンにバターやイチゴのジャムを塗ったりして、朝食を楽しむ。
「国王様が作るパンはとてもおいしいです。料理もお菓子も自分で考えているのですね」
 満面の笑みでマカリナが作ったパンを口いっぱいに頬張るロルに、マカリナも笑顔で返事をする。
「そうだな。これも君のおかげでできたことだ」
「ワタシのおかげ?」
「覚えていないのか?」
「なにをです?」
 記憶違いだったのか、ロルはマカリナの言った言葉の意味がよく分からなかった。それもそのはず、マカリナは国王となってまだ日が浅かった頃、よく一人で一人の少年に会いに行っていた。けれどその少年の名前をマカリはよく覚えていない。だからロルがその少年ではないのかと少し試しながら聞いては見たものの、ロルの反応は全く別で、それを他人ごとだと思っている様子だ。そしてマカリナがその少年の影を追っているのを誰も知らない。けれどそれがロルだと信じている。
 そしてロルの正体もこの三ヶ月でようやく分かってきていた。
「なんでもない。たくさん食べてくれ」
「はい」
 言われたとおり、ロルは遠慮せずにパンを残さず全て食べ終わる。
「おかわりが必要みたいだな」
「お願いします」
「ああ」
 これも甘えていることに含まれているのかはマカリナがどんな気持ちによるかで分かることだ。愛しているロルのために文句一つ言わずに全てを尽くしてそれを満足しているのならどんなことでも構わないから。
「できたぞ」
「え、早いですね」
「まあ、余分に作ってあるからな」
 たった十分で作り上げたこのパンはサクサクしていて、さっきとは違う食感になっている。
「先ほどまで食べていたパンとは違う味にしてみたが、おいしいか?」
「はい、とても、おいしいです」
 やはりマカリナの作る物は全ておいしい。今までの経験の中でどれほど苦労していたのかがよく分かる素晴らしい物だ。誰にも真似できない自分で考え出した自信と努力。その二つ以外にもマカリナの頑張った姿が目に浮かび、ロルはそれに感動する。
「ワタシも、国王様のようになりたいです」
「オレはそんなに大したことはしていない」
「でもワタシはあなたのそういう温かくも愛おしいところに憧れます」
 可愛らしい微笑みでそう楽しそうに口にするロルの言葉を聞いて、マカリナはあることを試しに質問する。
「それは好きではないのか?」
「え、どういう意味ですか?」
 全く分かっていないロルに、マカリナが立ち上がる。そして、ロルの頬についたパンのかけらをそっと丁寧に取ってあげてそれを自分の口の中へと運び、美しく笑って見せる。
「そういう時は憧れや羨ましいではなく、好きだからという意味のはずだが?」
 怪しく正しい言葉を言うマカリナの美しい姿で、ロルはその言葉の意味がなんとなく理解し、自然と顔が真っ赤になって照れた。
「そう、ですかね」
 照れて頭から湯気が溢れ出そうに可愛いロルを、マカリナはこれ以上言ったら爆発すると思い、両手で口元を隠して笑いを堪えた。
「まあいい。そろそろ行かなければ」
「・・・はい」
 おかわりをしたサクサクのパンも全て食べ終わったロルが椅子から立ち上がる。使い終わった皿を片づけているマカリナを気にしながらも、ロルは部屋に戻って外に出る服はこの母親手作りのドレスでもいいはずだと考えた。
「あ、忘れてた。姉さんがくれたネックレスをつけないと」
 姉のリルが自分のために買ってくれた銀色のネックレスをそっと首につけて頬に触れさせる。
「姉さんにまた会いたいな」
 その独り言で、幼かった頃の一つの記憶を微笑みながら思い出す。
『姉さん、今日はなにして遊ぶの?』
『んー、そうだね。今日は街に行ってお菓子を買いに行こうか』
『うん!』
 楽しそうに大きく笑うロルに、リルはずっと気になっていたことをロルに質問しようと決める。
『ロル、どうしてアタシのことを『姉さん』って呼ぶの? 双子だから別に呼び捨てでもいいのに』
 リルの長い間悩んできた質問に、ロルは満面の笑みでその答えを口にした。
『オレは姉さんが大切だから呼び捨てができないだけだよ。嫌なら今すぐ変えるよ』
 ロルの本心が見えたことに、リルは心から満面の笑みで嬉しくなる。
『ううん、ロルが呼びたいように呼べばいいよ。アタシはロルといられるだけで幸せだから!』
 そう言って、リルがロルに思い切り抱きついてロルは、クリスは、この出来事を一生忘れられない思い出になっていった。
『うん』
 これで最後の生まれ変わり。生まれて初めて人間嫌いの自分がこの時本気で偽りを演じていたクリスは本当の家族ではなくても、守りたい物ができたことに感謝する。今までの生まれ変わりとは全く違う愛の存在。この記憶を一生覚えておこうと、このお城に来た目的にもなっていたのだった。
 大切な物がある幸せ。それを守るのは簡単ではない。いつか壊れてしまうかもしれない不安があるのは当然だ。楽しさだけで守れてしまうなら、今までなにも苦労はしなかっただろうに・・・。
「リル、準備はできたか?」
「あっ、はい。できました」
「入ってもいいか?」
「はい、どうぞ」
 部屋に入って来たマカリナは黄緑色のシャツにシュッとしたかっこいい黒のズボンは変わらずそのままで、靴はブーツではなく短い同じ茶色の履き心地がいい物に変えて、国王という雰囲気を失くした青年の姿になっていた。
「・・・・・・」
「どうした? 変か?」
「い、いえ。見慣れていない格好だったので驚きました」
(美しすぎて、変に焦る)
 ロルが瞳を大きく開き、マカリナの美しさに惚れているのを、マカリナはなるべく笑いを堪えて平常心で自分の服を見つめる。
「街に行くならいつもの服ではなく親しみやすいこういう物がいいと思って着てみたのだが、君はどう思う?」
「え! ま、まあ素敵だと思いますよ」
 その美しさに驚いて自然と現れるロルの可愛い笑顔が、マカリナには特別で最高の褒め言葉だと天使の微笑みに近い笑顔をした。
「そうか。では行こう」
「はい?」
 マカリナの服装に違和感があって、まともにその顔を見てしまったら、隣にいる自分がおかしな目で見られる気がして、ロルはマカリナに気づかれずにその心配を隠す。
「国王様、街にはどうやって行くつもりなのですか?」
「翼で行くつもりだが」
「翼、ですか・・・んうー」
 マカリナとは違う天使の翼で外に出てしまったらと、想像しただけでクリスは怖くなり、自分の姿を見たくなかったが、マカリナが手を引いて抱きしめて続けて話す。
「そういえば、君の翼は見たことがないな」
「え」
「見せてくれるか?」
「あっ、ダメです。ワタシの翼は誰にも見せられない約束があるので」
「そうか。ではオレの翼で早く行こう」
「ちょっと待ってくだ」
「待たない」
 そう言って、マカリナはロルのドレスに気をつけながら横に抱えて翼を広げ、雲一つない大空を渡って飛んでいく。
「わああ。久しぶりに空を飛べるなんて」
「夢のようだな。ふふっ」
 心から楽しそうに笑うマカリナに、ロルは頬を膨らませて悔しがる。
「もう、ワタシの言葉の続きを言わないでください」
「ふっふふ。これもありではないか」
 今までの生まれ変わりでも、この先も自分の翼で空を飛ぶことはないと思っていた。大天使のあの二人から命じられたことを、リルとの約束を守るためにはこの大空を間近で見られるはずがないと諦めていたのに、マカリナがそれを簡単にそれも自然に叶えてくれた。この恩は一生をかけても返せないくらいの喜ばしいことであった。
「うっふふ」
 大空を飛ぶのはマカリナだけでなく、子供や大人も皆楽しそうに自分が与えてしまった翼で幸せに溢れて飛んでいる。何度も見てきた光景のはずなのに、何度も後悔してきたはずなのに。その全てが美しく、それと同時に切なくなる。
(ワタシが魔力で翼を与えなかったら、こんなことにはならなかったはずなのに、どうして皆幸せそうな顔をする? ワタシを憎く感じていると思っていたのに)
「ふうー」
「もうすぐ着くぞ」
「あ」
 マカリナの翼で降り立った三ヶ月ぶりの街はとても懐かしく、この街にいる全ての人間が笑い合っていた。その笑顔にロルは安心して地面に足を降ろし、街のお店を自由に一人で見て回ると、マカリナがすぐに手を止めて怒った顔をする。
「なんですか?」
「一人で自由に行くな。はぐれたらどうするのだ?」
 なにかを不安に感じて瞳が大きく揺らいでいるマカリナの頬を、ロルはそっと撫でてあげる。
「どうもしませんよ。ワタシの家はこの街から行けば遠いので、逃げたりしません」
 ロルが安心して、次は髪を撫でてあげようとしたが、マカリナがすっと一歩下がって拒んだ。
「そうではなくて、オレが君とはぐれそうで怖い。手を握ってもいいか?」
「え、国王様が怖いのですか。うっふふふ」
 予想外の可愛い言葉に、ロルは満面の笑みになる。
「なにがおかしい?」
「いえ。意外だと思っただけです」
 マカリナの弱いところが知れてとても機嫌がいいロルの手を、マカリナが怪しげな笑みを浮かべながら、一生離さないように手と手を絡み合わせて、少しだけ無理やり手を握った。
「そうか。ではここでオレの願いを聞いてもらおう」
「ここで、ですか。もうちょっと場所を考えた方がいいと思いますが」
 周りにはたくさんの人間が通り過ぎていて真ん中に立っているロルとマカリナをさっきからジロジロと怪しい目で見ている者も多いことを、ロルはマカリナより先に気づいていた。
 だが、マカリナはそんなことは心の底からどうでもよく、堂々とロルの頭を撫でる。
「ここで構わない。むしろここではないと意味がない」
「は?」
「君だけだろう」
「なにがです?」
「オレのことを『国王様』と呼ぶのは」
「はっ、間違った呼び方なら謝ります。今まですみませんでした」
 今までの呼び方が間違っていたのなら頭を下げて謝るしかない。ロルは心から申し訳ない気持ちで隣に立つマカリナに深く頭を下げようとしたところを、マカリナに抱きしめられて自然と止められてしまう。
「いや、その呼び方も悪くはないが、これからは名前で呼んで欲しい」
「え、でもそれは失礼になるのでは」
「いいや、後少しで結婚するのに名前で呼んでもらえないのがオレは嫌で距離を感じる。それにここで『国王様』と呼ばれたら、すぐにオレが国王と気づかれてしまうだろう。だからこの願いを聞いてくれないか」
 確かにマカリナの言うとおりだ。この街で暮らすほとんどの人間は平民だ。貴族がこの街で暮らすことは全くない。そして貴族がいないこの街にはマカリナが国王とは誰も知らない。そう、平民のほとんどが国王という存在すらもあまり知られていないし、見たこともないため、ここでロルが「国王様」と言っても、それを驚いて態度を変える人間はそう多くはない。だからと言って、その呼び方を変える必要はないとは思うが、後少しで結婚するのに名前を呼んであげないのはさすがにダメな気がすると、ロルは苦笑いを慣れない表情で浮かべながらマカリナの手を握り、ゆっくり頷く。
「わ、分かりました。呼び方を変えます」
「ああ」
「マカリナ、様」
「呼び捨てで構わない」
「えっ、いやそれはさすがにダメだと思いますが」
「オレの言うことが聞けないのか?」
 抱きしめられた腕をさらに強くし、マカリナは微笑んで首を傾げる。
「じゃあ、マカリナ。そこのお店に行ってもいいですか」
 ロルが指を指した先にあるのは古く人気の高いおいしいパンが並ぶパン屋だった。それを知ったマカリナは微笑みから怒りが詰まった笑みをロルに見せて圧をかける。
「オレが作ったパンでは満足しなかったようだな」
「あ、いえ。そんなことはありません。ただ気になっただけです」
「ほう。分かった、入ろう」
「いいのですか?」
「ああ、オレの願いを聞いてもらったお礼だから、好きなだけ買えばいい」
「あ、ありがとうございます」
 少しマカリナの機嫌が悪くなった、いや、悪くさせたロルが先にお店に入ると、焼きたてのパンの香りが漂っている。ロルは瞳を輝かせて、店主の目の前に立って「全部ください」と笑顔で言う。
「本当に全部買ってくれるのか?」
「はい! お願いします!」
「リル、待ってくれ」
「はい?」
 マカリナがいる後ろを振り向くと、マカリナがロルの肩を撫でて瞳を大きく開いて驚いている。
「本当に全部食べるつもりなのか?」
「はい、あっ、もしかしてお金が足りないのですか?」
「いや、金は十分足りるが、ここに並べられている五十以上のパンを食べたらまずいのではないか?」
「まずい? はっ」
 マカリナの言う「まずい」とは食べすぎると太るのではないかという心配の意味だったが、ロルは少し体を気にしながらも、胸に手を当てて首を横に振る。
「大丈夫です。庭の仕事でたくさん動いているので問題ありません」
「そうか。それならいいが・・・」
 まだなにかに納得していない様子のマカリナを、ロルは笑顔で指と指を絡め合わせて、その取れないかけらを溶け込む。
「はああっ、分かった。買おう」
「わあ、ありがとうございます!」
 店主にちょうどぴったりのお金をマカリナがそのまま渡し、一人では抱えきれないほどのカゴに入ったパンを受け取る。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ」
 お店を出て、マカリナはロルが欲しがっていた花の苗がある小さなお店に二人で入って行く。
(どれがいいんだろう?)
「好きな物を選んだら教えてくれ。オレは外で待っている」
 そう言って、マカリナは一人でお店から出て行き、外で久しぶりの街の風景を美しい微笑みで見ながら幼い頃の自分が過ごした時間を少し後悔する。
「あの頃に戻れたら、オレは君をどうしていたのだろうな。ふふっ」
 マカリナが外で待っている間にロルはのんびりと花の苗を選んでいく。どの花も匂いが優しく、鼻の中を透き通るように感じる。
「この匂いはいいな」
 刺激的な匂いよりも、心が落ち着く物が一番いい。それぞれの棚を見比べて選んだのは赤色と桃色に黄色、青色の四つのバラを楽しい笑みで外にいるマカリナに手を振り、お店の中に呼ぶ。
「決まったか?」
「はい」
 楽しそうにロルが手に持っている花の苗を見て、マカリナは首を傾げる。
「ん? これはバラか?」
「はい、マカリナと一緒に見るならこの花がいいと思って」
「なるほど、それはいいな」
「うっふふ」
 カゴを邪魔にならないように自分からマカリナに「持ちます」と軽く受け取って、お金を払ってもらう。
「重いのに悪いな」
「いいえ、買っていただきありがとうございます」
「これくらい大したことではない」
「ふふふっ、そろそろ帰りましょうか」
 気づけば空は暗くなり始めて、街の灯りがつく前にロルは行きと同じようにマカリナの翼でお城に帰り、大広間で買ったパンを耐えない笑顔で食べて食べて三十分で完食した。
「ああっ、おいしかった」
 まさか三十分で五十以上のパンを完食するとは思っていなかったマカリナは、驚きで持っていた紅茶のカップを落としそうになりかけたが、気を取り直して持ち直した。カップを食卓のテーブルにそっと置き、ロルの前にできるだけ笑顔で立つ。
「本当に全部食べられたな」
「こんなにおいしいパンが他にもあったなんて知りませんでした」
 瞳を輝かせて他人が作ったパンでこんなにおいしそうに食べたロルに、マカリナは怪しげな笑みで頭を撫でた。
「そうか。ではオレはもっとそのパンよりもおいしいパンを作ってやろう」
「え、それはさすがにちょっと」
「ダメなのか?」
「いえ、ダメではありませんが・・・」
 曖昧な言葉でマカリナから目を逸らしたロルの表情はどこか諦めたように、限界だというような暗い表情に見える。それがマカリナには嫌に感じて真剣にロルと目を合わせる。
「なんだ、はっきり言ってみろ」
「・・・・・・」
 お店のパンを食べてロルは思った。
「もうこれ以上はパンはいらない」
 パンはおいしくていい。マカリナがそれ以上のパンを作ろうとしていることは嬉しいけれど、今はもうパンよりもなにか懐かしい物が食べたい。そう思い返した瞬間、最後に家族と食べた野菜のハンバーグとクリームシチューが自然と目に浮かび、それが恋しくなってきた。
「食べたい」
「なにをだ?」
「あっ」
「なんでもいいから言ってくれ。オレは君の言葉が好きだ」
「え!」
 言葉だけでも好きだと言えるのは多分今まで関わってきた人間の中ではマカリナだけだろう。言葉を好きになるというのはどんな意味があるのか。そんな謎めいたことばかりを言ってロルを口説こうとするのなら、それも別に悪くないのかもしれない。それは人間としてのロルとして。
「マカリナ、ワタシはあなたを好きになりたいと思っています。でもあなたがワタシを愛し過ぎてしまったら、あなたはきっとワタシを嫌いになります」
「なぜそう思う? オレがいつ君を嫌いになると言った?」
 偽りも全く持たずにいつでもまっすぐに存在し続けるマカリナの透き通った水色の瞳がクリスの心を強く揺さぶり、すぐに目を逸らしてしまう。
「言ってはいませんが、ワタシはあなたを必ず好きになるのは確実です。でも未来ではどうなるか分からない。もしあなたがワタシを嫌いになったら、ワタシは誰を好きになればいい・・・」
 人間を好きになれば天使に戻れるかもしれない。しかし仮に戻ったとして、それが幸せになるとは限らない。この三ヶ月でマカリナはロルに触れてきてくれた。それだけでも嬉しいはずなのに、怖がらない未来が待っていて欲しいという気持ちを持っていいのか、どうしても不安になってしまう。
「分かった」
「えっ」
 美しい笑顔でロルに近づき、横に抱き抱えて、マカリナはロルの頬に口づけをする。
「な、なにをするのです」
「そんなに不安に思うなら、もっと君を愛すればいいのだろう」
「は?」
「君の不安はオレの不安でもある。その不安をオレに分けてくれ」
(そんな、ワタシの未来への不安をマカリナに分けてもいいの?)
「どうする?」
 マカリナはロルに対してとても甘く、愛おしい。そんな愛に染まったマカリナとこの決して終わることがないだろうという怖い不安を分けてもいいのならと、クリスはマカリナにギュッと抱きつき、その頬にお返しに甘い口づけをしてみる。
「はあっ、君は本当に可愛い。今すぐ結婚できないのが悔しくて仕方がない」
「んっふふ、ありがとうございます。お願いします、ワタシの不安を一緒に解いてください」
 ロルの唇に手を当てて、マカリナは温かく微笑み、瞳を輝かせた。
「ああ、もちろんだ。一緒に乗り越えよう」
「はい!」
 人生には必ず見えない不安や心配が起きていく。でもそれはどんな時だって一人では乗り越えられない。一人で抱えている物は決して誰かと乗り越えられないと一人で立ち上がることすらも叶わない。
 最後だからこそ、この人生を命を、大切にマカリナと二人で永遠にいられたら、どんな未来でも愛し合えたら、もっと幸せになるはず。
 そう信じて、前を向ける勇気を胸に。


 それから一週間後、ロルはこの間マカリナが買ってくれたバラの花の苗をその一晩のうちに全て土の中に埋めた。毎日水や土の具合を慎重に観ながら大切に育てていたが、早くマカリナと一緒に見たいという欲が出てしまい、こっそり誰にも見つからないように自分の白の魔法で少しずつバラの成長を早送りしながら一週間が経った今日、四つのバラが美しく咲き誇った。
「ふうー、できた。でも・・・」
(勝手にここで魔法を使った。大天使にまた怒られるかもしれない)
 魔法が使えるのは天使だけでなく敵の悪魔にも使えられる。だが、この力を与えたのが誰なのかは今もまだ分かっていない。生まれた瞬間からその魔力を持って、何年も魔法でその存在を維持し続けてきた。
 天使と悪魔は生きているのではない。ただ存在することでお互い言い争いながらも天を守り続けているのだ。だからなにがあってもその存在を消されることはない。魔法も天使は白という癒しを使って植物や空を照らし、悪魔は黒という全てを黒く闇に染める力がある。使い方は自由でなにも問題なくすればいい。ただし、それは天の話で人間の国のことではないため、この一週間でクリスが使った白の魔法は本来ならば使ってはいけないが、彼は元々大天使にふさわしい天使だったのだから大丈夫だろう。
『クリス、お前にボクたちの魔力を半分あげよう』
『え、どういうことですか?』
『んっはは』
 明るく笑う一人の大天使の名はシルクリス。彼は生まれた瞬間からずっと一人だったクリスに自分の名前を半分与えた天使。そして隣に立つシルクリスはもう一人の大天使、アミリカスの兄で、とても心優しい天使ではあるが実は腹黒くもあり、危険な天使と言ってもおかしくはない。真っ白ななににも染まらない背中まで長い髪に、夕日のように熱がこもった橙色の瞳。真っ白な服と靴で頭の天使の輪が輝いているのは天使の王と呼んでもいいかもしれない。
『兄上の言うとおり、お前にワタシたちの魔力を半分やろう。ただし無駄遣いはするな』
 そう強く物を言うアミリカスは天で一番厳しく、シルクリスと容姿は全く同じで身長も髪も瞳の色だけははっきり違う。夜の暗く落ち着いた青色の瞳は厳しい性格とは距離があって頭の天使の輪をとても大切にしている。
『分かりました。大切にします』
『うん』
『ああ』
 二人の前で跪くクリスは灰色の白黒どちらにも当てはまらない足まで綺麗に整えられた髪に左右色が違う瞳。右が白で左が黒という天使にも悪魔にもなれる存在になっている。そのため、服も大天使と同じ服を着ても自然と灰色に染まってしまうことで自分が天使だということを名乗っていいのかがよく分からない。天使の輪も背中の翼もあるのは確かだが、天使でい続けたいというのは本心だ。生まれた天にはとても感謝している。こんなにも素晴らしい場所にいてもいいなら自分の力を全て使っても構わない。そう思っていたのに、ある日シルクリスとアミリカスがクリス以外の全ての天使を連れて、地上に舞い降りて見つけたルエリッド王国を気に入ってしまい、そこで暮らすことになった。けれど、クリスは昔本で読んだ人間の汚れた心を知り、人間嫌いになった。だからルエリッド王国の全ての人間に自分の気持ちをそのまま憎しみだけで二人から与えられた巨大な魔力で人間に翼を与えた。最初は自分はなにも間違っていないと思っていたが、全ての天使が天に帰って来て、シルクリスとアミリカスに呼ばれて、この時初めて怒られることになった。
『お前は自分の間違いを認めないのか!』
『うっ、い、いえ。ワタシは絶対に間違ったことはしていません』
『くっ! なぜワタシたちがお前に魔力を与えたのか分かるか?』
『わ、分かりません』
『お前は大天使に一番ふさわしい天使だったからボクたちの魔力を半分あげたんだよ!』
『え』
(ワタシが、大天使にふさわしかった?)
『申し訳ありませんでした』
 自分の間違いを深く頭を下げて謝るクリスに、二人はお互い目を合わせてシルクリスが口を開く。
『うーん、謝ったことはいいけど、せめてなにか罰を与えないとダメだよね?』
『・・・・・・』
『そうですね。なににしましょう、例えば人間に生まれ変わらせるとか』
 アミリカスの提案に、シルクリスは強く悩みその提案をもっと悪くする方法を考えた。
『それもいいけど。じゃあさ、十回人間に生まれ変わって、人間を好きになるっていうのはどうかな?』
『さすがにそれは厳しいと思いますが』
『そうかな? これは結構軽い方だけど』
『兄上がそう言うのでしたら、ワタシはもうなにも反対しません』
『そっか。じゃあ決まりだ』
『待ってください!』
 シルクリスが考えたその重い罰が想像しただけで気分が悪くなり、急いで立ち上がってクリスは二人に向き合うが、怖くてそれができなかった。
 なぜなら、これ以上たった一言でも言ってしまったら、もっと苦しい罰を受ける覚悟がなくなるからだ。
『なに?』
『確かにワタシは間違ったことをしました。でもその罰を受けたとして、ワタシはその後天使に戻れるのでしょうか』
 人間になるだけでも嫌なのに、全ての命が尽きた後に天使に戻れる保証があるのか。クリスはそれが一番気になって、ゆっくりしゃがみ込んでシルクリスの瞳に問いかけるが、見ない振りをされて目を逸らされてしまう。
『それはお前次第だよ』
『ワタシ・・・』
『そうだよ。ボクたちはお前を気に入っている。だから罰を与える必要がある。これでいい?』
 二人の言葉を、クリスは仕方なく頷きながら立ち上がり、天使の輪を強く握りしめて割る。
『あ、ああああっ! 痛い!』
 天使の輪を割った一瞬で体に激痛が走り、背中の翼から次々と血が溢れ出ていく。
『痛い、痛い、痛い』
 一人苦しむクリスの姿に、二人は呆れてしまった。
『はああ、バカだな。天使の輪を壊したら、体が痛くなって背中の翼に影響するって、お前が一番分かっているはずなのに、どうしてわざわざそんなことをするかなー?』
『うっ、くっ』
 その痛みに耐えられないように見えたアミリカスが少し心配し、兄のシルクリスの肩を掴んで首を横に振る。
『兄上、ここは仕方なくワタシたちの魔法で治しましょう』
『・・・そうだね』
 さすがにもうそんな苦しむクリスを見たくないと、白の魔法で二人で手を重ねてクリスの体を真っ白な輝きで包み、体の痛みと背中の血を止める。
『はああ、あ、ありがとうございます』
『お礼なんて聞きたくない』
『早く立て』
『はい』
 クリスは背中の翼をそっと押さえながらゆっくり立ち上がり、涙を浮かべた。
『もう泣かないでよ。そろそろ罰を受けてもらうよ』
『ふっん、くっ。はい』
『また会えるのを楽しみにしているぞ』
『じゃあね、クリス』
『必ず天使に戻れることを信じて、ワタシは人間をこの天で見守っている二人のために、好きになって見せます』
 二人の見守るその姿に安心したクリスは目を瞑り、魔法でその場から落ちて生まれ変わりの始まりが訪れた。


 これが生まれ変わりの始まりであり、今が最後の生まれ変わりである。魔法はいつでも使っていいことになっている。ただし、人間に見られないようにしなければならない。面倒でも隠すのが一番大切だ。そして咲き誇ったこのバラはまだマカリナに見せるにはまだ早い。このバラは二人の結婚式で一緒に見られたらいいはずだから。
「あ、あの」
「え?」
 マカリナとは違う高い声で後ろからロルの肩に抱きついてきたのは、名前も知らないマカリナそっくりの少年だった。身長も髪の長さも服も靴も瞳の色まで同じで、声だけが高く、一瞬マカリナではないかと疑う美しい人間に見えた。
「マカリナ、ではないですね?」
「はい」
「あなたは誰ですか」
 自分の名前を聞かれて戸惑う少年の肩を、ロルがそっと丁寧に傷つけることなく、掴むと、少年はロルの頭を撫でて言葉を緊張しながら伝える。
「ボ、ボクは、サリミア・ルエリッド。マカリナの双子の弟です」
「双子の弟、あっ」
(そういえば、初めてマカリナの料理を食べた時、弟がいると言っていた。でもその弟は一年部屋に引きこもっていると聞いていたはずだけど)
「あなたがリル・ウォルトですよね、マカリナの婚約者の」
「はい、そうです」
 作業着を着ているロルのことは気にせず、サリミアは嬉しそうに外の景色を見渡す。
「ああ、外の景色はいいですね」
「どうして一年も部屋に引きこもっていたのですか?」
 聞かれて当然の質問に、サリミアは何度も目を泳がせてロルの瞳に映る自分の姿に戸惑いを隠せないけれど、それでも、頑張って答える。
「あ、えっとその・・・振られたんです」
「振られた?」
「はい、ボクはずっと好きな人がいて」
「どんな人だったのですか?」
「とても可愛くて素敵な人でした」
「へえ」
 今でもよく覚えている忘れられない大切だった一人の人間。自分が好きになった恋をほんの少しだけ話しただけで、サリミアの瞳から涙が一つ溢れる。
「え、大丈夫ですか?」
「あっ、はい。なんでもないです」
「その人の話をもっと聞かせてください」
「え、そんな、興味もないのに言えないですよ」
「興味ならありますよ。ワタシはあなたと出会えてとても嬉しいのです。だからあなたの話をもっと聞かせてください」
 ロルのその言葉は本心でもあり心から興味がある。一年も部屋に引きこもってなにをしていたのかも気になるし、サリミアの内緒の恋ももっと気になる。ロルは後ろに振り向き、体を近づけて、サリミアの手を握って笑う。
「わ、分かりました。話します」
「はい!」
「一年前、このお城に一人の少年が来たんです」
「え、少年?」
「はい、ボクより二つ下で髪がボクとマカリナよりも長くて美しくて、すぐに好きになりました。その少年は貴族の中でも有名な跡取りの人間で、性格も勉学も素敵で誰もがその少年に期待していました。もちろんボクもその少年に憧れて・・・でもその少年は婚約者がいて悲しかったけど、だけどせめて好きな気持ちを伝えたくて、ボクの部屋に初めて来た時に思い切って告白したんですが、失敗して逆に怒られて、ボクはその日以降、部屋から出られなくて今に至ります」
「そう、だったのですね。ふふっ」
 一年も誰とも話していないせいか、サリミアは嬉しい気持ちで語ってみたけれど、ロルは上手く反応できずに微妙な苦笑いを浮かべる。
「あの、リル様」
「いえ、様は必要ありません」
「そうですか。リル、ボクと仲良くしてください」
 仲良く? どういう意味の仲良くか分からないが、サリミアはロルの苦笑いに間違った親しみを感じてしまい、握られている手を離して右手の薬指をそっとかじる。
「え! なにをするのです?」
「仲良くする大切な一歩。怖がることはありません、ボクがあなたの全てを受け入れてあげるから」
 一気に興奮したサリミアはロングジャケットを脱いで地面にロルを押し倒すと、遠くから靴のコツコツという音が聞こえて、ずっと探し回っていたマカリナが睨みながらサリミアの手を掴む。
「ここにいたのか、サリミア」
「マカリナ、ボクは今気分がいい。止めないで」
 兄のマカリナのことなど全く気にせず、サリミアがロルの体に触れようとした瞬間、マカリナが容赦なく、サリミアの腕を力強く握る。
「痛てててっ。なにをす」
「リルはオレの妃になる人間だ。お前こそ、勝手にオレの物を取るな」
 本気で弟にそう忠告するマカリナの顔は恐ろしいくらいに怪しげに笑っていて、ロルはそれを見て言葉を失い、サリミアは今は諦めたように短いため息を吐いた。
「ああ、久しぶりに外に出られたのに、残念だよ」
「マカリナ・・・」
「リル、大丈夫か?」
「はい、なんとか」
「それならいいが、あっ」
 サリミアにかじられたロルの右手の薬指に跡が残っていることに気づいたマカリナはサリミアを力強く一瞬で立たせ、押し倒されたロルの体を横に抱える。
「サリミア、やってくれたな」
 今までにない強くマカリナから睨まれたことに、サリミアは不気味に笑いかけて、なにも恐れることなく、堂々とマカリナの目の前に立ち、首を傾げる。
「なんのこと? ボクはただリルと仲良くなりたくてかじっただけだよ」
「傷がついたらどうするつもりだ?」
 婚約者のロルの体を心配して何度も見つめてサリミアを睨み続けるマカリナが、サリミアにはその言葉がロルと仲良くできる大きな一歩だと感じる。
「そうだね。いらないならボクがリルをもらうよ」
 予想外の言葉をペラペラと口にするサリミアに呆れたマカリナは、もう目を逸らす。
「くっ。いくら弟でもこれだけは許されないぞ」
「ははっは。分かったよ、今日はもう譲る」
 脱いだロングジャケットを拾い、部屋に戻ろうとするサリミアの手を、ロルが握って止める。
「なに?」
「これからは一緒に食事を取ってください」
「え」
「リル、いいのか?」
「はい、ワタシは三人で食べたいです」
 笑顔でそう願うロルの姿に、マカリナとサリミアはお互い目を合わせて一緒に笑う。
「分かった。いいよ、リルのお願いならなんでも聞いてあげる」
「またサリミアと食事ができるとは思っていなかったな」
「ボクもだよ。マカリナ」
「うっふふ」
 出会えた物はずっと大切にしたい。何度も言うが、この最後の生まれ変わりは今までとは違う特別な物だ。そのためなら、なんでもどんな形でも出会いを果たせたのなら、それを一生の宝物にする。
 最後だからこそ、この手で得た物を一生胸に刻み続けて抱きしめる。
 人生とは素晴らしく、人との繋がりが未来を変えていくのだ。


 夜になり、ロルとサリミアはマカリナが作った珍しいロルが好きな野菜のハンバーグとクリームシチューを作って食べることになった。
「あの、これはどういうことですか」
「この料理は君が好きな物だろう?」
「はい、そうですが。いつワタシがこの料理が好きだと言ったのですか?」
「ふふっ。それは内緒だ」
 口を片手で隠して笑うマカリナを、ロルはもったいなく感じて頬を限界まで膨らませて悔しがる。
「むうー。マカリナはワタシのことを愛しているのに内緒にするのはどうしてですか?」
「愛しているから、だと言ったらずるいか」
「自分で自覚しているのなら、ワタシにこんな顔をさせないでくださいよ」
「ふっふふ。ああ、悪かった」
 すっと立ち上がり、ロルはおかわりを要求しようとわざわざマカリナの元に行き、膝の上に堂々と座る。
「なんだ? おかわりが必要なら用意するからどいてくれるか?」
「どきません」
「なぜだ?」
「マカリナがワタシの機嫌を取り戻すまでは動きません」
「ほう。分かった、それなら遠慮なくさせてもらおう」
「むっ」
 目も口も閉ざして、マカリナの膝の上で腕を組むロルの体を、マカリナはまず指先から手と手を合わせて触り心地のいい髪を撫で、サリミアにかじられた右手の薬指を欲に任せながら強く口づけをし、その跡を残す。
「あっ」
「どうだ? これで満足しただろう?」
 美しい微笑みでそうロルに問いかけたが、ロルの反応は満足どころか恥ずかしさでいっぱいになり、その様子をじっと無言で見ていたサリミアと目が合い、頭に湯気が出ているような感じで恥ずかしくなった。
「はあ、ボクの知らないところでいつもこんな愛し方をしていたなんて許せないよ。どうしてくれるの、マカリナ?」
「どうすることもない。見ていたお前が悪いだけだ」
「くっ、その言葉はケンカの種をまいているって受け取っておくからね」
「ふっ」
 兄弟ゲンカをここでするのはさすがに場所が悪くて自分が困ると、ロルはすぐに膝の上から立ち上がって自分の椅子に座り直す。
「はああ、お前のせいでリルが戻ってしまったではないか」
「そんなの知らないよ。マカリナがリルの体に触れたから、リルは恥ずかしくなって元に戻ったんだよ。それを分からないのはおかしいと思うよ」
 突然怒りの笑みから始まってしまった兄弟ゲンカに、ロルは体を縮ませて気づかれないように部屋に戻って行った。
「はあ」
(兄弟ゲンカなんて初めて見た。オレと姉さんは一度もケンカしたことないから新鮮だったけど、なんか怖くて見てられなかった)
 現国王のマカリナと次期国王のサリミアの兄弟ゲンカはこのお城の中で行われるため、他の人間に見られることはないかしれないが、他人のロルから見れば、それは羨ましくてそれができる幸せを二人に感じられたら、少しでも兄弟という関係がもっとよくなるはず。
 人間としてのロル・ウォルト。
 天使としてのクリス。
 この二つの全く違った存在と命。人間として命が尽きるまではクリスはマカリナと二人でい続けると決めた。このままマカリナに愛されていれば、なにも問題なくこの人生が終わり、天使に戻れることを信じていても、マカリナがその後どうなるのかが気になって仕方がない。二人で未来を歩んで行き、辿り着いた場所が違っていたら、自分は天使としてなにができてなにを失うのか。そう考えただけで大粒の涙が溢れて、窓の向こうに見える絶景の夜景が涙でぼやけて、抱きしめられた腕が恋しくて恋しくてこの命が、存在が二度と終わらないで欲しい。
 やっと手に入れた物を手放すことになるのが一番怖い。やっと見つけた大切な宝物を忘れることが怖い。その感情が芽生えたのはマカリナというたった一人の人間のおかげで一緒に幸せになりたいから、きっとこの涙は溢れている。
 この命が尽きた後も二人で同じ道を進みたい。そう願うのは悪いことなのか。まだ分からなくても、誰に反対されても、自分の魔法と天使の存在でクリスはマカリナを守ろうと新たに決意した。


 その頃、ロルと入れ替わったリルはロルの代わりに毎日父親と畑仕事に出かけて自分の育てた野菜を見るのが楽しみになっていた。
「ロル、今日もたくさん獲れて上手くなったな」
「うん! これも父さんのおかげだよ」
「あっはは、今日も母さんにこの野菜を使ってもらわないとな」
「そうだね」
 リルはロルと入れ替わったことに後悔は毎日しているが、大切な弟が自分の代わりにお城に行ったことは感謝しても足りないくらいの喜ぶ気持ちが大きく願い、それがロルに伝わることを祈っている。
(ロル、アタシは毎日お父さんとお母さんといられて幸せだよ。ロルが今どうなっているか分からないけど、どうかアタシと同じように幸せになって欲しい。アタシはロルが一番大切だから)
 満面の笑みで大空を見上げるリルはロルとの思い出を振り返る。
 ある日のこと、クリスは部屋で傷の残りの痛みを和らげるために月に一度天使の翼を広げて手入れするのが日常になり、なるべく誰にも見られないようにしていたはずが、外から帰って来た、なにも知らないリルにその姿を見られてしまい、とっさに魔法で見られた記憶を消そうとするも、リルに笑顔で抱きしめられてそれができなくなってしまった。
『なぜワタシを抱きしめる? ワタシは人間ではないのに』
『人間じゃなくても、ロルはアタシの大切な弟だよ。だからアタシの記憶は絶対に消さないで、必ずアタシもあんたのその姿を誰にも話さないから』
『はっ』
 この時クリスは生まれて初めて自分が天使だと認めてもらえた気がした。容姿も性格も天使らしくないのに、リルに抱きしめられた腕がとても温かく、天と同じような陽だまりの強い雰囲気がリルに感じられた。
 これもきっとなにか違った出会い。偽りの姉弟でもこんなに本当の自分を受け止めてくれたことは感謝をするしかない。
 クリスはそっと翼を背中にしまって、傷の跡も抱きしめられたリルの手に触れられた感触は一生の思い出にもなっていった。
 その思い出がまだはっきりと頭の中で覚えていて、リルは天使だったクリスを嫌ったり傷つけようとしなかった。初めてできた弟を小さい頃から大切にしようと決めていたため、どんなロルでもリルは快く受け止めてあげられたのだ。
「ロル、そろそろ帰るぞ」
「うん! 分かった!」
(結婚式で会うロルの姿が楽しみだよ。その時に会えたら、また抱きしめてあげたい)
「あっはは」
 ロルと全く同じ笑顔でリルは父親と家に帰り、母親の作る料理をロルの分もたくさん食べていくのだった。
 本当の家族ではなくても、あなたを愛しているこの気持ちは絶対に忘れないで・・・。


 結婚式まで後一ヶ月に迫り、マカリナは仕事中にもロルのことで頭がいっぱいになって、その仕事を支えるサリミアに何度も注意され続けている。
「マカリナ、今は仕事中だよ。しっかりしてよ」
「ああ、すまない。結婚のことで頭が全く働かなくて困っているのだ。サリミア、代わりに仕事を」
「ダメだよ。今のボクは国王じゃないし、まだそれになる気もない。だから現国王のマカリナが仕事をしないと、この国は滅んでしまうよ。それでもいいの?」
「いいや、それはダメだ」
「だったらちゃんとして。そうしなかったら一週間リルには会わせないから」
「なっ! それだけはやめてくれ、オレの心がおかしくなる」
 驚きと焦りで玉座から立ち上がり、マカリナの瞳が涙で潤み、サリミアの胸ぐらを掴んで願う。
「マカリナ、そんなことをする暇があるなら仕事をして」
「うっ・・・分かった」
 しょんぼりと背中を丸めて俯きながら玉座に座り直し、何枚もの書類を目に通して、ひどく落ち込むマカリナ。
 その一方で、ロルは咲き誇ったバラを自由に魔法でお城を埋め尽くそうとした結果、三日でそれを実現できて、一人楽しくお茶を飲み、暇を弄ばせていた。
(美しいバラ。ワタシの魔法ならまだまだこれ以上のことができるはずだ)
 もうこの国で魔法を使うことにためらいを無くしたクリスを、大天使のシルクリスとアミリカスは天からその様子を見てどうするか話し合い、大きな決断で魔法で天への空間を空からクリスを吸い上げ、ドレス姿のクリスは二人を見た瞬間に跪く。
「クリス、久しぶりだな」
「はい、お久しぶりです」
「元気だった?」
「はい、おかげさまで」
「そう、それならよかった。でも、最後の生まれ変わりで偽りの家族に天使だと知られてしまったのは仕方ないけど、まさか最後の生まれ変わりで現国王のマカリナと結婚することになるなんて思っていなかったよ」
 陽気に笑うシルクリスに、クリスは顔を上げないまま返事をする。
「はい、ワタシも同じです。でもワタシはマカリナを、人間を好きになりたいと思えるようになりました」
「そうみたいだな。で、そろそろ好きになれそうか?」
 険しい顔でシルクリスの隣に立つアミリカスの言葉で、クリスは一瞬顔を上げようとするも、瞬きを何度も繰り返してそれを止めることができた。
「はい、今のままで行けば」
 真剣な眼差しでマカリナへ対する気持ちを打ち明けたクリスを、シルクリスは明るく笑った。
「そっか、それはいいことだよ。でも魔法はあまり使いすぎないでね、魔力は無限にあるわけじゃないから」
「はい、分かっています」
 改めて二人の姿を見ると、さすが大天使という輝きと美しさが目に映り、顔を上げることができない。
「それでね、ボクたちはお前を許すことにした」
「え、それはどういう」
「お前がルエリッド王国の全ての人間に翼を与えてしまった罰を受けている間、大勢の天使がお前を許して欲しいと願って来たのだ」
 信じられないことを聞いたクリスは驚きと戸惑いでさらに顔を上げられない。
「他の天使がワタシを・・・」
「その天使もボクたちも、少しずつお前に罰を受けてもらったことが間違いだった気がして怖くなった。だからもうお前には罰を受けてもらう必要はないよ」
「今すぐ帰って大天使になっても構わない」
「えっ、ですがワタシは罰を受けている身です。そのワタシが大天使になっていいはずがありません」
 罰を受けている自分が今更大天使になってしまったら、この天を壊してしまうかもしれない。闇に落ちて悪魔の仲間になってしまうかもしれない。その新たな不安がクリスを包み込んでいくが、シルクリスとアミリカスはそんなクリスを微笑みながら抱きしめて「今まで悪かった」と声を揃えて謝る。
「うっ、ふん」
「クリス、もうお前は苦しまなくていいんだよ。ごめんね」
「あっ、ん」
「ワタシたちのせいで辛い気持ちにさせて悪かった」
「い、いえ。ワタシが全て悪いのです」
「もう帰る?」
「え」
「ワタシたちはいつでもお前の帰りを待っている」
 その言葉を聞いた瞬間、クリスはマカリナとの出会いから思い出の光景を蘇らせ、首を横に振って申し訳なく感じながらも断る。
「申し訳ありません、ワタシはまだ帰るわけにはいきません。まだ好きになっていない人間を置いていきたくありません」
「ははっ。そう言うと思ったよ」
「帰るのはお前次第だ。好きにすればいい」
「ありがとうございます。シルクリス様、アミリカス様」
 抱きしめられた腕をそっと離し、涙を笑顔に変えてお礼を伝える。
「ああ、それと。お前のためにマカリナの命が尽きた後は彼を天使にさせるから楽しみにしていてね」
「え! そんなことができるのですか?」
「ああ、大天使の力を使えば簡単にできる」
「はああっ、ありがとうございます!」
(この命が尽きた後もマカリナと一緒にいられる。これ以上の幸せはない、早くマカリナに会いたい)
「もう帰ります」
「えー、もう帰っちゃうの? 寂しいなー」
「必ずまた天使として戻ってきます」
「ああ、待っているぞ」
「またね」
「はい!」
 その笑顔と同時に、ロルは元いた庭に戻されて玉座に座るマカリナを思いきり抱きしめる。
「わあっ」
「マカリナ」
「リル? どうした?」
「いいえ、ただ会いたくなっただけです」
「そうか。オレも同じだ」
「うっふふ」
 この命が尽きた後にも、二人でいられることに喜びが抑えれないロルの姿を、マカリナは少し疑問を抱くが、それよりも仕事の気晴らしにロルが自分の元に来てくれたことが嬉しくてなんでもよくなっている。
「仕事が終わったら二人でケーキを食べてくれるか?」
「え」
「昼に君が好きなチョコレートケーキをたくさん作ったから一緒に食べて欲しい」
 仕事で毎日忙しいはずなのに、自分のために好物を作ってくれるマカリナの思いやりの気持ちがロルの鼓動を激しくさせて、抱きしめられている腕をもっと強くする。
「ありがとうございます、ワタシのために」
「ああ、オレは君を愛しているからな」
「ふふふっ」
「あの・・・」
 二人の熱い愛の光景が嫌になったサリミアが静かに手を挙げて少し引いた顔をし、マカリナを睨む。
「あ、すまない。お前もいたのだな」
「ずっとここにいたけど、悪い?」
「すみません、忘れていました」
 申し訳ないとロルは抱きしめられている腕を離してサリミアに深く頭を下げて謝るが、サリミアは首を横に振って、ロルの頭を撫でる。
「リルは別に構わないよ。全部マカリナが悪いから、気にしないで」
「はい・・・」
(許された?) 
「なぜオレのせいにする? この空気を邪魔したお前が悪いはずだが?」
 自分が兄であるから弟の自分に簡単にケンカの種をまくマカリナに、サリミアは強く睨みつけてそのケンカを買う。
「ああ? 真面目に仕事をしていたらなにも口出ししないけど、今は仕事中。国王としての自分を忘れないで」
 そう言われて、山のように溜まった仕事の書類を見て、マカリナは深いため息を吐きながら玉座に座り直した。
「はああ、分かった。リル、すまないが先に広間で待っていてくれるか、これが終わったらすぐに行くから」
「はい」
 書類を手に取り、足を組んで瞳をキリッと真剣に変えているマカリナを見て、ロルは丁寧にお辞儀を披露して、大広間で一人寂しく椅子に座る。
「はあ」
 一人寂しい時間があっても、それは一生ではなくほんの一瞬で、その愛おしい姿を見れば全てが色鮮やかに美しく染まる。
 好きな物が目の前で見られるのは誰でもきっと嬉しいはず。手を伸ばせばすぐそこにはあなたがいるのだから・・・。
「待たせたな」
 三十分後に仕事を全て終わらせたマカリナを、ロルは満面の笑みで椅子から立ち上がり、胸に手を当てて「いいえ」と楽しそうに伝える。
「待っていろ、すぐに用意する」
「はい」
 厨房で作り立てではないが、自信ある五十センチほどの巨大なケーキを食卓のテーブルに並べて十等分の大きさに切り分け、それを皿に乗せてロルの目の前に置いていく。
「わああ、おいしそう」
「ふっ。喜んでくれてオレも嬉しい」
「食べてもいいですか?」
「ああ、好きなだけ食べてくれ」
 ここまで本当に自分の作った物を嬉しそうに瞳を輝かせるのはきっと他でもなくロルだけだろう。ただ好きだからという理由で喜んでいるのではない、好きな相手が自分のために喜んでくれているロルを、マカリナは心から笑顔でロルの頭を撫でて、ロルもその笑顔に可愛らしい笑顔で返す。
「はい! いただきます!」
 美しさでこのケーキを作れるのはマカリナだけ。その味も匂いも感触も全てマカリナが教えてくれた。その感謝の気持ちに応えるようにロルは遠慮なくケーキを食べ進めて、十分で満腹になったお腹を撫でながら完食させた。
「ふうー」
「おかわりは必要か?」
「いえ、もうお腹いっぱいです。ありがとうございます」
「そうか。では明日もケーキを作ろう」
「え、明日も作るのですか?」
「嫌か?」
「嫌ではありませんが・・・」
(毎日こんな巨大な物を食べ続けたら太るどころか体を壊す。それは嫌だ!)
 自分の体を心配するロルを、マカリナは立ち上がってそばに行き、手を握る。
 これは不安を減らせるようにというマカリナの本心で。
「君は不安が絶えないな」
「違います。ワタシは自分の体を心配しているだけです」
「ふふっ。その心配はいらない、もし君の体が壊れても、オレは全力で君を支える。だからなにも気にせず食べてくれ」
 輝かしい笑みが逆効果で、ロルの心配は大きく膨らみ、ケーキを食べるのが怖くなっていった。
「うっ、分かりました。マカリナの言うことを信じます」
「そうだ。オレの言うことは全て正しいと覚えておいてくれると助かる。それが君のためにもなるからな」
「あ、あははっ」
 苦笑いを浮かべてお腹の調子を観察するロルはしばらくマカリナの言葉を信じられずに顔も見るのが恐ろしくなってしまい、部屋に数時間閉じこもったまま夜になった。
「リル、そろそろ出てくれないか。食事が冷めてしまうぞ」
「いりません。放っておいてください」
「ダメだ。前にも言ったが、君を放っておいたら君はまた一人になってしま」
「そんなことはありません。ワタシはもうあなたと、マカリナと大切な家族がいる限り、今は一人になることはありません」
「そうか。分かってくれているようでよかった」
「むっ」
 もう今はいつでも天に帰ることが許されていつでも大天使になることができる。せっかくシルクリスとアミリカスが自分を許してくれたのに、それを断った自分が今では憎くて憎くてたまらないが、まだ好きになっていないマカリナを、クリスは素直に受け止めて、その気持ちが形になっていかない辛さをこの胸で実感している。
 マカリナのせいでこうなったわけではないのだ。自分の情けない気持ちがそれを邪魔して動けない。ただそれだけのことで、嫌でもいいから、本当の自分をマカリナに見て欲しい。
 本当の自分を隠さずにこの人生を歩んで行けるとしたら、あなたと一緒がいい。
「オレのどこが悪かったのだ?」
「え」
「直して欲しいところがあるなら、君の理想のオレにして見せる」
「いえ、マカリナはそのままでいいです」
「ではどうすれば君は出て来てくれる?」
「あなたがワタシを飽きるまで愛してくれるなら、部屋から出てあげますよ」
「そうか。そんな簡単なことで出て来てくれるなら喜んでやろう」
「うふふ、そうですか」
 扉の前に立ち、お互い手を当ててマカリナは深く息を吸い、満面の笑みでロルへの気持ちを語り始める。
「オレは君を愛している、それも誰よりも」
「それだけですか?」
「いいや、オレは君を誰よりも尊敬し、大切にしている」
「はっ」
 今の「尊敬」という言葉を聞いて、クリスは一瞬で天使の姿に変わり、翼がバサッと広がって激しく戸惑う。
(ワタシを尊敬する者がいたなんて知らなかった。いや、でもこれはただの告白。それがワタシの気持ちを、嬉しいとさせるのはなぜだ)
 マカリナの告白はそれから二時間扉の向こうから語ってロルは天使の姿を魔法で解き、いい加減外に出ることにした。
「やっと出て来てくれたか。待っていたぞ」
「すみません、ワタシのせいで食事が冷めてしまいましたね」
「そんなことはどうでもいい。オレの気持ちが伝わったようで安心した」
 二時間も語ったせいか、マカリナは疲れ果てて大広間へ歩いている時にはつまずいたり足が止まったりして、厨房から料理を運んでもロルの前では微笑み、疲れた自分を必死に隠そうとしている。
「マカリナ、すみません。ワタシのせいで疲れさせてしまって」
「いや、君は悪くない。つい君のことを語り尽くしたオレの弱さが悪いのだ。気にしないでくれ」
「でも」
「そうだよ。マカリナのせいでおいしい料理が全部冷めてしまったよ。どうしてくれるのかな?」
 体を背もたれにかけて面倒くさそうに笑うサリミアに、マカリナは眉を顰めて怒りを拳で表す。
「くっ。お前のことなどどうでもいい。オレはリルに尽くすためにこの命を使っている。弟のサリミアに口を出されると腹が立つ」
「ふーん、そっか。じゃあリルはボクがもらうよ」
「なぜその話になる?」
「今のマカリナは仕事もできないし、料理もおいしくない。自分の体を大切にしない人間なんて国王にふさわしくない。分かるよね」
 サリミアの怪しげな笑みが弱ったマカリナに圧をかけてロルのそばに寄り添い、頬に口づけをする。
「あ」
「なにをする、サリミア!」
「ははっは! この程度で怒るのは心が狭い証拠だよ、マカリナ。ボクにとって頬に口づけをするのは仲良しになる第二歩。だから仲良しのボクたちの邪魔をするなら・・・リルをボクの物にするから!」
「なっ、サリミア様」
「いいよね?」
 怪しげな笑みからロルに対してはとても甘く可愛い笑顔でロルを魅了し、自然と手を重ねる。
「リルはボクのこと、好き?」
 だが、たとえ魅了されたとしても、ロルの気持ちは変わらない。今隣にいるサリミアの期待するような答えは自分にはしたくない、させてしまいたくない。だからその言葉を聞いて嫌になった。
「いえ、ワタシはマカリナ以外の人間を好きになる気はありません」
「どうして?」
「ワタシを愛してくれる人間を大切にしたいから、理由はここまでにさせてください」
 本気で美しくはっきりとしたロルの、クリスの言葉を聞いて、サリミアは目を逸らし、現実は予想していた物よりも厳しいことを初めて知った。
「ふーん、よく分かったよ。はあ、仕方ないね、片思いばかりしているボクはまた振られてしまったよ」
「でも、ワタシはサリミア様と友人になりたいです。ダメですか?」
 天使の翼が背中から舞い上がる姿を見たサリミアが顔を赤くして素直に頷き、キラキラの笑顔を見せる。
「ううん、友人。いいね、それ」
「これからよろしくお願いしますね」
「うん! よろしくね!」
「ふっ。仲良くなって安心した」
 背もたれに体を倒して笑うマカリナは一人で食事を終わらせ、明日の仕事の整理をし始めた。仕事は全てサリミアが用意し、内容もサリミアが見極めてそれからマカリナの元に届き、初めてそれが国王の仕事となり、民のために役立てているのだ。どんな仕事でも、この国が滅ばないようにするには頭のいいサリミアの力が必要なのだ。あの引きこもっていた一年の中でもしっかりサリミアはマカリナにきちんとした内容を書類にまとめる作業で現国王のマカリナに渡すのがサリミアの、このルエリッド王国の次期国王となるサリミア・ルエリッドの使命でもあった。
 まあ、時々感情任せに五十以上の仕事をマカリナに押し付けて嫌がらせをする時もあるが、そんなことは知らないはずだ・・・。
「ごちそうさまでした」
「ああ、そろそろ寝るか」
「はい」
「待って、今日はボクがリルと寝る」
「ん?」
「え。サリミア、なにを言っている?」
「だから、今日はボクがリルと一緒に寝るんだよ!」
「はっ」
 仲良し同士で一緒に寝台で寝るのは悪くはないが、マカリナはその言葉を聞いて嫉妬心が芽生え、急いで立ち上がってロルの元に行き、横に抱えて部屋に戻って寝台に押し倒した。
「マカリナ?」
「なぜ君は反対しないのだ? 婚約者のオレがいるというのに」
「あ、それは友人だから、大切にしたいからですよ」
「大切ならオレだって君を誰よりも大切にしている。もしそれでも足りないなら、その体に焼きつけて、離さないようにしよう」
 マカリナがドレスについている背中のチャックを開けてしまいそうになるところを、ロルが力強くで手を握って止めて睨み押し返す。
「わっ」
「どうしてあなたは、そんなにワタシの体を見たいと思うのですか、見てどうするのですか」
「君の正体を知りたいだけだ」
「ワタシの、正体?」
「君はリルではなくロルでもあり、天使クリスだろう」
「は!」
 その瞬間、マカリナの言葉どおりに体が自然と天使の姿に戻っていき、寝台から起きて窓のそばに立つ。
「やはりそうだったのだな」
「・・・いつから、気づいていたのですか」
「最初からだ」
「最初?」
「ああ、君がここに来た瞬間、君はリルではないと確信した」
 もうダメだと思ったクリスは、本音で真の正体を表す。
「嘘、ワタシとリルは容姿がそっくりなのにそれに気づくはずがない」
「そうだな、まず気づいたのは声が男だ。そして次に気づいたのは独り言だ」
「うっ、声は納得しますが、独り言? それだけで気づいたのですか」
「ああ、リルは元々独り言を言わない性格で不器用だという。それに対してロルは家族思いの優しい子だと分かっている」
 完璧に隠せていたのに、ロルのことだけでなく、姉のリルのことまで全てマカリナは調べてその姿を読み取っていた。クリスの顔は気づかれたことへの焦りと国王のマカリナから与えられるかもしれない罰への恐怖が重なって笑えなくなる。
「それで気づかれたのは分かりました。でもなぜワタシが天使クリスだとさらに上を行って気づいたのですか」
「君はオレたちのことをずっと『人間』だと距離を取るように怪しく言っていたからだ」
「あっ、それだけで気づかれるとはワタシも歳を取りましたね」
 もう言葉を選ぶ余裕もなく、ただ自分の歳を理由にクリスは一人納得した。
「はははっ」
「そもそも人間嫌いのクリスがなぜオレを好きになりたいと思ったのかが分からない」
「今、なんて言った?」
 思いもよらない感情のないその無表情の笑うことのないマカリナが一瞬悪に見える。
「え、どうしてそんなことを、言うの?」
 生まれて初めて人間を好きになりたいと思えたマカリナの悲しい言葉が、クリスの心を切ない気持ちで砕かれ、瞳の色が次第に輝きを失っていく。
「マカリナはワタシのことを愛していたのではなかったのですか!」
「愛していた、先ほどまでは」
「そ、そんな・・・」
 本当の自分を傷つけられたクリスは灰色の髪が一気に真っ黒に染まり、天使の翼も頭の消えたはずの輪が闇に勝る漆黒に変わってクリスは完全に悪魔への道を開いてしまった。
「もう君を愛する気はない。元の場所に帰ってくれ!」
「うっ、ふん。くっ」
 好きになりたい相手から言われた「尊敬」や「可愛い」や「愛している」という言葉が全て耳の奥で消え去り、白の魔法で悲しみの涙で溢れる瞳を隠しながら、クリスはその場でマカリナの自分との出会いや思い出を全て魔法で解いてマカリナは倒れた。
「もう分かりましたよ。あなたがワタシを嫌いになったのなら、ワタシもあなたを嫌いになります。それでいいですよね、国王様」
 倒れたマカリナの唇にそっと口づけをし、クリスは開かれた道に足を踏み入れる。


 そこは闇の世界。全てが漆黒に染まり、悪魔が集う最強の力が漂う場所。その世界に通じる道に足を踏み入れたクリスはルエリッド王国よりも巨大な崖の上に建つ半分壊れかけているお城の中へ入り、誰もいない玉座の前に跪く。
「ここが闇。いいところ」
 容姿が全て黒になっても、居心地が良ければばなんでもいい。
 もう自分には失う物や守りたい物なんて物が存在しないのだから。
「くっふふ。最高だ」
 自分の怪しげな最高で最悪な笑みを浮かべながら体を見渡していると、左手の薬指にはめられているマカリナが特別にくれたサファイアの指輪が目に入り、笑みが止まる。
(この指輪、まだはめられていた。どうしようか、捨てるにはもったいない。まあ、まだはめていてもいいだろう)
「くふふっ、さあ、悪の人生の始まりだ」
「なにをしている?」
「は」
 後ろから優雅にクリスの背中をポンポンと軽く叩いて来たのは、漆黒よりも濃い黒の背中までサラサラな髪。銀色の悪魔と天使の翼が飾られている真っ黒なロングジャケットに黒のブーツ・・・そしてなんと天使だった頃のクリスと同じ右が白で左が黒の瞳というマカリナよりも美しい男が玉座で足を組み始めた。
「お前は誰だ? なぜここにいる?」
「くふっ、導かれるままに来ただけです。悪いですか?」
 クリスの怪しげな笑みを気に入ったのか、その男は黒の魔法で黒の羽ペンでクリスの周りを囲み、その中から風が吹き、その勢いでクリスは男の膝の上に座らされた。
「な、なんですか」
「美しい。お前、ボクの物にならないか?」
「え」
「ボクの物になったらお前と永遠に一生そばにいて幸せにしてあげよう」
「なに?」
 闇に染まった自分を「美しい」と言った男の言葉にクリスは惑わされ、自然とその顔に手を伸ばして微笑む。
「はい、お願いします」
「よし。じゃあ、まずボクの名前を言わないとな。ボクはこの世界の闇の王であり悪魔のムリスだ。君は?」
「天使だったクリスです、よろしくお願いします」
 満面の笑みで自己紹介をするクリスの頭をムリスがそっと無表情で撫でた。
「うん、よろしく。早速だけど、このまま食事にしようか」
「え、このままでですか?」
「ダメか?」
 ムリスの可愛いく瞳に映ってお願いされたクリスはそれにためらうことなく、喜んで首を横に振って答える。
「いいえ、このままで構いません。ワタシはあなたの物です。好きに使ってください」
「ははっ。そうか、それは嬉しいな」
 初めて見る闇の王の笑顔はとても微笑ましく、ずっとこうしていたいという誘惑も含まれているため、誰もこの笑顔に抗えないのだとクリスは知っていく。
「皆、今すぐ食事を用意してくれ」
「あ」
 誰もいなかったはずの悪魔の使用人が目の前に現れて、食事を一分で食卓のテーブルに並べていった。
「さっ、食べようか」
「は、はい」
 並べられた料理は見た目はとても普通の料理で問題はなさそうで安心したクリスのお腹はそれに満足し、一瞬で完食した。
「早いね。まだ食べる?」
「はい、お願いします」
「皆、用意してくれ」
「・・・・・・」
 悪魔の使用人というのは力が強く乱暴だと考えていたのは、間違いだったのかもしれない。皆ムリスに素直に従って、声も出さずに精一杯仕事をしている。
 天使も悪魔もそれぞれの世界で幸せに暮らしているのが自分の瞳の先でよく分かった。
「ねえ、クリス」
「はい、なんですか?」
 自分の膝の上に座るクリスの右腕を離し、ムリスは料理に入っていたクリームがついた唇にそっと熱い口づけをして抱きしめる。
「はあ」
「どう? 人間よりも最高でしょ?」
「は、はい。もっとしてください」
 初めて味わったマカリナにはない新しい感覚。
 人間も悪魔も身を捧げれば同じこと。
 もう誰も見ない、もう自分も頼らない。
 全てはこの美しさに溺れる自分を守ってくれる誰かを待つだけ・・・。


 そんな悪の人生の始まりを優雅に楽しむクリスとは一方で、ロルとの記憶を失ったマカリナは今までの生活に戻り、仕事もいつも以上に頑張っている。愛していたはずのロルを自分の手で捨てたことを思い出せない人生がこの先長く続くことを知ってからは。
「マカリナ、今日の仕事はもう終わりだよ。お疲れ様」
「ああ、明日もよろしく頼む」
「うん! それにしても、リルはいつになったら帰って来るんだろうね、寂しいなー」
「いつもお前はその『リル』という謎の人間のことを心配しているが、一体それは誰なのだ?」
 おかしな自分に違和感を持つことなく、当然のように他人ごとと思いながら玉座で足を組んで首を傾げるマカリナに、サリミアは心からガッカリした呆れた表情をする。
「マカリナ、本当になにも覚えていないみたいだね」
「覚えておく必要があるのか? それは?」
「あるよ! リルはマカリナの婚約者なんだよ。どうして忘れているの!」
 マカリナだけが忘れているロルの秘密にクリスの気持ち。なぜクリスがマカリナの記憶を解いたのかは自分の気持ちの問題だ。気持ちは色や形全てを変えられるとても危険で誘惑が強い物だ。誰かの言葉が行動だけで自分の気持ちを大きく変化し、それが闇へと変わっていく。
 そうなってしまったのが今のクリス。今のクリスを変えたのはマカリナで、記憶を失った彼がクリスを救えるなど、夢の中でもあり得ない。
 この二人がまた再会するのは不可能に違いないだろう。
 仕事を終えたマカリナはいつのまにか癖になったお菓子作りを始めた。ロルが好きだったチョコレートケーキを一日に何個も作ってはサリミアに食べてもらって、またおかわりを用意する。これが習慣化してしまい、直すことが困難になっていった。
「マカリナ、しばらくお菓子を作るのは禁止だよ。分かった?」
「なぜだ? サリミアが食べたいから作ってやったのにその態度はなんだ!」
 完全にロルとクリスの存在を忘れているマカリナの今の言葉は本心で、偽りなんて物は全く見えなかったけれど、サリミアはどこか悔しくて食卓のテーブルを力強く叩いて反抗する。
「ボクは一度もケーキが食べたいなんて言ってないよ。マカリナが勝手に作ってもったいないからいつもボクが仕方なく食べてあげているんだからね」
「はっ。では、オレは一体、誰のために毎日こうしてケーキを作っているのだ?」
 全く思い出せない記憶を、天から見守っていたシルクリスとアミリカスが魔法で一瞬だけクリスの笑った顔を思い出させる。
『マカリナ! うっふふ』
 その笑顔は愛おしいマカリナだけに見せるクリスの気持ちのかけら。それだけでも覚えていたら後はなんでもいい、マカリナが幸せで愛する誰かとそばにいられたら、もう自分は満足だと、その笑顔でマカリナはほんの少しだけ記憶が蘇り、激しい滝のように涙が溢れる。
「マカリナ、思い出した?」
「あ、ああ。名前はまだだが、オレの愛する者だということははっきりと分かった。また会いたい」
「ははっ。そうだよ、その子はマカリナの大切な妃なんだからね」
「うっ、ふ」
 一緒にいた時間も寂しい時も、全部あなたのおかげで知ることができた。どんなに痛くてもどんなに嬉しくても、マカリナはクリスのことを絶対に忘れてはいけないのだ。
「サリミア、今日は先に休ませてくれ。疲れたのだ」
「うん、分かった。おやすみ」
 右手で軽く手を振るサリミアに微笑み、マカリナは部屋に戻り、窓を開けて風と共に夜空を眺める。
「はああっ。君は一体誰なのだ、なぜ姿も名前も思い出せないのだ」
「それはクリスがかけた魔法の力だよ」
「え」
 突然謎の声が聞こえて戸惑うマカリナの元に二人の大天使、シルクリスとアミリカスが千年ぶりに天からその誇りある翼で舞い降りて来た。
「天使・・・」
「初めまして、マカリナ。ボクはシルクリスでこっちが」
 シルクリスが短い自己紹介の後に隣にいる天使に指を指し、それに頷いて口を開く。
「アミリカスだ」
 初めて見る天使。それも大天使の二人の挨拶になにも言い返せないマカリナはしばらく二人の顔をじっと見ているだけだった。
「んー、どうしたのかな?」
「緊張しているのでしょう」
「まっ、そうだよね。人間が天使を見るのは二千年前くらいのことだから仕方ないね。でもマカリナ、君はクリスを傷つけた。この責任は必ず取ってもらうからね」
「傷つけた? オレが誰を?」
「はあ、クリス、本当に厄介な魔法で記憶を消してくれたね。許せないけど、可愛いからそこはいいかな」
「兄上、そんなことよりも、クリスをどう救うか話し合わないと」
「待ってくれ! 『クリス』とは誰なのだ」
 なにも覚えていないとは言え、本気で愛していたクリスを忘れたマカリナに、シルクリスは怒りを増し、魔法でそれを手のひらの上で美しいバラを咲かせて、その花束をマカリナに投げつける。二千年前に結んだ「人間に危害を加えない」という約束があるため、シルクリスはマカリナを傷つけることはできないのだ。
「クリスは生まれて初めて人間の君を好きになろうとしていたんだよ! それなのにクリスを愛する君が忘れたら、クリスは完全に一人になって滅んでしまう! ボクたちの愛するクリスを返してよ!」
「・・・・・・」
 静かに俯いて反省をするマカリナの気持ちは変わらず、「クリス」という存在すらも頭の中で浮かぶ彼の笑顔しか分からないのが嫌になって、この体を憎くして、自分で頬を強く叩き、二人の大天使と向き合う。
「分かった。クリスを救って彼を好きになればいいのだろう?」
「そうだ。お前にできるなら頼むぞ」
「ああ、任せてくれ」
 こうして三人は二千年前と同じように手を取り合って、クリスを救うことをここで誓い合った。
 だが、それがクリスの求めていないことだと知るのはすぐそこで、救うことすらも諦めてしまうほどの悪の力を身に纏うことになっていたのは見れば分かることだ。
「あああ、愛しいクリス。君はなんて美しいのだろう」
 自分の腕の中にいるクリスに惚れて乱れた様子で、ムリスはその頬を何度も撫でる。
「そんな、ワタシはムリス様と比べれば大していません」
「ははっ。君がそう言っても、ボクは好きなんだ」
 マカリナのことはすっかり忘れて、新しい夫になるムリスと飽きることなくお互いを愛しては離すことを許さず、ムリスはクリスの体を魔法で縛り、痛みを分け与えている。
「はあ、早く君と結婚したい」
「はい、ワタシもです」
「はははっ。気持ちは同じはずなのに、なぜか、まだどこかはっきりしていないところがあるな」
「どこですか?」
 不思議にそう問いかけるクリスの鼓動を聞き、ムリスは不気味な笑みを浮かべて手と手を合わせる。
「ううん、なんでもない。そうだ! 明日は舞踏会を開いて一緒に踊って、正式に皆の前で結婚を報告しよう」
「舞踏会・・・」
「嫌?」
「あっ、いえ。嬉しいです」
「うん! 早速準備しないとな」
「くっふふ」
 舞踏会。この言葉でクリスはマカリナと初めて踊った夜を思い出す。あれはとても寂しく、欲のままに自分に口づけを願って来たマカリナの微笑みが頭を揺さぶり、自然と胸が苦しくなる。
「うっ、ん」
「どこか痛いの?」
「うっあ、なんでもありません」
「そう。あまり無理はしないでね」
「はい」
 この舞踏会でクリスは正式にムリスの妃となる。それが喜びとなるか悲しみになるのかはまだ誰も知らない。知ったとしても、この道が途切れることは絶対にないし、その先に行く勇気もない。
 人生で歩む道は自分の手でも勝手に開くことだってある。だけど、一人ではなく二人でならよかったのに、もう無理だ・・・。
(マカリナ、もうワタシのことを愛してくれないのなら、ワタシはこの王に愛されてあなたよりも幸せになって見せる)
「楽しみですね、舞踏会」
「うん!」
 闇の形がしっかりしない悪魔の翼でムリスはクリスを包み込み、明るく笑って抱き寄せて口づけをする。
「ボクたちの幸せは絶対に誰にも邪魔させないからね」
「ん?」
 悪魔が天使を愛するなどあってはならないはずなのに、ムリスは簡単にクリスを気に入り、手放すつもりはない。
 それは自分の大切な物を奪われる苦しみを誰よりも分かっていたからだった。




   第三章 もっと早く出会えていたら

 舞踏会前日の夜、クリスは新しく用意された部屋の寝台で横になり、マカリナがくれたサファイアの指輪を外すことなく、ただ純粋に美しいと感じるだけだった。美しい物はいつまで経っても壊れないから見ている自分もその美しさに惚れ続けている。
 そういう悪い自分もたまにはいいかもしれない。天使だった自分が今では悪魔と愛し合っている。こんな幸せは絶対にもう二度と訪れないチャンスだ。ここは誰にも邪魔されない世界。人間も天使も入れない異空間。それを破って自分を救いに来るのだとしたら、笑えることは決まっている。
 どんなことがあっても、もう闇の心は閉ざされたまま。全てはムリスのためにこの体と心があるのだから。
「くふふふっ、ワタシは悪魔と同じだ。天使に戻るつもりはない」
 闇の世界に踏み入れた者は全員悪魔へと変わっていく。クリスはその覚悟で悪魔のムリスに全てを捧げると決めたのだ。


 不気味な笑みと共にクリスは眠りにつき、舞踏会当日の昼になった。半日も眠ったせいか、まだ頭がクラクラとしていた。
「クリス、おはよう」
 部屋の扉が開き、寝台で起き上がったクリスの頬にムリスが機嫌よく口づけをし、抱きしめる。
「おはようございます、ムリス様」
「うん! よく眠れたみたいでよかった」
「はい、今日は調子がいいですよ」
「じゃあ、食事を取って、ボクが特別に君のために作った最高のドレスを着てもらおうかな」
「はっ」
 まただ。舞踏会もドレスも、全部マカリナの色々な表情が頭に浮かび、離れない。なぜムリスはクリスにマカリナとの思い出や悲しみを思い出させるのか、よく分からない。
 これが偶然ならいいが、わざとであったら簡単に許すことはできない。
(ドレス・・・マカリナもワタシのために作ってくれたな)
「はああ」
「どうしたの?」
「あ、いえ。なんでもありません」
 苦笑いを浮かべるクリスに、ムリスはなにか怪しく感じて一瞬クリスを睨みつける。
「ふーん、そう。じゃあ早く来てね、待ってるから」
 暗い表情と明るい表情が一瞬にしてどんどん止まらずにい続けるムリスのことを、クリスはまた苦笑いを浮かべながら頷いた。
「はい」
 部屋の扉が閉まり、クリスは頭を抱えて寝台の上で縮こまって、魔法で自分の記憶を消そうか考え始める。
(ワタシもあの時マカリナと同じように自分の記憶も消していたらよかった。これはムリス様のせいではない、もう一人の天使の心が邪魔をしている!)
「ワタシはもう天使ではないのにどうして邪魔をするの? なにか未練でもあるの? それとも、闇に落ちたワタシを嫌いになったのか・・・」
 そう自分自身に問いかけても、もう一人の天使の心はなにも答えてくれない。
 それが一番腹が立つ!
 悪魔になってもいいのに、なぜ心の中から手を伸ばされて止めてくるのは、嫌でも少し分かってきた。
 マカリナに今の自分を助けて欲しいから、もう一人の自分がその助けを待つまで邪魔をし続ける。
 多分そうに違いない。
 自分を半分に分けてしまったクリスはもう考えるのをやめて寝台から降り、なにも着替えず、そのままムリスが待つ玉座の前に歩いて行った。


 その頃、マカリナを含む三人はクリスをどう救い出すか。一睡もすることなく意見を言い合ったり、魔法の模型で闇の世界への道を探してようやく見つけたのが、クリスが通った足跡を天使の翼で作った人形で試しに入らせてみた結果、見事に成功した。
「よし! これでクリスの元に行けるぞ!」
「そうだね。アミリー、よくやったよ」
「あ、ありがとうございます」
 久しぶりに兄のシルクリスに褒められたことが嬉しくて照れるアミリカスとは対して、マカリナはまだ心が決まっていなかった。
 自分が誰よりも愛していたことはなんとなく思い出してきたが、もしクリスに会ったとして、どんな言葉をかければいいのかが知らないし、分からない。それに自分が目の前に行ったら、クリスはきっと自分を拒むことが目に見えている。
 もしまた会えて、君は自分を本当に好きになってくれるのなら、喜んで会いに行く。
 人間と天使という身分違いの恋。
 叶わない願いも、届かない祈りでも、会えただけで幸せになれると信じて、三人は魔法で悪への道を開き、闇の世界に入って行った。
「マカリナ、クリスに会ったらなにをしたいの?」
 シルクリスの質問に、マカリナは満面の笑みで自分の髪を撫でて答える。
「もちろん、最初に戻って一から愛する」
 その納得の答えにシルクリスとアミリカスはお互い見つめ合って、同時に「ああ」と頼んで三人手を握り合った。
 そして、クリスがいるお城に影を潜めて中へ潜り込み、シルクリスとアミリカスは天使の翼と輪を隠して先に進んで行く二人の後をマカリナが緊張しながら一緒について行く。
「ここがあいつの城か」
「本当に嫌な場所だよ」
「見たことがない」
 不気味な物がたくさん飾られ、先に進み続ける度に、色々な悪魔と遭遇して行ったが、気配を消しているので、なんとか気づかれずに玉座がある大広間の窓の隅で、三人はクリスが来るまで待機する。
「しばらくはここであいつを待とう」
「うん」
「ああ」
 この三人が闇に染まった自分を救いに来ているとは知らずに、ムリスが用意してくれた金色の星型の飾りがつけられている紫色の色鮮やかなドレスに透明の靴を着るクリス。
 髪を自分でふんわりと右肩で一つ結びにして気合いを入れる。
「今夜は特別な夜。そしてワタシが誰よりも幸せになる日。絶対に成功させる!」
 鏡に映るクリスの顔は怪しげに笑っており、本気で悪魔と結婚する覚悟が見えていた。
「クリス、準備できた?」
 ゆっくりと部屋の扉が開き、髪を整えたムリスがクリスのドレス姿に可愛いと喜びを表し、思い切り抱きつく。
「わあっ! ムリス様、危ないですよ」
「ははは、よく似合っているよ」
 自分といるだけでこんなにも幸せそうに喜んでくれるムリスを、クリスは心から可愛い微笑みでその気持ちを伝える。
「ありがとうございます。嬉しいです」
 その笑みが大きく心に伝わったようで、ムリスは抱きつくのをやめて、その代わりに横に抱えて何度も口づけを楽しむ。
「はあ。こんなに幸せになったら、もうなにもいらないよ」
 何気なくそう心から嬉しそうに笑いかけるムリスに、クリスは一瞬目を逸らしてしまったけれど、気を取り直してそっと、なにも怖がらずに目を合わせる。
「そう、ですね。ワタシも同じです」
 お互いがお互いを幸せに感じているのなら他の者が口出すことはできない。家族も恋人も好きになれば同じ形で大切にして、それ以上に愛していけばいいはず・・・。
「さあっ、そろそろ行こうか」
 丁寧にムリスはそっとクリスを地面に降ろし、手を握った。皆がすでに集まっている玉座の前に足を運ぶと、それに気づいた三人が仮面をつけ移動して、表に出る。
「皆、来てくれたね。嬉しいよ」
 玉座に座ったムリスは一度クリスと手を離してそれを見た全員が跪き、静寂が訪れた。
(マカリナの時とは違う怖い空気。でも、ワタシはもう悪魔の妃になる。それを怖がっていたら、この先存在をすることはできない)
「むっ」
「今日は皆に報告があって呼んだ。こっちに来てくれる?」
 ムリスに差し伸べられた手を、クリスは笑顔で握り、そばに寄り添う。
「あれは」
「クリスだ」
「嘘だよね」
 信じられない闇に染まったクリスの姿を見てしまった三人が動揺している中、クリスは堂々とムリスの膝の上に座って不気味な笑みを浮かべる。
「紹介しよう。この子は今日からボクの妃になるクリスだ。皆、仲良くしてくれ」
 ここにいる全員がクリスを見て恨む。
「王様、そいつは天使ですよ。闇の世界に入れるなどあってはなりません」
「そうですよ。悪魔が天使を好きになるなどあり得ません」
「今すぐ離れてください」
「くっ」
 反対の声にムリスは腹を立てて、魔法を使い、マカリナを含む三人以外を燃やし消した。
「え、こんなのひ」
「ひどくないよ。悪いのはボクたちの結婚に反対した皆が悪い。君は気にしなくていい、ボクとずっと一緒にいれば、どんなことでも叶えてあげるよ」
「それはどうかな」
「なに?」
 仮面を外したシルクリスが魔法で花を作り、それをムリスにぶつけ、地面に倒す。
「ムリス様!」
「うっく。やはりそうだったか」
「どういう意味です?」
 今の状況が全く理解できないクリスの腕を掴んだムリスが、魔法で黒の羽ペンでシルクリスとアミリカス二人の周りを囲み、風をどこまでもその存在を消し去るまで吹かせて吹かせて、やっとの思いでシルクリスとアミリカスが地面に倒れる。
「くっ・・・」
「ちっ! よくもボクたちの大切なクリスを闇に染めたね。シーリスフィルフラミレミムリス」
「あっ」
 その名前を聞いた瞬間、クリスは体を恐ろしく震わせ、過去にシルクリスに教えられた忠告を思い出す。
『クリス、これだけは忘れないで』
『なんでしょうか?』
『ボクたち天使は闇の力に勝つことができないのは、知っているよね?』
『はい、幼い頃にアミリカス様が教えてくれました』
『うん、ボクとアミリカス大天使さえも敵わない相手が一人いるんだ。それはね、シーリスフィルフラミレミムリス。長い名前だけどこの闇の王、悪魔の彼には一度も勝ったことがないから、もし彼に会ってしまったら、すぐに逃げること、いいね?』
 真剣な気持ちが体の奥にまで伝わって、クリスは大きく頷く。
『分かりました! 忘れません!』
 その忠告が今新しい記憶のように頭に刻み込まれていく。急いでムリスから離れようとするも、気づくのが遅かったのか、クリスもシルクリスと同じように魔法で地面に力強く風で吹き飛ばされてしまい、それをムリスが腕が引きちぎれそうなくらいに力強く抱きしめて受け止める。
「うっ! 離して!」
 痛みに耐えきれない瞳の中で涙が溢れるクリスの苦しそうな顔に、不気味な表情を浮かべるムリスが無理やりその唇に口づけをして涙を舌で舐めていく。
「ダメだよ。ボクと君は結婚するんだよ。勝手に離れたらもっと痛くするけどいいの?」
「んっ、嫌、だ」
「ははは、だったらボクの言うことはちゃんと聞いておかないとダメだね」
「ふう、ん。マカ、リナ、助けて」
 唯一魔法で地面に倒されていないマカリナに、涙が詰まった気持ちでクリスは声が枯れるまで助けを求めるが、まだマカリナはなにかに気を取られているようだった。
「君はオレのことが好きなのか?」
「は」
(この状況でなにを言っている? ワタシはあなたのことが好き、なはずなのに、自分勝手であなたに魔法でワタシとの記憶を消してそのまま闇に染まって、ワタシはあなたのことをどうでもよくなっていた。だからもう、ワタシはあなたを好きになっていいはずがない)
 後戻りできないほどに闇に染まった自分が憎くて憎くてたまらなくなる。記憶を無くしたマカリナの気持ちに触れることがその「好き」という問われた言葉を、どう返したらいいか、クリスはどんどん分からなくなっている。
「答えてくれ。君はオレのことが好きなのだろう?」
「・・・・・・」
「クリス、言え! 自分の気持ちに従え!」
「そうだよ。自分にだけは嘘をついたらダメだよ!」
「・・・・・・」
 誰の言葉も信じないと思っていたはずなのに、三人の言葉が今は嬉しくて答える勇気も希望もない。そんな自分をもう一度愛してくれるのならと、クリスは自分の精一杯の魔力で立ち上がって、元に戻った天使の翼と輪でマカリナの目の前に立つ。
「どうなんだ? 好きか、嫌いか?」
「それを言って、なにになるのですか?」
 素直に好きになったとは言えないクリスは逆手をとって、ずるい気持ちでマカリナに聞いてみるが、マカリナはまるで記憶を取り戻したかのように、そっとクリスの頭を撫でて抱き寄せた。
「やめてください! 愛してもいないのにこんなことしないでください!」
 まだ足りていないようなのだと、マカリナは勘違いをして、さらにその上でなにも恥じることなく、堂々とクリスの唇に口づけをする。
「あっ」
「これで分かったか? オレが本気で君を愛していることを」
「嘘です。闇に染まったワタシを愛してくれる者など存在しません」
「ここにいるではないか」
「え」
「何度も言う。オレは君を一生愛し続ける。なにがあっても絶対にだ」
 嘘偽りのないマカリナの言葉はクリスを信じさせる力があり、自然とその顔に手を伸ばし触れて、温かく可愛らしい微笑みをする。
「分かりました、ワタシもあなたが好きですよ。それでいいですか? マカリナ」
「ははあっ」
 その微笑みでクリスが魔法でマカリナの記憶を戻して、止まった時間を動かしてはお互い手を離すことはないところで、ムリスは魔法を解き、シルクリスとアミリカスを自由にさせた。そして、悔しくも正直に二人の幸せを願い、クリスを含めた四人を解放して、四人はルエリッド王国に戻って来た。
「はあ、二人共お疲れ様。そしてありがと」
「兄上、ワタシたちはもう天に帰らなければいけません」
「そうだね。ムリスがまたクリスを奪うのか心配だけど、マカリナがいれば大丈夫だよね」
「ああ、問題ない。ふふっ」
 力尽き眠りに落ちたクリスを横に抱えているマカリナの笑顔を見れば、誰もが心から安心していられるに違いない。
 二人の恋はこれからもっと始まりを歩んでいくのだから・・・。


 結婚式当日の今日、玉座の前にはウォルト家の家族と弟のサリミアが二人の登場を待っており、クリスは大慌てでドレスに着替えて初めての化粧に苦戦していた。
「うーん、上手くできない。どうして?」
 今日のドレスは水色のバラの飾りがついた真っ白なドレスに同じ白の靴。髪は毛先をくるくる巻にし、自分でアレンジしてみて、化粧も頑張ってみたが、中々上手くできずにいた時、部屋をノックする音が聞こえてきた。
「ん、どうぞ」
「お邪魔します」
「え、嘘」
 なんと中に入って来たのはマカリナではなく姉のリルだった。初めてお城に行った時、ロルが代わりに着ていた黄色のドレスとは色違いの黄色の星型が飾られている青色のドレスを着て、髪を左耳より高い位置で黄色のリボンで一つ結びにして、ロルに近づく。
「どうして姉さんがここに?」
「ちょっと待っていられなくて来たんだよ」
「ごめん、まだ準備できてなくて」
 急いで立ち上がり、リルの前に立とうとすると、それを首を横に振られて止められてしまい、代わりに「手伝う」と言って化粧をリルが一瞬で美しく可愛くしてくれた。
「わああ、ありがとう」
「ううん、今日はロルの、クリスの特別な日だからね。頑張って」
「うん!」
 ウォルト家の家族は皆クリスの事情を大天使の二人から教えられているため、もうなにも隠すことなく、この天使の姿でいることをも許されていたのだ。
「ねえ、今日からアタシのことは名前で呼んでくれる?」
 偽りだったはずの姉弟で十八年一緒にいて幸せを感じられた。だからクリスはまだロルという人間をこれからも演じるべきか悩む。
「・・・それはできない。前にも言ったように、ワタシはあなたを」
「もういいんだよ。クリスは十分苦しんで悲しみを知った。そのことに気づいてあげられなかったアタシたち人間をどうか憎まないで欲しい。いつだってアタシたち家族は、クリスの味方なんだから」
「あっ」
 リルの本当に自分といたことに十分幸せだと言うような満面の笑みが、クリスの心を軽くさせて同じ笑みを見せる。
「うっふふ、リル。ワタシはあなたよりも長く歳を取っている。あなたはワタシを誰よりも愛してくれた。その恩返しをこれからさせて欲しい。どんな物でも捧げてあげよう」
 リルの夢や欲しい物をあげたいクリスの微笑みはまさに天使の微笑みで、誰もが羨ましいほどに輝いていたが、それに甘えることなく、リルは首を横に振って断る。
「クリス、アタシはもうなにもいらない。あんたが幸せになる、これだけでもういっぱいで満足だよ」
「でも」
 まさか断られるとは思っていなかったクリスの頭をリルがそっと撫で、自分の幸せをその傷ついた体を抱きしめてあげた。
「リル」
「今までありがとう。これからも一緒にいるからね」
「はあっ」
 一回目から九回目までの生まれ変わりでは意地悪な人生を歩むことしかできなかったが、十回目の今の人生はとても温かく、幸せに満ちていることをこの腕の中で何度も知り、いくつもの出来事が写っていた過去の瞳も合わせて涙が溢れ出す。
「うっ、く。ワタシこそ、あなたの弟に生まれて幸せだよ。これからもありがとう」
 涙の跡が残らないように、リルはそっと手で化粧が崩れない程度に拭って、その涙につられて自分も涙が溢れる。
「もう、本当にロルは泣き虫なんだから。早くマカリナ様のところに行かないと、二人の幸せが見られなくなるでしょ」
「はっん。分かった、一緒に行こう」
「うん! じゃあ、ベールを被せるね」
 そう言って、リルは涙を止めて特別に母親手作りの星がたくさん編み込まれた真っ白で透明なベールを頭に被せて、二人仲良く皆が集まる玉座の前に立ち、マカリナが座っていた服は真っ白なタキシードに変わり、髪を下ろして、黄緑色のリボンが首を飾って、そのまま大きな王冠を頭に乗せた状態で、マカリナはクリスがリルと握っていた手を離し、その手をマカリナが繋ぎ、真剣な眼差しで両者見つめ合う。
「クリスをどうか、幸せにしてあげてください」
「ふっ」
 リルの言葉に迷うことなく、マカリナは頷き、美しく微笑み返す。
「ああ、約束する」
 その美しい微笑みを見れただけで、本来自分がマカリナの妃になるはずが、大切な弟のクリスが代わりにこのお城に来て、たくさん後悔したけれど、それでも、リルはクリスを一番に幸せにできる者が今目の前で存在してくれる。
 それを感謝して・・・クリスに満面の笑みで笑いかけ、お互い頷いた。
「はい、クリス頑張るんだよ」
「ありがとう、リル」
 クリスの可愛らしい笑顔に安心したリルが玉座の階段を降り、両親と同じ場所に立つと、突然空が煌めくように輝き、二人の天使が舞い降りて来た。
「ふふっ。まさかオレたちの結婚を祝いに来てくれるとはな」
「どうしてここに?」
 晴れやかな姿で幸せを大きく心と体で感じているクリスとマカリナの目の前に現れたのは、クリスを大切に育て愛している大天使の兄シルクリスと、その弟アミリカスが地上で植えた物よりもはるかに美しい黄色と赤色の何百本も超えるバラの花束を、シルクリスは黄色をクリスに。アミリカスは赤色をマカリナに手渡して、二人の姿を見比べて、天使の微笑みを見せる。
「二人共、おめでとう。特にクリスはそのドレスが一番よく似合っているよ。ははっ」 
 そう言って、シルクリスがそっとベールで身を包んだ頭を撫でられたことに、クリスは嬉しくなり、自分も微笑み返す。
「ありがとうございます。二人のおかげで今のワタシがあります。どうかこれからも、ワタシを見守ってください」
 今まで天から心配で見守ってきた自分たちのことを知っていたかのように、その言葉をクリスが話してくれたことに、アミリカスはシルクリスよりも感動と喜びを交えて、同じくクリスの頭を撫でておでこを引っつける。
「アミリカス様・・・」
「ワタシたちこそありがとう。お前が誕生してくれてよかった。望どおり、これからのお前たちの幸せを見守っていこう」
「はい! この命が尽きた後は必ず大天使になって、マカリナと一緒に四人で天を守ると約束します」
「クリス、それは」
「あははっ」
 マカリナがその約束は結婚の誓いではないかと言いかけたが、その言葉よりも先にシルクリスが笑い始めて、二人はクリスの頭から急に手を離し、アミリカスが申し訳なさそうにちょこっと頭を下げて謝る。
「悪い。兄上がツボにハマってしまって、しばらくは動けないかもしれない」
「いいえ、気にしていないので大丈夫です」
「ああ、これからの未来でも一緒になるから平気だ」
 クリスとマカリナはシルクリスの笑いのツボなどこれから一緒になるから毎回気にしていたらキリがないと思い、お互い見ない振りをして、そんなことよりも、結婚式を早く始めたくてたまらない様子でいた。
「そろそろ始めようか」
「はい、でも結婚式はどうすればこの愛を誓えるのですか?」
「・・・自分の翼の一部をもぎ取ってそれを玉座に乗せて神が受け取るのを待つ。それだけだが?」
 そう。このルエリッド王国の「結婚式」は一つと決められている。これは王族だけでなく貴族も平民も同じ。マカリナが言ったとおり、クリスが与えた翼の一部を愛を誓い合う二人がお互いもぎ取り、それを玉座の上に置いて天の輝きが現れるまで待ち、その翼を受け取ってくれたら二人の結婚が認められる。
 だが、クリスは今までの生まれ変わりの中で一度も「結婚式」を挙げずにその場だけでなにもせず、偽りの家族が勝手に決めた物を結婚だと認識していたため、そのやり方を全く知らずに、首を傾げていて間を取って誤魔化そうとした。
「えっと、それは知りませんでした」
「知らなかった? 今までの生まれ変わりで結婚式は挙げなかったのか?」
 マカリナの問いかける純情な瞳が、クリスの胸を突き動かすが、今までの生まれ変わりを思い出しても「結婚式」という形に染めたことは一切なかったと、この今、時に瞬間にようやく自覚し、恥ずかしくなって照れた。
「はい、結婚式はこれが初めてです」
 照れたクリスの姿に、マカリナは心から嬉しい気持ちで満たされて、その顔に手を伸ばし、満面の笑みで笑う。
「嬉しい。この結婚式が生まれて初めてというのはオレの人生の中で一番輝いている」
「あっ」
 その嬉しそうな顔をするのはマカリナだけではない。この場にいる全員が笑顔で二人の門出を願っている。それにクリスはやっとの思いで気がつき、自分も精一杯喜ぶ。
(この結婚はワタシだけではなく、皆も喜んでいる、一生の宝物だ)
 この瞬間で得た物はなによりも大きく、クリスは何度も後悔してきた中の一つを語り出す前に、マカリナが先に口を開く。
「国王となって日が浅かった頃、オレはよく城を抜け出していた」
「え?」
 歴代の中で最年少となる九歳で国王の座についた当時のマカリナは仕事の辛さに根負けして、毎晩お城を抜け出しては行ったこともない街で迷い転び、土でシャツが汚れているところに一人の少年が手を差し伸べて来た。
『大丈夫?』
 水色の背中まで長い髪に青色のサファイアよりも強く輝きを持った瞳で、自分を見つめていることを知ったマカリナは少年に惹かれるがまま手を握り、抱きしめられた。
『あ、なにをする? 君まで汚れてしまう』
『いいよ。どうせ汚れても自分で洗うから』
『え! 君は家のことを全て自分でやっているのか?』
 当然のように言った言葉が、国王とは知らないマカリナの不思議な顔を見た少年が素直に答えて笑顔になる。
『そうだよ。自分でやれることは全部やると決めているからね』
 納得の答えを見つけたかに、マカリナは自分の弱さを悔しく口に出す。
『う、立派だな。オレと違って羨ましい』
『え、そう思うのなら君も同じことをすればいいよ。そうしたらきっと今よりも楽になるはずだよ』
 なんの試しもないのならまずはやってみればいいという少年の勇気を感じて決心する。
『それでできるなら君を信じてやってみる』
『うん! あっ、そうだ。成功したら次に会った時に教えて欲しいな。君とは仲良くなりたいから』
 少年は本心でその言葉を口に出し、抱きしめているマカリナの顔を見てまた笑顔が増えていき、その手の温もりと出会えた感謝に心を込めて手を挙げる。
『また会おうね! 次に会えたらもっといっぱい話そうね』
 風が吹いて少年は走り帰ろうとした瞬間、マカリナの心は空っぽになってしまい、その笑顔が眩しい少年の名前を聞くことにした。
『待って、君の名前はなんだ? オレはマカリナ・ルエリッド』
『うふっ、いい名前だね、オレは・・・ル』
『え、今なんて?』
 風が強くなり、最初の一文字がはっきりと聞こえずに少年はその場から消えて行った。
『・・・ル。また会った時に聞けばいいか』
 だが、それからマカリナは少年と会うことは何度もできてはいたが、名前を聞く余裕が全くなかったせいで、最後に会った五年前までその少年が誰かさえも分からずにいた。
「それで、その少年がワタシといつ当てはめたのですか」
「一年前だ」
「一年前? その時にまたワタシと会ったのですか?」
「いいや、会ってはいないが、見てしまったのだ。君が天使の姿でリルに抱きしめられていた時を」
「はっ」
 あの時クリスはリル以外の者に見られているはずはなかった。窓の外には誰もいないと思っていたのに、偶然お城から出ていたマカリナに見られていたとなると・・・これは決して後悔するしかない。偽りの自分を何度も演じてきた。だからその事実をクリスは受け止めきれず、握られていた手を一瞬で離し、マカリナから距離を置くのを、この場にいる全員が不思議に思う。
「クリス、オレは君を傷つけるつもりで話したわけではない。誤解しないでくれ」
「誤解? ワタシの本当の姿を見て、なぜその時ワタシに罰を与えなかったのですか。ワタシはあなたたち人間に翼を与えてしまったのに・・・」
 後悔と憎しみがその姿を自分で黒く染めようとするも、この手にあるシルクリスがくれたバラの花束を見てそれが消えた。なぜならそのバラには大天使の使う魔力で透明なリボンが被さりそれを阻止する力があったのだ。
「クリス、落ち着いて。最後まで話を聞こうよ」
 背中をそっと温かく手で撫でてくれるシルクリスを信じて、クリスはマカリナの過去の続きを一緒に聞く。
「続けて」
「ああ、その姿を見てオレは君が天使クリスだとはっきり分かった。クリスの話はこの城の奥に眠る書庫で大切に保管されている『天使書』という一冊の本に天使クリスと大天使二人のことが書かれている物をオレは幼い頃からずっと読んで、それで君があのクリスだと知った、が、一つ問題があった」
「問題? どの?」
「・・・その時のオレは君がオレとサリミアと同じ双子だと知らず、すぐに会いに行けなかったのだ。名前もあやふやで、勝手にどちらか一人を確認のために妃として城に嫁がせるのは悪いと思って、先にもう一人のリルを呼ぶことにしたのだ。そ」
「それが代わりに行ったワタシだと気づいて嬉しかったのですね?」
「え」
「あ」
「ん」
 嫌味のように怖い笑顔で自分の姿に指を指すクリスは大天使二人とマカリナの驚くことなどどうでもよく、階段を降りてリルの隣に立ち、そばに寄り添う。
「クリス?」
「はあ、リルがワタシの確認のためにそのまま城に嫁がせようとしたことは絶対に許しません! リルはワタシの、ロルの大切な家族です。あなたの勝手に付き合う必要はなかったはずですよ」
 誰もが思う正しい言葉を言ったクリスを皆は頷き、結婚式がめちゃくちゃになっていることを、マカリナたった一人だけがなにも言いようがないほどに落ち込む。
「うっ、確かにそうだが。結婚はしてくれるよな?」
「結婚・・・あっ!」
(忘れていた。今は結婚式の途中でケンカをしている場合ではない)
 急いでまた灰色の翼を広げ、その一部を一人でもぎ取り、玉座に置くクリスに、マカリナはそれに合わせて行くだけだった。
「へえー、これが人間の結婚式か」
「天使は結婚はしないのか?」
「しないよ。というか結婚なんて存在しないから無理だね」
 大天使シルクリスの言うとおり、天使の結婚は存在しない。悪魔はあるが、天使は禁止されている。その理由は、恋をした天使が今まで誰もいなかったからだ。
「そうですね。結婚に興味を持った天使は存在していませんでしたからね」
「そうか」
 このルエリッド王国で暮らしていた時も天使は誰も愛していたものの、好きにならず、クリスが罰を受けている間も、天使は一度も恋をせず、今も存在し続けているのだった。
「・・・・・・」
 天使の話を黙って片方の耳だけ聞いて固まるクリスに気づいたウォルト家の家族が心配した様子で話し合う。
「リル、クリスは緊張しているみたいね」
「うん、初めての結婚式だから仕方ないよ」
「せっかくのドレスがダメになっているじゃないか」
「んー」
(クリス、どうしたらその緊張が治るか、結婚したことがないアタシが分からないんじゃ、なにも言えないよね)
「どうすれば」
「あ、あれは」
「やっと来たね」
「ええ」
 皆が玉座に注目したその瞬間、天の輝きが現れて二人の翼を受け取り、クリスに青色の星が飾られているティアラが贈られた。
「これで、認められたのですか?」
「ああ、そうだ」
「やった、嬉しい!」
 さっきまで嫌味だった怖い笑顔が可愛く変わる。ゆっくりと階段を降りて来たマカリナを思い切り抱きしめて喜びを二人で感じていると、マカリナが胸ポケットから小さい箱を取り出し、銀色の小さいダイヤモンドがついた指輪を今まで一度も外さずにいたサファイアの指輪をそっと外し、代わりに新しい指輪がその人生で初めてはめられる。
「マカリナ、ありがとうございます。一生大切にします!」
「ああ、オレのを君がはめて欲しい」
「いいですよ」
 そう言って、クリスはマカリナの左手の薬指に同じダイヤモンドの金色の指輪をはめてマカリナが満面の笑みでベールを取り、横に抱えて皆の前で証として口づけをした。
「おめでとう!」
「幸せになってね!」
「ありがとう!」
 祝福の声が心の中で響き渡り、クリスは言えなかった後悔を口に出す。
「この城に来てからワタシはずっと後悔していました」
「なにをだ?」
 不思議な顔で聞くマカリナの頬を撫でて微笑み、翼をもっと広げる。
「もっと早くあなたと出会えていたら、もっと幸せになれたのに」
 そう。人間に翼を与えたことと同じように後悔をしたのが、「マカリナと早く出会えなかった悔しさ」だった。好きな人ともっと早く出会いたかったという後悔はこのお城に来てから何度も心に閉じ込めて、今やっと幸せに満ちている時に口に出したことに、マカリナはいつもと変わらない美しい微笑みで撫でられているその手に自分から触れていく。
「ふふっ、そうだな。オレも君ともっと早く出会えていたら、もっと早く愛してやれたのにな」
 お互い同じ後悔を重ねていたことはとても嬉しくもあり悲しくもあった。
 だけど、それはもう今ではない。
「マカリナ・・・」
「だがそれは過去の話で今ではない。これからもっと二人で愛し合って、幸せになればいいからな」
「はい、そうですね」
 人間と天使が結婚をしたこの歴史上初めての出来事はいつの時代でも思い返されるだろう。いつでも二人ならなんでもやって怖くないはず。
 だって、どんな人を好きになっても、自分も相手も幸せになれるのなら、なんだって皆許し合って、その幸せを願って構わないのだから。